第二十二話:おかえりとあの頃
気づいたら、私はあの場所に立っていた。
どこまでも広がる青い空。雲がゆっくり流れ、光が草原を照らしている。足元には花畑のような色彩が広がり、少し先には湖がきらきらと光を返していた。
ーー楽園だ。
そう思った瞬間、私は気づいた。この場所を知っている。
なんで?
いつ?
どうして私はこの世界を“知っている”んだ?
その時だった。前方に、白い衣をまとった女性が歩いていた。長い麦わら色の髪が風に揺れ、健康的な肌が光を受けて輝いている。若い。
私は息を呑んだ。
あれは聖女だ。
でも、私が知っている不惑の白衣観音の聖女ではない。もっと若く、もっと柔らかく、もっと生き生きしている。
ああ、私はこの聖女を知っている。でも……なんで知っているんだ?
聖女の先に、二つの影が見えた。
五歳の子が、全力で走り回っていた。跳ねて、笑って、転がって、また笑って。その姿は、世界そのものが喜んでいるようだった。
少し離れた場所には、創作者がいた。お絵描き帳を膝に置き、空を描き、花を描き、湖を描き、そして走り回る五歳の子を描いていた。
創作者の傍らには、三人が手をつないで笑っている絵があった。
聖女は、二人を見つめて微笑んだ。
「少し休憩しましょうね」
「おやつにしましょう」
「その後は、お昼寝よ」
三人は草の上に座り、おやつを食べたり昼寝をして、またそれぞれの遊びに戻っていった。
その世界は三人だけで完結していた。
美しく穏やかで満ち足りていて、何も欠けていなかった。
ああ、そうだ。私はこれを知っている。七歳の頃の、私の心の中だ。
その瞬間、背後から声がした。
「見えたかい?」
振り返ると隠者が立っていた。
「それが、アンタの原初の世界だよ」
私は息を呑んだ。
「……原初の、世界。内的世界ってこと?」
「そうだよ。『五歳の子』『創作者』『聖女』。この三人だけでアンタの心は成り立っていた」
隠者は続けた。
「お前が“知っていた”のは当然だ。これは、お前自身の記憶だからね」
原初の庭は七歳の私が持っていた“完全な世界”。私はそれを知っていた。
隠者は静かに言った。
「アンタの中には、最初から“帰る場所”があったんだよ」
思い出した、思い出せた。
比べられない
急かされない
役に立たなくていい
ただ存在していい
……現実では長く不足していた感覚だった。
『観測者』が組んでいた腕を解いて言った。
「今まで腹の中に貯めていたモノを吐き出せ」
『法王』が穏やかに言った。
「良い子でいないと壊れてしまう世界のルールは、もう、ないのよ」
社会に出て働くようになって、ようやく“外の世界”を知り始めた頃。
でも私の中には、まだ“家のルール”が生きていた。
正直に生きなさい。
嘘をついてはいけません。
人の役に立ちなさい。
自分より他人を優先しなさい。
親に尽くしなさい。
社会のルールを守りなさい。
自己犠牲は美徳。
……そんな言葉が、私の世界のルールで空気だった。
だから私は、二十歳を過ぎても、親の言うことを「はいはい」と聞いていた。
給料が出たら貯金しなさい、はい。
ボーナスの一部は献金しなさい、はい。
借りた学費は返しなさい、はい。
貯金用の通帳も、ハンコも、キャッシュカードも母が管理していた。それが普通だと思っていた。みんながそういうものだと思っていた。
でも、今思えば、ただの“檻”だった。
母は言った。
「屋根があるところで暮らしてるんだから十分恵まれているのよ?三食二万円で収まるようにしなさい」
私は「はい」と言った。
給料は十八万円。
田舎の物価で、会社の補助もあって家賃は一万九千円。
奨学金の返済が一万二千円。
実家への仕送りは五万円。
貯金も五万円。
食費は二万円。
水光熱費は四千円。
ケータイ七千円。
保険九千五百円。
計算すると、私の手元に残るのは八千五百円。
そこから生活用品を買い、下着や服を買った。生家よりもやや都会に出たから古着屋があって助かっていた。残った千円が“娯楽費”だった。
千円。
22歳の女の子が、月に千円で楽しめることがよくわからなかった。
当時の私は図書館で小説を借り、古本屋で漫画を立ち読みし、半年に一度の新刊を宝物みたいに待っていた。子どもっぽいなとも思い少し恥ずかしかった。化粧品やおしゃれな服は憧れたけど私には似合わないと諦めていた。
友達と会えるのは半年に一度。みんなが違う職種で休みが合うのがそのくらい。二千円あればランチとお茶ができたからその二千円を貯めるために、私は毎月の千円を大事に大事に使った。
ちょうどそのあたりで、小説家になろうに出会った。当時のケータイはパケ放題プランがあったから無料で、たくさん小説が読めて本当に嬉しかった、こんなすごい小説無料でいいの?と何度も思った。
命綱だった。
就職の時に、職場から生活用口座・貯金口座をつくるよう勧められました。で、その時にボーナスも別口座の三つ目を作ってもいい。こうして無駄使いを防げますよと一分にも満たない説明があったんです。貯金用は母が管理していて、でも手元にまとまったお金がないのも心配だからボーナス貯蓄用の口座は自分で持たせてもらえました。ああ、だめですね。もらえたって変な日本語ですね。嫁ぐときに返ってきました。一度もお金は降ろされていませんでした。それが本当に腹立たしくて、アパートに一人帰ってすぐ、通用道具一式を壁に叩きつけてしまったんです。お金に罪はないのに。母も給料を祖母に管理されていました。負の連鎖ですね。あの生活が幸せだったか、忍耐力がついたのかと……『司令塔』が怒った顔して近づいてくるイメージが来たので思い出すのを止めます。




