第二十九話:愛の多様性について
風呂掃除を終えた私は、ゴム手袋を外して手を洗った。
ハイター入り洗剤の匂いがまだ少し残っている。換気扇は回っているが、昭和建築の湿気はなかなか手強い。茶の間では義父母がテレビを見てリラックスしている、私は仏間に行きノートパソコンを起動させる。
「夫が異性愛者だったから助かった案件についての認知検討を開催したいので、興味があるメンバーはご参加願いします」
心の中でつぶやく。すると脳内で『司令塔』が顔を上げた。
「お疲れ様です、もっと休んでからでも良いのでは?」
「今日は右腕しびれも痛みもいつも通りだから大丈夫、悪化してない」
『観測者』は椅子に座り、読んでいた本を閉じた。何の本読んでたのか聞いたら『バカの壁』とのこと。良い本だよね。文体自体はおじいちゃん先生が穏やかに諭してくれているような、静かな研究室で淡々と語り合っているような、とても知性的で落ち着いたトーン。トゲトゲした言葉は一つも使われていない。たまに読みたくなる本だ。
先月、図書館から借りてきたのに第一章を読んだら、防具をつけずに豪速球を食らったような、すさまじい心理的ダメージが来た。疲れている時やちょっと心がデリケートになっている時に読むと、本当に心がすり減る。精神バロメーターを可視化できる素晴らしい良書だ、ロックである。※個人の意見です。
結局第一章から先に進めなくて期限が来たから返却した。
「もう一度借りて来てくれ」
「うん、私もまた読みたい」
「ちよさん、次は心やエネルギーが万全の時にしてください。あの時『隠者』も読みたがって、あなたを止めるの体力勝負なんですからね」
「毎回ありがとね」
「話がまた脱線しているぞ」
「そうだった、あ、『隠者』と『法王』も来たね。これで全員かな、じゃあ始めよう」
「まず前提として。私、子どもの頃に宗教の子ども部門の研修とか授業で、“性愛の種類”みたいなのを習ったんだよね」
『法王』がああ、あれかといった表情をした。
「男女が恋をする“異性愛”があって、女の子同士・男の子同士で恋をする“同性愛”もあって、恋愛を必要としない“恋愛不要の人”もいるって」
あの時の教室の空気が蘇る。洋館の独特の匂い、子ども用の小さな椅子、優しい声で話す先生。
「“恋をするだけが全部じゃないよ”って、“結婚するだけが全部じゃないよ”って、すごくやんわり言われたの」
『法王』がうなずいた。
「宗教教育としては、かなり柔らかい部類でしたね。排除ではなく“多様性の存在を知らせる”方向の」
「そうそう。で、その時は“へぇ〜そういう人もいるんだ”くらいだったの」
私は続けた。
「でね、看護学校に入って、心理学の授業でまた同じ話を習ったの。今度はもっと学術的に」
『観測者』が目を細める。
「性的指向の分類だな。異性愛、同性愛、両性愛、無性愛……そしてスペクトラムとしての分布」
「うん」
私は当時の教室の光景を思い出す。白いスクリーン、プロジェクター、『隠者』みたいなおちゃらけた先生の声。
「日本では法律上、結婚は異性同士だけ。でも世界は違う。そして日本もいつ変わるかわからない。だから患者さんに向き合う時は偏見を外しなさい。持っていてもいいけれど、外せるようになりなさい。君たちは医療者として、文化や性愛の違いを理解しなさいって」
「正しい。性愛は文化・宗教・法律・個人の経験の交点にある概念だ」
「だよね、看護師になってから本当にそう実感した。性愛以外にも偏見はたくさんあった」
先生はこうも言っていた。
「性愛は固定じゃない。異性愛の人が同性を好きになることもある。同性愛の人が無性愛に移ることもある。無性愛の人が異性愛に転じることもある。人生の中で変化することもあるんだよ」
『観測者』に解説を依頼すると、
「では、性愛スペクトラムの構造を整理しよう」
『司令塔』が始まった、という顔をしてホワイトボードを出し、『隠者』が羊羹を食べて、『法王』が急須の茶葉を交換した。
観測者はホワイトボードにすらすらと書き始めた。
「性愛スペクトラムは大きく四つの軸で構成される。……スペクトラムの概念説明も必要か?」
「頼んます」
「わかった。スペクトラムとは“連続体”のことだ。境界線が曖昧で、“どこからどこまでがAで、どこからがB”という区切りが存在しない概念だ」
ホワイトボードに一本の線が引かれる。
「例えば、光のスペクトル。赤から橙、黄、緑、青、藍、紫……境界線はない。“徐々に変化していく”」
『司令塔』が手を上げた。
「……つまり、性愛も?」
「そうだ。性愛も“赤か青か”ではなく、“赤寄りの橙”“緑寄りの青”のようにグラデーションで存在する」
【性愛スペクトラム】
① 性的指向(誰に性的魅力を感じるか)
・異性愛
・同性愛
・両性愛
・無性愛
・その中間のグラデーション
② 恋愛指向(誰に恋愛感情が向くか)
・恋愛あり
・恋愛なし(アロマンティック)
・特定の条件でのみ恋愛が発動するタイプ
・一点集中型
③ 性自認(自分をどの性として認識するか)
・男性
・女性
・ノンバイナリー
・Xジェンダー
・流動的な人もいる
④ 性表現(外にどう表すか)
・男性的
・女性的
・中性的
・日によって変わる人もいる
「この①~④は独立している。全部が同じ方向に揃う必要はない。人間はこの四軸の組み合わせで構造化されている」
「だから“異性愛なのに恋愛不要”とか、“同性愛だけど性的欲求はない”とか、色々な組み合わせがあるわけか」
『観測者』が頷いた。
「そして重要なのは、スペクトラムは固定ではない」
ホワイトボードに波線が描かれる。
「人生経験、環境、関係性、トラウマ、安心感……これらによって、“位置が少し動く”ことがある」
「先生も言ってた。異性愛→同性愛→無性愛って変わることもあるって」
「そうだ。これは“仕様変更”ではなく“環境適応”だ。脳は常に最適化を行う」
『隠者』が茶をすすりながら言う。
「人生長いと色々あるしねぇ。よくある、よくある」
『法王』も羊羹を食べながらのんびりと乗じる。
「心理学の先生がおっしゃっていた、人を断じないという教えはここに通じますね」
観測者は恋愛指向の線に丸をつけた。
「お前の恋愛指向は極端に狭い一点集中型スペクトラムだ」
「うん、夫だけにスイッチ入る」
「これは珍しくはないが、相手の指向と一致しないと破綻する構造だ」
「……だから夫が異性愛者で良かった案件になるわけですね」
「奇跡だねえ」
『隠者』が若いっていいねえみたいなトーンで話してる。でも、本当にそうだよね。
「奇跡だよね。考察がまとまったので満足した。みんな、ありがとう、ここでお開きにしよう。『女王』のとこに行って『司令塔』男主人公のハーレム短編小説仕上げてくる!」
「何言ってんですか!?」
そして誰もいなくなったあと。ノートパソコンの画面だけが、まだ少し明るかった。そこには、一行だけ残っていた。
「会議終了:愛は構造であり、同時に偶然である」
※追記:看護学校の先生が「性愛は固定じゃない」と言いましたが、現実の人間は一生を固定して終えるのが多数です。固定されるものと思い込んでいます。理由は観測者が説明してくれました。概念や哲学の世界ですね、そして正解のない領域でありお互いの同意が必須です。共同概念、共同哲学になります。
今回はCopilotで書いてもらいました、意外とロマンチストだったことが分かりました。たまに恋愛に性差も性自認も性表現も外してみたい欲があります。こう、精神体との融和みたいな。宇宙人の交信みたいな。なのでSF系恋愛映画も大好きです。恋愛の概念って幅広くて面白くて好きです。




