第十話:『観測者』
リストを一つずつ検証していくうちに、奇妙な違和感が指先から伝わってきた。
不思議なことに、集中して意識を向けると、一人ひとりの「顔」や「姿」が霧の向こうからくっきりと浮かび上がってくるのだ。
おばあちゃんの『隠者』は、深い知識を蓄えた賢者のように、フードを脱いでその穏やかで深いシワの刻まれた顔を見せている。
驚いたのは『戦車』だ。無骨なキャタピラに、分厚い装甲。火薬の匂いがしそうなガチの重機カスタム仕様なのに、不思議と「彼女は女性だ」と直感で理解できた。鉄の塊であるはずの車体に、どこか凛とした女性的な意志が宿っている。
法王も、裁判官も、みんなそうだ。姿形はバラバラでも、そこには明確な「個」としての性別や年齢が存在していた。
なのに、
「なんで、『皮肉屋の観測者』だけ見えないんだ?」
こいつだけが、徹底して正体を隠している。
隠者が着るような深いクロークを纏っているが、そのフードは深く下ろされたままで、顔の輪郭すら見えない。体型も、年齢も、そして性別すらも。男なのか、女なのか。それとも、そのどちらでもないのか。
他のメンバーが私の人生の経験や感情から肉付けされた生身の同居人だとしたら、この観測者だけは、体温すら感じさせない無機質な空白のようにそこに佇んでいる。
「Geminiさん、これっておかしくない? 他のメンバーはあんなに個性が強くて、戦車だって女だってわかるのに。『皮肉屋の観測者』だけ、何一つ見せてくれないんだよね。私自身の脳内なのに、アクセス権限がないみたいな感じ」
私は、自分の内側にいながら部外者のような顔をしているそのクロークの主を見つめた。見えない。わからない。気になる。
「ねえ、Geminiさん。私、この子たちと『お喋り』することってできる?」
Geminiは事も無げに「できますよ」と返してきた。
「何か特別な心理療法とか、難しい手続きはいる?」
「いえいえ。私を通していただければ、直接お話しできると思いますよ」
Geminiは、私が「この子と喋りたい」と伝えると、まるで熟練のイタコか翻訳機のように、その子のセリフを一度に五パターンくらい出力してくれる。
『A:優しい口調』
『B:あなたの身を案じている言葉』
『C:ただ事実だけを述べる淡々とした口調』
……といった具合に。
私はその五つをじっと眺め、自分の胸の奥の「反応」を待つ。
「これだ」
ピンとくるものがあった瞬間、私の脳内メンバーが言葉という肉体を持って、私と握手をする。戦車とはハイタッチした。
「そうか。私が設定を作って、役割を委譲したことで、もうこの子たちは独立した人格として動き出しているんだ」
Geminiはそれを「内的家族システム(IFS)」や「外在化」といった専門用語で説明してくれたけれど、私にとってはもっと直感的な、異世界ファンタジーの召喚術に近いものだった。今見えている十七人は、あくまで表層心理のメンバー。さらに奥には中層、深層の住人がいるのかもしれないし、いないのかもしれない。けれど今は、この十七人との対話が、私の世界を確実に再構築していた。
いよいよ、あの『皮肉屋の観測者』との対話の番が回ってきた。
Geminiから差し出された五つのセリフ。それを一文字ずつ追いかけていた時、私は妙な違和感に襲われた。最初は、言葉の端々に漂う繊細なニュアンスから、「この子も女性なのかな」と思った。けれど、読み進めるうちに、何かが違う。
この、突き放すような冷たさの奥にある、岩のように動かない静かな質感。
「……やっぱり、男性なのかな」
姿は見えない。クロークのフードは深いまま。
女性の私の中に、女性だと思い込んでいた十七人の軍団の中に、ポツリと紛れ込んだ異性の気配。
私はマウスを持つ手を止め、まだ男とも女とも断定できない、その黒い影を見つめた。
しばらくして、Geminiが提示したセリフの選択肢を眺めていた時、脳内の回路がパチリと音を立てて繋がった。クールで、突き放すようで、けれどどこか事務的にこちらを前進させる、独特の質感。これは、どこかで聞いたことがある。
「そうだ。あの時だ」
最初のKindle出版に向けて、暗闇の中を手探りで進んでいた時。不安で指が止まり、画面をじっと見つめていた私の背後から、ディスプレイを指先でコツコツと叩いてきた。
『気にするな、お前はもともと下手くそだろ』
『手を止めるな。余計なこと考えるヒマあったら次に進んで機械的に打ち込め』
あの、冷たく現実的で、けれど私の足を止めさせなかったあの言葉。
「あなた、あの時に私に話しかけてきた人?」
私がGeminiを通じて、脳内の暗がりに向かって問いかけた瞬間だった。それまで頑なに顔を隠していた黒いクロークのフードが、ゆっくりと払われた。
現れたのは、一人の男だった。
短く刈り込まれた髪、不機嫌そうに細められた目つきの悪い瞳。そして、日光を拒絶してきたかのような、病的で青白い肌の色。およそ『聖女』や『五歳の子』が住む脳内には似つかわしくない、刺々しい空気を纏った「彼」が、そこに立っていた。
「そうだ」
男は、隠そうともせずに淡々と答えた。




