第九十三話:ヤツが出た カブトムシ編
昆虫が苦手な方はご注意ください。
また、彼女が来た。いや、彼女というか、虫である。
山に囲まれた田舎に住んでいると、人間より先に季節を感じるのは虫たちなのかもしれない。吹き抜ける風の匂いが変わる頃、彼らは我が物顔で姿を現し始める。
春にはカメムシ、ムカデ。
初夏にはホタル。
夏はオニヤンマ、クワガタ。
……次は何が来るんだろうと身構えていたらカブトムシが来た。立派なツノのないメスだったので、ここはひとつ敬意を込めて彼女と表記することにする。女性には優しくありたい。
前提として、私は虫が苦手だ。
ホタルだって、遠くで光っているぶんにはきれいだなあとは思う。でも、手元で発光する虫のリアルな実体を観察したいわけじゃない。夏の夜、義父が「孫が喜ぶだろ」と善意百パーセントでホタルを捕まえてきても、私は頭からタオルを被って後方待機だった。
いつでも逃げられる体勢。いざというときには真っ先に扉を開け放つ、完全に非常口担当である。
三日前には、私と娘が出かけている間にクワガタが家へ侵入していた。田舎の古き良き日本家屋は、どこからでも彼らを歓迎してしまうらしい。
その時は義父がひょいっと捕まえて、近所の子へ横流ししてくれた。息子はまだ何でもガシッとつかんでしまうお年頃なので、指を挟まれる危険があるクワガタは危ない。
娘も、テントウムシやホタルくらいなら平気だけれど、それ以上大きくて黒い物体になると「無理」と明確に後ずさりする。だから我が家には、虫を愛でる人間がいない。
大変素晴らしいファミリーである。
ところが、油断ならないのが田舎の夏だ。息子を迎えに行って夕方に帰宅すると、玄関先では立派なオニヤンマがずっと空中停止していた。ホバリングというのだろうか。
パタパタという軽快なものではない。ブーンという、まるで小型ドローンのような重低音を響かせながら、引き戸を開けたい私の前でまったく動かないのだ。黒と黄色の警戒色が夕日に照らされて無駄に美しい。
「山の神の使いだから無下に扱えない……。今の子は、そういう縁起とか言い伝えとか、担がないかなぁ。っていうか、暑いから早くどいてくれ」
額にじっとりと汗をかき、そんなことを思いながら、私はしばらく玄関前で待機した。無理に追い払って、こちらに向かって飛ばれても困る。そんな勇気はない。向こうがお帰りになるまで、人間が黙って待つ。
山ではそれが礼儀である。やがて気が済んだのか、オニヤンマは玄関からフイっと向きを変えて、悠然と山に帰っていった。何しに来てるんだろう、毎年見かける光景である。警察の定期巡回みたいなものだろうか?
その晩。夕飯が終わり片付けをしていた時の事。田舎の夜は早く、少し奥まった廊下はすでに真っ暗だ。パチリと電気をつけた、その瞬間だった。
カサ……
カサカサ……
静まり返った空間に、硬質なものが床を這う乾いた音が響く。
視線の端で、黒く光る何かが動いた。とある害虫ほどの素早さはないが、明らかに生命体である丸いシルエット。
「ぎゃあああああっ!!」
条件反射だった、肺の底から悲鳴が出た。
「ばあちゃん! ばあちゃん! ばあちゃん! ばあちゃん!!」
足音を立てて義母が飛んでくる。
「どうした!?」
「なんかいる! なんかいる! なんかいる!」
私は床を指さしながら小刻みに跳ねた。中年のおばさんがみっともないと自覚はあるが、とっさの反射運動であるため仕方ない。でも本人としては、大真面目である。あれだ、恐怖を身体運動で逃がそうとするアレのはずだ、多分。ところが、地震になると話が変わる。以前、地震が起きたときに私は飛び跳ねなかった。すぐに子どもを二人を担ぎ上げて玄関へ飛び出した。自分が怖いとか、嫌だとか、そんなことを考える前に、「子どもを連れて逃げる」という行動が出たから、なんかモードが違うんだろう。
「ああ、カブトムシだ」
「……カブトムシ?」
そんなに落ち着いて言われても困る。
虫嫌いの私の中では、ゴキブリもカブトムシも等しく未確認生物である。パニックに陥る私をよそに、義母は慣れた手つきで、ひょいっと彼女を捕まえた。なんのためらいもない。暴れる足も意に介さない。
すごい。
同じ人類とは思えない。
「近所の子にあげようかね」
「うん、それがいい。ばあちゃん、ありがとう。」
私は深々と頭を下げた。命の恩人を見る目だった。
彼女は、台所でおなじみのポリ袋へ入れられた。息ができるように小さな空気穴を開け、廊下の隅で一晩だけ泊まっていただくことになった。これで一安心。動悸を落ち着かせ、そう思って皿洗い後に夜の洗濯物を干しに行った。
ところが、
「あれ?」
なんか、いるはずのものが、いない。
廊下に置かれた袋の中が空っぽだった。口の結び目が緩んでいたのか、アイラップは見事にひしゃげている。
逃げた。
逃げたのか。あの黒くて硬くて足がトゲトゲのやつが、家の中のどこかに。
いやいや、落ち着け。
まずは洗濯だ。
私は強引に現実逃避することにした。今探したところで、見つかったら見つかったで困るのだ。
三歩先の場所で洗濯物を干していると、暗闇の中から音がする。
ブーン……
カサカサ……
ブーン……
聞こえる。どこからともなく、音だけ聞こえる。姿が見えない分、恐怖は倍増だ。
「やめてぇぇぇ……」
頭の中では最悪の想像だけが膨らんでいく。首筋に止まったらどうしよう。踏んづけたらどうしよう。
どこ?
どこにいるの?
私は見えない音に怯えながら、過去最速のスピードで洗濯を干し終えた。
急いでクーラーの効いた茶の間へ逃げ戻る。ガラス戸を閉め切り、ほっと一息。
……の、はずだった。
カシャ。
カシャカシャカシャ。
また音がする。
しかも今度は、すぐ近くのガラス戸の向こうから。
「まさか」
嫌な予感しかしないまま、恐る恐る裏へ回る。
いた。
彼女だ。
つるつるのガラスに、器用に六本のトゲトゲした足を引っかけて頑張って張り付こうとしている。虫嫌いにとって一番見たくない『腹側』からのアングルである。
「おおう」
変な声が出た。
よく考えたら当たり前だった。廊下は真っ暗で茶の間は明るい。虫の習性通り、光に向かって飛んできたのだ。でも、理屈が分かっても怖いものは怖い。窓を開けたら絶対に入ってくる。
あいにく、先ほど私を救ってくれた義母はお風呂中。
なので今度は義父を呼ぶ。
「じいちゃん! じいちゃん! じいちゃん! 捕まえて!」
呼ばれてやってきた義父も、窓越しにへばりつく彼女を見るなり全く躊躇せず、窓を開けてひょい。私はまたもや、三歩ほど後ろで見守る非常口係。
彼女は再びアイラップへ。
今度は空気穴を作りつつ、絶対に逃げられないように口を固くしっかり閉じる。
完璧だ。
ようやく、我が家に本当の平和が戻った。
虫好きの人からしたら、
「カブトムシが家に来たなんて最高じゃん。ラッキーじゃん」
そう思うのかもしれない。
でも、虫嫌いにとっては違う。これは立派なホラーである。しかも今年の「小説家になろう」の夏ホラーのテーマは奇しくも『音』だ。
カサカサ。
ブーン。
カシャカシャカシャ。
ブーン。
暗闇の中で響く、あの不規則な音だけで確実に寿命が縮む。
虫嫌いの私にとっては間違いなくホラーだった。でも世間では、たぶん「田舎あるある」なのだろう。
……でも、さすがにこの話をホラージャンルで上げたらいかんよなと思う。
熊本地震の影響が続いています、自分がこれとってできることが良く分からずスーパーへ買い物の度に熊本地震支援募金箱に募金しかできていません。娘は募金箱を見つけるとママあっちに箱あるよ、お金ある?と気づくごとに教えてくれます。早く皆さんの生活が落ち着いて安心して暮らせるようにと祈っています。




