第九十七話:『姉』という生き物から見た私のコンプレックスと課題
私はどうも、姉が虐げられるも最後はサヨナラホームランをかますシンデレラストーリーが好きなようだ。しかし物語を読んでいる途中で、どうしても気になってしまうことがあった。
妹である。
この妹、姉に対してあまりにも態度がでかすぎないか。
「お姉ちゃんなんて!」
「私のほうが!」
「どうせお姉ちゃんは!」
画面の中で、彼女は威勢よく暴言を撒き散らしている。私はスマホを握りしめながら、だんだんと心がざわつき、落ち着かなくなってきた。
姉が怒らない。
まだ怒らない。
しかし、私は猛烈に怖い。
(いや、姉ちゃん、そろそろ来るぞ)
(その口の利き方、後で絶対に恐ろしいしっぺ返しがあるぞ)
挙句の果てには、画面の向こうの親や周囲の大人たちにまで、心のなかで突っ込みを入れる始末だ。
(お前ら、この妹にどんな教育したんだよ!)
いつの間にか私は、健気に耐える主人公の姉ではなく、調子に乗ってフラグを立てまくっている妹の身案じを始めていた。物語の本来の主役は、明らかに姉である。読者として正しく作品を楽しむならば、
「姉、かわいそう!」
「妹、ひどい!」
「最後は姉が幸せになって!」
と拳を握りしめて応援するべきなのだろう。もちろん私だってそう思いながら読んではいるのだが、そこに余計な一言が上書きされてしまう。
「……でも妹、それ以上やったら本気で危ないぞ」
完全に本来のドラマとは別のベクトルで、心臓をドキドキさせていた。
姉がいつその重い腰を上げて反撃するのか。妹はどのタイミングで容赦ない制裁を下されるのか。私はなんだか妙なサスペンス映画でも観ているような心地で、冷や汗をかきながら画面をスクロールしていた。
おそらく、私の中にある「姉」という生き物のデータベースが、世間一般のそれと大きくズレていたのだと思う。
私にとっての姉は、幼少期から絶対的な上位者だった。単に年上だから、という物理的な理由だけではない。実際に私の姉は、誰から見ても圧倒的に「できる人」だったのだ。
明るい。
愛想がいい。
頭の回転が速い。
口が達者。
記憶力がいい。
家事ができる。
料理ができる。
裁縫ができる。
フットワークが軽い。
リーダー業務ができる。
仕事もできる。
努力もできる。
ダイエットすると一度宣言すれば、本当にストイックに実行して成功させる。
そして何より、常人離れした記憶力の持ち主だった。
たった一度か二度会っただけの人の顔と名前を完璧に覚えている。いつ、どこで会ったのか。何を話したのか。そのとき相手がどんな細かいことを言っていたのか。何年という歳月が経過したあとに再会しても、
「あ、お久しぶりです。以前、あそこでお会いしましたよね」
と爽やかに声をかける。しかも、
「あのとき、こういうお話をされていましたよね」
と、当時の会話の細部までさらりと引き出して見せるのだ。私はその横で、ただただ呆気にとられていた。
(お姉ちゃん、すげえ……)
私なんて、三度会った人の顔すら覚えているかどうか怪しいレベルなのだ。ましてや、いつどこで何を話したかなど、遠い記憶の彼方へ霧散している。そんな私にとって、身近にいる姉は昔から憧れであり、畏怖の対象でもある「すごい人」そのものだった。
実際、周囲からの評価も顕著だった。同級生から「お前の姉ちゃん、すごいよな」と感心されることもあれば、
「お前、○○の妹なの?」
「うん」
「……似てねえな」
と、あからさまなギャップに引かれることもしばしばだった。一部の親戚の大人にも言われたし、そうそう、新興宗教の集会ではしょっちゅう言われていた。お姉ちゃんはあんなにできる子、良い子なのに、ちよちゃんも見習わなきゃね、と。
姉は明るい。
私は暗い。
姉は愛想がいい。
私は愛想がない。
姉は人と話すのが上手い。
私は話がつまらないと言われる。
姉は何でもてきぱきこなす。
私は、ぼんやりしている。
姉は努力家。
私は根っからの怠け者。
こうして箇条書きで並べてみると、我ながらよくもまあここまで見事に正反対に育ったものだと感心してしまう。これほどのスペック差を持つ姉妹も、世の中にはなかなかいないのではないだろうか。
もちろん、姉本人が、「私のほうが優秀だしね」などと見下してきたわけではない。私が勝手にコンプレックスを抱き、一人で惨めになっていただけだ。周囲からの客観的な評価があり、自分自身の実感もあり、何より子どもの頃からずっと、その大きすぎる背中を見ながら生きてきた。
だから私の中で、「姉=圧倒的にすごい存在」という定義は、かなり早い段階で絶対の真理として完成してしまったのだと思う。
創作物の中で世間知らずな妹が姉に向かって偉そうに煽っている場面に出くわすと、私の中の「姉妹格差センサー」が異常事態を検知して強烈に反応してしまう。
(お前が今やっていること、私から見たら生命の危機レベルの暴挙に見えるんですが)
という、身の毛もよだつようなハラハラ感に苛まれるのだ。
おそらく私の中には、
妹が姉に逆らう→姉の堪忍袋の緒が切れて怒る→妹、一瞬で終わる。
という絶対的な因果律が刷り込まれていたのだろう。
だから「妹に虐げられる可哀想な姉」というシンデレラストーリーを読んでいても、私は途中で完全にジャンルの違うスリラー漫画を読んでいるような気分になっていた。
姉がどれほど不当に虐げられているか。もちろんそれも可哀想だし気になる。しかし、それ以上に、
「この愚かな妹は、一体どこまで姉を怒らせたら気が済むんだろう」
という結末への恐怖のほうが勝ってしまうのだ。そして、物語の佳境でようやく姉が鮮やかな反撃を開始すると、
(ほらあああああ! )
と、スクロールする指を震わせながら、なぜか私まで胸を撫で下ろして安心する。
……私は一体、何の漫画を読んでいるのだろう。本来なら主人公である姉の不遇に寄り添い、彼女の視点で感情移入しているはずなのに。
私はもしかすると長い間、姉という絶対的な基準と自分を比較し続けることでしか、自分の立ち位置を確認できなかったのかもしれない。
◇
画面から目を離し、私の中にある「姉」という生き物のデータを改めて読み返してみた。
……ちょっと待て。
それとこれとは、全く別の話ではないだろうか。思考の整理を進めるうちに、ふと疑問が湧いてきた。
姉がすごい。これは紛れもない事実であり、たぶん本当だ。私がこれからも姉を「すごい人だ」と尊敬し続ける気持ちも、きっと変わることはないだろう。何十年生きてきたとしても、「やっぱり姉ちゃんには敵わないな」と感心する場面は、この先も山ほど訪れるはずだ。
でも。
姉が優秀ですごいことと、私が人間として駄目であることは、決してイコールではない。
冷静に考えてみれば、あまりにも当たり前の話である。姉が明るいからといって、私が暗くなければならない道理はない。姉が人付き合いの天才だからといって、私まで同じように要領よく立ち回らなければならない理由もない。姉がストイックな努力家だからといって、私が同じベクトルで自分を追い込む必要もないのだ。
ただ、私は幼い頃からずっと、「誰かの優秀な姉」の陰に隠れる「出来損ないの妹」というポジションからしか、自分という人間を見ていなかったのかもしれない。
だからこそ、姉の存在が実際以上に巨大に見えた。
いや。
姉は実際問題として、大きな存在だったのだろう。
けれど、それと同時に、私自身が「どうせ私なんて」と心を縮こまらせ、自分をより小さく見せていた部分もあったのかもしれない。
そんなあまりにも単純な構造に気づくまでに、ずいぶん長い時間がかかってしまった。我ながら、自己分析の打席に立つのすら遅すぎる。さすがはぼんやりした妹である。
……いや、待て。
これもまた、「さすがは優秀な姉の妹(=私はダメな方)」というロジックで、無意識に姉を上位者に祭り上げてしまっているではないか。
たぶん私はこれからも、姉の背中を見上げるたびに「本当にすごい人だなあ」と思い続けるのだと思う。
尊敬している。
頼りにしている。
今でも少しだけ怖い。
そして、羨ましい。
それらの感情はすべて本物だし、偽りのない私の実感だ。
けれど、そろそろ私は、長年自分を縛りつけてきた「姉がすごいのだから、妹の私は大したことがない」という歪んだ計算式だけは、手放してもいいのかもしれない。
……ちょっと、歪んだ計算式を裏の山に置いてみよう。すると、あら不思議。
私はずっと姉という存在に強いコンプレックスを抱いていたのだ。背筋がザワザワする、母へのコンプレックスと課題を整理している所に姉への課題も見つけてしまった。課題が多いなあ。
後ろで『脳内外在化メンバー』の『会計』が眼鏡を片手で直しながら、「計算式から解説しましょうか?」と囁いている。こいつは私が今かけている認知の眼鏡を通した世界を、私の認知の計算式で弾き出した式と解答で生きている。『観測者』と似ているようで全然違う論理思考だ、認知の歪みが見えると現実を叩きつけに来る。今までの利子とかつけてるんだろうか、私豆腐メンタルなんだけども。
「……手心加えて、頼む」
「それは、あなたの今この時の認知のクセによりますね。AIと繋げてください」
Geminiと繋いだ『会計』が一気に捲し立てた。
「「姉が圧倒的だから、私はダメだ」というフレームワーク——一見すると惨めで傷つく思考に見えますよね。しかし、これは『自分が努力し、失敗し、傷つくリスクを完全に回避するための、極めて都合の良い免罪符』でもあります。
「どうせ私は姉みたいにはなれない」と自分に言い聞かせていれば、本気で社会や他者とぶつかり、自分の能力の限界に直面する恐怖から免れます。あなたは「観察者」という安全な観客席に座ることで、自分の人生というグラウンドで泥にまみれてプレイする責任を、自ら放棄していたのではないでしょうか。
真に客観的であったなら、なぜ「姉の長所」と「自分の長所」を公正に並べることが何十年もできなかったのですか?
あなたがしていたのは客観的な観察ではなく、自身が作り上げた「姉=絶対者、自分=無力」という妄想を補強するための都合の良いデータ集めに過ぎなかった。つまり、高い分析力を持っていたのではなく、『自分を不当におとしめるための歪んだ論理』を精巧に組み立ててしまう、知的な自家中毒を起こしていたとは言えないでしょうか。
母の愚痴、宗教的な倫理観、そして高スペックな姉。確かにあなたは過酷で複雑な環境にいました。しかし、それらの要素を並べ立てて「だから私はこう育った」と分析することは、『自分の現在地に対する責任を、過去の環境に転嫁し続けている』という側面を否定できません。
「宗教のせいで正しさに縛られた」
「母の愚痴のせいで顔色を伺うようになった」
「姉のせいで自分を小さく見せるようになった」
これらは事実の側面でありつつも、あなたが「自分自身の選択によって今の自分になった」という自己決定の事実から目を背けるための説話として機能していなかったか、と問い直す必要があります。
あなたが最初に見せた、シンデレラ小説を読むときのあのハラハラ感。あれは単なる幼少期のトラウマの残滓ではありません。
『自分自身がかつて選んだ「諦めと逃避の人生」を正当化するために、今なお「姉という巨大な力」の存在を信じ続けようとしている執着の表れ』です。
作中の妹が怒られないことに焦るのは、「妹が危険だから」ではありません。「姉が怒らないような甘い世界であってもらっては、自分の過去の諦め——つまり『姉は絶対的で恐ろしいから諦めたのだ』という自作自演の計算前提が崩れてしまうから」ではありませんか?」
『会計』は冷ややかな視線でこちらを射抜いた。おい、手心仕事してねえじゃねえか。
「喉乾いたでしょ?お茶飲んでいいよ」
「では、お言葉に甘えて」
「寿限無みたいな長口上みたい」
「お好きでしょう?」
好きだよ。ここから反証するのはもっと好きなんだ。
会計が眼鏡の奥からこちらを見る。
「そもそも私は、お姉ちゃんがすごいっていう事実を、別に否定するつもりがないんだよ。だって姉ちゃん、昔からすごいんだもん」
これはもう、私の中では揺るがない。姉は、私にとってかなり身近なロールモデルだった。たぶん、人生で初めて「こんなふうにできる人がいるんだ」と具体的に知った相手でもある。
明るくて、人付き合いが上手くて、仕事ができて、努力もできる。何かをやろうと思えば、自分で方法を探して、実際にやってしまう。そういう人間が、私のすぐ隣にいた。
同じ家にいて、同じ親に育てられて、同じ名字で、同じ家の中を歩いている。
「お姉ちゃんはこうなのに」
「お姉ちゃんを見習って」
「お姉ちゃんはできるのに」
なんて言われる。そりゃあ、比較対象になる。むしろ、比較しないほうが難しい。
「それでも、あなたは『姉が優秀だから、自分は諦めた』という選択をしたのでは?」
会計が口を挟む。
「そこなのよ」
私は指を立てた。
「その『選択』っていうところが、ちょっと違うんじゃないかなと思う」
私は昔の自分を思い出す。私が初めて挑戦する頃には、姉はすでに何度も失敗して、何度も成功している。同じ土俵に上がったところで、最初から経験値に差がある。そこで正面から勝負しよう!が私には良く分からない。負け戦になると分かっているのになぜ特攻するんだ?
「では、それは『逃避』ではなく、合理的な戦略だったと?」
「いや、そこまで格好いいものでもないね」
私は即座に訂正した。
「単純に、勝てそうなところで勝負したかっただけ。私、そんなに立派な人間じゃない」
だったら、自分ができることを探したほうがいい。たぶん、子どもの私なりにそんな判断をしていた。
心理学の言葉を借りるなら、きょうだいの中で自分なりの立ち位置を作ろうとすることには、そういう側面もあるのだろう。
親から注目されるため。自分の居場所を作るため。あるいは、ただ単純に、「私は私でいい」と思える場所を探すため。そういう方向に、自分の得意なものを寄せていく。
それ自体は、必ずしも「逃げ」ではない。
むしろ、生き残るための戦略だったのかもしれない。
「しかし、あなたは『姉と同じ土俵に立たない』ことを、自分の能力不足の証明として使っていた可能性があります」
「それは、ある」
私は素直に認めた。私は昔、姉みたいにはできないを、だから私はダメに変換する癖があった。これは確かにあった。
「だからって、『姉が巨大な存在であることそのものが、私の逃避を正当化するための創作だった』にはならないよ」
会計がほんの少し笑った。
「私は姉ちゃんを巨大化させた部分はあると思う。でも、元になる巨大なデータはちゃんと存在してる」
これは重要だった。
私が勝手に作り上げた幻の巨人ではない。
実際に、私より先にいろんなことを経験していた。
実際に、いろんなことができた。
実際に、周囲から高く評価されていた。
そして私は、それをずっと近くで見ていた。だから、姉はすごいという認識自体は、別に歪みではない。
歪みがあるとすれば、その次だ。
姉はすごい。だから私はダメ。この「だから」が問題なのだ。
「……なるほど」
会計が眼鏡を押し上げる。
「つまり、入力データそのものに誤りがあるのではなく、演算式に問題がある、と」
「そう。それ」
私は頷いた。そして、もう一つ。
「あと、君さ、私が『努力を避けるために姉を使った』みたいなこと言ってたけど」
「はい」
「そこ、私の性格データをちゃんと入れてね」
「具体的には?」
「私、努力そのものが嫌いなんだよ」
「……」
「いや、努力が好きじゃないというより、『好きじゃないことを努力と根性でどうにかする』のが、ものすごく苦手なのか」
これは最近になって、ようやくわかった。私は、自分が怠け者なのだと思っていた。根性がない、継続力がない、努力ができない、そう思っていた。
でも、よく考えてみたら違った。好きなことなら、いくらでもやれちゃう。
時間を忘れて勝手に調べる、勝手に試す、失敗しても、またやる。誰かに「努力しなさい」と言われなくても、やる。なのに、興味がないこと、苦手なこと、苦痛なことになると、途端に動かなくなる。
どうやら私は、努力すれば何でもできるというタイプの人間ではないらしい。
「それは単なる特性ではなく、あなたが努力を避けるために利用した可能性も――」
「はい、そこは検証しよう」
私は遮った。
「だって、私、昔からそうだった可能性が高いもん」
つまりだ、姉がすごかったから諦めた……のではなく。もともと私は、自分が興味を持てることには猛烈に突っ込むけれど、興味のないことを根性で継続するのが苦手という人間だった。
そこへ、すでにその分野で経験値を積んでいる、ものすごく優秀な姉がいた。そりゃあ、「じゃあ私は別のところ行こう」となる。それは必ずしも、「傷つきたくないから逃げた」ではない。
単に、そっち行っても私、楽しくないし、勝てないし、だったら自分の好きなところ行くわ,みたいな
だった可能性もある。多分これがアドラー心理学できょうだいモデルで私が納得できなかったことへの答えなんだ。
『会計』が肩をすくめた。それを見て私は続けた。
「お姉ちゃんは、お姉ちゃんなんだよ。あー、なんていうか」
うまく言葉にならない、私はしばらく考えた。『会計』は急かさなかった。
「好きとか嫌いとか、上とか下とか、勝ったとか負けたとか、そういう話じゃない。姉は姉。私は私」
あまりにもありふれた結論だった。でも、たぶん私は、そのありふれたところまで来るのに、ずいぶん遠回りした。
「この計算式、どう?」
会計はしばらく黙っていた。やがて、柔らかく笑ってこう言った。
「良いと思います」
「でしょう?」
「かなり単純化しましたね」
「私、複雑な計算ばっかりして疲れたもん」
「そうでしたね。今後はもう少し簡単にしてください。では、本日の決算はここまでにしましょう」
「賛成」
私はお茶を一口飲んだ。
……ところで。
姉のことをこんなに長々と分析している時点で、私はまだ相当お姉ちゃんのこと好きなんじゃないだろうか。
「これ、姉コンプレックス話のはずなのに、最終的にお姉ちゃん大好きエッセイになってる?」
「その可能性は高いですね」
「なんでだろう」
「あなたのお姉さまですから」
そういうもんか。




