第九十四話:夏休み宿題大作戦・新聞スクラップ編
夏休み。
子どもたちは宿題をする。
親は、それを手伝う。
……いや、正確には親も一緒に宿題をしているようなものだ。
今年の夏、娘の国語と算数のドリルが終わった。これは素直に素晴らしいと思う。去年までだったら、いちいち私が横について「ここ読んで」「次これ」「答えは何?」と手取り足取りやっていたようなことが、今年はずいぶんスムーズになった。パソコンを使って一行日記を書いて提出することだって覚えた。
成長したなあ。母としては娘の成長が思いだ目に染みる思いだった。
ところが。
夏休みの宿題には、ラスボス手前の中ボスが控えていた。
新聞スクラップである。
新聞から気になった記事を選び、ハサミで切り抜き、それについて自分がどう思ったのか、なぜその記事を選んだのか、何を感じたのかをワークシートに書くらしい。
これは、小学生にとってはなかなか高いハードルだ。娘もテーブルの上で頭を抱え、早々に詰まっていた。
「できない」
「わかんない」
「何書けばいいかわかんない」
鉛筆を握ったまま動かなくなった娘の横で、私も新聞の紙面を眺めながら思った。そりゃ、そうかもしれない。
算数の問題なら、決まった答えがある。国語のドリルなら、問題文を読んでそこから探せばいい。一行日記だって、「今日は○○をしました」と事実を書けば格好がつく。
でも新聞スクラップは違う。
「あなたは、なぜこの記事を選びましたか?」
「この記事を読んで、何を思いましたか?」
「これについて、あなたはどう考えますか?」
大人からすればなんてことない質問でも、子どもにとっては「あなたは何者ですか?」と存在そのものを問われているようなものではないか。個人的にはママには難しい課題です、先生の意図は何か、新聞社はもっと購読してほしいと考えているだろう。推理しすぎて何を書いていいのか分からない、迷探偵になってはいけない。
私は気を取り直し、娘の横に椅子を寄せて座った。
「じゃあ、お母さんが質問するから答えてみようか」
「うん……」
「まず、なんでこの記事にしたの?」
「写真が目に入ったから」
「いいね。じゃあ、写真のどこがよかったの?」
私が問いかけ、娘が答える。私がさらに深掘りし、娘が言葉を探す。まるでインタビューの現場だ。
いや、これはインタビューというより……壁打ちだ。私が普段、小説を書くときや考え事で生成AIに対してやっている作業そのものだった。
「これってどう思う?」
「こういうことかな?」
「じゃあ、ここからどう考えられる?」
問いを投げかけると、相手が反応を返してくれる。それを受けてまた考えを整理し、文章にしていく。
今の私は、AIの役割を果たしているのだ。娘の頭の中に沈んでいる、まだ形にならない感覚や言葉を、一つずつ外へと引っ張り出していく。
「写真を見て、どう思ったの?」
「きれい」
「うん。きれいだと思ったんだね」
「あと、おいしそう」
「じゃあ、どうしたいと思った?」
「食べに行きたい」
「はい、出た!」
材料は完全に揃った。私は手元の裏紙に、手早く文章を組み立てて書き下した。
「ほら、娘ちゃん。ママがまとめてみたよ」
出来上がった文章を娘の前に差し出す。
「これを、娘ちゃんの宿題に書けばいいんじゃない?」
やり切った感でメモ用紙を差し出した私に、娘は小さな声で言った。
「……やだ」
「え?」
「やだ」
「なんで?」
「やだ」
私は固まった。……いや、待て。私は今、娘の考えを聞いた。娘の発した言葉を拾った。それを文章にまとめた。材料は全部、娘から出ているはずだ。なのに「書きたくない」と拒否された。
沈黙の中、娘の浮かない顔を見つめていて、ようやく気づいた。これ、私の文章だったんだ。
娘が感じたフレッシュな感情を、私が大人都合の「正解っぽい文章」に整形してしまったのだ。たぶん娘が欲しかったのは、まとめられた正しい文章ではなく、自分が感じたことを、不器用でも自分の手で書くことだったのだろう。
「じゃあ、娘ちゃんの思うままに書いてみて」
私は自分の落とし穴に気づき、言葉を添えた。
しかし、一度固まってしまった娘の心はほどけなかった。
「やだ」
「書きたくない」
「嫌だ」
同じ言葉を繰り返す娘を見て、私の中にフツフツとイライラが込み上げてきた。ここまでやったのに。ここまでお膳立てして、質問して、答えを引き出して、文章の形まで整えてあげたのに。
「なんでやらないの?」
声のトーンが変わるのを自分でも感じた。なんかスイッチが入る。
「やりたくないなら、いいよ」
「……」
「やらなきゃいいじゃん」
娘がこちらを見上げる。
「だって、これ娘ちゃんの宿題なんだよ。ママは娘ちゃんがやらなくても別に困らない。そのまま先生に言ってね。『こういう理由で、できませんでした』って、」
冷ややかな言葉を浴びせられ、娘の目からボロボロと涙がこぼれ落ちた。けれど、一度頭に血が上った私は止まらない。さらに追い打ちをかけてしまう。
「なんで泣いてるの?」
「何が嫌だったの?」
「何が悲しいの?」
感情を詰問された娘は、限界に達したようにテーブルの鉛筆を掴み、投げつけてきた。カチャンと音を立てて床に転がる鉛筆。
「物を投げてもママには分からない、言葉で答えて」
……今振り返れば、泣きじゃくっている子どもに対して厳しい対応をしている。完全に大人げなく、感情の歯止めが効かなくなっていた。
そのときだった。引き戸が静かに開き、茶の間に人影が入ってきた。
「ママさん、ちょっと」
義父だった。険悪な空気を察した義父は、静かに私と娘の間に入った。
「娘ちゃんには、まだこれは難しいんでねえか。おらでも、これ難しいぞ」
じいちゃんのそのひとことで、カッカと熱くなっていた私の頭が、すーっと冷えていくのを感じた。義父は娘が「考えられない」のではなく、「まだ難しい」と言ったのだ。
この二つは、似ているようで全く意味が違う。能力がないのではなく、今の段階には少し早すぎるだけだ。
去年の義父だったら、きっと感情的になった私に向かって「そんなきつい言い方するな」と咎めていただろう。でも今年は違った。私を責めるのではなく、ごく自然に娘の立場に立って庇ってくれたのだ。
「この子はちゃんと自分で考える力がある。けれど、今のこの課題は難易度が高すぎるんだ」
そう語りかけるようなじいちゃんの姿勢に、私は少しだけ感動していた。なんでか、義父が進化している。同時に、これ以上この場にいたら自分がダメになると確信した。このまま娘と向き合い続ければ、もっと棘のある言葉で傷つけてしまう。
「ママ、ちょっと離れるね」
私は足元に転がっていた鉛筆を拾い上げ、立ち上がった。
「向こうで掃除してるから。何かあったら呼んで。……ちょっと頭冷やしてくるわ」
義父が頷いたのが見えた。リビングを後にし、別の部屋で黙々と掃除機をかけた。時間を置いて冷静さを取り戻すための避難処置だった。
それから30分ほど経った頃、夜勤明けで風呂に入っていた夫が茶の間へ入ってきた。散らかったちゃぶ台と、落ち込んでいる娘の様子を見て、新聞スクラップのワークシートを手にとった。
「これさ」
夫が別室で掃除機をかけていた私に言った。
「あの記事、娘ちゃんにはちょっと難しすぎたんじゃない?」
「……うん」
「もっと別の、簡単な記事にすればいいんじゃない?」
「うん。じゃあ、例えば何?」
「新聞見て、探せばいいんじゃない?」
「そうだね」
私は静かに、けれど逃げ場を塞ぐような声で言った。
「じゃあ、それを一から十までパパがやってよ」
「え?」
夫の動きがぴたりと止まった。
心の中では(口を出すなら最後まで責任持ってやってくれるよな?)という思いが渦巻いていたけれど、さすがにそれは口に出さなかった。……たぶん、言っていないはずだ。
結局のところ、今回の宿題で「娘が自力で一から考え抜いて書く」という目標は一度諦めることにした。国語と算数のドリル、一行日記という大きな山はすでに越えている。それだけで十分だ。残りのスクラップは、とにかく形にして提出させることを優先しよう。
来年になったら、また一緒に考えればいい。その頃には娘も少し大きくなって、「私はこの記事について書く!」と自分から言えるようになっているかもしれない。今年はまだ、その手前にいただけのことだ。
部屋の片付けをしながら、今回の騒動と生成AIとの関係を思い出していた。
私がAIを使うとき、「これってどういうこと?」「なんで私はこう思ったんだろう?」「これを言葉にするにはどうしたらいい?」と投げかける。
AIは私の代わりに人生を歩んでくれるわけではないし、私が何を感じるべきかを代わりに決めてくれるわけでもない。ただの壁打ち相手として、質問を返し、私の中にある未言語化の思考を表に引っ張り出してくれるだけだ。
私は今回、娘にとっての「すごいAI」になろうとしたのだと思う。けれど、人間の親子関係において完璧な壁打ち相手になることには限界がある。相手が人間なら、なおさらだ。というか、私の性能が性能のためすぐに上限に達してしまう。
疲れる。泣く。怒る。鉛筆だって飛んでくる。
そして壁打ちをやっている側も人間だから、「ここまでサポートしたんだから、早く書いてよ!」と感情的になってしまう。
AI相手なら、鉛筆が飛んでくることもなければ、感情をぶつけ合って険悪になることもない。ぶつかり合い、感情を乱しながらしか進めないのが、人間の親子なのだ。どうにか理屈で納得しようとする自分がいるが、納得できてないぞ。どうしよう。
◇
頭を冷やしていた私は、もう一度茶の間の娘のところへ向かった。
「娘ちゃん、どうかね」
多分……あ。自分でもわかる。声のトーンが低く、どこかドスの利いた声になってしまっている。私の中で警報がカンカンと鳴り響いた。このままだと、また怒る。また娘を追い詰めてしまうな、もう少し冷却時間置くか?
ソファでタブレット端末でロブロックスのゲームしてる娘がふっと私の顔を見上げた。やっべえって顔した娘を初めて見た、お目目まん丸になって身体が垂直に上がった、猫のような漫画のリアクションみたいだった。「ぴゃっ」とか「ギクッ」の擬音が似合いそうな。
ゲームしてたから怒られると思ったのか、私の顔を見て書かねばと思い出したのかな。娘よ、気持ちを落ち着けるためにメディアを使う事なんて、大人はよくしてることだからいいのよ。感情と脳のクールダウンとか一旦横におこう、はアリよ。サボってたとかママ見ないよ~、ママもよくやるもん。娘の行動など想定内である。
すると、娘の背筋がまっすぐに伸びた。そのまま、自分の学習机にダッシュで向かって鉛筆を握り直した。そして、文章を書き始めた。
さっき私が裏紙に作った文章を見ながら。娘は自分なりに、ちょっとずつ言葉を変えて書いた。私が書いた文章を、そのままなぞるのではなく。娘自身の言葉へと一生懸命に編集している。
さらさら。
静かな部屋に、鉛筆の走る音が響く。私は少し離れた所から、じっとその手元を見ていた。
そして、正直な心の声が漏れ出た。
(……できるんだったら、最初からやれや)
そう思った、ほんの一瞬だけ。でも、すぐに思い直した。いや、違う。そうじゃない。最初からできる状態じゃなかったんだ。
娘には、心の準備が必要だったのだ。
考えるための準備。
嫌になって逃げ出したい気持ちを処理する時間。
乱れた気持ちを落ち着ける時間。
そして、「自分でやるぞ」というスタートラインまで戻ってくる時間。
それらのプロセスがすべて終わったから。だから今、こうして書いているのだ。たぶん、そういうことなんだと思う。たぶん、仮説である。
娘はできるけれど、今すぐにはできなかった。ただ、それだけのことだったのだ。
「終わった」
指定された用紙から顔を上げた娘が言った。
「あ、終わったね」
私はそっと答えた、ドスは聞いていなかったと思う。これで、夏休みの中ボスの宿題は無事に終わった。
そして、私はまっすぐ娘の目を見て言った。
「さっきは、ごめんね。言い方、きつかったね。怖かったでしょ」
「うん」
娘は素直に答えた。
「怖かった」
悪いことしたなと思った、言い方・伝え方なんてもっと他にもあった。あの時の私は健全な境界線の怒りではなく、感情的に怒るを選択した。私はもう一度謝った。
「ごめん」
「……いいよ」
娘が小さく頷いた。
「ママ、ごめんね」
娘が何に対して謝ったのかは、正直よくわからない。「私が感情的になって追い詰めたのに、この子は何に謝っているんだろう。鉛筆を投げたこと?学習態度?泣いたこと?複数?それ以外?この場を納めたいから?良くないことしたなと思った?」と、そんな分析をしそうになった瞬間、私はその思考を山に向かって投げた。
娘なりに考えて、精一杯返してくれた言葉なのだ。今はぐちゃぐちゃと分析なんてしていないで、早く答えを返さなきゃダメだと自分に言い聞かせた。
「うん」
私は答えた、すると娘が言った。
「じゃあ、仲直り」
私たちはぎゅっと、仲直りのハグをした。そのあと、二人でかき氷を作って食べた。それから並んでテレビの前に座り、一緒に娘のお気に入りのアニメを見た。
夏休みの午後。
宿題は終わった。
親子喧嘩も終わった。
そして、いつもの平和な日常に戻った。
子どもを成長させるというのは、「できるまでやらせる」ことだけじゃない。できるようになるまで、親である私が「待つ」ということも、たぶん成長を助ける大切な要素なのだ。
私は普段、生成AIとの対話でよく「壁打ち」をする。頭の中にあるまとまらない考えを、質問されながら少しずつ言葉にしていく。AIが返答をくれて、私がまた考える。そして、やっと自分だけの言葉になっていく。
娘にも、似たような時間が必要だったのかもしれない。
私は焦るあまり、娘の代わりに答えを作って渡してしまった。でも、娘はそれをそのまま使うようなことはしなかった。最後には自分の手で編集した。自分の言葉に直したのだ。
最初は強引に答えを与えてしまった。でも最後には、娘自身が自分の力で自分の答えへと戻していったのだ。
そう考えると。
今回の夏休みの宿題。
私は娘に何かを一つ教えたつもりでいたけれど。
たぶん教えられたのは、私の方だったのだと思う。
「できない」と「今はまだできない」は、違う。そして、「やらない」と「やれない」も、たぶん違う。
その間には、気持ちを整える時間がある。
心の準備をする時間がある。
親がぐっと堪えて、待つ時間もある。
気が短い私の忍耐が試されている、完璧主義で柔軟な対応が苦手な私が頭を抱えている。私は娘の考えや感情を知りたいから言葉で教えてほしいと言っているつもりなんだが、言葉で追いつめているようにも見える。感情が揺れている時は、脳はそちらの処理に手いっぱいで外界の声や指示がいつもより入らなくなることが分かってるのに。相手はまだ十歳未満の子どもなんだから、待つの、ちよ。
できれば数年後には、鉛筆を投げる前に「今は無理!」と言葉で教えてほしい。とも思いつつ。どうかなあ。
【あとがき】
あとがき ――子どもの人生に、正解はあるのだろうか
私は教育というものに、あまり向いていない気がします。
なぜなら私は、すぐに「正解」を探してしまうからです。
子どもには自分で考えさせるべきなのか。
親はどこまで手伝っていいのか。
失敗させたほうがいいのか。
それとも、失敗しないように支えたほうがいいのか。
育児書や教育の記事を読んでいると、いろいろな答えがあります。
「本人に考えさせましょう」
「親が答えを与えてはいけません」
「失敗から学ばせましょう」
「できることは自分でやらせましょう」
どれも、たぶん間違いではない。
でも、一番難しいのは、
「それを、この子に、今、どのくらいやるのか」
なのだと思います。
今回の新聞スクラップもそうでした。
本来なら娘自身が記事を選び、自分で考えて、自分の言葉で書く宿題です。
だから、
「自分の宿題なんだから、自分でやりなさい」
と言って、できなければ白紙のまま提出させる。
それだって、一つの方法だったと思います。
先生に「どうして書けなかったの?」と聞かれて、娘が自分で答える。
それも一つの経験です。
私は正直、それを見てみたい気持ちもあります。
娘が失敗したとき、どうするのか。
困ったとき、自分から助けを求められるのか。
失敗したあと、「じゃあ次はこうしよう」と考えられるのか。
子どもが失敗して、そこから立ち直っていく姿を見ることに、私は興味があります。
でも。
今の娘に、それをやらせても大丈夫なのか。
そこは、まだ分かりません。
娘は、失敗するとすぐに立ち上がれるタイプではありません。
負けず嫌いなところがあり、叱られることも苦手です。
忘れ物をして困ると混乱して、泣いてしまうこともあります。
だから、
「失敗させれば、子どもは成長する」
という考え方だけでは、娘には合わないかもしれない。
失敗して、
「次は気をつけよう」
と思える子もいる。
でも、
「私はダメなんだ」
となってしまう子もいる。
私自身は、どちらかというと後者でした。
だから娘には今、
「こういうときは、こうする」
「困ったら、こう助けを求める」
「忘れ物をしたら、まずこうする」
というように、一つずつ方法を覚えてもらうほうがいいのかもしれないと思っています。
それを何度も経験していけば、いつか自分で考えて動けるようになるかもしれない。
もちろん、これも私の仮説です。
今の私は、娘を育てながら、ずっと試しています。
やってみる。
娘の反応を見る。
先生に相談する。
家族にも相談する。
少し変えてみる。
その繰り返しです。
ありがたいことに、学校の先生たちも娘のことをよく見てくださっています。
先生が学年ごとに変わっても、
「娘さんは成長しています」
「どうしたらもっと安心して力を出せるのか、私たちも手探りです」
と言ってくださいます。
最初から正解が分かっているわけではない。
娘を見ながら、
「この方法ならできた」
「これは難しかった」
「ここは手伝ったほうがいい」
「ここは自分でやれそう」
と、一緒に探していく。
たぶん、それが今の我が家には合っています。
「本人に考えさせる」ことも大切。
「親が支える」ことも大切。
「失敗させる」ことも大切。
「失敗しないように助ける」ことも大切。
どれか一つが正解なのではなく、そのときの子どもの状態を見ながら、組み合わせていく。
私は今、そんなふうに考えています。
そして、それが私には難しい。
私は昔から、何にでも正解があると思っていました。
仕事も。
恋愛も。
結婚も。
人間関係も。
子育ても。
人生も。
「これをやれば正解」という答えが、どこかにあると思っていた。
でも、どうやら人生はそんなに単純ではないらしい。
いくつかの方法を持っておいて、そのときの状況に合わせて使う。
ときには一度やめる。
少し待つ。
また試す。
そうやって、その場その場で判断していく。
私は、この「状況判断」がものすごく苦手です。
だからこそ、娘のことを私一人で決めないようにしたいと思っています。
私が娘を見ると、どうしても私の物差しになります。
私の経験。
私の価値観。
私の感情。
それだけで娘を見ていたら、娘の一部分しか見えなくなる。
だから、家族にも見てもらう。
学校の先生にも見てもらう。
いろいろな人から見た娘の姿を知って、その中から「この子はどうしたら力を発揮できるのか」を考えていきたいです。
あとがきは、同じ話を何度も別の角度から見て話していました、数えたら七回でした。読み直したら「うじうじしとらんで、はっきりせえや」と自分にイライラしてきたのでAIにまとめてもらいました。基本的に私は過保護で子どもたちを甘やかしていると義父母と夫からに言われますが、時々冷たいとか言い方キツイとか機械的のどれかを言われます。「子どもへのしつけって、倫理と道徳の配分が年齢が上がるによって変わっていくじゃないですか、発達段階に合わせつつも我が子の成熟度も考慮しないといけなくてすごく難しい。この子たちの成長に合わせて緩めるところと、倫理と道徳から譲れないことを親として伝えています。それが過保護と甘やかし、キツさや冷たさに見えるんだと思う」そう家族に言ったら、何を言ってるのか分からないと言われました。もっと、上手く伝えられるようになりたいです。次は子供への倫理と道徳、私の倫理と道徳について深堀りしていきます。話が脱線しますが、お盆のため家中の大掃除をしています、義父母はもちろん、娘も巻き込んで昨日から頑張っています。すす払いをして、窓ふきをして、サッシを洗って、トイレのスペシャル掃除をして、風呂場を丸洗いしました。午後にすべての掃除機をかけて、残りの洗面所と台所をやって、干した布団を客間にしいて終りです、疲れましたが、なんかいい感じの疲れです、しびれも痛みまで行かなかったです、ステッパーを続けて筋力がついたのかなとウキウキしています。お盆は親戚の方々が帰省されます、お寿司や焼き肉や外食や屋台と宴が十日間続きます。来客が増えると、子どもたちの子守り人員が増えて私が楽になるので夏休みが終わるまで、一か月くらいいてほしい、切実に。あと義父母が私に超優しくなります、帰省ラッシュが終わると義父がケーキ買って来てくれたり義母が子どもの服買ってくれたり打ち上げ餃子パーティー(私の大好物)があります。私が小さいころは、母朝から夜まで台所に立ってもてなしの料理を作り私たち女きょうだいは運んだり材料を切っったり下膳したり皿を洗って、近所のビールの自販機にお使いに行き、男以外の家人は台所で過ごしていました。母が一番大変だったと思います。兄や弟たちは畑で野菜を収穫したり自転車に乗って足りない食材を買いに行っていました。楽しいより大変が多かったですが、嫁いだら準備だけしてあとはほぼ自炊がないので楽です。台所いると座敷に来るように言われるし、病気になる前のお酒が飲めた時はコップに注がれました。カルチャーショックでした。




