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少年兵と、灰と青  作者: いちご牛乳
灰の東京
4/21

名簿


三月三日の朝、体育館は暗かった。


高い窓から入る光は弱く、ブルーシートの皺を薄く照らしている。夜の間に降った粉が、窓の桟へ溜まっていた。


高橋は職員室から持ってきた冊子を読んでいた。


災害時初動対応マニュアル。


表紙の下に、放射性物質を含む降下物への対応、とあった。紙は古く、角が折れている。

学校に前から置かれていたものなのか、区から配られたものなのか、秋人には分からなかった。


高橋は同じページを何度も目で追った。


「聞いてください」


体育館の声が少しずつ止まった。


体育館の奥、器具室の横では、昨日の男が寝かされていた。


段ボールで囲われていたが、完全には隠れていなかった。

足だけが見えた。靴下のまま黒く汚れた足。ビニール袋に入れられた上着。白い粉のついた髪。


理沙がそのそばにいた。


男は眠っているのか、意識がないのか分からなかった。

時々、喉の奥で何かを言った。言葉にならない声だった。


高橋はマニュアルを見た。


「爆発後、少なくとも四十八時間は、屋内に留まるようにしてください。灰を吸い込まないこと。肌につけないこと。窓や扉の隙間を塞ぐこと。外から戻った人は、服や髪についた粉をできるだけ落としてから中に入ってください」


言葉は硬かった。


高橋の言葉というより、紙の言葉だった。

高橋はそれを、自分の声に移し替えていた。


「外へ出る必要がある場合も、塵や灰には触れないでください。触った手で目や口を触らない。水たまりには近づかない。水が溜まっている場所は踏まない。できる限り肌を出さないようにして、帽子、タオル、長袖、手袋を使ってください。外で深呼吸はしないでください。走らないでください。戻ったら、入口で粉を落としてから入ってください」


高橋はそこまで読んで、一度口を閉じた。


深呼吸はしない。


その言葉が、体育館の中に変に残った。


息をするなと言われたわけではなかった。

けれど、誰かが小さく息を止めた気配があった。


「四十八時間って、いつまでですか」


誰かが聞いた。


高橋は腕時計を見た。壁の時計は止まっている。


「爆発は昨日の午前十時前後です。明日の午前十時に、もう一度判断します」


「十時になったら安全なんですか」


高橋は冊子から顔を上げた。


「安全になる時刻ではありません」


体育館の中がざわついた。


「外の情報は取れていません。ただ、薬や家族確認で、どうしても外へ出る必要がある人もいます。明日の十時まで待って、その時点で近隣だけを認めるか決めます」


決めます。


分かります、ではなかった。


高橋にも答えはなかった。時刻だけを作った。


「家に子どもがいるんです」


「母が一人で」


「薬が切れる」


「犬を置いてきた」


声が重なった。


高橋は一件ずつ答えなかった。


「今は、出ないでください」


高橋は言った。


「外へ出る理由を書いてください。薬、家族確認、家屋確認、物資回収、その他に分けます。緊急性のある人は先に申し出てください」


秋人の前へ新しい紙が置かれた。


外出希望者。


希望という言葉は変だった。


外へ出たい人だけではない。出なければならないと思っている人も、同じ欄に入った。


入口近くでは、窓と扉の隙間を塞ぐ作業が始まった。


段ボール。

養生テープ。

黒いごみ袋。

古い新聞紙。


背の高い人が段ボールを押さえ、別の人が端へテープを貼った。小さな子どもは、切ったテープを渡す係になった。


秋人も一度、長机を離れた。


窓の下へ段ボールを運ぶ。小倉が上を押さえ、秋人が下を貼った。


高い窓には届かない。扉の下にも隙間がある。テープは壁の埃ですぐ剥がれた。


完全には塞がらなかった。


それでも、何もしないよりはましだと、誰かが言った。


高橋はマニュアルを見ながら指示を出していた。


正確なのかどうか、秋人には分からなかった。

高橋にも、たぶん分かっていなかった。


真衣は母の隣で作業を見ていた。


「おうちみたいにするの」


「外を、少しだけ入れないようにするの」


「外、入ってくるの」


母は答えず、剥がれたテープを貼り直した。


氏名不詳一の区画も変わった。


入口脇に「汚染確認」と書いた紙が置かれた。一般受付とは机を分け、外から来た人は上着と靴を確認される。白い粉が多く付着している場合は、袋へ入れ、氏名か仮番号を書くことになった。


測定器はなかった。


測れないため、発見場所、衣類、症状を分けて書いた。


外表汚染疑い。

顔面発赤。

嘔吐。

意識混濁。

粉じん吸入の可能性。

火傷との判別不能。

脱水疑い。

被曝の可能性、確認不能。


高橋が理沙へ紙を見せた。


「これでいいですか」


「『可能性』と『疑い』は消さないでください」


「診断名ではない」


「はい」


秋人はそれを清書した。


同じ男の状態なのに、言葉は一つでは足りなかった。


器具室横の床には、立入禁止の線がテープで作られた。理沙は線の内側と外側で手袋を替えようとしたが、箱の残りは少なかった。


「毎回は替えられません」


理沙は高橋に言った。


「手袋がなくなったら、袋を手に巻きます」


「水は」


「手洗いに回す分がありません」


高橋は何も答えられなかった。


秋人は必要物資の紙へ書いた。


使い捨て手袋。

石鹸。

水。

大きい袋。

清潔な布。


書けば出てくるわけではない。


それでも、書かないと足りないものの中にも入らなかった。


昼になると、窓を塞いだ体育館はさらに暗くなった。外が朝なのか昼なのか、腕時計を持つ人へ聞かなければ分からない。


目張りした黒い袋には、人の息で細かな水滴がついた。便所から戻る人が扉を開けるたびに、冷たい空気と一緒に外の粉っぽい匂いが入った。


端末の電池を残すため、画面を見る人も減った。


理沙は氏名不詳一の瞳を懐中電灯で見て、呼吸を数えた。


「記録、どうしますか」


高橋が聞いた。


「断定はできません」


「昨日より悪い?」


理沙は少し迷った。


「呼びかけへの反応が減っています。水は飲めません。呼吸も浅いです」


高橋は秋人を呼んだ。


秋人は、時刻と理沙の言葉を書いた。


理沙は医者ではない。


その言葉を、この日は口にしなかった。言わなくても、高橋も秋人も知っていた。


夕方、高橋が体育館の前へ立った。


「あと十七時間です」


誰かが短く笑った。


「長いよ」


「長いです」


高橋は答えた。


「でも、十時になれば安全という意味ではありません。十時に、外へ出す必要と、外の危険をもう一度比べます」


不満は消えなかった。


ただ、永久に待てと言われたわけではなかった。


その日の午後、外に出た人が二人いた。


一人は止められる前に校門を抜けた。

母親を探しに行くと言っていた。

高い窓の目張りを直そうとしていた男、小倉が追おうとしたが、高橋が止めた。

高橋はそう言った。


追う人まで外に出る。

戻すために人が出る。

戻らない人が増える。


そういうことだと、秋人は少し遅れて分かった。


もう一人は、入口で座り込んだまま動かなくなった。

外へ出ると言い続けていたが、最後には声が出なくなった。

家に猫がいる、と何度も言った。



夜になると、入口と医療机以外の灯りが消された。


誰かが時刻を読み上げた。


「あと十二時間」


別の誰かが繰り返した。


真衣は母の毛布の中で聞いた。


「寝たら終わる?」


「寝られたらね」


母が答えた。


秋人は長机へ伏せた。


父の名前は未確認のままだった。


三月四日の未明、器具室の方で人が動いた。


怒鳴り声はなかった。


理沙が男の名前を呼ぶ代わりに、何度も「聞こえますか」と言った。


返事はなかった。


秋人は起き上がった。ランタンの光の中で、理沙が男の胸元を見ている。指を首へ当て、次に口元へ近づけた。


高橋と田辺が線の外にいた。


「反応、ありません」


理沙が言った。


田辺が自分の腕時計を見た。


「もう一度」


理沙は呼びかけ、呼吸を確認した。


高橋は紙を持っていたが、まだ何も書かなかった。


母が秋人の腕へ手を置いた。


「見なくていい」


秋人は頷いた。


目を逸らした。


見なかったことも残った。


母の指は、理沙が三度目の確認を終えるまで腕から離れなかった。あとで長机へ戻ってから、つかまれていた場所だけが冷えていることに気づいた。


少しして、高橋が長机へ戻った。


死亡確認票ではなく、裏紙へ見出しを書いた。


死亡疑い記録。


管理番号、荻小・氏名不詳一。

確認場所、荻窪小学校避難所。

確認時刻、三月四日未明。

呼吸反応なし。

呼びかけ反応なし。

確認者、高橋修司。

立会人、佐伯理沙、田辺清作。

正式検案未了。


死因欄はなかった。


高橋は別の紙の備考へ書いた。


顔面発赤。

嘔吐。

意識混濁。

外表汚染疑い。

火傷、粉じん吸入、脱水、被曝等の判別不能。


理沙は紙を見て言った。


「私は資格者ではありません」


「分かっています」


「死亡確認、とは書かないでください」


「死亡疑いです」


高橋は見出しを指した。


田辺が所持品袋を確認した。財布、鍵、腕時計。名前の分かる物はなかった。


同じ仮番号を、覆い、所持品袋、衣類袋、記録へ書いた。


名前は分からなかった。


物同士が離れないようにすることだけはできた。


秋人は自分のノートへ書いた。


荻小・氏名不詳一。

死亡疑い。

正式検案未了。


大手町、とは書いた。


父の名前の隣には置かなかった。


朝になると、体育館は臭くなっていた。湿った服、汗、冷えた食べ物、使い続けた便所の匂いが、目張りの内側へ溜まっている。


換気を求める声が上がった。


高橋は入口を短時間だけ開けた。冷たい空気が入り、何人かが同時に息を吸った。


すぐに咳が出た。


入口は閉められた。


午前十時が近づくと、人は荷物をまとめ始めた。


家を見に行く人。

薬を取りに行く人。

行く家のない人。

探す相手が遠すぎる人。


高橋は近隣自宅確認票を並べた。


氏名。

世帯番号。

行先。

目的。

出発時刻。

帰着予定。

持帰物。

周辺異常。


午前十時になっても、誰も拍手しなかった。


目張りの一部が外された。段ボールと黒い袋の隙間から、細い光が入る。


外はまだ白かった。


高橋が説明した。


「安全が確認されたわけではありません。近隣だけです。ひと世帯一名。短時間。灰の多い場所、水たまり、火災跡には近づかない。人と揉めない。壊れた店へ入らない。戻ったら入口で衣服と靴を確認し、見たものを報告してください」


それから、秋人を見た。


「瀬戸くんの家は近いな」


「はい」


「毛布かタオルがあれば、家族の分を持ってきて。余裕があればでいい」


「行けます」


母はすぐには頷かなかった。


「私が行く」


「真衣を置いていけない」


母は真衣を見た。


真衣は毛布の端を握っていた。


母は家の鍵を秋人の手へ押し込んだ。


「玄関の紙は、そのままにして」


「うん」


「早く帰ってきて」


「寄り道しないで」


朝、牛乳を頼まれた時にも聞いた言葉だった。


声は違っていた。


「うん」


真衣が言った。


「家、まだある?」


「見てくる」


「冷蔵庫は?」


「止まってる」


「牛乳は?」


「ない」


真衣は頷いた。


「すぐ戻って」


「戻る」


高橋は自宅確認票へ、十時十分と書いた。


「戻ったら、見たものと持ってきたものを報告して」


「はい」


「店には入らない」


「はい」


外へ出ると、空気が動いていた。


灰と焦げた物の匂いがした。きれいではない。それでも体育館の空気とは違った。


秋人は一度深く吸い、すぐに咳をした。


タオルを口元へ上げる。


校門の近くには、体育館へ入れない人が段ボールを敷いていた。通りでは、水や家族を探す人が早足で行き交っている。


見慣れた道を家へ向かった。


ゴミ置場には三月二日の袋が残り、網の上へ灰が積もっていた。パン屋のシャッターは閉じたままだった。あの朝に見た手袋が、アパートの階段下へ落ちていた。


家の窓は割れていなかった。


鍵を開ける。


玄関の内側に、母の紙が残っていた。


必ず来て。


父は帰っていない。


秋人は靴を脱がずに呼んだ。


「父さん」


返事はなかった。


返事を待つ間、冷えた家の中で時計の秒針だけが動いていた。秋人はもう一度呼びそうになり、口を閉じた。


台所の鍋には、朝の味噌汁が残っていた。冷蔵庫の中はもう冷たくない。


蓋を開けると、味噌汁の表面に薄い膜が張っていた。家に戻れば朝の物がそのまま残っていると思っていた。実際に残っていた物は、どれも二日前のままだった。


麦茶。

卵。

味噌。


牛乳はない。


冷蔵庫の扉には、給食だより、真衣の時間割、母の買物メモが貼られていた。その端に「非常用」と書いた封筒がある。


中には一万円札が二枚、千円札が数枚、硬貨が入っていた。


秋人は千円札を数枚と、一万円札を一枚取った。勝手に持ち出していいのか分からなかった。


分からないまま、ポケットの奥へ押し込んだ。


押し入れから薄い毛布、タオルケット、バスタオル、手拭きタオルを出す。薬箱、真衣の上着、母のカーディガン、自分のパーカーも入れた。


リュックは学校にある。


旅行用の布袋へ詰めると、片手では持ち上がらなかった。

家を出る前に、もう一度伝言を見た。


何か書き足したかった。

鉛筆は持っていなかった。

鍵をかけ、袋を両手で持った。



小学校へ戻る途中、コンビニが見えた。

三月二日の朝、配送トラックが停まっていた店だった。


入口の自動扉は開いたまま、片方のガラスにひびが入っている。照明は消え、棚の一部が倒れていた。

店の前に人はいなかった。


高橋の声を思い出した。

店には入らない。


母も言った。

寄り道しないで。


秋人は通り過ぎようとした。


店内の床へ、白いものが広がっていた。

潰れた牛乳パックからこぼれ、灰と埃を混ぜて薄い膜になっている。


足が止まった。


布袋の重さで指が痛んでいた。持ち直そうとしても、秋人は店の前から動かなかった。


真衣の声が浮かんだ。

牛乳は?


秋人は店へ入った。

足の裏で菓子袋が割れた。


店内には、甘い物と腐り始めた物、濡れた段ボールの匂いがこもっていた。非常灯も消え、道路から入る白い光だけが床の足跡を照らしている。


パンとおにぎりの棚は空だった。水、お茶、スポーツ飲料もない。床には足跡と割れた容器が重なっている。


レジに人はいなかった。


冷蔵棚は止まり、扉の内側もぬるかった。


普通の牛乳は潰れていた。豆乳も、飲むヨーグルトも床へ落ちている。


棚の奥に、小さな紙パックが一本残っていた。


いちご牛乳。


赤と白の柄。

ストローつき。


秋人はすぐには手を伸ばさなかった。


電気が止まってから、ほぼ二日。


冷蔵棚は冷えていない。


未開封だった。角は少し潰れていたが、漏れてはいない。


飲めるかどうかは分からなかった。


それでも、一本だけ残っていた。


秋人は紙パックを取った。


軽かった。


冷たくはなかった。掌の温度とほとんど変わらず、平時なら棚へ戻していたはずのぬるさだった。


レジへ行き、値札を探した。見つからない。


千円札を一枚出した。


高すぎるのか、足りないのか、もう金に意味がないのか。どれも分からなかった。


カウンター下の透明なトレーへ差し込む。


「すみません」


返事はなかった。


もう一度言った。


「すみません」


誰もいなかった。


自分の声が店の奥へ届き、空の棚の間から小さく返った。秋人は返事を待っていたことに気づき、もう一度店内を見回した。


紙パックをタオルで包み、布袋の一番上へ置いた。


外へ出る。


払った。

置いてきた。

盗ったのではない。


そう考えた。


店員はいなかった。

レジを通していない。

許可も取っていない。

安全かどうかも分からない。


千円を置いても、何一つ確定しなかった。


荷物は重かった。

いちご牛乳は軽かった。



小学校へ戻ると、母が立ち上がった。


「遅かった」


「ごめん」


「家は」


「窓は割れてない。父さんは帰ってなかった。紙もそのまま」


母は目を伏せた。


「そう」


秋人は毛布、タオル、薬箱、上着を出した。最後に、タオルへ包んだ紙パックを出す。


真衣の目が少し開いた。


「いちごのやつ」


母が聞いた。


「どこで」


「コンビニ」


「開いてたの?」


「壊れてた。誰もいなかった」


「秋人」


「千円置いた」


すぐに言った。


千円を置いたと先に言えば、店へ入ったことが少し違って聞こえる気がした。


「レジに置いた。誰もいなかったけど」


母は紙パックを見た。


「冷えてた?」


「冷えてない」


「いつから」


「分からない」


真衣は両手で受け取り、母を見た。


「飲める?」


母は少し迷った。

それから理沙の方を見た。


「佐伯さんに聞いてから」


真衣は紙パックを大事そうに抱えた。


「飲めないの?」


「確認してから」


「いちごなのに」


「いちごでも」


理沙は奥の机で、別の人の包帯を巻いていた。

母が声をかけると、理沙は手を拭いてこちらに来た。


「どうしました」


母が事情を短く説明した。


理沙は紙パックを見た。

賞味期限を確認し、膨らんでいないか触り、ストローの袋を見た。


理沙はパックを触り、期限、膨らみ、穴、漏れを見た。外側の灰を湿らせた布で拭いた。


「開いてはいません」


期限も切れていなかった。


それだけだった。


それから母を見た。


「でも、安全とは言えません。冷蔵が切れてから長いです。見た目や匂いが普通でも、飲めるとは判断できません」


「じゃあ、飲めない?」


真衣が聞いた。


理沙はすぐには答えなかった。


「私は、飲んでいいとは言えない」


真衣は紙パックを抱えた。


母が聞いた。


「もし飲ませるなら」


「止めるのが普通です」


理沙の声は低かった。


「ここでは、具合が悪くなってもできることがほとんどありません」


母は紙パックを見た。


秋人は、真衣に渡せば笑うと思って持ってきた。


飲ませるかどうかまでは考えていなかった。


「捨てる?」


母が真衣へ聞いた。


真衣は首を振った。


「いちごなのに」


母は目を閉じた。


短い間だった。


「匂いを確かめて、一口だけにする」


理沙は母を見た。


「勧めません」


「分かっています」


母は答えた。


理沙はそれ以上止めなかった。安全を認めたわけではなかった。


真衣がストローを刺した。


母が先に匂いを確かめた。秋人にも分からない程度の、甘い匂いがした。


真衣は一口だけ吸った。


細いストローの中を液体が上がる音がした。


目を閉じた。


「甘い」


母の顔が少し崩れた。


秋人は真衣の喉が動くのを見ていた。息を止めていたことに、真衣が「甘い」と言った後で気づいた。


真衣がもう一口飲もうとすると、母が紙パックを押さえた。


「今日はここまで」


「あと少し」


「駄目」


紙パックは捨てなかった。口を塞ぐ物はなく、母はビニール袋へ立てて入れた。


飲んでからしばらく、真衣は普通に座っていた。


それで安全だったとは分からなかった。


秋人の胸には、誰もいない店と、ぬるい冷蔵棚が残った。


甘いと言った声より、返事のなかった店内の方が長く耳に残った。


高橋が呼んだ。


「瀬戸くん。帰着報告」


母が言った。


「ちゃんと言ってきなさい」


「何を」


「全部」


秋人は長机へ行った。


高橋は帰着時刻を記入した。


「家は」


「倒壊なし。窓割れなし。電気なし。父は戻っていません。伝言はそのままです」


「持帰り」


「毛布一枚、タオルケット一枚、タオル、薬箱、上着、現金」


「現金は家族の物なら書かなくていい」


高橋はペンを止めた。


「他には」


秋人は少し黙った。


「いちご牛乳一本」


「家から?」


「コンビニから」


高橋が顔を上げた。


「入ったの」


「はい」


「誰かいた?」


「いませんでした。レジに千円置きました」


高橋は叱らなかった。


周辺状況報告を取り、店の場所を聞いた。


コンビニ。

入口破損。

無人。

商品散乱。

冷蔵停止。

飲料ほぼなし。

牛乳等破損。

安全確認不能。


秋人はいちご牛乳のことが書かれないのを見ていた。


「書かないんですか」


高橋はペンを止めた。


「何を」


「いちご牛乳を持ってきたこと」


「必要なら書く」


「必要じゃないんですか」


高橋は少し疲れた顔をした。


「瀬戸くん」


「はい」


「今は、全部は書けない」


秋人は黙った。


高橋は周囲の紙を見た。


「店が壊れていることは必要だ。無人だったことも必要だ。飲み物が残っていないことも必要だ。そこに人を送るかどうかに関わるから」


「はい」


「君が千円置いたことは、今ここでは扱えない」


「でも」


「分かるよ」


高橋は声を少し落とした。


「でも、今は扱えない」


扱えない。


その言葉は、未確認に似ていた。


消すわけではない。

正しい場所がない。

だから、別のところに置かれる。


秋人は自分のノートを開いた。


自宅確認。

父、未確認。

伝言、そのまま。

非常用封筒から現金。

コンビニ、無人。

牛乳パック破損。

いちご牛乳一本。

冷えていない。

安全不明。

レジに千円。

すみませんと言った。

返事なし。

真衣、一口。


高橋の紙にはないものを書いた。


書かなければ、なかったことになりそうだった。


書き終えると、店へ入った時より手が冷えていた。秋人は指を握り直し、次の未確認者照会票を引き寄せた。


受付には次の人が来ていた。


「弟が戻っていません」


高橋が聞いた。


「名前は」


秋人は未確認者照会票を引き寄せた。


氏名。

年齢。

最終確認場所。

服装。

所持品。

連絡不能時刻。


一つずつ聞く。


田中亮太。

十四歳。

阿佐ヶ谷方面。

連絡不能。


次の人が来る。


母が病院にいる。

夫が丸の内へ出勤した。

娘が新宿から帰らない。

祖父が家を出たまま戻らない。


秋人は書いた。


未確認は、死亡ではなかった。


生存でもなかった。


いま分かっている場所で、その人を待つための状態だった。


父の行は、まだ変わらない。


瀬戸雅之。

大手町方面。

連絡不能。

未確認。


受付で、また名前が告げられた。


秋人は新しい行へ鉛筆を置いた。


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