第九十八話:平和学習が苦手だった
夏になると、学校で平和学習があった。当時の自分を振り返ってみる。
日本では戦争について学ぶ機会がある。いつ戦争が起きたのか。どれくらいの人が亡くなったのか。原爆によって、どんな被害があったのか。
そして、戦争を二度と起こしてはいけないこと。平和に暮らしていくことの大切さ。そういうことを学ぶ。
私は、それ自体は大切なことだと思っている。ただ、子どもの頃の私は、平和学習が苦手だった。
授業で見せられる写真や映像が、とても怖かったからだ。戦争の写真だけではない。地震や水害、台風、山火事などの災害について学ぶときも同じだった。
特に苦手だったのが、映像と音だった。大きな音がして、画面の中で建物が揺れている。人が逃げている。物が落ちてくる。誰かが泣き叫んでいる。怪我をして亡くなっていく人々。
そういうものを見たり聞いたりすると、まるで自分がその場所にいるような感じがしてしまう。頭では「これは昔の映像だ」「証言や資料から作った映画だ」とわかっている。学校の授業だということもわかっている。
それでも、体のほうが「怖い」と反応してしまう。見終わったあとも、その映像が頭から離れない。気分が悪くなったり、落ち込んだりして食欲が落ちたり、寝つきが悪くなる。
でも、当時の私は、それをうまく説明できなかった。
「私は戦争について学びたくないのかな」
「災害について知りたくないのかな」
「みんなは普通に見ているのに、どうして私はこんなに苦しいんだろう」
学校の授業だから、見なければいけない。勉強だから、我慢しなければいけない。そう思っていた。
私は学校だけではなく、子どもの頃からの宗教活動などでも、災害や戦争について学ぶ機会があった。
募金活動をしたり、文房具などを送ったり、地域のゴミ拾いや植林活動に参加したりもした。
「困っている人がいたら助けましょう」
「平和が大切です」
「正しく生きましょう」
そう教えられてきた。そして、その考え方そのものは、今でも大切なことだと思っている。
大人になってから、少しずつわかってきた。たぶん私は、「知ること」が嫌だったのではない。ただ、受け取る刺激が強すぎたのだ。
文字で読むなら、私は落ち着いて考えることができる。文章だけなら、自分のペースで読むことができる。でも、そこに大きな音や映像が加わると、一気に自分の中に入ってきてしまう。
今なら、これは自分には刺激が強いと思ったら、少し離れることができる。大人になって、自分に合った学び方を選べるようになったからだ。
◇
娘が以前、地域の震災について学べる施設に行ったことがあった。そこには、実際の地震の揺れを体験できる場所があった。大きな画面に、物が落ちてくる映像が映り、大きな音もする。装置によって実際に床も揺れた。
娘はそこで怖くなって泣いてしまったそうだ。そのあと、しばらく夜に起きることがあった。「ママ、どこ?」そう聞かれたら、「ここにいるよ」と答える。「怖かったね」と言って、眠るまでぎゅっと抱きしめる。
それを何日か繰り返して、少しずつ落ち着いていった。そのとき、私は昔の自分を思い出した。娘にとって震災の疑似体験は受け止めきれない大きな「刺激」だったんだろうなと思った。
怖いものを怖いと感じることと、平和について考えることは、別の話なのだ。
戦争はよくない、災害から命を守る方法も知っておきたい。困っている人がいたら助けたい。そう思いながら、それでも怖い映像は見られない人もいる。
文字なら学べる人もいる。写真は無理でも、話を聞くことならできる人もいる。黙祷をすることで、過去に思いを寄せる人もいる。私は今、家族と一緒に終戦の日に黙祷をしている、震災の日も同様に。
あの頃の私には、悲しい出来事を受け止めるための方法がまだわからなかったのだと思う。大人になった今、私はようやく、自分に合った方法で過去を知ることができるようになった。
戦争はなぜ起きるのだろう。
どうしたら争いを減らせるのだろう。
私たちにできることは何だろう。
そんなことを、少しずつ考えられるようになった。
子どもの頃には、「怖い」としか思えなかったものを、今は「どうしたら平和に暮らせるのだろう」と考えられる。それだけでも、私は大人になってよかったと思う。
平和について学ぶことは、大切だ。でも、その学び方は、一つだけではない。
自分が受け取れる方法で知り、考え、そして誰かと一緒に平和を作っていく。私はこれからも、そんなふうに平和について考えていきたい。
こういう話を、私は昔から誰かと話してみたかったのだと思います。
戦争のこと。
災害のこと。
政治のこと。
宗教のこと。
どうしたら人は争わずに暮らせるのか。
災害が起きたとき、どうしたら命を守れるのか。
私たちは普段、どういうふうに生きていけばいいのか。
そんなことを考えるのは好きでした。でも、授業以外でそういう話をすると、「変なことを言う人」と思われることがありました。
家族や、宗教活動で知り合った大人たちと話していても、長く話そうとすると、なぜか「危険な思想を持っている」と誤解されてしまうことがありました。
私は別に誰かを説得したかったわけでも、何かの思想を広めたかったわけでもありません。ただ、「私はこう思うんだけど、あなたはどう思う?」と話したかっただけなのです。
でも、もともと私はコミュニケーションエラーを頻発する人間でした。自分では普通に話しているつもりでも、相手には違う意味で伝わってしまう。言葉が足りなかったり、逆に説明しすぎたりする。ままなりません。
今回の文章も、最初は音声入力で思いついたことをそのまま喋っています。そこから文章にして、かなり修正しました。ChatGPTやGeminiにも読んでもらいました。最初はうまく伝わらなくて、回答がかなりズレました。
それでも、文章にして、直して、また説明して。そうやって何度かやり取りしているうちに、ようやく自分が言いたかったことが形になってきました。考えてみれば、これも私にとっては「誰かと話す」の一つの方法なのかもしれません。
ちなみに今回の文章を書き始めたきっかけは、心理学者の偉人たちについて調べていたことでした。
偉人たちのプライベートのやらかしや、倫理的に「それはアウトでは?」という話を調べていたはずなのです。それが、なぜか戦争と災害と平和教育の話になりました。
毎度のことですが、なんでこうなるんでしょう。自分でもよくわかりません。
でも、たぶん私はこういうふうに、あっちこっち考えながら、最後には自分の中にある何かにたどり着いているのだと思います。




