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少年兵と、灰と青  作者: いちご牛乳
灰の東京
6/20

聞き取った声

十一日が過ぎた。


入口の警戒表には交代の印が増え、受付用の名簿は二冊目になった。


三月十六日の朝、水の列は昇降口から校庭の端まで伸びていた。


ペットボトル。

鍋。

やかん。

ポリタンク。

口の欠けた急須。

蓋のない水筒。


容器には名前と世帯番号が書かれている。


飲むための水は、受水槽の残り、細く出る水道、周辺から回収した未開封の飲料でつないでいた。


プールの水と、屋根から集めた雨水は別だった。


飲用不可。

便所・清掃用。


そう書いた札が付いている。


同じ水でも、置く場所と使い道が違った。


職員室の机には、世帯番号順の受領表が広げられていた。


瀬戸家。

世帯番号一〇八。

人数三。

受領予定、一・二リットル。

発熱なし。


秋人は前日の記録と照らし合わせた。

同じ世帯が二度受け取っていないか。

番号のない人が何人いるか。

乳幼児、発熱者、下痢のある人へ追加が必要か。


水の量だけでは決められないことが増えていた。


医療机から理沙が来た。

マスクは洗って使い回した布だった。手には体温と症状を書いた紙を持っている。


「三十八度以上が十一人。三十七度台で咳のある人が十七人。下痢が五人」


高橋が顔を上げた。


「昨日より」


「増えています。体育館に置いたままは無理です」


「教室を使うと、付き添いが要ります」


「ここで広がったら、もっと要ります」


理沙は机に紙を置いた。


発熱。

咳。

下痢。

嘔吐。

脱水疑い。


別の欄に、衣類や皮膚への白い物の付着が書かれていた。


発熱と付着は同じ丸で囲まれていない。


「音楽室を使いたいです」


理沙が言った。


「保健室は重い人。音楽室は歩ける人。付き添いは一人まで」


「窓は」


「風向きを見て、短時間だけ。外の粉が入るなら閉めます」


高橋は額を押さえた。


「階段を上がれない人は」


「保健室側に残します」


小倉が職員室へ入ってきた。


「便所の袋、置場を変えないとまずいぞ。なんか漏れてるやつもある、水場に近すぎる」


「人手は」


「運べるのが四人。手袋は二組」


理沙が言った。


「医療用は使わないでください。厚い袋を二重にして、終わったら石けんで洗う」


「洗う水がない」


「飲用じゃない方を使って」


水。

熱。

便所。

手袋。


別々の用事が、同じ机の上へ集まっていた。



昼前。

職員室の隅では、古い受信機を三人の大人が囲んでいた。

理科準備室から見つけた物だった。電池だけでは安定せず、電器店で働いていたという男が、校舎に残っていた線と金具をつないでいる。


小倉が窓際でアンテナを支えた。


受信機からは、ほとんど雑音しか出なかった。


ざりざり。


時々、途切れた声のような音が混じる。


高橋は水の表と受信機を交互に見ていた。


「昨日も、この辺りで入ったんです」


電器店の男がつまみを少し動かした。


「動かさないで」


小倉が言う。


「動かしてるのはそっちです」


「腕がもたないんだよ」


廊下には、いつの間にか人が集まっていた。

助けが来る。

水の時間を言う。

自衛隊の放送だ。

都心のことが分かる。


誰も大きな声では言わなかった。


それでも、受信機へ向けられた顔には、同じ待ち方があった。


真衣も母の横から覗いていた。


「何か聞こえる?」


「まだよ」


秋人は答えた。


「お父さん?」


「違う」


「まだ聞こえてないのに」


秋人は返せなかった。


受信機の音が変わった。


雑音の奥に、人の声が混じる。


「こちらは……」


全員が動きを止めた。


声は遠いというより、厚い壁の向こうから聞こえるようだった。


「……立川……臨時……」


高橋が受信機へ近づいた。


「立川」


小倉が呟いた。


次の言葉は雑音に消えた。


「……各避難所……代表者……」


高橋が秋人を見た。


「書けますか」


秋人はすでにノートを開いていた。


「聞こえたところだけでいい。つなげなくていい」


「はい」


秋人は鉛筆の先を置いた。


立川。

臨時。

各避難所。

代表者。


声がまた途切れた。


「……登録……名簿……」


登録。

名簿。


「……給水……世帯……」


給水。

世帯。


「……発熱者……分離……」


発熱者分離。


真衣が廊下から秋人の手を見ていた。


母は肩へ手を置き、前へ出ないようにしている。


「……雨水……飲用……注意……」


雨水。

飲用注意。


「……遺体……水源より……」


そこで声が崩れた。


秋人は聞こえた順に書いた。


遺体。

水源より。


文にはしなかった。


「……燃料……私的使用……禁止……」


燃料私的使用禁止。


「……都心方面……危険……移動……」


都心方面。

危険。

移動。


秋人の手が止まりかけた。


大手町も都心だった。


父の名前が、頭の中ではなく、職員室の箱にある。


瀬戸雅之。

三月二日朝。

大手町方面。

未確認。


受信機は父のことを言わなかった。


「……技能……申告……」


技能申告。


「……繰り返します……こちらは……立川臨時指揮所……」


その後は雑音だけになった。

小倉がアンテナを持ち直す。

電器店の男がつまみを戻した。

声は戻らなかった。


次の言葉は聞こえなかった。


雑音が大きくなった。


ざりざり。

ざりざり。

風のような音。

機械が砂を噛むような音。


それから、完全に消えた。


職員室は、しばらく静かだった。


外ではまだ水の列が動いている。

誰かが咳をしている。

容器に水が入る音がしている。


真衣が、母の横から小さく言った。


「たちかわって、人?」


秋人は顔を上げた。


「場所」


「場所がしゃべってるの?」


誰もすぐには答えなかった。


母が小さく言った。


「ラジオでしょ」


「でも、立川って言った」


「そう聞こえたの」


母は真衣の手を取った。


「近づかない。今は、お兄ちゃんの邪魔しないの」


真衣は秋人のノートを見ようとして、母に止められた。


高橋はラジオから離れた。


「もう一度入りますか」


小倉が聞いた。


電器店の男は首を振った。


「分からない。電波が弱いのか、こっちが悪いのかも分からない」


高橋は秋人のノートを見た。


秋人は書いた言葉を読み返した。


「これだけです」


秋人が言った。


「十分です」


「文章になってません」


「文章にすると、聞こえなかった部分まで入ります」


高橋はノートを返した。


「そのままで」


廊下にいた男が言った。


「助けが来るんですか」


高橋は振り向いた。


「そこまでは聞こえませんでした」


「水は」


「来るとは言っていません」


「じゃあ、何だったんだよ」


別の声が重なる。


「命令だけか」


「ラジオやってるくらいだ、車くらい出せるだろ」


「薬はないの」


「都心はどうなったんですか」


高橋は声を聞いた。

答えられるものはなかった。


「受信できた言葉だけ、体育館で共有します」


「それで水が増えるのか」


「増えません」


高橋は言った。


「ですが、どこかに行政が残っていました。つまり、いまある水の配り方は決め直せます」


続けて、


「ですので、黒板に書きます」


と言った。


職員室から体育館へ行く途中、廊下には人が座っていた。


体育館に入りきらない人たちだった。

毛布にくるまっている者。

靴を脱がないまま寝ている者。

泣いている子どもを抱いた女。

水の容器を抱えたまま眠っている老人。


体育館の中は、さらに混んでいた。


壁際に世帯ごとの荷物。

中央に通路。

入口近くに水の管理机。

ステージの下に医療用の場所。

体育館の黒板は、入口近くへ移されていた。


高橋は中央に縦線を引いた。


左側へ書く。


受信できた言葉。


右側へ書く。


荻窪小学校で決めること。


秋人はノートを持って黒板の前に立った。

高橋も黒板の前に立った。


「立川からの無線と思われるものを受信しました」


声は大きくなかった。

それでも、近くにいた人から順に顔を上げた。


「聞き取れた内容だけを共有します。未確認の部分があります。正確でない可能性があります」


高橋が周囲へ言った。


「瀬戸くん、読んでください」


秋人は、聞こえた順に読んだ。


「立川臨時指揮所。各避難所。代表者。登録。名簿。給水、世帯。発熱者分離。雨水、飲用注意。遺体、水源より。燃料私的使用禁止。都心方面、危険、移動。技能申告」


言葉の間には、欠けた部分があった。


高橋は左側へ写した。


立川臨時指揮所と思われる。

避難所登録。

代表者。

名簿。

給水・世帯。

発熱者分離。

雨水・飲用注意。

遺体・水源。

燃料私的使用禁止。

都心方面・危険・移動。

技能申告。


「ここから先は、立川がそのまま言った内容ではありません」


高橋は右側を示した。


「ここで決めます」


小倉が最初に言った。


「水は世帯番号順。番号がない人は受付を先にする。二重に取ったかどうか、受領表で見る」


体育館の奥から声が飛んだ。


「番号がない人は飲むなってことか」


「緊急分は止めません」


高橋が答えた。


「継続分を出すために、人数へ入れます」


秋人は右側へ書いた。


給水。

世帯番号順。

緊急分は体調確認。

受領表へ記入。


理沙が前へ出た。


「発熱者は音楽室へ移します。歩けない人と重い症状は保健室。付き添いは一人まで」


「家族と離すんですか」


女が聞いた。


「咳と熱のある人を、この人数の中へ置き続ける方が危険です」


「被曝の人も一緒?」


「一緒にしません」


理沙は黒板の左側を見た。


「熱や咳と、白い物の付着は分けます。火傷や怪我も別です。測れないものを、同じ病気にしません」


秋人は書いた。


医療。

発熱・咳、音楽室。

重症・歩行困難、保健室。

付着物、入口で別確認。


田辺が言った。


「仮安置場所は水道と受水槽から離れています。通る場所を決めて、入口側から近づけないようにします」


氏名不詳男性は、まだ死亡疑いの記録にある。


秋人は右側へ書いた。


仮安置場所。

水場から離す。

仮管理番号と所持品を照合。


「雨水は」


誰かが聞いた。


小倉が答えた。


「飲ませない。便所と掃除だけ。屋根から入った灰もある」


「煮たら」


「ここでは飲めると決められません」


高橋が言った。


秋人は書いた。


水。

雨水・プール水、飲用不可。

便所・清掃用。


燃料では、すぐに声が上がった。


避難者が持ち込んだ灯油。

カセットボンベ。

小型発電機用のガソリン。

車から抜いたという燃料。


「うちの灯油です」


男が言った。


「勝手に持っていくな」


「持込者の名前と量を残します」


高橋は答えた。


「使った時刻と用途も記録します。なくなったことが分からない集め方にはしません」


「預けたら、返ってくるのか」


「残っていれば返します」


「残らなかったら」


高橋は答えなかった。


小倉が言った。


「勝手に使われて火が出たら、返す場所ごとなくなるだろ」


秋人は燃料保管票の項目を書いた。


持込者。

種類。

数量。

容器。

保管場所。

使用時刻。

用途。


物を守るための欄だった。


同時に、持ってきた人が自由に使えなくなる欄でもあった。


都心方面への移動について、高橋は長く迷った。


「危険、移動、までしか聞こえていません」


黒板の左側を見て言う。


「移動しろなのか、移動するななのか、聞こえていない」


体育館がざわついた。


秋人は自分のノートを見た。

勝手な言葉を足せば、父のいる方向を閉じることになる。

足さなければ、誰かが向かうかもしれない。


田辺が言った。


「いま出すなら、避難所の判断として出せ」


高橋は頷いた。


右側へ書いた。


都心方面への外出は、当面認めない。

家族捜索を含む外出希望は、受付へ申告。


「立川の命令ですか」


男が聞いた。


「違います」


高橋は答えた。


「危険という語を受信しました。移動については聞き取れていません。ここから先は、荻窪小学校の判断です」


不満の声は消えなかった。

それでも、黒板の左右は混ざらなかった。

左は聞こえた言葉。

右は、ここで決めたこと。


秋人は右側の内容を、掲示用紙へ整理した。

受信した順ではない。

人が明日の朝、必要になる順だった。


給水。

医療。

水の用途。

仮安置場所。

燃料。

外出。

技能申告。


高橋が決める。

理沙が医療上の条件を足す。

小倉が水と物資の動線を直す。

田辺が入口と安置場所の位置を確認する。

秋人は同じ内容を、読める順へ並べた。


掲示ができると、人の動きが変わった。


体育館の告知に合わせて、水の列が動かされた。

それまで入口から校庭までまっすぐ伸びていた列は、世帯番号ごとに呼ばれる形になった。


番号のない人は、最後に回された。

世帯番号の分からない人が、秋人の机へ来た。


「昨日もらった番号をなくしました」


「名前をお願いします」


「子どもが熱を出してます」


「先に理沙さんへ。付き添いは一人です」


「水はどうなるんですか」


「番号を確認して、受領表へ入れます」


秋人が世帯番号を書くと、その人は呼ばれる場所へ移った。


発熱欄へ丸を付けると、音楽室へ行く列へ並んだ。


未登録と書けば、受付を済ませるまで継続分の水は出なかった。


秋人が決めているわけではない。


それでも、秋人が書いた印の先に、別の列があった。


昼過ぎ、水の列がひと段落したころ、真衣が職員室の入口へ来た。

「お兄ちゃん」


秋人は顔を上げた。


「何」


「お兄ちゃんが書いたの」


真衣は黒板を指差していた。


そこには、高橋の字で指示が並んでいる。

その下に、秋人が清書した紙が貼られていた。


「聞こえたところだけ」


秋人は答えた。


「全部じゃなくて」


真衣は黒板を見た。


「立川ってどこ」


「西の方」


「遠い?」


秋人は少し考えた。


「電車なら、そんなに」


言ってから、電車がもう動いていないことを思い出した。


真衣は黒板を見たまま言った。


「立川が言ったら、みんな並ぶの?」


秋人は答えられなかった。


高橋が近くで聞いていた。


「立川が言ったから、というより」


高橋は少し考えた。


「並ばないと、水が分けられないからです」


真衣は高橋を見た。


「立川は水持ってるの?」


高橋はすぐには答えなかった。


「持っているかもしれません」


「くれる?」


「分かりません」


真衣は不満そうな顔をした。


「分からないばっかり」


秋人は、その言葉を聞いて鉛筆を止めた。


分からない。


その言葉は、名簿の中にもあった。

父の欄にもあった。

都心のことにも、立川のことにも、水のことにもあった。


母が真衣の肩に手を置いた。


「真衣、今はお兄ちゃんを困らせないの」


「でも、水でしょ」


「買い物じゃないみたいだから」


母は黒板を見た。


「聞いても、すぐには出てこないの」


真衣はまだ黒板を見ていたが、少しだけ口を閉じた。



午後、発熱者の移動が始まった。


音楽室へ行く人は、毛布と水の容器を持った。

家族と離れたくない子どもが泣いた。

付き添いを二人にしてほしいと頼む者がいた。

階段を上がれない老人は保健室側へ残った。


理沙が一人ずつ見た。


「この人は保健室」


「この子は音楽室」


「付き添いはお母さんだけ」


「水を持ってください」


「毛布は乾いている方を」


体育館の一角が空くと、廊下で寝ていた人がそこへ入った。

空いた場所はすぐに埋まった。




夕方、少しだけ体育館の外に出られた。


秋人は、校庭の端に立った。


空は灰色だった。

雲なのか、煙なのか、区別がつかなかった。

東の方は、まだ遠く霞んでいた。

都心方面には、線のような黒さがいくつも立っている。

風向きによって、焦げた匂いが薄く届くことがあった。


大手町からは、何も来なかった。


父の会社からも。

父からも。

父を見たという人からも。


西からは声が来た。


立川。


東からは来ない。


秋人は、その方角を見ていた。


地図の中では、立川は知っている場所だった。


中央線。

青梅線。

多摩モノレール。

駅前。

大きい街。

昭和記念公園。


それまでは、そういう場所だった。


けれど、今は違った。


そこから声が来た。

声は水を持ってこなかった。

食料も持ってこなかった。

父の消息も持ってこなかった。


ただ、こうしろと言った。


名前を書け。

水を分けろ。

熱のある人を分けろ。

勝手に動くな。

遺体を水から離せ。

燃料を勝手に使うな。

代表者を置け。

技能を申告させろ。


秋人が見ていると、高橋が隣に来た。


高橋の手には、黒板から写した紙が何枚かあった。

端が少し折れている。


「疲れましたか」


「少し」


「そうですね」


高橋は東の空を見た。


「立川が残ってるなら、そこから何か来るかもしれない」


その声には、期待よりも計算があった。


水。

紙。

人。

車。

薬。

命令。


何か。


小倉が少し離れたところで、校門の様子を見ていた。

棒を持っている。

最近、小倉は棒を手放さなくなった。


高橋の言葉を聞いて、小倉が言った。


「来るまで持たせるしかないだろ」


高橋は頷いた。


「はい」


秋人は、東ではなく西を見た。


立川がどの方向か、正確には分からなかった。

地図なら分かる。

けれど、校庭から見える町の中では、方角はすぐ曖昧になった。


それでも、立川という字は、今日だけで何度も書いた。


ノートに。

黒板に。

掲示紙に。

高橋の控えに。


立川という地名が、命令になった。


夜、体育館の入口に、手書きの指示が貼られた。


一枚目。


給水は世帯番号順。

二重受領禁止。

容器には名前を書くこと。


二枚目。


発熱者は音楽室へ移動。

付き添い一名まで。

布で口を覆うこと。


三枚目。


雨水は飲用禁止。

洗浄用とする。

使用前に管理班へ確認。


四枚目。


夜間外出禁止。

都心方面への移動禁止。

燃料の私的使用禁止。


五枚目。


技能申告受付。

医療、運転、修理、建築、調理、介護、無線、その他。


紙は薄かった。

職員室に残っていたコピー用紙だった。

インクではなく、黒いマーカーで書いてある。

少し滲んでいた。


それでも、人はその前で立ち止まった。


読む人。

読めない子どもに読んで聞かせる人。

舌打ちする人。

黙って頷く人。

「水は増えないのか」と言う人。

「発熱って何度から」と聞く人。

「技能って、何を書けばいい」と悩む人。


秋人は、少し離れたところで見ていた。


自分の字もあった。

高橋が書いた字もあった。

小倉が足した線もあった。

理沙が赤で丸をつけたところもあった。


紙は、ただ貼られているだけだった。


だが、人の足はそこで止まった。


夜の消灯後、秋人はノートを開いた。


体育館は暗かった。


完全な暗闇ではない。

入口の近くに懐中電灯が一つ置かれている。

明かりは弱く、床の上に小さな円を作っていた。


母と真衣は、すぐ近くにいた。


真衣は眠っている。

母は起きているかもしれなかった。

目を閉じているだけかもしれない。


秋人は、鉛筆を握った。


昼間に書いたページを開く。


立川。

各避難所。

代表者。

登録。

給水。

衛生。

発熱者分離。

雨水使用注意。

遺体。水源より。

燃料私的使用禁止。

危険区域。

通行制限。

名簿提出。

技能申告。


その隣のページに、父の欄があった。


瀬戸雅之。

未確認。


秋人は、同じページに書くか迷った。


結局、隣のページの下に、もう一度書いた。


立川。


少し間を空ける。


未確認。


二つの言葉が、見開きの中に並んだ。


立川は答えではなかった。


父の場所を教えてくれたわけではない。

水を持ってきたわけでもない。

薬を持ってきたわけでもない。

都心がどうなったかも言わなかった。


けれど、沈黙ではなかった。


秋人は鉛筆を置いた。


外で、誰かが小さく咳をした。

音楽室の方から、子どもの泣く声がかすかに聞こえた。

水の容器が、どこかで倒れた。


母が小さく言った。


「秋人」


「何」


「まだ書いてるの」


「うん」


「何を」


秋人はノートを見た。


「聞こえたこと」


母は少しだけ黙った。


「立川?」


「うん」


「何か、来るのかな」


秋人は答えに迷った。


高橋の言葉を思い出した。


立川が残ってるなら、そこから何か来るかもしれない。


小倉の声も思い出した。


来るまで持たせるしかないだろ。


「分からない」


秋人は言った。


母はそれ以上聞かなかった。


真衣が寝返りを打った。

乾いた唇で、小さく何かを言った。


牛乳、と聞こえた気がした。


母が、真衣の毛布を直した。


「寝てなさい」


声は、真衣に向けたものだった。

けれど、秋人にも少し向いていた。


秋人はノートを閉じた。


立川は、まだ遠かった。


けれど、その夜から、避難所の入口には立川の言葉が貼られていた。



立川の声は届いた。


父の声ではなかった。


水も、薬も、父の消息も来なかった。


入口の紙が、風が入るたびに小さく鳴った。


受信機から声はもう聞こえない。


それでも水の容器は、秋人が清書した番号の順に並べられていた。


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