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少年兵と、灰と青  作者: いちご牛乳
灰の東京
7/16

灰犬

立川の巡回が来た翌日。


朝の校庭には、空の容器が並んでいた。

ポリタンク。やかん。鍋。名前を書いたペットボトル。蓋のない水筒。縁の欠けたバケツ。給食室から出した大きなアルミ容器。


荻窪から人を送る最初の給水日だった。


容器は用途ごとに置場を分けられていた。


飲料用。

洗浄用。

発熱者区画用。


理沙が一つずつ口を確かめていた。


「これは飲み水に使わないでください」


持ってきた男が顔をしかめた。


「洗ったよ」


理沙はポリタンクの蓋を外し、口元へ近づけた。


「油の匂いが残っています。洗浄用に回します」


「少しくらい平気だろ」


「飲む人を選べないので、平気とは決めません」


男はまだ何か言いたそうだったが、ポリタンクを洗浄用の列へ移した。


別の女が、古い水筒を差し出した。蓋の内側に黒い汚れが残っている。


「これは?」


「洗ってからです。内側を布で拭かないでください。繊維が残ります」


「水を入れるために、水を使うの?」


理沙は一度、水筒を見た。


「少量で口だけ洗います。飲料用にできなければ、手洗い用です」


女は頷き、水筒を持って水場へ向かった。


秋人は容器数の控えへ書いた。


飲料用、ポリタンク七。ペットボトル四十二。アルミ容器二。

洗浄用、ポリタンク三。バケツ六。

発熱者区画用、蓋付き容器四。

再洗浄、五。


左腕には、昨日の青い布があった。


母の結び目は夜のうちにほどかれ、朝、もう一度巻き直されていた。図工室のカーテンだった布は乾いていたが、朝の冷気を吸い、上着の袖へ冷たく触れた。


荻小。

仮〇〇七。

記録補助。


黒い字は、布目のところでにじんでいる。


「瀬戸くん、飲料用はいくつですか」


高橋に呼ばれ、秋人は自分の腕を見たままになっていたことに気づいた。


「五十一です。再洗浄が五つ」


「再洗浄分は出発までに間に合わなければ置いていきます」


「はい」


高橋は給水同行表を持って、校庭の中央へ移った。


昭栄公園方面。

善福寺川緑地方面。

上井草方面確認班。


指定給水点の場所が、印のある地図で届いたのは昨日だった。それ以前にも水が配られているという話はあったが、場所も配布日も確かではなかった。荻窪側は受水槽の残りを削りながら、空の容器を持った班を噂だけで外へ出すことを避けていた。


昨日、立川の連絡担当が地図へ付けた丸が、今朝は人の行先になっていた。


「昭栄公園方面、松井さん、森田さん、青木さん。飲料用ポリタンク三、ペットボトル二十本。帰着予定は正午です」


名前を呼ばれた三人が容器を持った。空のポリタンクが膝へ当たり、乾いた音を立てた。


「善福寺川緑地方面は、給水列ができていなければ戻ってください。別の場所を探さないでください」


「行くだけ無駄かもしれないのか」


男が聞いた。


「給水点として動いているか、昨日の連絡担当も確認できていません」


高橋は同行表から顔を上げた。


「水がなければ、通れた道と通れなかった道を持ち帰ってください」


「水は持ち帰れないけど、道は持ち帰れってことか」


「次に出す人を減らせます」


男は容器を持ち直した。


上井草方面は、空のペットボトルを数本だけ持った確認班だった。経路と給水所の位置を確かめ、受領列が長ければ並ばず戻ることになっていた。


「水があるなら持ってくるよ」


確認班の一人が言った。

小倉が校門の近くから答えた。


「帰りの重さを先に考えろ。確認班が戻らなければ、次を出せない」


田辺は門の脇に立ち、同行者の名前と出発時刻を入口記録へ写した。


「帰りに気をつけてください。空の容器より、水の入った容器の方が見られます」


誰かが笑おうとした。

笑えなかった。

田辺が続けた。


「必ず二人一組で帰ってきてください。途中で別れてはいけません。遠回りになっても、人が多い道を使ってください」


「人が多い方が危ないんじゃないのか」


男が言った。


田辺は答えた。


「少ない道で倒れたら、誰も見つけられません」


その言葉で、また少し静かになった。


高橋が給水同行表を読み上げた。


「止められたら、荻窪小学校の給水班だと先に言ってください。容器より先に手を見せるように」



校庭の桜は、遅れて咲いていた。


三月の終わりには、ほとんど咲かなかった。

寒さのせいなのか。

灰のせいなのか。

水が足りないせいなのか。


誰にも分からなかった。


四月に入ってから、枝の先に少しだけ花がついた。


満開ではなかった。

枝の間が空いている。

花びらは白い。

けれど、縁に灰がついている。

風が吹くと、花びらより先に灰が落ちた。


給水班は、その桜の下を通って校門を出た。


空の容器が触れ合う。


からん。

こつん。

かつん。


まだ軽い音だった。


母は真衣の肩へ手を置いて見送っていた。


真衣が聞いた。


「水、持って帰ってくる?」


「持って帰れるといいね」


「牛乳もあるかな?」


「水の話だからね」


「水かあ」


真衣は少し残念そうに言った。

母は答えなかった。


同行表には受領予定量の欄があった。どの班も空欄のままだった。


給水班が角を曲がって見えなくなり、田辺が門を閉めた。その少し後で、外からエンジン音がした。


校庭に残っていた人が顔を上げた。


道には車がいくつも残っていたが、動く車は少なかった。窓が割れ、灰をかぶり、燃料を抜かれた車は、道路の脇や交差点に置かれたままになっている。


近づいてくる音は一台ではなかった。

田辺が笛を短く二度鳴らした。

小倉が門の内側へ出る。高橋は同行表を秋人へ渡し、入口へ向かった。


先にワゴン車が見えた。

その後ろに、荷台のある小型トラックが続いている。


新しい車ではなかった。ワゴン車の側面には擦った跡があり、バンパーの片側が少し下がっている。タイヤと車体の下には泥が残り、荷台の縁もへこんでいた。


それでも、フロントガラスは拭かれていた。


ライトの周りに積もった灰も払われている。側面の汚れには、四角く拭き取られた部分があり、その中央へ札が貼られていた。


東京西部生存圏管理局補助契約部隊。

東端方面連絡警備中隊。

車両番号。


黒い字が門の内側からも読めた。


「灰犬だ」


小倉が言った。


ワゴン車は門の手前で止まった。後ろのトラックも距離を空けて止まる。


車内の人間はすぐに降りなかった。


助手席の男が窓を下げ、両手を見える位置へ置いた。


「荻窪小学校避難所。立川連絡対象で間違いないか」


「間違いありません」


高橋が答えた。


「所属と用件をお願いします」


男は窓から札を見せた。車体の表示と同じ所属があり、氏名欄には三枝吾郎と書かれていた。


「灰犬中隊。周辺連絡と未登録集団の確認。昨日の連絡記録を受け取りに来た」


運転席の男も証明を見せた。


榎本徹。


田辺が門を開ける前に、車内の人数と武器を確認した。


小銃が見えた。壁際へ固定され、銃口は下を向いている。運転席と助手席の男は拳銃を携行していたが、手を触れていなかった。


「校庭へ入るのは前の一台だけです」


田辺が言った。


「後ろは門外待機で」


三枝は頷いた。


「それでいい」


門が開いた。

ワゴン車が低い速度で校庭へ入る。小型トラックは門外へ寄り、通行を塞がない位置で止まった。

真衣が母の後ろから車を見た。


「きれい」


秋人は、何がきれいなのか分からず、車体を見直した。

傷がある。泥も灰も残っている。窓の端には布でこすった筋があり、塗装も剥げていた。

母が真衣を後ろへ下げた。


「近づかないで」


「窓、見える」


真衣は言った。


確かに、窓の内側まで拭かれていた。


運転席の手も、後部座席の隊員の顔も見えた。立川の札だけでなく、車内にいる人間が何を持っているかまで外から確かめられた。


助手席から三枝が降りた。


四十代に見えた。正規の制服ではなく、灰色がかった上着の腕に識別布を巻いている。上着も靴も使い込まれていたが、胸の名札は読めるように汚れを払ってあった。


火のついていない煙草を口にくわえている。


運転席から榎本が降りた。


地面へ左足を下ろす時だけ、動きがわずかに止まった。立ち上がると、先に門、校舎の入口、田辺の竹刀、小倉の金属棒を見た。


それから秋人の青布へ視線が来た。

後部座席の隊員が降りようとした時、榎本が車体を指した。


「札の下」


隊員は降りる前に布を出し、表示へかかった灰を払った。


高橋が聞いた。


「毎回、拭くんですか」


三枝は煙草を指で外した。


「表示が見えなければ、立川の車か、奪った車か分からない」


少し間を置いた。


「それで逃げられるだけならいいんだがな。撃ってくるやつもいる」


榎本が続けた。


「窓が曇っていれば、中の手も見えません。何を持っているか分からない相手は怖いでしょう」


手が見えない車。

秋人は校門の外を通る時、自分たちが動く車をどう見ていたか考えた。最初に見るのは傷ではない。窓の内側だった。


撃たれないため。

撃たせないため。

相手が逃げる前に、こちらの手を見せるため。


車の綺麗さは、そういうものだった。



三枝は高橋と一緒に職員室へ入った。

秋人も呼ばれた。

昨日置かれた書式が、机の上と棚の脇へ分けられている。

三枝は立ったまま、高橋が出した控えを読んだ。


避難所連絡仮登録票。

給水同行表。

自主退所記録。


三枝の指が、最後の束で止まった。


「昨日出たのは」


「二世帯と、個人が数名です」


高橋が答えた。


「全員、自主退所として記録しました。行先は未申告を含みます」


三枝は一枚ずつめくった。


「聞き取りは誰が」


「瀬戸くんです」


高橋が秋人を見た。

三枝は記録から顔を上げた。


「名前と顔の対応は覚えてるか」


秋人はすぐには答えなかった。

男たちの顔。自転車を押していた夫婦。毛布を抱えた女。門を出ていった背中。


「全員は無理です」


「近くで話した相手は」


「少しなら」


「それでいい」


三枝は一枚を机へ置いた。


「旧児童館に集まった連中の中に、荻窪から出た者がいるらしい。本人の申告と、この記録が合うか確認したい」


高橋の顔が硬くなった。


「瀬戸くんを連れていく、ということですか」


「原記録を書いた人間に説明させたい」


「写しを持っていけばいいのでは」


「この未確認が、本人が答えなかったのか、聞き取りができなかったのか、用紙が足りなかったのか。写しだけじゃ分からない」


秋人は自主退所記録を見た。


行先、未申告。

持出物、本人申告分のみ。

登録継続意思、なし。


書いた時には同じ空欄に見えた。三枝は、その空欄ができた理由を聞いていた。


理沙が職員室の入口へ来た。


「秋人くんを外へ出すんですか」


「接触記録の補助だ」


三枝が答えた。


「接触先は安全なんですか」


「確認できていない」


「武装は」


「棒が見えたという報告がある。銃は未確認」


「それを安全とは言いません」


「言ってない」


理沙は三枝を見たまま、咳を一度押さえた。


「なら、どうして子どもを連れていくんですか」


「昨日、本人の申告を受けたのがこの子だからだ」


「理由があれば危険ではなくなるんですか」


三枝は煙草を口へ戻さず、指に挟んだ。


「理由にはなる。安全にはならない」


母が廊下の向こうから歩いてきた。


真衣は一緒ではなかった。


「何の話ですか」


高橋が説明した。


母は秋人ではなく、机の自主退所記録を見た。


「昨日、外へ出す時は別に決めると言いましたよね」


「はい」


高橋は答えた。


「青布だけで出すことはしません」


三枝が言った。


「同行責任は俺が持つ。車から降ろす範囲も先に決める」


母は三枝を見た。


「何時に戻りますか」


「昼過ぎ。遅れるなら伝言を戻す」


「どこですか」


三枝は地図の旧児童館を指した。荻窪小学校から遠くはないが、秋人が避難後に歩いたことのない道だった。


「この子は何をしますか」


「前日に話した相手らしい人物を見分ける。本人の申告と記録を照合する。必要な時だけ書く」


「武器は」


「持たせない。触らせない」


「車から離れますか」


「降りても車両脇まで。単独では動かさない」


母は地図の距離を指でたどった。


「私は反対です」


誰もすぐには答えなかった。


秋人は自主退所記録を見た。


自分が行かなくても、記録は残る。


ただ、その行先未申告が、答えを拒まれた結果だったことを知っているのは、聞いた人間だった。男がどの名前を言い、どこで黙ったかも、秋人は少し覚えていた。


「行きます」


母が秋人を見た。


「秋人」


「顔だけなら、見た」


「それで行くの?」


秋人は答えに詰まった。


顔を見たことは理由だった。行かなければならない理由と同じなのかは分からなかった。


「記録を書いたから」


母の指が、地図の上で止まった。


高橋は外出同行票を一枚出した。


同行責任者。

任務理由。

目的地。

出発時刻。

帰着予定。

後送先。

保護者または避難所責任者への通知。

携行武器。

武器接触。

行動範囲。


高橋が一項目ずつ読みながら書いた。


同行責任者、三枝吾郎。

任務理由、自主退所者の本人照合補助、外部集団接触記録。

目的地、旧児童館。

帰着予定、十三時。

後送先、荻窪小学校避難所。

保護者通知、済。

携行武器、なし。

武器接触、不可。

単独行動、不可。

車内または車両脇。


最後に、高橋が承認者欄へ自分の名前を書いた。


「私が承認します」


母はその欄を見た。


母の名前を書く場所は、同意欄ではなかった。


通知確認。


母は鉛筆を持ったまま、しばらく書かなかった。


「同意したことになりますか」


高橋が答えた。


「なりません。説明を受けた確認です」


「私は反対です」


「それも備考へ書きます」


高橋は、保護者は同行に反対、と記した。


母はその下に名前を書いた。


瀬戸美紀。


筆圧が強く、最後の一画で紙が少しへこんだ。


理沙は秋人の額へ手を当てた。


「熱はない。眩暈は?」


「ないです」


「朝、水を飲んだ?」


秋人は考えた。


「少し」


母が水筒を差し出した。


「飲んで」


秋人は二口飲んだ。もっと飲めと言われる前に、もう一口飲んだ。


榎本が外出同行票を確認した。


「青布は見える位置。外ではこれが通行証になるわけじゃない」


「はい」


「降りろと言うまで降りるな」


「はい」


「書けと言うまで書くな」


「はい」


「車から離れるな。俺か三枝が戻れと言ったら、質問の途中でも戻れ」


「はい」


榎本は秋人の持つ板挟みの記録票を見た。


「走れと言ったら、それを捨てろ」


秋人の返事が止まった。


「記録票もですか」


「最初に紙を捨てろ。両手を空ける」


秋人は板挟みを持ち直した。


「でも、記録が」


「戻ってから書き直せる」


榎本は短く言った。


「お前は書き直せない」


秋人は頷いた。


「はい」


返事は、ほかの手順より遅れた。


校庭へ出ると、真衣が母の後ろにいた。


「お兄ちゃんも水?」


「違う」


「青いのの仕事?」


秋人は腕を見た。


「記録」


「どこで?」


「外」


真衣は車を見た。窓の内側にいる隊員が、固定された小銃の留め具を確かめている。


「あの車?」


「うん」


「きれいだから?」


秋人には質問の意味が分からなかった。


「違うと思う」


母は真衣の肩を抱いた。


「十三時までに戻るって」


「十三時って、お昼のあと?」


「そう」


真衣は秋人へ言った。


「遅れないで」


秋人は頷いた。

母は、目を伏せた。


「帰ってくるって言って」


「帰ってくる」


「ちゃんと」


「帰ってくる」



ワゴン車の後部座席は、外から見たより狭かった。


書類袋。工具箱。折り畳んだ担架。ロープ。布。空の水筒。小さな消火器。壁際へ固定された小銃。

油と鉄の匂いがした。窓を拭いた布の湿った匂いも残っている。


秋人は小銃を見た。


青布を見られていたことより先に、自分も武器を見ていることへ気づいた。

榎本が乗り込み、固定具を確かめた。


「そこへ座れ。記録票は膝。通路へ足を出すな」


秋人は言われた位置へ座った。


三枝が助手席へ戻る。榎本は秋人の向かいへ座った。

車が動いた。


校庭の人々が窓の外を流れる。

母と真衣。高橋。理沙。入口の田辺。門を押さえる小倉。


歩いて移動するようになってから、町を車内から見るのは初めてだった。

荻窪の道は、灰をかぶっていた。


シャッターの閉まった店。

割れたガラス。

通行止めの紙。

「水なし」と書かれた板。

空の自転車。

倒れた看板。

人のいない家。

人のいる家。

庭に置かれた汚物袋。

玄関先のポリタンク。

灰をかぶった花壇。


歩いている人がワゴン車を見る。


車体の表示を見る者。

窓の中をのぞく者。

道の端へ子どもを寄せる者。

小銃へ目を止める者。


榎本は窓を少し下げ、手を窓の下へ置いた。向かいの隊員も両手を膝に置いている。


武器は下。

手は見える位置。


田辺が給水班へ言ったことと、根は同じだった。


車は速く走らなかった。


灰で見えにくい段差を避け、人のいる場所ではさらに速度を落とす。曲がる前には一度止まり、後ろの小型トラックが付いていることを確かめた。


秋人は外を見続けていた。


向かいの隊員が靴先で通路の工具箱を押さえた。その音で、秋人は記録票を両手で強く持っていたことに気づいた。


指を少し緩めた。


旧児童館は、住宅の間にあった。


門の横に色の薄れた看板が残っている。窓には段ボールと板が打ち付けられ、入口前には机と棚が重ねられていた。


壁へ手書きの札が貼られている。


水なし。

勝手に入るな。


庭の端には空の容器が五つほどあった。荻窪小学校の校庭に並んでいた数より、ずっと少ない。


門前に大人が三人立っていた。


一人は木の棒を持っている。

一人は両手を上着のポケットへ入れている。

もう一人の女は何も持っていなかったが、入口から離れなかった。


ワゴン車は敷地へ入らず、門から十メートルほど手前で止まった。小型トラックはさらに後ろへ付ける。


「瀬戸、待機」


榎本が言った。


「はい」


三枝が先に降りた。


両手を見える位置へ置き、車の前へは出ない。榎本が後ろから降り、左脚をかばうように一度だけ体重を右へ移した。


二人の隊員が車両脇へ立つ。小銃は肩から下げたまま、銃口を地面へ向けていた。


棒を持つ男が声を上げた。


「何を取りに来た」


三枝は門へ近づかなかった。


「灰犬中隊。立川の周辺連絡だ。人数と状態を確認したい」


「人数を聞いて、次は何を持っていく」


「今日は取りに来てない」


「今日は、だろ」


男は車体の札を見た。


「名前を書いたら、働ける奴を出せって言うんだろ」


「物も数える。水も分けろって言われる」


奥から別の声がした。

老人の声だ。


「うちはうちでやってる。紙はいらない」


三枝は怒らなかった。


「いらないならいらないでいい、それを記録する」


「何でも書くんだな」


「書く」


「書いて何になる」


「少なくとも、次に来る奴が同じことを聞かずに済む」


男が黙った。三枝が続ける。


「登録すれば、作業の照会や物資の確認が来ることはある」


棒の男が笑った。


「ほらな」


「今日の用件はそれじゃない。水の場所と医療の連絡先を渡す。受け取るかどうかも確認する」


「登録しないと水はくれないのか」


「避難所単位の受領は登録が早い。個人列がある場所もあるが、量は保証できない」


「結局、名前だ」


男の声が強くなった。


榎本は返答せず、ポケットに手を入れた男の位置を見ていた。

建物の中で咳が聞こえた。


一度。


少し間を置いて、二度続いた。


入口の女が後ろを振り返る。

三枝が聞いた。


「病人はいるか」


「いない」


棒の男がすぐに答えた。

女が男を見たが、何も言わなかった。


「発熱者も」


「いない」


三枝はそれ以上、入口へ進まなかった。


「荻窪小学校から昨日出た者が、ここへ来ていると聞いた」


建物の奥で人が動いた。

秋人は窓越しに顔を探した。

入口の暗いところから、男が一人出てきた。昨日、燃料缶を持って校門を出た男だった。


服は同じだった。髪へ灰が付き、昨日より頬が汚れている。

男もワゴン車を見た。


次に、窓の中の秋人を見た。

表情が変わった。


「あいつだ」


男が言った。


「荻窪で名前を書いてた」


三枝が車へ振り返った。


「瀬戸。車両脇まで」


秋人は板挟みを持った。

榎本が扉を開ける。


「俺の左。車体から一歩まで」


「はい」


秋人は地面へ降りた。

視線が集まった。


棒を持つ男。入口の女。建物の窓から見ている子ども。自主退所した男。灰犬隊員。

左腕の青布にも視線が来た。


「それ、立川のか」


棒の男が聞いた。

秋人は榎本を見なかった。


「荻窪小学校の記録補助です」


「だから、立川の側だろ」


秋人は返せなかった。


荻窪小学校の仮識別です。

外では通行証になりません。

命令権はありません。


言える説明はあった。

だが、男が聞いているのは布の効力ではなかった。

昨日の男が、秋人の腕を見た。


「一晩で、そっちの人間になったのか」


秋人は板挟みの端へ指をかけた。


「名前を書いたのは、昨日も同じです」


言ってから、答えになっていないと気づいた。

三枝が自主退所した男へ聞いた。


「名前を言えるか」


男は少し黙り、昨日と同じ姓と名を言った。

秋人は自主退所記録を開いた。

同じ名前があった。


「昨日、荻窪小学校を出た本人か」


三枝が男へ聞いた。


「そうだ」


「同行者は二人」


「一緒に出た。ここにいる」


秋人は建物の方を見たが、二人が誰かまでは分からなかった。

三枝が秋人へ聞いた。


「昨日、話した相手に見えるか」


「はい。ただ、顔だけで本人と確定はできません」


三枝は頷いた。


「本人申告あり。前日聞き取り者が同一人物らしいと確認。確定はしない。書け」


「はい」


秋人は、そこで初めて鉛筆を持った。


外部集団接触票。


氏名、本人申告。

前日自主退所記録と同名。

聞き取り者目視、同一人物と思われる。

身分証明、なし。


秋人が書き始めると、入口の空気が変わった。

話していた人たちの目が、三枝から秋人の手元へ移る。


「何を書いてる」


棒の男が言った。

秋人は鉛筆を止めた。

三枝が答えた。


「本人が言った名前と、確認できた範囲だ」


「勝手に名簿へ入れるな」


「集団登録には入れてない。接触記録だ」


「何が違う」


三枝はすぐには答えなかった。


「次に来る者が、最初から同じ名前を聞かずに済む」


「次も来るのか」


「必要なら来る」


男の手に力が入り、棒の先が少し上がった。

灰犬隊員の一人が足を開いた。小銃は上げない。

榎本が言った。


「棒を下げてください」


声は大きくなかった。

棒の男は榎本を見た。

榎本の手は拳銃ではなく、開いたまま腰の前にあった。


「銃を持って来たのはそっちだ」


「下げています」


「撃たない保証は」


「棒が上がっている間は近づきません。こちらも上げません」


男は少しずつ棒を下げた。

榎本は秋人の肩へ触れず、手で車体側を示した。秋人は半歩戻った。

その動作を終えてから、自分が鉛筆を握ったままだったことに気づいた。


指が痛かった。

三枝が聞いた。


「ここに何人いる」


「二十人くらいだ」


棒の男が答えた。

入口の女が言った。


「二十七」


男が振り返る。


「黙ってろ」


「水をもらうなら人数が要るんでしょ」


建物の中から老人の声がした。


「昨日、一人死んだから二十六だ」


別の声が重なった。


「朝、二人出てった」


「戻るって言ってた」


「戻ってないだろ」


秋人は鉛筆を動かさなかった。

三枝が人数を一つずつ聞き直した。


「いま建物内にいる数を数えた者は」


誰も手を上げなかった。


「二十七は、いつの数だ」


入口の女が答えた。


「昨日の夜。食べ物を分けた時」


「死亡したという一人は、その二十七に入っているか」


女は老人の方を見た。


「入ってた」


「朝に出た二人は」


「入ってる」


棒の男が言った。


「だから、いまは二十四だ」


「戻るかもしれない」


女が言った。


「児童館の中にいる人数と、この集団にいる人数は分ける」


三枝は秋人へ向いた。


「昨夜の配給時申告、二十七。在所現在、未確認。外出二名申告あり。書け」


秋人は書いた。


昨夜配給時、二十七との申告。

現在在所、未確認。

外出二名との申告。帰着予定不明。


数字は一つにならなかった。


「代表者は」


三枝が聞いた。


棒の男は答えた。


「いない」


入口の女が言った。


「食べ物を分けてるのはその人」


「分けてるだけだ」


男が女を睨んだ。


三枝が言った。


「配給をしてるなら、連絡窓口に――」


「勝手に決めるな」


男が一歩出た。

榎本が左手を上げた。


「停止しろ」


男は止まった。

三枝も続きを言わなかった。


短い沈黙の後、三枝は言い直した。


「代表者は全員が否認。配給実務者はいる。連絡窓口は未定。そう残す」


男は返事をしなかった。

秋人は欄を分けた。


代表者、未定。全員否認。

配給実務者、一名。

連絡窓口、本人拒否。


死亡者について聞くと、さらに話が割れた。


棒の男は二人と言った。

入口の女は三人と言った。


「おばあちゃんも死んだ」


「朝まで息をしてた」


「昼には動かなかった」


「誰が確認した」


女は口を閉じた。

三枝が聞いた。


「状態を見せられるか」


「中へは入れるな」


棒の男が答えた。


「医療の確認だけでも」


「連れていくんだろ」


「重い者なら、後送先を探す」


「家族と離す」


入口の女が言った。


「熱があれば、そうするんだろ」


「ほかの者と分けることはある」


三枝は否定しなかった。


「だから見せない」


棒の男が言った。


「なら、死亡確認はできない」


三枝は秋人へ向いた。


「死亡申告二名。追加死亡疑い一名。追加一名は状態確認拒否、死亡確認未了」


秋人はその通りに書いた。

三という数字は、死亡者欄には入らなかった。

建物の中で、また咳がした。


今度は長かった。


三枝が入口の女へ聞いた。


「咳をしてる者に熱は」


「ない」


棒の男が先に答えた。

女は言った。


「測ってない」


「体温計は」


「壊れた」


秋人は記録票の発熱欄を見た。

発熱者なし。

そこへ丸を付けることはできなかった。


「どう書きますか」


秋人が聞いた。


三枝は建物の入口を見た。


「発熱者なしとの申告。体温未測定。建物内から咳を聴取。本人状態の確認拒否」


秋人は書いた。


感染症とは書かなかった。

被曝とも、粉塵とも書かなかった。


理沙がいない場所で、秋人に分かったのは咳の音だけだった。


奥から若い女が出てきた。腕に幼い子どもを抱いている。


「水の場所だけ教えて」


棒の男が振り返った。


「名前を書かれる」


「この子が飲む分がない」


「列へ行けばいい」


「どこへ」


男は答えられなかった。

三枝は上着の内側から折り畳んだ地図を出した。


「近いのは昭栄公園方面。ただし、今日動いているかは確認中だ。善福寺川緑地にも仮設列がある。個人列と避難所列は分かれる」


「登録しないと追い返される?」


若い女が聞いた。


「個人列へ回される可能性がある。容器と人数を聞かれる」


「名前も?」


「場所による」


三枝は約束しなかった。

女は子どもを抱き直した。


「医者は」


「荻窪小学校には資格者はいない。医療補助はいる。重症なら、立川側へ後送照会を出す」


「連れていかれたら、戻る?」


三枝は少し黙った。


「戻せる状態なら戻す。戻る日までは約束できない」


女は地図を見た。

棒の男が言った。


「紙を受け取ったら登録したことにされる」


「受領と登録は分ける」


「そっちの都合だ」


「そう見えるなら、地図へ受領のみと書く」


三枝は地図の余白へ日付と時刻を書き、給水地点案内受領、集団登録には同意せず、と記した。


「誰の名前で」


男が聞いた。


「受け取る者が名前を出さないなら、接触先受領者・氏名申告拒否」


「何でも書くんだな」


「書かないと、登録済みと間違える」


男は地図を取らなかった。

若い女が一歩出た。


「私が見る」


三枝は近づかず、地図を地面へ置いた。二歩下がる。

女が拾った。

受領者名は言わなかった。


秋人は記録した。


給水地点案内、受領。

医療連絡先、受領。

受領者、氏名申告拒否。

集団登録、保留。


別の男が建物の奥から言った。


「十五歳以上を出せって話はどうなんだ」


三枝が聞き返した。


「どこで聞いた」


「別の学校から来た奴だ。登録したら作業へ回されたって」


「作業の照会はある」


三枝は言った。


「今日、作業者を取りに来たわけじゃない。一律に十五歳以上を連れていく命令も、俺は持ってない」


「明日は」


「明日の命令は持ってない」


男は鼻で笑った。


「じゃあ同じだ」


男は続けて言った。


「名簿に名前を書いたら、次は働けって言われる」


三枝は答えた。


「働ける奴には、言う」


男は笑った。


「ほらな」


三枝は続けた。


「働けない奴にも、食わせろと言われる」


空気が悪くなった。

男の顔から笑いが少し消えた。


自主退所した男が、建物の外壁へ寄りかかった。


「ここにも立川が来るなら、俺はまた出る」


入口の女が聞いた。


「どこへ行くの」


「ここじゃない場所」


「水は」


男は答えなかった。

秋人は自主退所記録の新しい欄を見た。

再退去希望。


鉛筆を置く。


「書かないのか」


男が言った。


「人数も行先も決まっていません」


秋人は答えた。


「決まったら書くのか」


「聞ければ」


男は秋人の青布を見た。


「やっぱり、そっちだ」


秋人は返事をしなかった。


三枝が接触を終えると告げた。


集団登録は保留。

代表者は未定。

連絡窓口も決まらない。

給水地点と医療連絡先は受領。

死亡疑い一名は確認できない。

次回接触の約束はなし。


灰犬が持ってきた登録票は、置いていかなかった。代わりに、記入例のない空欄の用紙を一部だけ、地図のそばへ置いた。


「必要になったら使え」


三枝が言った。


「使わなければ、そのままでいい」


棒の男は答えなかった。


秋人は榎本の指示で先に車へ戻った。


座席へ座ってから、板挟みを膝へ置く。


捨てなかった。


走れとも、戻れとも言われなかったからだった。


それでも、指には板の角の跡が残っていた。秋人は榎本の「紙を捨てろ」を、外へ出てから一度も忘れていなかったことに気づいた。


門の近くにいた子どもが、ワゴン車へ寄ろうとした。


入口の女が止める。


子どもは離れた場所から言った。


「新しい車?」


車両脇の隊員が答えた。


「古いよ」


「でも、きれい」


真衣と同じ言葉だった。


隊員は返事をせず、車体に付いた手形を布で拭いた。灰と汗が混じった跡だった。


次に、窓の端を拭く。


立川の表示へ付いた泥も払う。


秋人は車内からその手を見た。


車体全部を洗う水はない。


傷も、へこみも消えない。


拭くのは、窓と表示だった。次にこの車を見る者が、車内の手と札を確かめられる場所だった。


榎本が乗り込んだ。


「荻窪へ戻したあと、もう一件回る」


隊員は布をたたみ、扉を閉めた。


帰りの車内で、秋人は記録票を読み返した。


昨夜配給時、二十七との申告。

現在在所、未確認。

外出二名との申告。

代表者、未定。

連絡窓口、未定。

死亡申告二名。

追加死亡疑い一名、状態確認拒否。

発熱者なしとの申告。

体温未測定。

咳を聴取。

集団登録、保留。

給水地点案内、受領。

医療連絡先、受領。


確定した欄より、条件の付いた欄の方が多かった。


その中に、昨日書いた男の名前がある。


前の記録では、自主退所。


新しい記録では、接触確認。


同じ名前だった。


所属する場所の欄は、どちらも決まっていなかった。


荻窪小学校へ戻った時、給水班はまだ帰っていなかった。


校庭には、朝の容器が置かれていた場所だけが空いている。


母親たちは門の方を見ていた。田辺は竹刀を膝へ当て、道の先を確かめている。小倉も門から離れなかった。


ワゴン車が入ると、母がすぐに近づいた。


秋人が降りる。


「ただいま」


母は返事をしなかった。


最初に顔を見る。


次に左腕の青布。


それから、秋人の両手を取った。


「開いて」


秋人は手を開いた。


鉛筆の黒。車内の油。板挟みを握って付いた赤い跡。


血はなかった。


母は指の間まで見た。


「どこか痛い?」


「指だけ」


「転んでない?」


「転んでない」


「車からどこまで離れた?」


「車のすぐ横まで」


「武器は」


「触ってない」


母はそこで息を吐いた。


「先に手を洗って」


「報告が」


「手が先」


理沙も近づいてきた。


「飲用じゃない水で汚れを落として。傷があったら見せてください」


秋人は高橋へ記録票を渡そうとした。


母が止める。


「机へ置いて」


秋人は職員室の入口にある受渡し箱へ入れた。手を洗って戻るまで、高橋は触らなかった。


灰犬のワゴン車は校庭で向きを変えた。


真衣が窓を見た。


「またきれいにした?」


榎本が開いた窓から答えた。


「次に見せるためだ」


真衣は首を傾げた。


車は小型トラックと合流し、別の道へ向かった。


手を洗ったあと、秋人は高橋と理沙へ報告した。


「登録は保留です。給水場所と医療の連絡先は受け取りました」


高橋が記録票を読む。


「代表者、未定。連絡窓口、未定」


「はい」


「死亡申告二。追加死亡疑い一」


「中へは入れませんでした」


理沙が発熱欄を見た。


「発熱者なしとの申告。体温は測っていない」


「咳は聞こえました」


「何人?」


「見えませんでした。一人かどうかも分かりません」


理沙は、発熱者欄へ数字を書かなかった。


「原因未確認の咳。状態確認できず、で申し送ります」


秋人は頷いた。


高橋が外出同行票へ帰着時刻を書いた。


十二時四十七分。


予定より十三分早かった。


母は帰着欄を自分で読んだ。


その時、門の外から空容器の音が聞こえた。


上井草方面の確認班だった。


持って出た容器は、どれも空のままだった。


「道が塞がってる」


戻った男が言った。


「給水所の手前で車が横になってる。人は通れるが、列は別の道へ回されてる。今日は確認だけで戻った」


高橋が経路図を広げる。


秋人は通行できた道と、塞がっていた交差点を書いた。


水はなかった。


だが、次の班が通らない道は増えた。


昼を過ぎても、昭栄公園方面と善福寺川緑地方面は戻らなかった。


校庭の人が門を見る回数が増えた。


真衣は何度も母の袖を引いた。


「まだ?」


「まだ」


「十三時、過ぎた?」


「お兄ちゃんは戻ったでしょう」


「水の人」


母は時計を見た。


秋人も見た。


給水同行表の帰着予定には、正午、十三時、十三時半と書かれていた。


正午の線を越えている。


秋人は時刻の横へ、未帰着、と書いた。


高橋に呼ばれるまで、同じ欄を見ていたことに気づかなかった。


「門の記録へ移してください。帰ったら実時刻を上から書きます」


「はい」


午後二時前、善福寺川緑地方面の班が戻った。


容器は半分ほど空だった。


給水列はあったが、途中で配布量が減り、予定していた分を受け取れなかったという。


ポリタンクを二人で持っている。


中で水が揺れた。


朝の容器が立てた音とは違った。


低く、重い音だった。


小倉が門を閉める前に人数を数えた。


田辺が帰着時刻を書く。


理沙は容器の表示を確認した。


「飲料用はここ。発熱者区画用は別です。蓋を開けないで」


人が集まりかける。


高橋が配給表を持って前へ出た。


「まだ分けません。受領量を量ってからです」


「子どもの分だけ先に」


「順番を変えません」


「発熱者の分は」


「最初に分けます。ただし、一般分と混ぜません」


容器が校庭へ運ばれた。


水は予定より少なかった。


ゼロではなかった。


昭栄公園方面の班は、さらに遅れて戻った。


給水点は動いていたが、避難所名の照合に時間がかかった。昨日の仮登録が一覧へ届いておらず、高橋の控えと車両で来た別の連絡員の記録を照らし合わせて、ようやく一部を受け取れたという。


こちらの容器にも水が入っていた。


一つは蓋の締め方が悪く、外側が濡れていた。


理沙が布で拭かず、洗浄用の受け皿へ移すよう指示した。


夕方までに、全員が戻った。


けが人はいなかった。


受領した水は、予定量より少ない。

使えなかった容器が二つ。

途中で漏れた量は不明。

次回は避難所仮登録票の控えを携行。

上井草方面は経路変更が必要。


秋人は給水記録へ書いた。


その横で、真衣が水の入ったポリタンクを見ていた。


「飲める?」


母が答えた。


「順番が来たら」


「今日?」


「今日の分は」


真衣はポリタンクの中の音を聞いた。


「重そう」


「重いよ」


運んできた男が答えた。


男の手は赤くなっていた。空で持って出た時にはなかった跡だった。


夜、秋人は外部集団接触票を清書した。


机の端には給水記録が重ねられている。


外部集団。

旧児童館。

集団登録、保留。


昨夜配給時人数、二十七との申告。

現在在所、未確認。

外出二名との申告。


代表者、未定。

連絡窓口、未定。

配給実務者、一名。本人は代表者および窓口を否認。


死亡申告、二名。

追加死亡疑い、一名。

追加一名、状態確認拒否。死亡確認未了。


発熱者なしとの申告。

体温未測定。

建物内から咳を聴取。

本人状態、確認できず。


給水地点案内、受領。

医療連絡先、受領。

受領者氏名、申告拒否。


一番下に、自主退所した男の名前があった。


昨日の記録では、


本人意思による退所。

行先、未申告。


今日の記録では、


旧児童館で接触。

本人申告と前日記録が一致。

身分証明なし。

再退去の意思を口頭で示す。

人数、時刻、行先は未定。


秋人は、未定の文字を書いたところで鉛筆を止めた。


男の「あっち側」という声を思い出した。


秋人は荻窪小学校の記録補助だった。


それは事実だった。


事実を答えても、男の問いには足りなかった。


左腕の青布を見る。


車内の油と、外で付いた灰で少し汚れていた。古いカーテンの薄い青に、黒い染みが増えている。


それでも、


荻小。

仮〇〇七。

記録補助。


文字はまだ読めた。


体育館の端では、持ち帰った水が、容器を動かすたびに低く揺れた。


朝とは違う音だった。


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