第四十八話:エッセイを読んで思い出すあの頃
ある日、私は二つのエッセイと出会った。
そのエッセイたちは、強い言葉で書かれていた。けれど私は、主張の正しさよりも先に、別のことが気になってしまった。
この人たちは、なぜこんなにも怒っているのだろう。
いや、本当にこれは怒りなのだろうか。
怒りの奥には、いつだって別の感情が隠れている。
怒りは二次感情であり、一次感情は悲しみだ。
そう、私はこの方の文章の中に『女王』と『観測者』を見た気がした。
好きだった場所を守りたいという願い。
正当に評価されたいという切実な思い。
変わっていくものへの悲しみ。
私は、この文章たちに込められた純度の高い悲しみの正体を、知りたくなってしまったのである。
***
昔から人の「強い感情」に惹かれてしまう。嬉しい、楽しい、好き。怒り、嫉妬、悲しみ。ポジティブだとかネガティブだとか、そんな分類はあまり関係ない。
ただ、その人が強く心を動かされている瞬間に、どうしても目が向いてしまうのだ。
小学校の頃から、そうだった。
クラスの人気者の女の子を見て、「あの子、可愛くないのに調子にのっていて生意気だよね」「男の子の前だと態度が違う」と話している子がいると、私はその言葉の奥が気になって仕方がなかった。
なんで、そんなに嫌いなんだろう。
何があったんだろう。
どうして、そんなに強い感情を向けるんだろう。
私は純粋に知りたくて、つい聞いてしまっていた。もちろん、うまくいかなかった。今なら分かる。あれは立派なコミュニケーションエラーだった。当時の女子生徒諸君申し訳なかった。怖かったし気持ち悪がらせたことだろう。
人は、自分でも整理できていない感情を突然言葉にすることを求められると、戸惑う。時には、嫌な気持ちになる。
子どもの私は、それが分からなかった。
ただ、人の心の動く理由を知りたかった。私は、人の感情を裁きたいわけじゃない。というか、私にそんな権利があるんだろうか。……ないない。あるわけない。
怒っている人を見て、怖いと思うより先に、「何があったんだろう」と考えてしまう。嫉妬している人を見ても、「何がそんなに悲しいんだろう」と考えてしまう。
たぶん私は、感情そのものよりも、その感情が生まれた背景に興味があるのだ。
だから恋愛小説が好きなのかもしれない。恋や愛は、人が抱く感情の中でも、とびきり強い。
好きだから嬉しい。
好きだから苦しい。
好きだから嫉妬する。
好きだから悲しい。
好きだから自分を殺す。
好きだから相手のために動ける。
物語の中では、その感情が生まれるまでの過程を、誰にも怒られずに見つめることができる。現実では聞けない「なんで?」を、物語の中では自由に問いかけられる。
それが、たまらなく好きだった。今もそうだ。
以前、仕事を通じて知り合った方から、ご家族の歴史について話を聞く機会があった。
その方は、代々語り継がれてきた先祖の話を、とても誇らしげに話してくださった。私は、その時間が大好きだった。
「どんな方だったんですか」
「どんなふうに伝えられてきたんですか」
「記録や家宝は残っているんですか」
気がつくと、私は次々と質問していた。
戦争や災害で失われたものはなかったのだろうか。どんな思いで、その記憶を受け継いできたのだろうか。
私は、その方が大切にしているものを知りたかった。
調べることが好きな私は、公開されている資料や郷土史の情報を探してみた。すると、ご先祖様について書かれた記録を見つけることができた。
「いらっしゃいましたよ」
そう伝えると、その方は驚いたように目を見開き、何度も資料に目を通していた。
「地域の人々に慕われていた記録もありますよ。文化や芸能にも関わっていたみたいです。すごい方だったんですね」
そう話すと、その方は笑った。
「こんなこと、初めて知ったよ」
後日、ご家族にもその資料を見せたそうだ。
ご家族の方から、「本人がとてもうれしそうに話していました」と聞いたとき、ほっとした。正直言うと夢中になっていたからだ。怒られなくてよかったなと思った。
その人が大切にしているものを知ることが、私は好きだ。人は、感情を語るとき、自分の物語を語る。
だから私は、今日も誰かの強い感情を見ると、その奥にある物語を知りたくなってしまう。
私は、人の心が動く理由を知りたいんだろうな。
***
二つ目のAIと創作について書かれたエッセイを読んだ。タイトルを見た瞬間、少しだけ心臓が跳ねた。
私はAIを使って小説を書いている。そして、Kindleで本を出している。だから、二つ目の文章が自分に向けられた言葉のように感じて、思わず身構えた。
けれど、最後まで読んで分かった。これは誰かを攻撃するための文章ではなかった。叫び声だった。
苦しい。
怖い。
不安。
憤り。
寂しい。
創作への愛と情熱。
そんな感情が、文章の端々から滲み出ていた。本気で創作と向き合っている人の言葉だった。
なんて美しいんだろうと思った。
何時間も悩んで、展開を考え、キャラクターの台詞ひとつに頭を抱えて、それでも書き続けてきた人なのだろう。
だからこそ、技術の進歩によって変わっていく創作の風景を前にして、戸惑い、怒り、焦りを感じている。それは正しいか間違っているかの話だろうか。
私はこの話は痛みの話だと思った。
痛みには、その人だけの理由がある。私は、この文章を読んで反論したくはならなかった。むしろ、話を聞いてみたくなった。
この人は、どんな作品を書いているのだろう。
どんな夜を越えてきたのだろう。
何を守りたくて、その言葉を選んだのだろう。
私は、人の感情を見ると、つい構造を知りたくなる。人は、自分と違う正しさを持っている。一生、分かり合えないこともあるだろう。
それでも。
何を見ているのか。
何を守りたいのか。
そこに、どんな気持ちがあるのか。
それを知ろうとすることなら、できるかもしれない。
私は、これからもAIを使って小説を書く。けれど同時に、AIに強い抵抗感を抱く人たちの声も、読んでいく。
その感情もまた、人間が生み出した物語だから。そして私は、人間の物語が好きなんだ。
***
……小学校の時に何人かの男女子に避けられたり、嫌われたり、怖がられた理由がハッキリした。これは気味悪いと思うわ。
特に、子ども同士の会話や、女性同士の会話では、感情への共感が求められる場面が多いのだと思う。
もちろん、私は男性同士の会話を経験したことがない。だから、これはあくまで私が生きてきた狭い世界の中での観測結果である。
例えば、誰かが「あの子、嫌だよね」と言う。その場で求められていたのは、分析ではなかった。
「そうなんだね」
「嫌だったんだね」
「そうだよね」
「分かるよ」
そういう感情への同調だったのだ。私は、その工程を飛び越えてしまっていた。
女子の輪の中では、「あんたはそういう子だからね」と、なんとなく受け流してもらえることもあった。けれど、男子には通じなかった。
小学生の頃、ある男子がいた。
私は、よくその男子に気味悪がられた。時には、蹴られた。叩かれた。足をかけられて転ばされた。嫌いだと言われた。そこまで嫌われているなら、もう失うものはないと思った。
だから、聞いてみた。
「なんで、そんなに私のことが嫌いなの?」
返ってきたのは、「気持ち悪いから」という答えだった。変だから。考え方がおかしいから。そうか、と私は思った。いつもは黙っていたが今なら思う存分聞いていいだろうなと思った。
私は、さらに聞いた。
「何が気持ち悪いの?」
「何が変だと思ったの?」
「それの何が嫌だったの?」
「どうして叩くの?」
「どうして足をかけるの?」
「それをして、どんな気持ちになるの?」
「楽しい?」
「スッキリする?」
「嬉しい?」
「気持ちい?」
「あんたが今やっていることは、暴力じゃないの?」
「いじめじゃないの?」
「お父さんやお母さんが知ったら、褒めてくれることなの?」
「自分がされたら嬉しいの?」
「私はあんたのこと好きじゃないから、嫌いでいいよ。でもこうして叩かれたり蹴られたりするのは痛いし嫌だ、ムカつく」
「何度も嫌だからやめてって言ってんのになんでやめないの?」
順番はバラバラかもしれんが、だいたいこんなことを一気に話したような。
私は責めたかったわけじゃない。ただ、知りたかった。なぜ、人は誰かを傷つけるのか。なぜ、嫌いという感情が暴力につながるのか。なぜ、それを正しいと思えるのか。マジで、ガチで。
その構造が知りたかった。けれど、相手にとっては違ったのだろう。私は感情を受け取らず、理由ばかりを求めた。答えられない問いを、次々と投げかけた。はよ答えろやと思ったのにそいつは一つも答えてくれなかった。
そいつは泣き出した。私は、その姿を見ても、なぜ泣くのか分からなかった。近くで見ていた女子が私を止めた。やりすぎだと言われたり、よくやったと言われたり私は混乱した。
それ以来、距離を置かれるようになった。今思い出すと私はサイコホラー寄りに見られたんだろうか?
生物係りの時は生き物を慈しんで大事に育てたからサイコパスではないと信じたい。




