棒を持つ
三月五日の朝、体育館の匂いが変わっていた。
最初は濡れた服と靴の匂いだった。そこへ汗、古い毛布、洗えない身体、消毒液の匂いが重なっている。
灰はほとんど降っていなかったが、校庭には薄く残っていた。
歩くたびに靴の裏で擦れ、体育館の入口へ運ばれてくる。
誰かが何度掃いても、床の隅には白い筋が残って、皆がそれを嫌がった。
瀬戸秋人は長机の端で、前夜までの記録を分けていた。
避難者名簿。
未確認者照会票。
負傷者一覧。
近隣自宅確認票。
周辺状況報告。
前日の午前十時に、近隣自宅確認が認められてから、体育館の外へ出る人が増えた。
家を見に行く人。
毛布を取りに行く人。
薬を取りに行く人。
家族を探すと言って、そのまま遠くへ向かった人。
学校に勤めていた教員の何人かは、自宅の様子を見に行ったまま戻ってこなかった。
家族を探しに行くと言った人もいた。
安否確認だけのつもりだった人もいた。
高橋は名簿の備考欄に「未帰還」と書いていたが、秋人には、その言葉だけでは足りない気がした。
秋人が書いている周辺状況報告の上には、似た言葉が並んでいた。
紙束の中に、別の紙が一枚あった。
死亡疑い記録。
氏名不詳。
男性。
推定三十代から四十代。
大手町方面から徒歩で避難した可能性。
三月四日未明、呼吸及び反応を確認できず。
確認者、高橋修司。
立会人、佐伯理沙、田辺清作。
正式検案未了。
用紙の上には、仮管理番号が書かれていた。
荻小・氏名不詳一。
同じ番号が、衣類袋と所持品袋にも付いている。
財布、鍵、腕時計。名前の分かる物はなかった。
男性は体育館の奥から、校舎北側のひさしの下へ移されていた。一般の避難者が通る場所と、水を置く場所から離した仮の安置場所だった。
死亡が正式に確認されたわけではない。
それでも、男性がいた段ボールの仕切りは畳まれていた。床には、拭いた跡だけが残っている。
人がいなくなり、番号の付いた袋と記録が残った。
秋人が紙を重ね直していると、体育館の奥から声が聞こえた。
「都心から来た人が死んだんだって」
「白い粉を持ち込んだらしいよ」
「触ったら移るんじゃないの」
「あの辺の水、大丈夫なのか」
「服は燃やした方がいいって」
声は小さかったが、一つではなかった。
聞いた話が別の人へ渡るたび、少しずつ形を変えている。
大手町から来た。
白い粉が付いていた。
顔が赤かった。
吐いた。
倒れた。
それだけだったはずのことに、放射能、感染、毒、水という言葉が付け足されていた。
母も、真衣を医療机へ近づけなかった。
前日に飲んだいちご牛乳のこともあり、朝から何度か額へ手を当てていた。真衣は嫌そうに顔をそらした。
「熱ないよ」
「気持ち悪くない?」
「ない」
「お腹は」
「空いてる」
母はそれ以上聞かなかった。
異常がないことと、安全だったことは同じではない。理沙も、安全だとは認めなかった。
医療机では、理沙が手袋の箱を持ち上げていた。底が見えている。
新しい手袋へ替えず、汚れていない方の手で箱を閉じた。
そこへ、毛布を肩にかけた女が近づいた。
「佐伯さん」
理沙が顔を上げた。
「あの男の人、触ったんでしょう」
「触りました」
「大丈夫なんですか」
理沙は自分の手を見た。洗浄に使った水は少なく、手袋も十分ではなかった。
「分かりません。服についていた物も、症状の原因も測れていません」
「分からないまま、ここにいるんですか」
女は後ろを見た。そこには子どもが二人いた。
「うちにも子どもがいます」
「ここにいる人の多くに、家族がいます」
理沙の声は枯れていた。
「だから、付着した物と、熱と、怪我を分けます。具合が悪い人は見ます」
「でも、あなたが」
「私も確認します。体温と、咳と、吐いたかどうか。服に白い物が付いているなら、入口で脱いでもらいます」
理沙は女の後ろの子どもを見た。
「触っただけで何が起きるかは、ここでは決められません。決められないから、離して、洗って、記録します」
女は納得した顔ではなかった。
それでも、子どもの肩を抱いて離れた。
高橋は職員室から模造紙を持ってきた。
下書きは鉛筆だった。秋人は黒いマーカーを渡された。
「読める大きさでお願いします」
高橋が一行ずつ確認する。
白い粉が付いた衣類や荷物は、入口で申し出ること。
発熱、嘔吐、皮膚の異常、意識の混乱がある者は、医療机へ申し出ること。
付着物へ素手で触れないこと。
原因は避難所では判定できない。
症状や付着を理由に、本人を勝手に追い出さないこと。
最後の一行は、高橋が後から加えた。
秋人は「追い出さない」の文字を少し太く書いた。
「入口へ貼ります」
田辺が紙を受け取った。
首には古い警察用の笛を下げている。
前日は、氏名不詳男性の所持品袋を確認し、時計で時刻を合わせていた。
「田辺さん、警察だったんですか」
秋人が聞くと、田辺は紙の端を押さえた。
「昔な。もう辞めてる」
「じゃあ、いまは」
「いまは、ここの受付だ」
田辺はそう言って、体育館の入口へ向かった。
貼り紙を見た人が、すぐに質問を始めた。
どの程度の白さなら申告するのか。
灰をかぶった人は全員なのか。
熱は何度からか。
子どもが吐いた場合も同じなのか。
高橋と理沙は、分かる範囲で答えた。
答えのない質問は残った。
午前の受付が始まると、周辺から来た人が増えた。
高円寺では店の棚が空になっている。
阿佐ヶ谷の薬局は扉を壊されていた。
駅前で水と自転車を取り合っていた。
鉄の棒を持った男を見た。
都心側から来た人を店へ入れるなと怒鳴っていた。
秋人は、見たことと聞いたことを分けた。
高円寺方面。
店舗内商品、ほぼなしとの申告。
店員の所在不明。
阿佐ヶ谷方面。
薬局入口破損との申告。
薬品持出しの可能性。
荻窪駅方面。
物資をめぐる争いを見たとの申告。
負傷者の有無、不明。
高橋は周辺地図へ印を付けた。
コンビニ。
薬局。
交番。
公園。
火災跡。
通れない道。
水を汲めるかもしれない場所。
秋人がいちご牛乳を持ち出したコンビニにも、赤い丸が付いていた。
その横に、高橋が小さく書いた。
内部危険。
「もう中へ入らないでください」
高橋は地図を見たまま言った。
「はい」
秋人は答えた。
謝ったわけではなかった。
入口から、男の声が聞こえた。
「だから、水だけでいいって言ってんだよ」
高橋が顔を上げた。
体育館の土間に、男が二人立っていた。
一人は黒いダウンジャケット。もう一人は作業服だった。二人とも顔と肩に灰が付いている。
田辺が上がり框の手前で止めていた。
「靴を脱ぐ前に、そこで待ってください。服の付着も見ます」
「水だけもらったら帰る」
作業服の男は、空の二リットル容器を持っていた。
「昨日から飲んでないんだ」
田辺は男の唇を見た。
「体調は」
「喉が渇いてる」
「吐いたり、ふらついたりは」
「ない。だから水をくれ」
理沙が医療机から来た。
男たちの顔色と受け答えを確かめる。作業服の男は苛立っていたが、立っていられない様子ではなかった。
高橋も入口へ来た。
「登録していない人にも、緊急分は渡します。ただし、容器一杯は出せません」
黒いダウンの男が体育館の中を見た。
「あそこにあるだろ」
入口の横に、配布待ちの段ボールが積まれていた。奥には水の容器も見えている。
「人数分を分けています」
「こっちは二人だ」
「ここには三百人近くいます」
高橋は小倉へ合図した。
小倉は目盛りの付いた小さな容器へ水を注いだ。紙コップではなく、洗って使い回している樹脂のカップだった。
一人ずつ、ゆっくり飲ませた。
作業服の男は一息で飲み、空になった容器を差し出した。
「これだけか」
「緊急分です。ここへ留まるなら受付をしてください。継続して配るには人数へ入れる必要があります」
「紙を書けば、水が出るのか」
「順番と体調を確認します」
「結局、満タンにはしないんだろ」
男の声が大きくなった。
体育館の中で、何人かが振り返った。
作業服の男が、入口横の段ボールへ手を伸ばした。
「それは何だ」
田辺が間へ入った。
「触らないでください」
「隠してるんじゃないのか」
「配布用です」
「見せろよ」
男の手が段ボールの端へかかった。
田辺が手首ではなく、肘の近くへ腕を当てた。押さえ込まず、箱から離す。
「下がってください」
黒いダウンの男も一歩上がった。
高橋が土間へ降りる。
「水は渡しました。受付をするか、今日は退出してください」
「何様だよ」
「ここの管理をしています」
「こんなに抱え込んで?」
その言葉で、体育館の中が静かになった。
水の容器。
段ボール。
薬箱。
毛布。
長机の名簿。
全部が見える位置にあった。
高橋は男たちから目をそらさなかった。
「抱え込んでいません。足りない物を、誰へ渡したか残しています」
「書類で腹が膨れるのか」
「膨れません」
高橋は答えた。
「記録がなくなれば、声の大きい人から取ります。そうなれば、子どもと、動けない人へ残りません」
作業服の男が段ボールを引いた。
田辺が止める。
腕がぶつかり、箱が床へ落ちた。
中から小箱が二つ滑り出た。乾パンではなく、個包装のビスケットだった。
体育館の中で人が立ち上がった。
母は真衣を自分の後ろへ寄せた。
小倉が水の容器の前へ移動する。
理沙が子どもを下げるよう声を上げた。
秋人は長机の前に立っていた。
足元まで、ビスケットの箱が滑ってきた。
拾えばいい。
机の下へ入れればいい。
身体が動かなかった。
作業服の男が田辺の腕を振り払う。黒いダウンの男が何か叫ぶ。高橋が二人の間へ入った。
秋人は椅子の脚へ膝をぶつけた。
ようやく手を伸ばした時には、田辺が箱を拾っていた。
「瀬戸くん。机から離れなくていい」
田辺の声は低かった。
作業服の男はまだ何か言っていたが、箱へ手を伸ばさなかった。
高橋は受付用紙を土間へ置いた。
「名前と、いまいる場所だけ書いてください。次に来た時、同じ人へ二重に渡さないためです」
「住所は」
「書ける範囲で」
黒いダウンの男が名字を書いた。作業服の男は名前を書かなかった。
ビスケットは一袋ずつ渡された。飲む水を先に渡したため、食べている間の追加はなかった。
「次は登録しないと出せません」
高橋が言った。
「次まで残ってればな」
黒いダウンの男は用紙を押し返した。
二人は土間から出た。
田辺は追わなかった。校門を出るまで見ていた。
入口へ音が戻るまで、少し時間がかかった。
子どもが泣いた。
誰かが、箱をもっと奥へやれと言った。
別の人が、今度は本当に奪われると言った。
高橋は長机へ戻ると、新しい用紙を出した。
入口対応記録。
「暴力未遂、と書きますか」
秋人が聞いた。
高橋は入口を見た。
「それだけだと、次に何を警戒するのか分からない」
秋人は鉛筆を置いた。
三月五日午前。
未登録男性二名。
飲料水を要求。
体調確認後、緊急分を一人一杯支給。
継続配給のため受付を依頼。
一名、名字のみ記入。
物資箱へ接触。
制止時、田辺と腕の接触あり。
箱一個落下。
負傷なし。
ビスケット各一袋支給。
二名退出。
高橋が読んだ。
「これで」
最後に、自分で一行加えた。
入口及び物資配置の変更を要する。
昼までに、体育館の置き方が変わった。
水の容器と配布前の物資は、入口から見えない器具室側へ移した。
避難者名簿の原本は職員室へ運んだ。受付へ置くのは、その日に必要な控えだけにした。
未確認者照会票も、原本と受付用に分ける。
「今日中に写せますか」
高橋が秋人へ聞いた。
「全部は無理です」
「世帯番号と代表者だけでいいです。受付で照合できるように」
秋人は頷いた。
名簿も、物資と同じように移された。
水や食べ物なら、なくなったことが分かる。
名前は、一枚なくなっても、誰の行だったのかすぐには分からない。
父の未確認者照会票も、職員室の箱へ入った。
秋人はその控えを最初に作った。
瀬戸雅之。
四十六歳。
三月二日朝、荻窪駅で最終確認。
大手町方面。
連絡不能。
田辺と小倉は、入口に立つ人を決めていた。
校門。
体育館入口。
物資置場。
水場。
昼と夜で交代する。
倉庫から竹刀が二本出た。体育用具室からは、古いモップ、デッキブラシ、箒が集められた。
田辺は壊れた箒の先を外した。
残ったのは木の柄だった。
「これで何するんですか」
近くにいた男が聞いた。
「近づかせない」
田辺は答えた。
「叩くんじゃなく、間へ置く。相手の手が届く前に止まってもらう」
「止まらなかったら」
田辺は柄のささくれを布で包んだ。
「一人で止めない。笛を吹く」
高橋は警戒表へ大人の名前を書いた。
田辺。
小倉。
高橋。
町内会の男。
避難者の中で動ける者。
秋人の名前はなかった。
午後、駅方面から親子が来た。
母親の手に血が付いていた。本人の血ではなかった。
「駅の近くで、人が殴られていました」
女は受付の前で言った。
「水と、自転車を取り合って。都心から来た人を店へ入れるなって怒鳴っている人もいました」
高橋が秋人を見た。
秋人は周辺状況報告を引き寄せた。
荻窪駅方面。
物資をめぐる争いを目撃。
男性一名が殴られていたとの申告。
負傷程度、不明。
都心方面からの避難者を排除する発言あり。
複数名が棒状の物を所持。
女の子どもは、潰れた空のペットボトルを持っていた。
理沙が女の手を見た。
「誰の血か分かりますか」
女は首を振った。
理沙は少量の水と消毒液を使った。皮膚に傷がないかを確認し、使用した量を紙へ書く。
高橋は警戒表を見直した。
「夕方から、校庭内も回ります」
「人が足りないぞ」
小倉が言った。
「分かっています」
「入口を減らすか」
「減らせません」
高橋は名簿の控えを作る秋人を見た。
「瀬戸くん」
「はい」
「田辺さんの後ろで、校庭の中だけ回れますか」
秋人は鉛筆を止めた。
「できます」
「役目は、見ることと、呼びに戻ることです。誰かを止めに行かない。校門の外へ出ない」
秋人は頷いた。
「棒は持ってもらいます。ただし、使うためではなく、近づく位置を示すためです」
高橋は母を呼んだ。
母は真衣を連れてきた。秋人の横に並べられた箒の柄を見る。
「秋人を外へ出すんですか」
「校庭の中です。田辺さんの後ろから離しません」
「大人が足りないから?」
高橋はすぐに答えなかった。
「はい」
母の口が固くなった。
「この子に止めさせるんですか」
「止めさせません。見たら戻って、人を呼んでもらいます」
田辺が横から言った。
「私の後ろです。前へは出しません」
母は田辺を見た。
首の笛。
竹刀。
白髪。
それから秋人を見た。
「嫌なら断っていいの」
秋人は、朝に拾えなかったビスケットの箱を思い出した。
「行く」
「どうして」
答えはすぐに出なかった。
道が分かるから。
字が書けるから。
人が足りないから。
どれも、行かなければならない理由にはならなかった。
「見て、戻るだけだから」
秋人は言った。
母は箒の柄へ手を触れた。
「田辺さんの後ろ」
「うん」
「何かあったら戻る」
「うん」
「前に出ない」
「うん」
母は手を離した。
「守るとか、考えなくていい。戻ってきて」
真衣が箒の柄を見た。
「お兄ちゃん、それ何」
真衣が聞いた。
「見回り」
「武器?」
秋人は答えられなかった。
田辺が横から言った。
「棒だよ。武器なんて立派なもんじゃない」
真衣は棒を見た。
「棒で何するの」
田辺は少し困った顔をした。
「近づかないでって言う」
「言って聞かなかったら?」
誰もすぐには答えなかった。
秋人は棒を握り直した。
田辺が笛を指で持ち上げた。
「人を呼ぶ」
真衣は少し考え、秋人を見た。
「お兄ちゃん、笛ないじゃん」
「だから戻る」
田辺が言った。
体育館の外へ出ると、風が冷たかった。
校庭の端には、体育館へ入りきれない人が座っていた。段ボールを敷き、毛布を頭からかぶっている。
水道の前には列ができていた。
蛇口から出る水は細い。
受水槽に残っている水と、配水管の残りがどれほどあるか、誰にも分からなかった。小倉は容器へ一度に入れる量を決め、受け取った世帯番号へ印を付けている。
田辺は竹刀を体の前に置いて歩いた。
秋人は二歩ほど後ろをついていく。
箒の柄は軽かった。
軽いのに、握っている手へ力が入った。
「見る場所を決めろ」
田辺が言った。
「人の手。持ってる物。どっちへ歩いてるか。全部いっぺんに見なくていい」
秋人は頷いた。
校門の外には三人いた。
中を見ているが、入ってこない。受付を迷っているのか、誰かを待っているのか分からなかった。
田辺は声をかけなかった。
「呼ばないんですか」
「向こうが来たら話す」
「来なかったら」
「見ておく」
二人は校庭の北側へ回った。
フェンスの向こうで、男が足をかけていた。
片手に空のビニール袋を持っている。
校庭へ入ろうとしていた。
田辺が止まった。
「そこから入らないでください。受付は校門です」
男がこちらを見た。
「水だけだよ」
「校門からお願いします」
「すぐそこじゃん」
男はフェンスへ体重をかけた。
秋人は箒の柄を握った。
田辺の横へ出るなと言われていた。
それでも、何か言わなければならない気がした。
受付へ。
校門へ回ってください。
声を出して、人を呼ぶ。
言葉は頭の中にあった。
口が動かなかった。
男の目が、秋人の棒へ向いた。
「何だよ、それ」
秋人の指が木へ食い込んだ。
田辺が一歩だけ前へ出た。
「そこを下りてください」
竹刀は構えなかった。両手で持ち、男と自分の間へ横に置いた。
「水が必要なら、校門で体調を見ます」
「じじいが偉そうに」
「ここからは入れません」
田辺は同じ場所に立っていた。
男はしばらく二人を見た。
秋人の棒も見た。
やがて舌打ちし、フェンスから足を下ろした。
「水くらいで」
男は外側を歩き、校門の方へ向かった。
田辺は姿が角へ消えるまで動かなかった。
秋人は息を吐いた。
手のひらが痛かった。
「大丈夫か」
田辺が振り返った。
「はい」
「声は出なかったな」
「はい」
「次は笛を持たせる」
責める声ではなかった。
秋人には、その方がつらかった。
見回りは二十分ほどで終わった。
体育館へ戻ると、高橋が机の前に用紙を置いた。
「見たことをお願いします」
秋人は箒の柄を壁へ立てかけ、鉛筆を取った。
校庭内見回り。
田辺清作同行。
水道前、配水列あり。
水量弱い。
校庭北側フェンスから侵入を試みる男性一名。
水を要求。
田辺が校門受付へ誘導。
男性はフェンスから下り、校門方向へ移動。
接触なし。
棒の使用なし。
そこまで書いて、手が止まった。
高橋が紙を見た。
「他には」
秋人は最後に一行加えた。
瀬戸、声出ず。
「そこまで書かなくてもいい」
高橋が言った。
「でも、呼べませんでした」
「田辺さんが対応しました」
「僕は、してません」
高橋はしばらく黙った。
「消しますか」
秋人が聞いた。
「残してください」
高橋は答えた。
「次に一人で行かせない理由になります」
秋人は紙を見た。
失敗を書いたつもりだった。
その一行は、次の配置を決める材料になった。
理沙が通りかかり、秋人の手を開かせた。木のざらつきが赤い線になっている。
「叩いた?」
「叩いてません」
「叩かれた?」
「ないです」
「なら、洗って」
理沙は少し離れた水場を見た。
「少しだけでいいから」
夕方、入口に避難所内規が貼られた。
受付を済ませること。
物資は係の指示なく持ち出さないこと。
水は世帯番号と体調を確認して配ること。
校内での暴力、威嚇、物資の持出しを禁ずる。
白い粉の付着や症状を理由に、本人を勝手に追い出さないこと。
入口、物資置場、水場に警戒係を置くこと。
係の指示に従わず危険が続く場合は、校外へ退出を求めることがある。
「退出って、どこへ行けっていうんだ」
紙を読んだ男が言った。
高橋は答えなかった。
入口には田辺と小倉が座った。
竹刀と箒の柄を膝へ置いている。
秋人の棒は壁に立てかけられていた。
夜、秋人はノートを開いた。
三月五日。
水を求める男二人。
緊急分を渡す。
箱へ手をかける。
田辺さんが止める。
名簿を職員室へ移す。
受付用の控えを作る。
箒の柄を持つ。
校庭見回り。
フェンスの男。
声が出なかった。
最後の行だけ、少し字が濃くなった。
母が隣へ座った。
「手、痛い?」
「少し」
「叩いたの」
「叩いてない」
「なら、よかった」
母は言ってから、壁の箒の柄を見た。
「よくはないけど」
秋人はノートを閉じた。
真衣は眠っていた。
入口で、田辺の笛が一度だけ鳴った。
短い音だった。
秋人が出せなかった声より、遠くまで届いた。




