名簿
三月三日の朝、体育館は暗かった。
高い窓から入る光は弱く、ブルーシートの皺を薄く照らしている。夜の間に降った粉が、窓の桟へ溜まっていた。
高橋は職員室から持ってきた冊子を読んでいた。
災害時初動対応マニュアル。
表紙の下に、放射性物質を含む降下物への対応、とあった。紙は古く、角が折れている。
学校に前から置かれていたものなのか、区から配られたものなのか、秋人には分からなかった。
高橋は同じページを何度も目で追った。
「聞いてください」
体育館の声が少しずつ止まった。
体育館の奥、器具室の横では、昨日の男が寝かされていた。
段ボールで囲われていたが、完全には隠れていなかった。
足だけが見えた。靴下のまま黒く汚れた足。ビニール袋に入れられた上着。白い粉のついた髪。
理沙がそのそばにいた。
男は眠っているのか、意識がないのか分からなかった。
時々、喉の奥で何かを言った。言葉にならない声だった。
高橋はマニュアルを見た。
「爆発後、少なくとも四十八時間は、屋内に留まるようにしてください。灰を吸い込まないこと。肌につけないこと。窓や扉の隙間を塞ぐこと。外から戻った人は、服や髪についた粉をできるだけ落としてから中に入ってください」
言葉は硬かった。
高橋の言葉というより、紙の言葉だった。
高橋はそれを、自分の声に移し替えていた。
「外へ出る必要がある場合も、塵や灰には触れないでください。触った手で目や口を触らない。水たまりには近づかない。水が溜まっている場所は踏まない。できる限り肌を出さないようにして、帽子、タオル、長袖、手袋を使ってください。外で深呼吸はしないでください。走らないでください。戻ったら、入口で粉を落としてから入ってください」
高橋はそこまで読んで、一度口を閉じた。
深呼吸はしない。
その言葉が、体育館の中に変に残った。
息をするなと言われたわけではなかった。
けれど、誰かが小さく息を止めた気配があった。
「四十八時間って、いつまでですか」
誰かが聞いた。
高橋は腕時計を見た。壁の時計は止まっている。
「爆発は昨日の午前十時前後です。明日の午前十時に、もう一度判断します」
「十時になったら安全なんですか」
高橋は冊子から顔を上げた。
「安全になる時刻ではありません」
体育館の中がざわついた。
「外の情報は取れていません。ただ、薬や家族確認で、どうしても外へ出る必要がある人もいます。明日の十時まで待って、その時点で近隣だけを認めるか決めます」
決めます。
分かります、ではなかった。
高橋にも答えはなかった。時刻だけを作った。
「家に子どもがいるんです」
「母が一人で」
「薬が切れる」
「犬を置いてきた」
声が重なった。
高橋は一件ずつ答えなかった。
「今は、出ないでください」
高橋は言った。
「外へ出る理由を書いてください。薬、家族確認、家屋確認、物資回収、その他に分けます。緊急性のある人は先に申し出てください」
秋人の前へ新しい紙が置かれた。
外出希望者。
希望という言葉は変だった。
外へ出たい人だけではない。出なければならないと思っている人も、同じ欄に入った。
入口近くでは、窓と扉の隙間を塞ぐ作業が始まった。
段ボール。
養生テープ。
黒いごみ袋。
古い新聞紙。
背の高い人が段ボールを押さえ、別の人が端へテープを貼った。小さな子どもは、切ったテープを渡す係になった。
秋人も一度、長机を離れた。
窓の下へ段ボールを運ぶ。小倉が上を押さえ、秋人が下を貼った。
高い窓には届かない。扉の下にも隙間がある。テープは壁の埃ですぐ剥がれた。
完全には塞がらなかった。
それでも、何もしないよりはましだと、誰かが言った。
高橋はマニュアルを見ながら指示を出していた。
正確なのかどうか、秋人には分からなかった。
高橋にも、たぶん分かっていなかった。
真衣は母の隣で作業を見ていた。
「おうちみたいにするの」
「外を、少しだけ入れないようにするの」
「外、入ってくるの」
母は答えず、剥がれたテープを貼り直した。
氏名不詳一の区画も変わった。
入口脇に「汚染確認」と書いた紙が置かれた。一般受付とは机を分け、外から来た人は上着と靴を確認される。白い粉が多く付着している場合は、袋へ入れ、氏名か仮番号を書くことになった。
測定器はなかった。
測れないため、発見場所、衣類、症状を分けて書いた。
外表汚染疑い。
顔面発赤。
嘔吐。
意識混濁。
粉じん吸入の可能性。
火傷との判別不能。
脱水疑い。
被曝の可能性、確認不能。
高橋が理沙へ紙を見せた。
「これでいいですか」
「『可能性』と『疑い』は消さないでください」
「診断名ではない」
「はい」
秋人はそれを清書した。
同じ男の状態なのに、言葉は一つでは足りなかった。
器具室横の床には、立入禁止の線がテープで作られた。理沙は線の内側と外側で手袋を替えようとしたが、箱の残りは少なかった。
「毎回は替えられません」
理沙は高橋に言った。
「手袋がなくなったら、袋を手に巻きます」
「水は」
「手洗いに回す分がありません」
高橋は何も答えられなかった。
秋人は必要物資の紙へ書いた。
使い捨て手袋。
石鹸。
水。
大きい袋。
清潔な布。
書けば出てくるわけではない。
それでも、書かないと足りないものの中にも入らなかった。
昼になると、窓を塞いだ体育館はさらに暗くなった。外が朝なのか昼なのか、腕時計を持つ人へ聞かなければ分からない。
目張りした黒い袋には、人の息で細かな水滴がついた。便所から戻る人が扉を開けるたびに、冷たい空気と一緒に外の粉っぽい匂いが入った。
端末の電池を残すため、画面を見る人も減った。
理沙は氏名不詳一の瞳を懐中電灯で見て、呼吸を数えた。
「記録、どうしますか」
高橋が聞いた。
「断定はできません」
「昨日より悪い?」
理沙は少し迷った。
「呼びかけへの反応が減っています。水は飲めません。呼吸も浅いです」
高橋は秋人を呼んだ。
秋人は、時刻と理沙の言葉を書いた。
理沙は医者ではない。
その言葉を、この日は口にしなかった。言わなくても、高橋も秋人も知っていた。
夕方、高橋が体育館の前へ立った。
「あと十七時間です」
誰かが短く笑った。
「長いよ」
「長いです」
高橋は答えた。
「でも、十時になれば安全という意味ではありません。十時に、外へ出す必要と、外の危険をもう一度比べます」
不満は消えなかった。
ただ、永久に待てと言われたわけではなかった。
その日の午後、外に出た人が二人いた。
一人は止められる前に校門を抜けた。
母親を探しに行くと言っていた。
高い窓の目張りを直そうとしていた男、小倉が追おうとしたが、高橋が止めた。
高橋はそう言った。
追う人まで外に出る。
戻すために人が出る。
戻らない人が増える。
そういうことだと、秋人は少し遅れて分かった。
もう一人は、入口で座り込んだまま動かなくなった。
外へ出ると言い続けていたが、最後には声が出なくなった。
家に猫がいる、と何度も言った。
夜になると、入口と医療机以外の灯りが消された。
誰かが時刻を読み上げた。
「あと十二時間」
別の誰かが繰り返した。
真衣は母の毛布の中で聞いた。
「寝たら終わる?」
「寝られたらね」
母が答えた。
秋人は長机へ伏せた。
父の名前は未確認のままだった。
三月四日の未明、器具室の方で人が動いた。
怒鳴り声はなかった。
理沙が男の名前を呼ぶ代わりに、何度も「聞こえますか」と言った。
返事はなかった。
秋人は起き上がった。ランタンの光の中で、理沙が男の胸元を見ている。指を首へ当て、次に口元へ近づけた。
高橋と田辺が線の外にいた。
「反応、ありません」
理沙が言った。
田辺が自分の腕時計を見た。
「もう一度」
理沙は呼びかけ、呼吸を確認した。
高橋は紙を持っていたが、まだ何も書かなかった。
母が秋人の腕へ手を置いた。
「見なくていい」
秋人は頷いた。
目を逸らした。
見なかったことも残った。
母の指は、理沙が三度目の確認を終えるまで腕から離れなかった。あとで長机へ戻ってから、つかまれていた場所だけが冷えていることに気づいた。
少しして、高橋が長机へ戻った。
死亡確認票ではなく、裏紙へ見出しを書いた。
死亡疑い記録。
管理番号、荻小・氏名不詳一。
確認場所、荻窪小学校避難所。
確認時刻、三月四日未明。
呼吸反応なし。
呼びかけ反応なし。
確認者、高橋修司。
立会人、佐伯理沙、田辺清作。
正式検案未了。
死因欄はなかった。
高橋は別の紙の備考へ書いた。
顔面発赤。
嘔吐。
意識混濁。
外表汚染疑い。
火傷、粉じん吸入、脱水、被曝等の判別不能。
理沙は紙を見て言った。
「私は資格者ではありません」
「分かっています」
「死亡確認、とは書かないでください」
「死亡疑いです」
高橋は見出しを指した。
田辺が所持品袋を確認した。財布、鍵、腕時計。名前の分かる物はなかった。
同じ仮番号を、覆い、所持品袋、衣類袋、記録へ書いた。
名前は分からなかった。
物同士が離れないようにすることだけはできた。
秋人は自分のノートへ書いた。
荻小・氏名不詳一。
死亡疑い。
正式検案未了。
大手町、とは書いた。
父の名前の隣には置かなかった。
朝になると、体育館は臭くなっていた。湿った服、汗、冷えた食べ物、使い続けた便所の匂いが、目張りの内側へ溜まっている。
換気を求める声が上がった。
高橋は入口を短時間だけ開けた。冷たい空気が入り、何人かが同時に息を吸った。
すぐに咳が出た。
入口は閉められた。
午前十時が近づくと、人は荷物をまとめ始めた。
家を見に行く人。
薬を取りに行く人。
行く家のない人。
探す相手が遠すぎる人。
高橋は近隣自宅確認票を並べた。
氏名。
世帯番号。
行先。
目的。
出発時刻。
帰着予定。
持帰物。
周辺異常。
午前十時になっても、誰も拍手しなかった。
目張りの一部が外された。段ボールと黒い袋の隙間から、細い光が入る。
外はまだ白かった。
高橋が説明した。
「安全が確認されたわけではありません。近隣だけです。ひと世帯一名。短時間。灰の多い場所、水たまり、火災跡には近づかない。人と揉めない。壊れた店へ入らない。戻ったら入口で衣服と靴を確認し、見たものを報告してください」
それから、秋人を見た。
「瀬戸くんの家は近いな」
「はい」
「毛布かタオルがあれば、家族の分を持ってきて。余裕があればでいい」
「行けます」
母はすぐには頷かなかった。
「私が行く」
「真衣を置いていけない」
母は真衣を見た。
真衣は毛布の端を握っていた。
母は家の鍵を秋人の手へ押し込んだ。
「玄関の紙は、そのままにして」
「うん」
「早く帰ってきて」
「寄り道しないで」
朝、牛乳を頼まれた時にも聞いた言葉だった。
声は違っていた。
「うん」
真衣が言った。
「家、まだある?」
「見てくる」
「冷蔵庫は?」
「止まってる」
「牛乳は?」
「ない」
真衣は頷いた。
「すぐ戻って」
「戻る」
高橋は自宅確認票へ、十時十分と書いた。
「戻ったら、見たものと持ってきたものを報告して」
「はい」
「店には入らない」
「はい」
外へ出ると、空気が動いていた。
灰と焦げた物の匂いがした。きれいではない。それでも体育館の空気とは違った。
秋人は一度深く吸い、すぐに咳をした。
タオルを口元へ上げる。
校門の近くには、体育館へ入れない人が段ボールを敷いていた。通りでは、水や家族を探す人が早足で行き交っている。
見慣れた道を家へ向かった。
ゴミ置場には三月二日の袋が残り、網の上へ灰が積もっていた。パン屋のシャッターは閉じたままだった。あの朝に見た手袋が、アパートの階段下へ落ちていた。
家の窓は割れていなかった。
鍵を開ける。
玄関の内側に、母の紙が残っていた。
必ず来て。
父は帰っていない。
秋人は靴を脱がずに呼んだ。
「父さん」
返事はなかった。
返事を待つ間、冷えた家の中で時計の秒針だけが動いていた。秋人はもう一度呼びそうになり、口を閉じた。
台所の鍋には、朝の味噌汁が残っていた。冷蔵庫の中はもう冷たくない。
蓋を開けると、味噌汁の表面に薄い膜が張っていた。家に戻れば朝の物がそのまま残っていると思っていた。実際に残っていた物は、どれも二日前のままだった。
麦茶。
卵。
味噌。
牛乳はない。
冷蔵庫の扉には、給食だより、真衣の時間割、母の買物メモが貼られていた。その端に「非常用」と書いた封筒がある。
中には一万円札が二枚、千円札が数枚、硬貨が入っていた。
秋人は千円札を数枚と、一万円札を一枚取った。勝手に持ち出していいのか分からなかった。
分からないまま、ポケットの奥へ押し込んだ。
押し入れから薄い毛布、タオルケット、バスタオル、手拭きタオルを出す。薬箱、真衣の上着、母のカーディガン、自分のパーカーも入れた。
リュックは学校にある。
旅行用の布袋へ詰めると、片手では持ち上がらなかった。
家を出る前に、もう一度伝言を見た。
何か書き足したかった。
鉛筆は持っていなかった。
鍵をかけ、袋を両手で持った。
小学校へ戻る途中、コンビニが見えた。
三月二日の朝、配送トラックが停まっていた店だった。
入口の自動扉は開いたまま、片方のガラスにひびが入っている。照明は消え、棚の一部が倒れていた。
店の前に人はいなかった。
高橋の声を思い出した。
店には入らない。
母も言った。
寄り道しないで。
秋人は通り過ぎようとした。
店内の床へ、白いものが広がっていた。
潰れた牛乳パックからこぼれ、灰と埃を混ぜて薄い膜になっている。
足が止まった。
布袋の重さで指が痛んでいた。持ち直そうとしても、秋人は店の前から動かなかった。
真衣の声が浮かんだ。
牛乳は?
秋人は店へ入った。
足の裏で菓子袋が割れた。
店内には、甘い物と腐り始めた物、濡れた段ボールの匂いがこもっていた。非常灯も消え、道路から入る白い光だけが床の足跡を照らしている。
パンとおにぎりの棚は空だった。水、お茶、スポーツ飲料もない。床には足跡と割れた容器が重なっている。
レジに人はいなかった。
冷蔵棚は止まり、扉の内側もぬるかった。
普通の牛乳は潰れていた。豆乳も、飲むヨーグルトも床へ落ちている。
棚の奥に、小さな紙パックが一本残っていた。
いちご牛乳。
赤と白の柄。
ストローつき。
秋人はすぐには手を伸ばさなかった。
電気が止まってから、ほぼ二日。
冷蔵棚は冷えていない。
未開封だった。角は少し潰れていたが、漏れてはいない。
飲めるかどうかは分からなかった。
それでも、一本だけ残っていた。
秋人は紙パックを取った。
軽かった。
冷たくはなかった。掌の温度とほとんど変わらず、平時なら棚へ戻していたはずのぬるさだった。
レジへ行き、値札を探した。見つからない。
千円札を一枚出した。
高すぎるのか、足りないのか、もう金に意味がないのか。どれも分からなかった。
カウンター下の透明なトレーへ差し込む。
「すみません」
返事はなかった。
もう一度言った。
「すみません」
誰もいなかった。
自分の声が店の奥へ届き、空の棚の間から小さく返った。秋人は返事を待っていたことに気づき、もう一度店内を見回した。
紙パックをタオルで包み、布袋の一番上へ置いた。
外へ出る。
払った。
置いてきた。
盗ったのではない。
そう考えた。
店員はいなかった。
レジを通していない。
許可も取っていない。
安全かどうかも分からない。
千円を置いても、何一つ確定しなかった。
荷物は重かった。
いちご牛乳は軽かった。
小学校へ戻ると、母が立ち上がった。
「遅かった」
「ごめん」
「家は」
「窓は割れてない。父さんは帰ってなかった。紙もそのまま」
母は目を伏せた。
「そう」
秋人は毛布、タオル、薬箱、上着を出した。最後に、タオルへ包んだ紙パックを出す。
真衣の目が少し開いた。
「いちごのやつ」
母が聞いた。
「どこで」
「コンビニ」
「開いてたの?」
「壊れてた。誰もいなかった」
「秋人」
「千円置いた」
すぐに言った。
千円を置いたと先に言えば、店へ入ったことが少し違って聞こえる気がした。
「レジに置いた。誰もいなかったけど」
母は紙パックを見た。
「冷えてた?」
「冷えてない」
「いつから」
「分からない」
真衣は両手で受け取り、母を見た。
「飲める?」
母は少し迷った。
それから理沙の方を見た。
「佐伯さんに聞いてから」
真衣は紙パックを大事そうに抱えた。
「飲めないの?」
「確認してから」
「いちごなのに」
「いちごでも」
理沙は奥の机で、別の人の包帯を巻いていた。
母が声をかけると、理沙は手を拭いてこちらに来た。
「どうしました」
母が事情を短く説明した。
理沙は紙パックを見た。
賞味期限を確認し、膨らんでいないか触り、ストローの袋を見た。
理沙はパックを触り、期限、膨らみ、穴、漏れを見た。外側の灰を湿らせた布で拭いた。
「開いてはいません」
期限も切れていなかった。
それだけだった。
それから母を見た。
「でも、安全とは言えません。冷蔵が切れてから長いです。見た目や匂いが普通でも、飲めるとは判断できません」
「じゃあ、飲めない?」
真衣が聞いた。
理沙はすぐには答えなかった。
「私は、飲んでいいとは言えない」
真衣は紙パックを抱えた。
母が聞いた。
「もし飲ませるなら」
「止めるのが普通です」
理沙の声は低かった。
「ここでは、具合が悪くなってもできることがほとんどありません」
母は紙パックを見た。
秋人は、真衣に渡せば笑うと思って持ってきた。
飲ませるかどうかまでは考えていなかった。
「捨てる?」
母が真衣へ聞いた。
真衣は首を振った。
「いちごなのに」
母は目を閉じた。
短い間だった。
「匂いを確かめて、一口だけにする」
理沙は母を見た。
「勧めません」
「分かっています」
母は答えた。
理沙はそれ以上止めなかった。安全を認めたわけではなかった。
真衣がストローを刺した。
母が先に匂いを確かめた。秋人にも分からない程度の、甘い匂いがした。
真衣は一口だけ吸った。
細いストローの中を液体が上がる音がした。
目を閉じた。
「甘い」
母の顔が少し崩れた。
秋人は真衣の喉が動くのを見ていた。息を止めていたことに、真衣が「甘い」と言った後で気づいた。
真衣がもう一口飲もうとすると、母が紙パックを押さえた。
「今日はここまで」
「あと少し」
「駄目」
紙パックは捨てなかった。口を塞ぐ物はなく、母はビニール袋へ立てて入れた。
飲んでからしばらく、真衣は普通に座っていた。
それで安全だったとは分からなかった。
秋人の胸には、誰もいない店と、ぬるい冷蔵棚が残った。
甘いと言った声より、返事のなかった店内の方が長く耳に残った。
高橋が呼んだ。
「瀬戸くん。帰着報告」
母が言った。
「ちゃんと言ってきなさい」
「何を」
「全部」
秋人は長机へ行った。
高橋は帰着時刻を記入した。
「家は」
「倒壊なし。窓割れなし。電気なし。父は戻っていません。伝言はそのままです」
「持帰り」
「毛布一枚、タオルケット一枚、タオル、薬箱、上着、現金」
「現金は家族の物なら書かなくていい」
高橋はペンを止めた。
「他には」
秋人は少し黙った。
「いちご牛乳一本」
「家から?」
「コンビニから」
高橋が顔を上げた。
「入ったの」
「はい」
「誰かいた?」
「いませんでした。レジに千円置きました」
高橋は叱らなかった。
周辺状況報告を取り、店の場所を聞いた。
コンビニ。
入口破損。
無人。
商品散乱。
冷蔵停止。
飲料ほぼなし。
牛乳等破損。
安全確認不能。
秋人はいちご牛乳のことが書かれないのを見ていた。
「書かないんですか」
高橋はペンを止めた。
「何を」
「いちご牛乳を持ってきたこと」
「必要なら書く」
「必要じゃないんですか」
高橋は少し疲れた顔をした。
「瀬戸くん」
「はい」
「今は、全部は書けない」
秋人は黙った。
高橋は周囲の紙を見た。
「店が壊れていることは必要だ。無人だったことも必要だ。飲み物が残っていないことも必要だ。そこに人を送るかどうかに関わるから」
「はい」
「君が千円置いたことは、今ここでは扱えない」
「でも」
「分かるよ」
高橋は声を少し落とした。
「でも、今は扱えない」
扱えない。
その言葉は、未確認に似ていた。
消すわけではない。
正しい場所がない。
だから、別のところに置かれる。
秋人は自分のノートを開いた。
自宅確認。
父、未確認。
伝言、そのまま。
非常用封筒から現金。
コンビニ、無人。
牛乳パック破損。
いちご牛乳一本。
冷えていない。
安全不明。
レジに千円。
すみませんと言った。
返事なし。
真衣、一口。
高橋の紙にはないものを書いた。
書かなければ、なかったことになりそうだった。
書き終えると、店へ入った時より手が冷えていた。秋人は指を握り直し、次の未確認者照会票を引き寄せた。
受付には次の人が来ていた。
「弟が戻っていません」
高橋が聞いた。
「名前は」
秋人は未確認者照会票を引き寄せた。
氏名。
年齢。
最終確認場所。
服装。
所持品。
連絡不能時刻。
一つずつ聞く。
田中亮太。
十四歳。
阿佐ヶ谷方面。
連絡不能。
次の人が来る。
母が病院にいる。
夫が丸の内へ出勤した。
娘が新宿から帰らない。
祖父が家を出たまま戻らない。
秋人は書いた。
未確認は、死亡ではなかった。
生存でもなかった。
いま分かっている場所で、その人を待つための状態だった。
父の行は、まだ変わらない。
瀬戸雅之。
大手町方面。
連絡不能。
未確認。
受付で、また名前が告げられた。
秋人は新しい行へ鉛筆を置いた。




