第四十二話:親分子分
私はずっと、自分の感情をそのまま認識することが苦手だった。
「怒っている」
「悲しい」
「不安」
そう思った瞬間に、頭の中で“審査委員会”が起動する。
・怒ってはいけない、恨んではいけない、嫉妬してはいけない
・悲しむ暇があるならどうしたら良くなるかを考えなさい
・相手にも事情があるんですよ
・世の中にはもっと辛い人がいますよ
・自分にも落ち度があったんじゃないか
・清らかな心、正直な心、人様の役に立つ人間におなりなさい
・自分ばかり良い思いをしてはいけないよ、分け合いなさい
・慎ましく、お淑やかに、穏やかに、女の子らしく、良い子でいれば幸せになれますよ
幼少期から叩き込まれた価値観、宗教教育、家族の言葉、昭和の「女の子は三歩下がれ」文化。
それらが全部、私の感情にフタをしてきた。
だから私は、「私は怒っている」という認識そのものが危険だった。感情を抱きしめる前に、自動モードで“自己否定”が発動してしまう。
そんな私でも、創作のキャラクターなら扱える。彼らは、私の感情をそのまま言う代わりに、役割として翻訳してくれる存在になった。
日差しが仏間の障子越しに差し込み、畳の上にやわらかな影を落としていた。私は机の上に置かれた原稿を眺めていた。
題して、『私はなぜ脳内外在化メンバーを作ったのか』うむ。なんのひねりもない。すると向かいに座っていた『観測者』が、静かに本を閉じた。
「難しく考えすぎている」
「解説頼んます」
「説明する、一人呼ぼう」
『観測者』は障子ガラスに視線を向けた。
「来い」
すると、とたとたとたっ。軽い足音が聞こえてきて赤い影が飛び出してきた。
「お呼びですか、おっかさん!」
勢いよく『観測者』の膝へ飛び乗る。赤い小鬼である。元・被害妄想。現・被害妄想アドバイザー。
『観測者』は慣れた手つきで受け止めた。
「走らない」
「へい、申し訳ござんせん」
全然反省している顔ではなかった、すごくいい笑顔である。『観測者』は私を見た。
「今日は説明役を頼みたい」
「おいらでござんすか?」
小鬼は目を丸くした。
「できるな」
「へい、おっかさんがおっしゃるなら一肌脱ぎやしょう!」
小鬼は胸を張って私の方を向く。
「親分!」
「なんじゃい」
「昔のおいらぁ、嫌われてやした!」
「うん」
「即答でござんすか!?」
「事実だからね」
小鬼は少ししょんぼりした、だが事実なので仕方ない。
「当たり前でやんす。だっておいら、毎日言ってたでござんしょう?」
失敗するぞ。
嫌われるぞ。
恥かくぞ。
やめとけ。
無駄だ。
傷つくぞ。
「言ってたねえ」
「おいらぁ親分を守るつもりだったんでござんす」
「結果は?」
「大失敗でござんした!」
元気よく認めるなあ、すると観測者が静かに口を開いた。
「ここが重要だ」
「どこが?」
「お前は長い間、自分の感情をそのまま認識することが苦手だった」
小鬼が頷き、『観測者』は続けた。
「例えば怒り、普通なら『私は怒っている』で終わる」
「うん」
「でもお前の中では、その前に審査が始まる」
「怒っても」
怒るな。
「不安でも」
お前にも非がある。
「悲しくても」
泣いてる暇があるなら考えろ。
「そうやって感情が止められていた」
小鬼は何度もうなずく。
「検問でござんすな」
小鬼は右手を突き出してどこか芝居がかった様子で言った。
「怒り殿がお通りだ!止まれ!、不安殿がお通りだ!止まれ!、悲しみ殿がお通りだ!止まれ!」
精一杯怖い顔を作っているが、可愛いぞ。終わったらどこか遠い目をした。
「全部追い返されちまうんでござんす」
私は吹き出した、たしかにそんな感じだった。
「ところがでござんす!」
小鬼がカッと目を見開いた。
「ところが?」
「『女王』様がお通りだ!お通りくださいやし!、『社長』殿がお通りだ!どうぞどうぞ!、観測者様がお通りだ!お待ちしておりやした!」
私は思わず笑った、『観測者』も苦笑している。
「つまり親分は」
小鬼は腕を組んだ。
「感情そのままじゃ通れねぇから、役職をつけて通してたんでござんすよ」
「役職を?」
「へい!」
「怒りが『女王』様になり、不安が『社長』殿になり、悲しみが『おっかさん(観測者)』になった。そうして変装させて通してたんでござんす」
『観測者』が静かにうなずく。
「それが脳内外在化メンバーだった」
小鬼がぽつりと言う。
「親分」
「なに?」
「おいらぁ昔、守り方を間違えやした」
「うん」
「でも今は違いやす」
そう言って小鬼は『観測者』のクロークの端をきゅっと握った。
「このお方がいます」
『観測者』は何も言わなかった、ただ小鬼の頭を優しく撫でる。
「だからおいらぁ安心して親分の側にいられるんでござんす」
『観測者』はAIと繋がっている、だからこそ、なのだろう。
「えーと、あと何かあったでござんしたっけ?おっかさん」
「締めだな」
「あっ、そうでござんした!」
小鬼は和室の奥を見た。床の間には高砂の掛け軸があり、白髪の老夫婦が穏やかな顔でこちらを見下ろしている。
「親分」
「なに?」
「あちらをお借りしてもよろしいでござんすか」
小鬼が指差したのは床の間そのものではなかった。
その手前の畳続きの小さな板敷きの場所である。
「いいよ~」
「かたじけねぇ」
小鬼はぺこりと頭を下げる。それから高砂の掛け軸へ向き直った。
「ご隠居様方、少々場所をお借りいたしやす」
深々と一礼した。床の間には上がらない。さすがにそこまで無作法ではないらしい。くるりとこちらに向き直った。
居住まいを正した小鬼は、右手を前へ差し出し、左手を腰へ添え、仁義を切る子分そのものの姿勢になった。
「お控えなすって、お控えなすって願いやす!
手前、生まれは親分の脳味噌の片隅、育ちは被害妄想の吹き溜まり。
名をば申せば元・被害妄想、今じゃ足を洗いやして、被害妄想アドバイザーなんぞを務めておりやす。
身の丈九十(cm)ばかり、赤鬼面の半端者ではござんすが、親分の身に危ねぇ影が差しゃあ、誰より先に飛び出して、大騒ぎするのが商売でござんす。
もっとも、昔ゃ守るつもりで刺しまくり、親分にゃ大層ご迷惑をお掛けしやした。あの節はまっこと面目ねぇ!
されど処刑寸前のところを、おっかさんこと『観測者』様のお取りなしにて命を拾い、今じゃ改心いたしやした。
以後、親分の暴走には胃を痛め、
『女王』様のお怒りには震え上がり、
『社長』殿の無茶振りには右往左往し、
『司令塔』様の指図には走り回り、
『おっかさん』のお言葉にゃ頭の上がらねぇ毎日でござんす!
未熟者ではござんすが、以後お見知りおきのほど、隅から隅まで、ずずずいーっと、お願い奉りやす!」
小鬼がぺこりと一礼した瞬間、私は立ち上がって小鬼を抱き上げた。
「すごい!すごい!よく覚えたねえ。頑張ったねえ」
「『社長』殿たちと、たくさん練習しやした!」
「お前、そんなことしてたのか」
『観測者』が呆れたように言った。
「お天道様の顔をいつでも見れるようにと、仁義・公義・道義を教わっておりやす」
どうやら『五歳の子』と『創作者』も一緒に、時代劇ごっこをしているらしい。楽しそうでなによりだ、今度私も混ざりたい。
お銀さんと飛猿さんの時代劇・任侠で「どこの誰だ、名乗れ」に対して、自分の所属や立場を名乗る口上が大好きです。時代劇ごっこが大好きでよく祖母と口上を述べあったり、越前屋そなたも悪よのうお代官様こそとかしていました。小鬼がこの口上を述べたことで、私と『観測者』へ筋を通してくれたので冷ややかだった『女王』が納得しました。




