灰犬
立川の巡回が来た翌日。
朝の校庭には、空の容器が並んでいた。
ポリタンク。やかん。鍋。名前を書いたペットボトル。蓋のない水筒。縁の欠けたバケツ。給食室から出した大きなアルミ容器。
荻窪から人を送る最初の給水日だった。
容器は用途ごとに置場を分けられていた。
飲料用。
洗浄用。
発熱者区画用。
理沙が一つずつ口を確かめていた。
「これは飲み水に使わないでください」
持ってきた男が顔をしかめた。
「洗ったよ」
理沙はポリタンクの蓋を外し、口元へ近づけた。
「油の匂いが残っています。洗浄用に回します」
「少しくらい平気だろ」
「飲む人を選べないので、平気とは決めません」
男はまだ何か言いたそうだったが、ポリタンクを洗浄用の列へ移した。
別の女が、古い水筒を差し出した。蓋の内側に黒い汚れが残っている。
「これは?」
「洗ってからです。内側を布で拭かないでください。繊維が残ります」
「水を入れるために、水を使うの?」
理沙は一度、水筒を見た。
「少量で口だけ洗います。飲料用にできなければ、手洗い用です」
女は頷き、水筒を持って水場へ向かった。
秋人は容器数の控えへ書いた。
飲料用、ポリタンク七。ペットボトル四十二。アルミ容器二。
洗浄用、ポリタンク三。バケツ六。
発熱者区画用、蓋付き容器四。
再洗浄、五。
左腕には、昨日の青い布があった。
母の結び目は夜のうちにほどかれ、朝、もう一度巻き直されていた。図工室のカーテンだった布は乾いていたが、朝の冷気を吸い、上着の袖へ冷たく触れた。
荻小。
仮〇〇七。
記録補助。
黒い字は、布目のところでにじんでいる。
「瀬戸くん、飲料用はいくつですか」
高橋に呼ばれ、秋人は自分の腕を見たままになっていたことに気づいた。
「五十一です。再洗浄が五つ」
「再洗浄分は出発までに間に合わなければ置いていきます」
「はい」
高橋は給水同行表を持って、校庭の中央へ移った。
昭栄公園方面。
善福寺川緑地方面。
上井草方面確認班。
指定給水点の場所が、印のある地図で届いたのは昨日だった。それ以前にも水が配られているという話はあったが、場所も配布日も確かではなかった。荻窪側は受水槽の残りを削りながら、空の容器を持った班を噂だけで外へ出すことを避けていた。
昨日、立川の連絡担当が地図へ付けた丸が、今朝は人の行先になっていた。
「昭栄公園方面、松井さん、森田さん、青木さん。飲料用ポリタンク三、ペットボトル二十本。帰着予定は正午です」
名前を呼ばれた三人が容器を持った。空のポリタンクが膝へ当たり、乾いた音を立てた。
「善福寺川緑地方面は、給水列ができていなければ戻ってください。別の場所を探さないでください」
「行くだけ無駄かもしれないのか」
男が聞いた。
「給水点として動いているか、昨日の連絡担当も確認できていません」
高橋は同行表から顔を上げた。
「水がなければ、通れた道と通れなかった道を持ち帰ってください」
「水は持ち帰れないけど、道は持ち帰れってことか」
「次に出す人を減らせます」
男は容器を持ち直した。
上井草方面は、空のペットボトルを数本だけ持った確認班だった。経路と給水所の位置を確かめ、受領列が長ければ並ばず戻ることになっていた。
「水があるなら持ってくるよ」
確認班の一人が言った。
小倉が校門の近くから答えた。
「帰りの重さを先に考えろ。確認班が戻らなければ、次を出せない」
田辺は門の脇に立ち、同行者の名前と出発時刻を入口記録へ写した。
「帰りに気をつけてください。空の容器より、水の入った容器の方が見られます」
誰かが笑おうとした。
笑えなかった。
田辺が続けた。
「必ず二人一組で帰ってきてください。途中で別れてはいけません。遠回りになっても、人が多い道を使ってください」
「人が多い方が危ないんじゃないのか」
男が言った。
田辺は答えた。
「少ない道で倒れたら、誰も見つけられません」
その言葉で、また少し静かになった。
高橋が給水同行表を読み上げた。
「止められたら、荻窪小学校の給水班だと先に言ってください。容器より先に手を見せるように」
校庭の桜は、遅れて咲いていた。
三月の終わりには、ほとんど咲かなかった。
寒さのせいなのか。
灰のせいなのか。
水が足りないせいなのか。
誰にも分からなかった。
四月に入ってから、枝の先に少しだけ花がついた。
満開ではなかった。
枝の間が空いている。
花びらは白い。
けれど、縁に灰がついている。
風が吹くと、花びらより先に灰が落ちた。
給水班は、その桜の下を通って校門を出た。
空の容器が触れ合う。
からん。
こつん。
かつん。
まだ軽い音だった。
母は真衣の肩へ手を置いて見送っていた。
真衣が聞いた。
「水、持って帰ってくる?」
「持って帰れるといいね」
「牛乳もあるかな?」
「水の話だからね」
「水かあ」
真衣は少し残念そうに言った。
母は答えなかった。
同行表には受領予定量の欄があった。どの班も空欄のままだった。
給水班が角を曲がって見えなくなり、田辺が門を閉めた。その少し後で、外からエンジン音がした。
校庭に残っていた人が顔を上げた。
道には車がいくつも残っていたが、動く車は少なかった。窓が割れ、灰をかぶり、燃料を抜かれた車は、道路の脇や交差点に置かれたままになっている。
近づいてくる音は一台ではなかった。
田辺が笛を短く二度鳴らした。
小倉が門の内側へ出る。高橋は同行表を秋人へ渡し、入口へ向かった。
先にワゴン車が見えた。
その後ろに、荷台のある小型トラックが続いている。
新しい車ではなかった。ワゴン車の側面には擦った跡があり、バンパーの片側が少し下がっている。タイヤと車体の下には泥が残り、荷台の縁もへこんでいた。
それでも、フロントガラスは拭かれていた。
ライトの周りに積もった灰も払われている。側面の汚れには、四角く拭き取られた部分があり、その中央へ札が貼られていた。
東京西部生存圏管理局補助契約部隊。
東端方面連絡警備中隊。
車両番号。
黒い字が門の内側からも読めた。
「灰犬だ」
小倉が言った。
ワゴン車は門の手前で止まった。後ろのトラックも距離を空けて止まる。
車内の人間はすぐに降りなかった。
助手席の男が窓を下げ、両手を見える位置へ置いた。
「荻窪小学校避難所。立川連絡対象で間違いないか」
「間違いありません」
高橋が答えた。
「所属と用件をお願いします」
男は窓から札を見せた。車体の表示と同じ所属があり、氏名欄には三枝吾郎と書かれていた。
「灰犬中隊。周辺連絡と未登録集団の確認。昨日の連絡記録を受け取りに来た」
運転席の男も証明を見せた。
榎本徹。
田辺が門を開ける前に、車内の人数と武器を確認した。
小銃が見えた。壁際へ固定され、銃口は下を向いている。運転席と助手席の男は拳銃を携行していたが、手を触れていなかった。
「校庭へ入るのは前の一台だけです」
田辺が言った。
「後ろは門外待機で」
三枝は頷いた。
「それでいい」
門が開いた。
ワゴン車が低い速度で校庭へ入る。小型トラックは門外へ寄り、通行を塞がない位置で止まった。
真衣が母の後ろから車を見た。
「きれい」
秋人は、何がきれいなのか分からず、車体を見直した。
傷がある。泥も灰も残っている。窓の端には布でこすった筋があり、塗装も剥げていた。
母が真衣を後ろへ下げた。
「近づかないで」
「窓、見える」
真衣は言った。
確かに、窓の内側まで拭かれていた。
運転席の手も、後部座席の隊員の顔も見えた。立川の札だけでなく、車内にいる人間が何を持っているかまで外から確かめられた。
助手席から三枝が降りた。
四十代に見えた。正規の制服ではなく、灰色がかった上着の腕に識別布を巻いている。上着も靴も使い込まれていたが、胸の名札は読めるように汚れを払ってあった。
火のついていない煙草を口にくわえている。
運転席から榎本が降りた。
地面へ左足を下ろす時だけ、動きがわずかに止まった。立ち上がると、先に門、校舎の入口、田辺の竹刀、小倉の金属棒を見た。
それから秋人の青布へ視線が来た。
後部座席の隊員が降りようとした時、榎本が車体を指した。
「札の下」
隊員は降りる前に布を出し、表示へかかった灰を払った。
高橋が聞いた。
「毎回、拭くんですか」
三枝は煙草を指で外した。
「表示が見えなければ、立川の車か、奪った車か分からない」
少し間を置いた。
「それで逃げられるだけならいいんだがな。撃ってくるやつもいる」
榎本が続けた。
「窓が曇っていれば、中の手も見えません。何を持っているか分からない相手は怖いでしょう」
手が見えない車。
秋人は校門の外を通る時、自分たちが動く車をどう見ていたか考えた。最初に見るのは傷ではない。窓の内側だった。
撃たれないため。
撃たせないため。
相手が逃げる前に、こちらの手を見せるため。
車の綺麗さは、そういうものだった。
三枝は高橋と一緒に職員室へ入った。
秋人も呼ばれた。
昨日置かれた書式が、机の上と棚の脇へ分けられている。
三枝は立ったまま、高橋が出した控えを読んだ。
避難所連絡仮登録票。
給水同行表。
自主退所記録。
三枝の指が、最後の束で止まった。
「昨日出たのは」
「二世帯と、個人が数名です」
高橋が答えた。
「全員、自主退所として記録しました。行先は未申告を含みます」
三枝は一枚ずつめくった。
「聞き取りは誰が」
「瀬戸くんです」
高橋が秋人を見た。
三枝は記録から顔を上げた。
「名前と顔の対応は覚えてるか」
秋人はすぐには答えなかった。
男たちの顔。自転車を押していた夫婦。毛布を抱えた女。門を出ていった背中。
「全員は無理です」
「近くで話した相手は」
「少しなら」
「それでいい」
三枝は一枚を机へ置いた。
「旧児童館に集まった連中の中に、荻窪から出た者がいるらしい。本人の申告と、この記録が合うか確認したい」
高橋の顔が硬くなった。
「瀬戸くんを連れていく、ということですか」
「原記録を書いた人間に説明させたい」
「写しを持っていけばいいのでは」
「この未確認が、本人が答えなかったのか、聞き取りができなかったのか、用紙が足りなかったのか。写しだけじゃ分からない」
秋人は自主退所記録を見た。
行先、未申告。
持出物、本人申告分のみ。
登録継続意思、なし。
書いた時には同じ空欄に見えた。三枝は、その空欄ができた理由を聞いていた。
理沙が職員室の入口へ来た。
「秋人くんを外へ出すんですか」
「接触記録の補助だ」
三枝が答えた。
「接触先は安全なんですか」
「確認できていない」
「武装は」
「棒が見えたという報告がある。銃は未確認」
「それを安全とは言いません」
「言ってない」
理沙は三枝を見たまま、咳を一度押さえた。
「なら、どうして子どもを連れていくんですか」
「昨日、本人の申告を受けたのがこの子だからだ」
「理由があれば危険ではなくなるんですか」
三枝は煙草を口へ戻さず、指に挟んだ。
「理由にはなる。安全にはならない」
母が廊下の向こうから歩いてきた。
真衣は一緒ではなかった。
「何の話ですか」
高橋が説明した。
母は秋人ではなく、机の自主退所記録を見た。
「昨日、外へ出す時は別に決めると言いましたよね」
「はい」
高橋は答えた。
「青布だけで出すことはしません」
三枝が言った。
「同行責任は俺が持つ。車から降ろす範囲も先に決める」
母は三枝を見た。
「何時に戻りますか」
「昼過ぎ。遅れるなら伝言を戻す」
「どこですか」
三枝は地図の旧児童館を指した。荻窪小学校から遠くはないが、秋人が避難後に歩いたことのない道だった。
「この子は何をしますか」
「前日に話した相手らしい人物を見分ける。本人の申告と記録を照合する。必要な時だけ書く」
「武器は」
「持たせない。触らせない」
「車から離れますか」
「降りても車両脇まで。単独では動かさない」
母は地図の距離を指でたどった。
「私は反対です」
誰もすぐには答えなかった。
秋人は自主退所記録を見た。
自分が行かなくても、記録は残る。
ただ、その行先未申告が、答えを拒まれた結果だったことを知っているのは、聞いた人間だった。男がどの名前を言い、どこで黙ったかも、秋人は少し覚えていた。
「行きます」
母が秋人を見た。
「秋人」
「顔だけなら、見た」
「それで行くの?」
秋人は答えに詰まった。
顔を見たことは理由だった。行かなければならない理由と同じなのかは分からなかった。
「記録を書いたから」
母の指が、地図の上で止まった。
高橋は外出同行票を一枚出した。
同行責任者。
任務理由。
目的地。
出発時刻。
帰着予定。
後送先。
保護者または避難所責任者への通知。
携行武器。
武器接触。
行動範囲。
高橋が一項目ずつ読みながら書いた。
同行責任者、三枝吾郎。
任務理由、自主退所者の本人照合補助、外部集団接触記録。
目的地、旧児童館。
帰着予定、十三時。
後送先、荻窪小学校避難所。
保護者通知、済。
携行武器、なし。
武器接触、不可。
単独行動、不可。
車内または車両脇。
最後に、高橋が承認者欄へ自分の名前を書いた。
「私が承認します」
母はその欄を見た。
母の名前を書く場所は、同意欄ではなかった。
通知確認。
母は鉛筆を持ったまま、しばらく書かなかった。
「同意したことになりますか」
高橋が答えた。
「なりません。説明を受けた確認です」
「私は反対です」
「それも備考へ書きます」
高橋は、保護者は同行に反対、と記した。
母はその下に名前を書いた。
瀬戸美紀。
筆圧が強く、最後の一画で紙が少しへこんだ。
理沙は秋人の額へ手を当てた。
「熱はない。眩暈は?」
「ないです」
「朝、水を飲んだ?」
秋人は考えた。
「少し」
母が水筒を差し出した。
「飲んで」
秋人は二口飲んだ。もっと飲めと言われる前に、もう一口飲んだ。
榎本が外出同行票を確認した。
「青布は見える位置。外ではこれが通行証になるわけじゃない」
「はい」
「降りろと言うまで降りるな」
「はい」
「書けと言うまで書くな」
「はい」
「車から離れるな。俺か三枝が戻れと言ったら、質問の途中でも戻れ」
「はい」
榎本は秋人の持つ板挟みの記録票を見た。
「走れと言ったら、それを捨てろ」
秋人の返事が止まった。
「記録票もですか」
「最初に紙を捨てろ。両手を空ける」
秋人は板挟みを持ち直した。
「でも、記録が」
「戻ってから書き直せる」
榎本は短く言った。
「お前は書き直せない」
秋人は頷いた。
「はい」
返事は、ほかの手順より遅れた。
校庭へ出ると、真衣が母の後ろにいた。
「お兄ちゃんも水?」
「違う」
「青いのの仕事?」
秋人は腕を見た。
「記録」
「どこで?」
「外」
真衣は車を見た。窓の内側にいる隊員が、固定された小銃の留め具を確かめている。
「あの車?」
「うん」
「きれいだから?」
秋人には質問の意味が分からなかった。
「違うと思う」
母は真衣の肩を抱いた。
「十三時までに戻るって」
「十三時って、お昼のあと?」
「そう」
真衣は秋人へ言った。
「遅れないで」
秋人は頷いた。
母は、目を伏せた。
「帰ってくるって言って」
「帰ってくる」
「ちゃんと」
「帰ってくる」
ワゴン車の後部座席は、外から見たより狭かった。
書類袋。工具箱。折り畳んだ担架。ロープ。布。空の水筒。小さな消火器。壁際へ固定された小銃。
油と鉄の匂いがした。窓を拭いた布の湿った匂いも残っている。
秋人は小銃を見た。
青布を見られていたことより先に、自分も武器を見ていることへ気づいた。
榎本が乗り込み、固定具を確かめた。
「そこへ座れ。記録票は膝。通路へ足を出すな」
秋人は言われた位置へ座った。
三枝が助手席へ戻る。榎本は秋人の向かいへ座った。
車が動いた。
校庭の人々が窓の外を流れる。
母と真衣。高橋。理沙。入口の田辺。門を押さえる小倉。
歩いて移動するようになってから、町を車内から見るのは初めてだった。
荻窪の道は、灰をかぶっていた。
シャッターの閉まった店。
割れたガラス。
通行止めの紙。
「水なし」と書かれた板。
空の自転車。
倒れた看板。
人のいない家。
人のいる家。
庭に置かれた汚物袋。
玄関先のポリタンク。
灰をかぶった花壇。
歩いている人がワゴン車を見る。
車体の表示を見る者。
窓の中をのぞく者。
道の端へ子どもを寄せる者。
小銃へ目を止める者。
榎本は窓を少し下げ、手を窓の下へ置いた。向かいの隊員も両手を膝に置いている。
武器は下。
手は見える位置。
田辺が給水班へ言ったことと、根は同じだった。
車は速く走らなかった。
灰で見えにくい段差を避け、人のいる場所ではさらに速度を落とす。曲がる前には一度止まり、後ろの小型トラックが付いていることを確かめた。
秋人は外を見続けていた。
向かいの隊員が靴先で通路の工具箱を押さえた。その音で、秋人は記録票を両手で強く持っていたことに気づいた。
指を少し緩めた。
旧児童館は、住宅の間にあった。
門の横に色の薄れた看板が残っている。窓には段ボールと板が打ち付けられ、入口前には机と棚が重ねられていた。
壁へ手書きの札が貼られている。
水なし。
勝手に入るな。
庭の端には空の容器が五つほどあった。荻窪小学校の校庭に並んでいた数より、ずっと少ない。
門前に大人が三人立っていた。
一人は木の棒を持っている。
一人は両手を上着のポケットへ入れている。
もう一人の女は何も持っていなかったが、入口から離れなかった。
ワゴン車は敷地へ入らず、門から十メートルほど手前で止まった。小型トラックはさらに後ろへ付ける。
「瀬戸、待機」
榎本が言った。
「はい」
三枝が先に降りた。
両手を見える位置へ置き、車の前へは出ない。榎本が後ろから降り、左脚をかばうように一度だけ体重を右へ移した。
二人の隊員が車両脇へ立つ。小銃は肩から下げたまま、銃口を地面へ向けていた。
棒を持つ男が声を上げた。
「何を取りに来た」
三枝は門へ近づかなかった。
「灰犬中隊。立川の周辺連絡だ。人数と状態を確認したい」
「人数を聞いて、次は何を持っていく」
「今日は取りに来てない」
「今日は、だろ」
男は車体の札を見た。
「名前を書いたら、働ける奴を出せって言うんだろ」
「物も数える。水も分けろって言われる」
奥から別の声がした。
老人の声だ。
「うちはうちでやってる。紙はいらない」
三枝は怒らなかった。
「いらないならいらないでいい、それを記録する」
「何でも書くんだな」
「書く」
「書いて何になる」
「少なくとも、次に来る奴が同じことを聞かずに済む」
男が黙った。三枝が続ける。
「登録すれば、作業の照会や物資の確認が来ることはある」
棒の男が笑った。
「ほらな」
「今日の用件はそれじゃない。水の場所と医療の連絡先を渡す。受け取るかどうかも確認する」
「登録しないと水はくれないのか」
「避難所単位の受領は登録が早い。個人列がある場所もあるが、量は保証できない」
「結局、名前だ」
男の声が強くなった。
榎本は返答せず、ポケットに手を入れた男の位置を見ていた。
建物の中で咳が聞こえた。
一度。
少し間を置いて、二度続いた。
入口の女が後ろを振り返る。
三枝が聞いた。
「病人はいるか」
「いない」
棒の男がすぐに答えた。
女が男を見たが、何も言わなかった。
「発熱者も」
「いない」
三枝はそれ以上、入口へ進まなかった。
「荻窪小学校から昨日出た者が、ここへ来ていると聞いた」
建物の奥で人が動いた。
秋人は窓越しに顔を探した。
入口の暗いところから、男が一人出てきた。昨日、燃料缶を持って校門を出た男だった。
服は同じだった。髪へ灰が付き、昨日より頬が汚れている。
男もワゴン車を見た。
次に、窓の中の秋人を見た。
表情が変わった。
「あいつだ」
男が言った。
「荻窪で名前を書いてた」
三枝が車へ振り返った。
「瀬戸。車両脇まで」
秋人は板挟みを持った。
榎本が扉を開ける。
「俺の左。車体から一歩まで」
「はい」
秋人は地面へ降りた。
視線が集まった。
棒を持つ男。入口の女。建物の窓から見ている子ども。自主退所した男。灰犬隊員。
左腕の青布にも視線が来た。
「それ、立川のか」
棒の男が聞いた。
秋人は榎本を見なかった。
「荻窪小学校の記録補助です」
「だから、立川の側だろ」
秋人は返せなかった。
荻窪小学校の仮識別です。
外では通行証になりません。
命令権はありません。
言える説明はあった。
だが、男が聞いているのは布の効力ではなかった。
昨日の男が、秋人の腕を見た。
「一晩で、そっちの人間になったのか」
秋人は板挟みの端へ指をかけた。
「名前を書いたのは、昨日も同じです」
言ってから、答えになっていないと気づいた。
三枝が自主退所した男へ聞いた。
「名前を言えるか」
男は少し黙り、昨日と同じ姓と名を言った。
秋人は自主退所記録を開いた。
同じ名前があった。
「昨日、荻窪小学校を出た本人か」
三枝が男へ聞いた。
「そうだ」
「同行者は二人」
「一緒に出た。ここにいる」
秋人は建物の方を見たが、二人が誰かまでは分からなかった。
三枝が秋人へ聞いた。
「昨日、話した相手に見えるか」
「はい。ただ、顔だけで本人と確定はできません」
三枝は頷いた。
「本人申告あり。前日聞き取り者が同一人物らしいと確認。確定はしない。書け」
「はい」
秋人は、そこで初めて鉛筆を持った。
外部集団接触票。
氏名、本人申告。
前日自主退所記録と同名。
聞き取り者目視、同一人物と思われる。
身分証明、なし。
秋人が書き始めると、入口の空気が変わった。
話していた人たちの目が、三枝から秋人の手元へ移る。
「何を書いてる」
棒の男が言った。
秋人は鉛筆を止めた。
三枝が答えた。
「本人が言った名前と、確認できた範囲だ」
「勝手に名簿へ入れるな」
「集団登録には入れてない。接触記録だ」
「何が違う」
三枝はすぐには答えなかった。
「次に来る者が、最初から同じ名前を聞かずに済む」
「次も来るのか」
「必要なら来る」
男の手に力が入り、棒の先が少し上がった。
灰犬隊員の一人が足を開いた。小銃は上げない。
榎本が言った。
「棒を下げてください」
声は大きくなかった。
棒の男は榎本を見た。
榎本の手は拳銃ではなく、開いたまま腰の前にあった。
「銃を持って来たのはそっちだ」
「下げています」
「撃たない保証は」
「棒が上がっている間は近づきません。こちらも上げません」
男は少しずつ棒を下げた。
榎本は秋人の肩へ触れず、手で車体側を示した。秋人は半歩戻った。
その動作を終えてから、自分が鉛筆を握ったままだったことに気づいた。
指が痛かった。
三枝が聞いた。
「ここに何人いる」
「二十人くらいだ」
棒の男が答えた。
入口の女が言った。
「二十七」
男が振り返る。
「黙ってろ」
「水をもらうなら人数が要るんでしょ」
建物の中から老人の声がした。
「昨日、一人死んだから二十六だ」
別の声が重なった。
「朝、二人出てった」
「戻るって言ってた」
「戻ってないだろ」
秋人は鉛筆を動かさなかった。
三枝が人数を一つずつ聞き直した。
「いま建物内にいる数を数えた者は」
誰も手を上げなかった。
「二十七は、いつの数だ」
入口の女が答えた。
「昨日の夜。食べ物を分けた時」
「死亡したという一人は、その二十七に入っているか」
女は老人の方を見た。
「入ってた」
「朝に出た二人は」
「入ってる」
棒の男が言った。
「だから、いまは二十四だ」
「戻るかもしれない」
女が言った。
「児童館の中にいる人数と、この集団にいる人数は分ける」
三枝は秋人へ向いた。
「昨夜の配給時申告、二十七。在所現在、未確認。外出二名申告あり。書け」
秋人は書いた。
昨夜配給時、二十七との申告。
現在在所、未確認。
外出二名との申告。帰着予定不明。
数字は一つにならなかった。
「代表者は」
三枝が聞いた。
棒の男は答えた。
「いない」
入口の女が言った。
「食べ物を分けてるのはその人」
「分けてるだけだ」
男が女を睨んだ。
三枝が言った。
「配給をしてるなら、連絡窓口に――」
「勝手に決めるな」
男が一歩出た。
榎本が左手を上げた。
「停止しろ」
男は止まった。
三枝も続きを言わなかった。
短い沈黙の後、三枝は言い直した。
「代表者は全員が否認。配給実務者はいる。連絡窓口は未定。そう残す」
男は返事をしなかった。
秋人は欄を分けた。
代表者、未定。全員否認。
配給実務者、一名。
連絡窓口、本人拒否。
死亡者について聞くと、さらに話が割れた。
棒の男は二人と言った。
入口の女は三人と言った。
「おばあちゃんも死んだ」
「朝まで息をしてた」
「昼には動かなかった」
「誰が確認した」
女は口を閉じた。
三枝が聞いた。
「状態を見せられるか」
「中へは入れるな」
棒の男が答えた。
「医療の確認だけでも」
「連れていくんだろ」
「重い者なら、後送先を探す」
「家族と離す」
入口の女が言った。
「熱があれば、そうするんだろ」
「ほかの者と分けることはある」
三枝は否定しなかった。
「だから見せない」
棒の男が言った。
「なら、死亡確認はできない」
三枝は秋人へ向いた。
「死亡申告二名。追加死亡疑い一名。追加一名は状態確認拒否、死亡確認未了」
秋人はその通りに書いた。
三という数字は、死亡者欄には入らなかった。
建物の中で、また咳がした。
今度は長かった。
三枝が入口の女へ聞いた。
「咳をしてる者に熱は」
「ない」
棒の男が先に答えた。
女は言った。
「測ってない」
「体温計は」
「壊れた」
秋人は記録票の発熱欄を見た。
発熱者なし。
そこへ丸を付けることはできなかった。
「どう書きますか」
秋人が聞いた。
三枝は建物の入口を見た。
「発熱者なしとの申告。体温未測定。建物内から咳を聴取。本人状態の確認拒否」
秋人は書いた。
感染症とは書かなかった。
被曝とも、粉塵とも書かなかった。
理沙がいない場所で、秋人に分かったのは咳の音だけだった。
奥から若い女が出てきた。腕に幼い子どもを抱いている。
「水の場所だけ教えて」
棒の男が振り返った。
「名前を書かれる」
「この子が飲む分がない」
「列へ行けばいい」
「どこへ」
男は答えられなかった。
三枝は上着の内側から折り畳んだ地図を出した。
「近いのは昭栄公園方面。ただし、今日動いているかは確認中だ。善福寺川緑地にも仮設列がある。個人列と避難所列は分かれる」
「登録しないと追い返される?」
若い女が聞いた。
「個人列へ回される可能性がある。容器と人数を聞かれる」
「名前も?」
「場所による」
三枝は約束しなかった。
女は子どもを抱き直した。
「医者は」
「荻窪小学校には資格者はいない。医療補助はいる。重症なら、立川側へ後送照会を出す」
「連れていかれたら、戻る?」
三枝は少し黙った。
「戻せる状態なら戻す。戻る日までは約束できない」
女は地図を見た。
棒の男が言った。
「紙を受け取ったら登録したことにされる」
「受領と登録は分ける」
「そっちの都合だ」
「そう見えるなら、地図へ受領のみと書く」
三枝は地図の余白へ日付と時刻を書き、給水地点案内受領、集団登録には同意せず、と記した。
「誰の名前で」
男が聞いた。
「受け取る者が名前を出さないなら、接触先受領者・氏名申告拒否」
「何でも書くんだな」
「書かないと、登録済みと間違える」
男は地図を取らなかった。
若い女が一歩出た。
「私が見る」
三枝は近づかず、地図を地面へ置いた。二歩下がる。
女が拾った。
受領者名は言わなかった。
秋人は記録した。
給水地点案内、受領。
医療連絡先、受領。
受領者、氏名申告拒否。
集団登録、保留。
別の男が建物の奥から言った。
「十五歳以上を出せって話はどうなんだ」
三枝が聞き返した。
「どこで聞いた」
「別の学校から来た奴だ。登録したら作業へ回されたって」
「作業の照会はある」
三枝は言った。
「今日、作業者を取りに来たわけじゃない。一律に十五歳以上を連れていく命令も、俺は持ってない」
「明日は」
「明日の命令は持ってない」
男は鼻で笑った。
「じゃあ同じだ」
男は続けて言った。
「名簿に名前を書いたら、次は働けって言われる」
三枝は答えた。
「働ける奴には、言う」
男は笑った。
「ほらな」
三枝は続けた。
「働けない奴にも、食わせろと言われる」
空気が悪くなった。
男の顔から笑いが少し消えた。
自主退所した男が、建物の外壁へ寄りかかった。
「ここにも立川が来るなら、俺はまた出る」
入口の女が聞いた。
「どこへ行くの」
「ここじゃない場所」
「水は」
男は答えなかった。
秋人は自主退所記録の新しい欄を見た。
再退去希望。
鉛筆を置く。
「書かないのか」
男が言った。
「人数も行先も決まっていません」
秋人は答えた。
「決まったら書くのか」
「聞ければ」
男は秋人の青布を見た。
「やっぱり、そっちだ」
秋人は返事をしなかった。
三枝が接触を終えると告げた。
集団登録は保留。
代表者は未定。
連絡窓口も決まらない。
給水地点と医療連絡先は受領。
死亡疑い一名は確認できない。
次回接触の約束はなし。
灰犬が持ってきた登録票は、置いていかなかった。代わりに、記入例のない空欄の用紙を一部だけ、地図のそばへ置いた。
「必要になったら使え」
三枝が言った。
「使わなければ、そのままでいい」
棒の男は答えなかった。
秋人は榎本の指示で先に車へ戻った。
座席へ座ってから、板挟みを膝へ置く。
捨てなかった。
走れとも、戻れとも言われなかったからだった。
それでも、指には板の角の跡が残っていた。秋人は榎本の「紙を捨てろ」を、外へ出てから一度も忘れていなかったことに気づいた。
門の近くにいた子どもが、ワゴン車へ寄ろうとした。
入口の女が止める。
子どもは離れた場所から言った。
「新しい車?」
車両脇の隊員が答えた。
「古いよ」
「でも、きれい」
真衣と同じ言葉だった。
隊員は返事をせず、車体に付いた手形を布で拭いた。灰と汗が混じった跡だった。
次に、窓の端を拭く。
立川の表示へ付いた泥も払う。
秋人は車内からその手を見た。
車体全部を洗う水はない。
傷も、へこみも消えない。
拭くのは、窓と表示だった。次にこの車を見る者が、車内の手と札を確かめられる場所だった。
榎本が乗り込んだ。
「荻窪へ戻したあと、もう一件回る」
隊員は布をたたみ、扉を閉めた。
帰りの車内で、秋人は記録票を読み返した。
昨夜配給時、二十七との申告。
現在在所、未確認。
外出二名との申告。
代表者、未定。
連絡窓口、未定。
死亡申告二名。
追加死亡疑い一名、状態確認拒否。
発熱者なしとの申告。
体温未測定。
咳を聴取。
集団登録、保留。
給水地点案内、受領。
医療連絡先、受領。
確定した欄より、条件の付いた欄の方が多かった。
その中に、昨日書いた男の名前がある。
前の記録では、自主退所。
新しい記録では、接触確認。
同じ名前だった。
所属する場所の欄は、どちらも決まっていなかった。
荻窪小学校へ戻った時、給水班はまだ帰っていなかった。
校庭には、朝の容器が置かれていた場所だけが空いている。
母親たちは門の方を見ていた。田辺は竹刀を膝へ当て、道の先を確かめている。小倉も門から離れなかった。
ワゴン車が入ると、母がすぐに近づいた。
秋人が降りる。
「ただいま」
母は返事をしなかった。
最初に顔を見る。
次に左腕の青布。
それから、秋人の両手を取った。
「開いて」
秋人は手を開いた。
鉛筆の黒。車内の油。板挟みを握って付いた赤い跡。
血はなかった。
母は指の間まで見た。
「どこか痛い?」
「指だけ」
「転んでない?」
「転んでない」
「車からどこまで離れた?」
「車のすぐ横まで」
「武器は」
「触ってない」
母はそこで息を吐いた。
「先に手を洗って」
「報告が」
「手が先」
理沙も近づいてきた。
「飲用じゃない水で汚れを落として。傷があったら見せてください」
秋人は高橋へ記録票を渡そうとした。
母が止める。
「机へ置いて」
秋人は職員室の入口にある受渡し箱へ入れた。手を洗って戻るまで、高橋は触らなかった。
灰犬のワゴン車は校庭で向きを変えた。
真衣が窓を見た。
「またきれいにした?」
榎本が開いた窓から答えた。
「次に見せるためだ」
真衣は首を傾げた。
車は小型トラックと合流し、別の道へ向かった。
手を洗ったあと、秋人は高橋と理沙へ報告した。
「登録は保留です。給水場所と医療の連絡先は受け取りました」
高橋が記録票を読む。
「代表者、未定。連絡窓口、未定」
「はい」
「死亡申告二。追加死亡疑い一」
「中へは入れませんでした」
理沙が発熱欄を見た。
「発熱者なしとの申告。体温は測っていない」
「咳は聞こえました」
「何人?」
「見えませんでした。一人かどうかも分かりません」
理沙は、発熱者欄へ数字を書かなかった。
「原因未確認の咳。状態確認できず、で申し送ります」
秋人は頷いた。
高橋が外出同行票へ帰着時刻を書いた。
十二時四十七分。
予定より十三分早かった。
母は帰着欄を自分で読んだ。
その時、門の外から空容器の音が聞こえた。
上井草方面の確認班だった。
持って出た容器は、どれも空のままだった。
「道が塞がってる」
戻った男が言った。
「給水所の手前で車が横になってる。人は通れるが、列は別の道へ回されてる。今日は確認だけで戻った」
高橋が経路図を広げる。
秋人は通行できた道と、塞がっていた交差点を書いた。
水はなかった。
だが、次の班が通らない道は増えた。
昼を過ぎても、昭栄公園方面と善福寺川緑地方面は戻らなかった。
校庭の人が門を見る回数が増えた。
真衣は何度も母の袖を引いた。
「まだ?」
「まだ」
「十三時、過ぎた?」
「お兄ちゃんは戻ったでしょう」
「水の人」
母は時計を見た。
秋人も見た。
給水同行表の帰着予定には、正午、十三時、十三時半と書かれていた。
正午の線を越えている。
秋人は時刻の横へ、未帰着、と書いた。
高橋に呼ばれるまで、同じ欄を見ていたことに気づかなかった。
「門の記録へ移してください。帰ったら実時刻を上から書きます」
「はい」
午後二時前、善福寺川緑地方面の班が戻った。
容器は半分ほど空だった。
給水列はあったが、途中で配布量が減り、予定していた分を受け取れなかったという。
ポリタンクを二人で持っている。
中で水が揺れた。
朝の容器が立てた音とは違った。
低く、重い音だった。
小倉が門を閉める前に人数を数えた。
田辺が帰着時刻を書く。
理沙は容器の表示を確認した。
「飲料用はここ。発熱者区画用は別です。蓋を開けないで」
人が集まりかける。
高橋が配給表を持って前へ出た。
「まだ分けません。受領量を量ってからです」
「子どもの分だけ先に」
「順番を変えません」
「発熱者の分は」
「最初に分けます。ただし、一般分と混ぜません」
容器が校庭へ運ばれた。
水は予定より少なかった。
ゼロではなかった。
昭栄公園方面の班は、さらに遅れて戻った。
給水点は動いていたが、避難所名の照合に時間がかかった。昨日の仮登録が一覧へ届いておらず、高橋の控えと車両で来た別の連絡員の記録を照らし合わせて、ようやく一部を受け取れたという。
こちらの容器にも水が入っていた。
一つは蓋の締め方が悪く、外側が濡れていた。
理沙が布で拭かず、洗浄用の受け皿へ移すよう指示した。
夕方までに、全員が戻った。
けが人はいなかった。
受領した水は、予定量より少ない。
使えなかった容器が二つ。
途中で漏れた量は不明。
次回は避難所仮登録票の控えを携行。
上井草方面は経路変更が必要。
秋人は給水記録へ書いた。
その横で、真衣が水の入ったポリタンクを見ていた。
「飲める?」
母が答えた。
「順番が来たら」
「今日?」
「今日の分は」
真衣はポリタンクの中の音を聞いた。
「重そう」
「重いよ」
運んできた男が答えた。
男の手は赤くなっていた。空で持って出た時にはなかった跡だった。
夜、秋人は外部集団接触票を清書した。
机の端には給水記録が重ねられている。
外部集団。
旧児童館。
集団登録、保留。
昨夜配給時人数、二十七との申告。
現在在所、未確認。
外出二名との申告。
代表者、未定。
連絡窓口、未定。
配給実務者、一名。本人は代表者および窓口を否認。
死亡申告、二名。
追加死亡疑い、一名。
追加一名、状態確認拒否。死亡確認未了。
発熱者なしとの申告。
体温未測定。
建物内から咳を聴取。
本人状態、確認できず。
給水地点案内、受領。
医療連絡先、受領。
受領者氏名、申告拒否。
一番下に、自主退所した男の名前があった。
昨日の記録では、
本人意思による退所。
行先、未申告。
今日の記録では、
旧児童館で接触。
本人申告と前日記録が一致。
身分証明なし。
再退去の意思を口頭で示す。
人数、時刻、行先は未定。
秋人は、未定の文字を書いたところで鉛筆を止めた。
男の「あっち側」という声を思い出した。
秋人は荻窪小学校の記録補助だった。
それは事実だった。
事実を答えても、男の問いには足りなかった。
左腕の青布を見る。
車内の油と、外で付いた灰で少し汚れていた。古いカーテンの薄い青に、黒い染みが増えている。
それでも、
荻小。
仮〇〇七。
記録補助。
文字はまだ読めた。
体育館の端では、持ち帰った水が、容器を動かすたびに低く揺れた。
朝とは違う音だった。




