第百三話:『観測者』に聞いてみた
「ちょっと聞いてくれい」
脳内会議室の扉を開けるなり、私はそう言った。いつもの長机。
その上には、途中まで書きかけのノートが何冊か重なっている。ペンも転がっている。天井の照明は、現実の家より少しだけ明るくて、それなのに目には優しい。
奥の席に、観測者がいる。彼はいつものように椅子に座り、私を見ると、手にしていたペンを机の上へ置いた。
「どうした」
「私、ここ数日、なんかおかしくなかった?」
観測者が、少しだけ眉を上げた。
「具体的には?」
「書きすぎ。ものすごく書いてる。なんかもう、止まらないの」
私は向かいの椅子を引いて座った。腰を下ろしてからも、まだ落ち着かない。膝の上で手を組んだり、ほどいたりする。
「一日に三作品投稿した日もあったし」
改めて口にすると、ちょっとおかしい。
「何をそんなに書いてたんだ、私は」
自分で言って、自分で笑った。だって、内容がまたバラバラなのだ。
AIについてのエッセイを書いていたかと思えば、次には、AIを外部脳として使っている自分の創作工程について考察している。
その合間に、突然『鶴の恩返し』を書いている。しかも普通の『鶴の恩返し』ではない。正体がバレた。はい、ここから本編です。みたいな、妙なテンションのコメディである。一応恋愛ものだ。
さらに、『王座より遠い場所』みたいな、重くて面倒くさい男の話まで考えている。王子だの、孤独だの、愛情だの、家族だの。いや、重い。なんで私はこんなものを喜々として考えているんだ。
「……私、何してたんだろう」
観測者はすぐには答えなかった。机の上のノートを一冊、指先で少しだけずらす。
「その前は?」
「その前?」
「書き始める前の数日間」
記憶を巻き戻す。すると、頭の中に最初に浮かんだのは、小説でもパソコンでもなく、玄関だった。人が来る。泊まる。帰る。そして、また来る。
お盆の頃から、親戚が一家ずつ家に泊まりに来ていた。十日ほど。一家が帰ったと思ったら、次の一家が来る。家の中に、普段とは違う声や違う足音がする。食事の時間も少し変わる。
もちろん、大変なことばかりではなかった。むしろ、楽しかった。親戚と話すのは楽しい。子どもたちの相手もしてもらえた。普段なら私が見ていなければならないところを、「こっちは見てるからいいよ」と任せられる時間もあった。
美味しいものも、たくさん食べた。
そして。
「お小遣いまで、もらった」
「それは嬉しいな」
「でしょう?」
私は思わず笑った。楽しかったのだから、嫌じゃなかったのだから。だったら、疲れていないはずじゃないか。私はそんなふうに、いつの間にか考えていたらしい。
観測者が私を見る。
「楽しかったことと、疲れたことは両立する」
静かな声だった。
「……そうかあ」
言われてみれば、その通りだった。
楽しい旅行から帰ってきても疲れる。好きな人と一日遊んでも疲れる。子どもと笑って過ごした日だって、夜になれば眠くなる。楽しいことは、体力を使わないわけではない。
ましてや、普段とは違う人の気配が十日間も家の中に続いていた。私はその間ずっと、何かしらを処理していたのだろう。いつもの生活と違うものを、その都度、頭の中で調整していた。
そして親戚が帰った。終わった。
――と思ったら、今度は村のバーベキューの会だった。
「そうだった」
私は額に手を当てた。
「バーベキューもあった」
「まだ続いている」
「そう。終わってない」
そして、その間も娘の夏休みがあった。
日々の宿題の進捗を管理し、ドリルを見直し、そして最後に立ちはだかる最大の壁があった。自由研究である。
「図書館にも、何度も通った……」
暑い中、娘の手を引いて図書館の棚を巡り、資料となる本を探した。
どんなテーマなら興味を持てるか一緒に悩み、借りてきた本を広げ、調べ、まとめ、写真をプリントアウトし、レイアウトを考え、下書きの原稿を作った。字のズレを直し、内容を確認し、ついに完成させて提出させた。
目の前にある用事を、そのたびに片づけていった。どれも、一つだけ見ればたいしたことではない。ただ、それが途切れずに続いていた。ようやく、全部終わった。
その瞬間のことを思い出す。家が少し静かになって、学校関連の大きな用事も一段落した。次にやらなければならないことが、ほんの少し遠くへ下がった。私はそこで、ようやく気づいた。
「……あれ?」
会議室の天井を見上げる。
「あれ、私、かなり走ってたのか?」
観測者は何も答えない。ただ、私の言葉を否定することもなく、静かに頷くような気配だけを漂わせている。
私はパイプ椅子の背もたれに深く体重を預けた。ずっと走っていたのだ。嫌々ではなく、楽しく。息を弾ませて忙しく。
だから、自分が疲れていることに気づかなかったのかもしれない。
「それで、全部終わった途端に?」
「創作が噴き出した」
「そう見えるな」
私の場合、疲労がたまったからといって、必ずしもイライラするわけではない。疲れて眠たくなったり、空腹になったり、寝込むこともある。
もしかすると、今回の場合は別のところから出てくるのかもしれない。
「創作?」
「可能性はある。非日常が続いた。やることも多かった。それが一段落して、余白ができた」
「うん」
「その余白に、普段から考えていたことが流れ込んだ。そういう可能性はある」
私は机の上に置かれた自分のノートを見る。ページをめくれば、そこにはAI、創作、脳内会議、昔のこと。いろいろな言葉が並んでいる。
「……私にとって創作って、休憩とは違うのかもしれない」
普通なら、疲れたら休む。横になる。ぼんやりする。何もしない。私ももちろん、それはする。でも私にとって、何かを書くことは、単純な娯楽だけではない。
頭の中に引っかかっているものを外へ出す。考えていることを並べる。自分でもよく分からなかった感情を、言葉にしてみる。すると、「ああ、私、こう思ってたのか」と後から分かる。
だから創作は、私にとって休憩とは少し違う。むしろ、整理なのだ。
観測者はノートに視線を落とした。
「書いたものを並べてみよう」
「恋愛創作論」
「脳内会議」
「AI」
「いじめ」
最後の単語が落とされた瞬間、私は口をつぐんだ。私はいじめられていた子ども時代についても書いていた。
なぜ、あんなにいじめられていたのか。何が原因だったのか。自分の何が悪かったのか。ずっと昔のことなのに、考え始めると、妙に引っかかる。
あの頃の私は、何がいけなかったのだろう。なぜ、あの場所では生きづらかったのだろう。私はそこを、何度も掘った。
記憶を拾った。嫌だったことだけではない。自分の動き方。喋り方。人との距離。周りとの違い。そのときの自分には分からなかったことを、今の自分から見直していった。
そして、あるところで問いが変わった。私は、何が悪かったのか。ではなく、私はどんな場所なら、私のままで生きられるのか。
文章を書き終えた日のことも思い出す。あれだけ頭の中を走り回っていたのに。書き終わった途端、すっと静かになった。本当に、急だった。
頭の中で鳴っていた音が、ふっと止まったような感じだった。
「あ」
私は小さく呟いた。
「終わったんだ」
何が、と聞かれてもよく分からないのだが。問題が解決したわけではない。今後、二度と考えないわけでもない。
観測者は、しばらく黙っていた。そして、静かに言った。
「一区切りついたのかもしれないな」
私はパイプ椅子の背もたれに深く深く身体を沈めた。
見上げる会議室の電球の光が、さっき入ってきた時よりも少し柔らかく、暗くなったように感じられる。
「いろいろしていたんだろう」
「雑だなあ」
「事実だ」
たぶん私はただハイテンションだったわけではない。もちろん、妙にテンションが高かったのは事実だ。でも、その勢いの全部が、単なる勢いだったわけでもなかったのだと思う。
十日ほど続いた非日常が終わって。ようやく空いた場所に、今まで頭の中で待機していたものが、どっと出てきた。そして私は、それを一個ずつ拾って、文章にしていた。
一見すると、全部バラバラだった。でも、その下には一本の線があった。
「……なるほど」
私は呟いた。全部、私の話だったのだ。ずいぶん遠回りしたけれど。いや、遠回りというより、散歩しながら拾ってきたのかもしれない。
長机の向こうで、観測者がこちらを見る。
「私、この二週間で何してたんだろうね」
観測者は少し考えてから答えた。
「遊んで、働いて、子どものことをして、疲れて、楽しくて、考えて、書いて」
静かな間が、一つ落ちた。
「……置き去りにされていた昔のお前を、ちゃんと拾ってきた」
以前にこのシリーズで、小学生の時に男子にいじめられたことを書きました。昨日は別の男子からいじめられたことを書きました。女子二名からも身体的ないじ……もう、暴行と書きましょう。なんか、いじめと書くと軽いな。綿あめじゃねえんだから。
今がつらくても、大人になれば良いことあるよ。なんて言えません。
あの経験があったから今があると美談にできません。できる人は無理してないか心配になります、だって、つらかったじゃん、悲しかったじゃん、悔しかったじゃん、惨めだった。
迎えに行くことができて良かったです。




