持てる時間
校庭裏で、杭を打つ音がしていた。
こん、と一度。
少し間があって、もう一度。
昭栄公園への給水行から、二日が経っていた。
水原は昨日の灰犬連絡便で桃井第二へ戻った。
職員室には、荻窪側の給水記録と、水原が書き足した容器番号の控えが残っている。
二・五リットルは、まだ原因未確定だった。
校庭では、別の区分が増えていた。
暫定焼却場所。
汚物袋、一時置場。
医療ごみ、混入禁止。
焼却不可。
風向き確認。
白い紐が杭の間に張られている。
小倉が一本を担ぎ、給食室の裏へ運んでいた。
理沙が少し離れた場所から、汚物袋と医療ごみの間隔を指示している。
人が通る場所も変わった。
洗った給水容器を運ぶ者。
ごみ袋を運ぶ者。
発熱者区画を避けて給食室へ向かう者。
校門で照会を待つ者。
一つの通路へ、台車と人が重なる。
秋人は職員室前の机で、柏木の登録票を開いていた。
柏木悠太。
十五歳。
家族、未確認。
警戒補助候補。
登録保留。
左手、伸展制限あり。
睡眠中断あり。
貸与品の盾について、長時間保持不可。
再確認。
今日の日付が書かれていた。
三日前、柏木は盾を何分持てるか聞かれ、答えられなかった。
交番では時間を測っていない。
落とさないことだけを考えていた、と答えた。
体育館入口の壁際に、黒い盾が立っていた。
小さな防弾窓。
その下に残る白い被弾痕。
盾は、木の固定台に入っていた。
短い角材で作られた台だった。
下端が滑らないよう、内側に古いゴムが打たれている。後ろには砂を入れた袋が置かれ、倒れ止めの帯が壁の金具へ留められていた。
盾を持たせるための物ではなかった。
置くための物だった。
昨日、小倉がそれを作っている時、柏木は少し離れて見ていた。
「これ、俺以外も使うんですか」
小倉は釘を打つ手を止めなかった。
「ここで盾を使うことになった奴が使う」
「俺も?」
「君でも、俺でも、次の奴でも」
柏木は釘の頭を見た。
「俺の名前がなくなっても?」
小倉は最後の釘を打った。
「名前がなくなる時は、その理由を説明する。いきなり取り上げて、知らない誰かに渡したりはしない」
柏木は返事をしなかった。
固定台が完成した後も、最初は盾を入れなかった。
下端を床へ着けたまま、壁へ立てていた。
理沙が、倒れたら子どもに当たると言った。
小倉が固定台を柏木の前まで運んだ。
柏木は自分で盾を持ち上げ、木枠へ入れた。
置いたのは、昨日が初めてだった。
柏木はその前に立っていた。
持ち手には触れていない。
右手を少し上げては、下ろしている。
「座ってください」
理沙が椅子を出した。
柏木は盾を見た。
「ここにあります」
理沙は言った。
「勝手には動かしません。先に体を見ます」
柏木は座った。
秋人は机を近くへ運び、登録票と時計を置いた。高橋は立ったまま、前回の健康確認欄を見ている。
理沙は体温を測り、脈を取った。
朝の食事。
水の量。
夜に起きた回数。
左手の痛み。
指の開き方。
柏木は一つずつ答えた。
前よりは答えられていた。
けれど、痛む場所を聞かれると、少し遅れた。
「肘より少し下です」
右手で左前腕を示す。
「押すと痛いです。何もしてなくても、少し残ってます」
理沙は頷いた。
「しびれは」
「今はないです」
「盾を持った時は」
「長く持ってると、出る時があります」
「どこに出ますか」
柏木は左手を見た。
「小指から、手の外側です」
理沙は登録票へ書いた。
左小指側。
保持時しびれあり。
「出たら止めます」
「まだ持てる感じがしても、ですか」
「持てるかどうかは、あなた一人では決めません」
柏木の口が少し固くなった。
理沙は続けた。
「痛み、しびれ、息苦しさ、見えにくさ。どれかが出たら言ってください。言えないなら、警戒補助にはできません」
柏木は盾を見た。
「俺が途中で止めたら、盾はどうするんですか」
高橋が答えた。
「固定台へ戻します」
「その間、入口は空きませんか」
「成人門衛が入ります」
「誰が代わるんですか」
校門の方にいた小倉が、竹刀を肩へ担いだまま近づいてきた。
「今日は俺だ」
柏木は小倉の足元から顔まで見た。
「盾は、ここに置いたままですか」
「君が持てない時は、ここへ置く。必要なら下を持つ。勝手には持っていかない」
交番から盾を出す時も、小倉は下端だけを支えた。
柏木は保持帯から腕を抜かなかった。
二人で狭い入口を通った。
秋人は、その時の記録を思い出した。
柏木本人が移送中携行。
小倉、下端補助。
小倉は今も、盾を取り上げるとは言わなかった。
「固定台に置いたら、誰でも使えるんですか」
柏木が聞いた。
「誰でもじゃない」
榎本が校門から戻ってきた。
手には警察備品仮管理票がある。
「任務表に名前のある者だけだ」
「俺の名前が任務表から消えたら、もう触れない?」
「今日は、その名前を残せるか確認する」
柏木は登録票を見た。
警戒補助候補。
候補という二文字の横に、再確認日がある。
秋人の荻一〇二二や、野上の荻一〇二三とは違い、番号欄は空いていた。
柏木は空欄を指さなかった。
盾の固定台だけを見ていた。
榎本は盾の正面へ回った。
白い被弾痕の周り。
縁。
防弾窓。
窓の固定部。
裏側の持ち手。
左腕を通す保持帯。
表面に新しい割れや膨らみがないかを見る。
「貫通なし」
秋人が前の記録を読んだ。
「被弾痕一。継続使用可否、正式判定未了」
榎本は頷いた。
「見た目に新しい損傷はない。ただし、次の弾を止める保証じゃない」
柏木は白い痕を見た。
「じゃあ、これはもう使えないんですか」
「使えるとは断定しない」
榎本は持ち手を軽く引いた。
緩みはない。
「ただ、遮る物として扱う。棒を止める。人を押し返す。見えない場所を減らす。防弾性能は照会中だ。盾があるから撃たれていい、とは考えるな」
「分かりました。止めるって決めつけないで、隠れるために使います」
「それでいい」
榎本は登録票を机へ置いた。
「確認するのは、何分持てるかじゃない」
柏木が顔を上げた。
「前は、そう聞かれました」
「聞き方が悪かった」
榎本は短く言った。
「限界は見ない。限界まで持たせる確認でもない。出せるか。置けるか。交代できるか。しびれが出た時に言えるか。それを見る」
「長く持てた方がいいんじゃないんですか」
「違う」
榎本は盾を見た。
「長く持とうとする奴は、申告が遅れる」
柏木は黙った。
「最初は三分。静止だけだ。三分で置く」
理沙が言った。
「途中で痛みやしびれが出たら、その時点で止めます」
「三分持てたら終わりですか」
「違う。三分で、いったん置けるかを見る」
柏木はゆっくり頷いた。
「三分で、いったん置く」
秋人はその復唱を書いた。
三分で置く。
榎本が言った。
「持ち上げろ」
柏木は倒れ止めの帯を外した。
左腕を保持帯へ入れ、右手で内側の持ち手を握る。
下端が木枠から抜けた。
肩が少し下がった。
「校門内側。壁際の印まで」
床と舗装の境に、白い印が二つあった。
一つは門柱の近く。
もう一つは壁際だった。
柏木は壁際の印へ向かった。
歩幅は狭い。
盾の下端が舗装へ触れ、短い音を立てた。
小倉が後ろにつく。
「開始」
榎本が言った。
秋人は時計を見た。
午前九時十二分。
開始時刻を書く。
柏木は盾の正面を校門へ向けた。
防弾窓へ目の高さを合わせる。
「何が見える」
「門の正面は見えます」
「それだけじゃ足りない」
柏木は窓の向こうを見た。
「灰犬の天幕と、車が一台。門柱の右側までです」
「左」
柏木は盾を動かそうとした。
「盾は動かすな。見えないなら、見えないと言え」
「左は見えません」
「足元」
柏木の目が下がる。
盾の下部は透けない。
「足元も見えません」
「後ろ」
少し間が空いた。
「振り向かないと見えません」
小倉が後ろから言った。
「俺がいる」
柏木の指が持ち手へ少し強く入った。
一分。
秋人は時刻の横へ、静止、と書いた。
校庭裏で杭を打つ音がした。
こん。
柏木の目が一瞬、音の方へ動いた。
盾は校門へ向いたままだった。
「持ち場を変えるな」
「はい」
二分。
左肩が少しずつ下がる。
柏木は右足を半歩後ろへ引いた。
「痛みは」
理沙が聞いた。
「肩が少し痛いです」
「場所」
「左の、帯が引っ張ってるところ」
「しびれは」
「まだないです」
二分三十秒。
呼吸が深くなった。
盾の上端が、わずかに右へ傾く。
榎本は手を出さなかった。
三分。
「終了。固定台へ」
柏木はすぐには動かなかった。
「まだ持てます」
「三分で終了だ」
「もう少しなら」
「指示を聞けないなら、警戒補助にはしない」
柏木は口を閉じた。
後ろへ下がる。
下端が一度、舗装へ引っかかった。
小倉が手を伸ばしかける。
柏木は自分で角度を直した。
固定台の前へ戻る。
木枠へ下端を入れ、倒れ止めを留めた。
それから左腕を抜く。
薬指と小指が、曲がったまま少し残った。
理沙が時計を見た。
「休憩します」
柏木は固定台の横へ座った。
右手が盾の持ち手へ向かう。
途中で止まった。
小倉は校門内側へ戻っている。
竹刀を門柱の横へ立て、人が通る幅を見ていた。
入口は空いていない。
柏木は右手を膝へ戻した。
理沙が左手を確認する。
「今、しびれはありますか」
「小指の側が、少ししびれてます」
「どこまで」
柏木は小指を動かした。
「小指から手首までです」
「いつから出ていましたか」
柏木は答えられなかった。
「気づいたのはいつですか」
「盾を置いた後です。持ってる間は、肩の方を気にしてました」
理沙は登録票へ書いた。
静止保持三分。
終了後、左小指側しびれ申告。
発生時刻、本人確認できず。
「次は、出た時に言ってください」
「分かりました」
「持てなくなってからでは遅いです」
柏木は左手を開いた。
ゆっくり閉じる。
もう一度開く。
「時間、書いた?」
柏木が秋人へ聞いた。
「書いたよ」
「三分だった?」
「うん」
「短いって書くのか」
秋人は登録票を見た。
静止保持三分。
その数字だけでは、長いか短いか分からなかった。
交番で柏木が何分持っていたのかも、誰も測っていない。
「前は分からなかった」
秋人は答えた。
「今日は三分って残せる」
「持てなかった、じゃなくて?」
「三分持って、決めた時間で置いた。しびれは置いた後に分かった。そこまで書く」
柏木は秋人を見た。
それから左手をもう一度開いた。
「次は、置いてからじゃなくて、出た時に言う」
秋人は記録票の余白へ、次回確認、と書いた。
柏木の登録票には、家族未確認とある。
父。
母。
弟。
照会票は出ていたが、返事はまだなかった。
「どうして門がいいんだ」
秋人は聞いた。
柏木の指が止まった。
「警戒なら、ほかにもあると思う。見回りとか、物を運ぶ人の後ろとか」
「外は駄目だって言われてる」
「今は」
柏木は左手を膝へ置いた。
校門では、小倉が戻ってきた世帯の照会票を受け取っていた。名前を聞き、荷物を見て、体育館へ通す。
門の外には灰犬がいる。内側には小倉がいる。
交番の扉には、そのどちらもいなかった。
「門なら、来た人が最初に通るだろ」
柏木は言った。
「父さんたちを見つけたいから?」
「それもある」
すぐに答えた後、柏木は校門を見た。
「本人が来なくても、知ってる人が来るかもしれない。駅の近くで見たとか、別の避難所にいたとか」
秋人は家族欄の空白を見た。
柏木は続けた。
「でも、それだけじゃない」
言葉を探す間、校庭裏で杭を打つ音がした。
「交番では、誰か来ても、俺が盾を前に向けるしかなかった。名前を言えって言われてたけど、聞いても向こうは何も言わなかった」
柏木の右手が、固定台にある盾の方へ少し動いた。
触れずに戻る。
「村瀬さんが返事しなくなってから、後ろにも言う相手がいなくなった」
秋人は何も書かなかった。
「前も後ろも1人だ」
柏木が息を吐いた。
「ここなら、俺が先に見つけて、後ろへ言える。俺が全部決めなくても、小倉さんか灰犬の人がいる」
柏木は一度言葉を切った。
「盾を持つだけなら、交番と同じになる。でも、門を見るなら……同じじゃない」
秋人は校門を見た。
小倉が一人を通し、次の人へ手を上げている。
門の前に立つのは、家族を待つためでもあった。
待つだけで終わらず、先に見えたものを誰かへ渡すためでもあった。
秋人は柏木の顔を見た。
いままでほど暗くない気がした。
「それ、高橋さんに言った?」
「言ってない」
「警戒補助をやりたい、としか?」
「うん」
「書いていい?」
柏木は少し考えた。
「家族を待つ、は書かなくていい」
「じゃあ、見えたことを他の大人に伝えるは」
「それは書いて」
秋人は希望理由の横へ書いた。
家族のことは書かなかった。
「次は歩く」
榎本が言った。
「休憩が終わってからです」
理沙が先に言う。
榎本は時計を見た。
「十分休憩」
柏木は反対しなかった。
十分後、校門から体育館へ続く通路へ台車が置かれた。
空の給水容器が三個載っている。
満水ではない。
台車の横には、汚物袋を運ぶ経路を示す白い紐がある。
「前へ三メートル。後ろに小倉。台車が来たら通路を空ける」
榎本が言った。
「盾で台車を止めるな。人へ押し付けるな。門の外へ出るな」
柏木は復唱した。
「三メートル進む。後ろは小倉さん。台車が来たら道を空ける。人に盾を当てない。門の外には出ない」
盾を持ち上げる。
秋人が開始時刻を書く。
柏木は通路の中央へ一歩出た。
小倉が後ろにつく。
二歩目で、盾の縁が白い紐の上へ入った。
台車を押す大人が止まる。
通れない。
「停止」
榎本が言った。
柏木は止まった。
「何を塞いだ」
柏木は盾の横を見た。
「台車の道です」
「人もだ」
柏木の右側には、体育館から校門へ向かう通路があった。
盾と門柱の間は、人一人が横向きで通れる程度しかない。
「どこへ動く」
柏木は壁際の白い印を見た。
「右の印まで下がります」
「後ろを確認」
柏木は顔だけを動かそうとした。
盾で視界が切れる。
「小倉さん、右は空いてますか」
「右、空いてる」
柏木は壁際へ下がった。
盾を正面へ向けたまま、足を横へ運ぶ。
下端が白い紐へ引っかからないよう少し持ち上げる。
台車が通れる幅ができた。
「台車は通れます」
柏木が言った。
台車が横を通る。
車輪の音。
空容器がぶつかる音。
柏木は台車ではなく、校門の方を見ていた。
通り過ぎた後、小倉が言った。
「まだ俺が通ってない」
柏木の目が動く。
盾と壁の間に、小倉の肩が入らなかった。
柏木はさらに半歩前へ出た。
小倉が後ろを通る。
「自分が通れたかじゃない」
榎本が言った。
「後ろが通れたか確認しろ」
「分かりました。次は小倉さんが抜けるまで待ちます」
もう一度、最初の位置へ戻る。
前へ三メートル。
今度は一歩目から壁際を使った。
小倉の足音を聞く。
「小倉さん、後ろにいますか」
柏木が言った。
「いる。右は空いてる」
「こっちから右側が見えません。そのまま進んでいいですか」
「いい。空いてる」
柏木は進む。
防弾窓から見える場所だけで動かなかった。
見えない側を言葉にした。
途中で榎本が、通路の左へ木箱を置いた。
柏木からは盾の陰になり、上端しか見えない。
「左に箱があります。上だけ見えます」
柏木が言った。
「大きさ」
「高さは分かりません」
「近づくな。後ろへ確認」
「小倉さん、大きさを見てください」
「膝くらい。通れるが、そのままだと足を引っかけるぞ」
柏木は歩幅を狭めた。
箱の手前で盾を少し壁側へ寄せる。
自分の足が箱を越えても、すぐには進まなかった。
「後ろ、箱を越えましたか」
「越えた。進んでいい」
小倉の返事を聞いてから、次の一歩を出した。
戻る時、盾を先に向けたまま後退する。
歩幅はさらに小さくなった。
「段差」
小倉が言う。
柏木は右足で位置を探った。
下端を少し上げる。
固定台まで戻った。
時間は四分二十秒だった。
「しびれは出ていますか」
理沙が聞く。
「今はないです」
「痛みはどうですか」
「肩が、さっきより少し痛いです」
柏木は場所を指した。
最初より早く答えた。
盾を固定台へ戻す。
休憩。
午前の校門には、人が途切れなかった。
給水容器を洗いに出る者。
校庭裏へ一斗缶を運ぶ者。
西荻北方面の照会を求める者。
避難所へ戻る世帯。
灰犬は校門の外側にいた。
小銃を持った隊員が、道路側を見ている。
避難所の入口は、成人門衛が見ていた。
休憩中、真衣が空の給水容器を一つ抱えて通りかかった。
容器は大きく、歩くたびに膝へ当たっている。
母が後ろから、両手で持つよう言っていた。
真衣は固定台の盾を見た。
「今日は持ってないの」
柏木は椅子に座ったまま答えた。
「今は休憩。盾はそこに置いてる」
「盾を置いてるとき、誰が門を見るの」
柏木は校門を指した。
「小倉さんが見てる」
真衣は小倉を見た。
「柏木くんは?」
「休んで、次の確認を待ってる」
「休憩も仕事?」
柏木は少し考えた。
「さっきまでは、違うと思ってたけど」
理沙が横から言った。
「次に動けるように休むのも、決められた作業です」
真衣は空容器を持ち直した。
「じゃあ、今は休む係だね」
「それは係じゃないだろ」
柏木はすぐに否定した。
真衣は少し笑った。
「盾がない時は、何見るの」
柏木は校門へ来た人を見た。
「まず手を見る」
「手だけ?」
「持ってる物と、歩く速さ。それから、どこを見ながら来るか」
真衣は自分の両手を見た。
空容器の取っ手を握っている。
「私は水の入れ物」
「それは見れば分かる。両手も塞がってる」
「じゃあ大丈夫」
「大丈夫かどうかは、小倉さんが決める」
「柏木くんは決めないの?」
「見えたことを言う。決めるのは一人じゃない」
真衣は体育館の方へ戻った。
柏木は、盾ではなく、真衣が通った後の通路を見ていた。
高橋は柏木の登録票を持ってきた。
「これから十分だけ、実地確認をします」
柏木は立った。
「十分持つんですか」
「十分勤務する、ではありません」
高橋が答えた。
「盾を出す時間と、置く時間を含みます。成人門衛と一緒です」
小倉が竹刀を門柱へ置いた。
「俺が主担当。君は横」
「分かりました。先に決めず、見えたことを言います」
「誰かが走って出ても追うな」
「追いません。門の中に残ります」
「盾を置いてる時も、入口を見る」
柏木は固定台を見た。
「盾が仕事じゃなくて、入口を見るのが仕事ですね」
小倉が柏木を見た。
「そうだ」
左腕に巻くのは、登録青腕章ではなかった。
細い灰色の布に、警戒補助試行、と書かれている。
任務用仮識別。
番号はない。
秋人は任務票へ書いた。
責任者、小倉。
確認者、榎本。
健康確認、理沙。
記録、瀬戸秋人。
開始。
最初の二分、盾は固定台にあった。
柏木は小倉の横に立ち、校門へ来た人の手元を見ている。
袋。
空容器。
折り畳んだ照会票。
人の顔だけではなかった。
一人の男が、校門を通る直前に上着の内側へ手を入れた。
柏木の肩が動く。
盾へ向かう前に、男の手が出てきた。
小さな布袋を持っている。
小倉が言った。
「今、何を見た」
「門を通る前に、上着の内側へ手を入れました」
「何を出した」
「小さい布袋です」
「盾は」
「出してません。先に、何を出したか見えました」
「それでいい。見えたことを先に言え」
柏木は頷いた。
男は布袋を開き、照会札を取り出した。
危険な物ではなかった。
危険ではないと、手が出る前から決めたわけでもなかった。
台車が校庭裏から来た。
一斗缶が四個載っている。
門から外へは出ない。
給食室脇の区画へ回すため、校門前を横切る。
小倉が言った。
「通路」
柏木は門柱と台車の間を見た。
「このままだと足りません。入口の人に壁側へ下がってもらいます」
「誰を」
「照会を待ってる人です」
柏木は盾に触れず、照会を待つ男へ言った。
「台車が通ります。壁側へ」
男は一歩下がった。
台車が通る。
三分。
校門の外で声が上がった。
灰犬隊員が手を上げる。
道路の角から、二人が走ってきた。
一人は腕に布を巻き、もう一人は何も付けていない。
「盾」
小倉が言った。
柏木は倒れ止めを外した。
盾を持ち上げ、壁際の指定位置へ出す。
中央には出ない。
灰犬隊員が二人を道路側で止めた。
柏木からは、門柱の左側が見えない。
「門柱の左が見えません。外の二人はどうなってますか」
「灰犬一名。二人を停止中」
小倉が答える。
柏木は防弾窓から正面を見る。
走ってきた二人の声は聞こえた。
善福寺川。
帰路で二人。
確認済み。
連絡票。
言葉は途切れていた。
灰犬隊員が、避難所側へ手を向けた。
「一名、照会票。武器なし確認」
小倉が応じる。
「一名入れる。柏木、位置そのまま」
「この位置を動きません」
腕章のある男だけが校門へ近づいた。
柏木は盾を人へ押し出さない。
壁際に置いたまま、小倉が確認できる幅を残す。
男の手には封筒があった。
汚れている。
小倉が受け取る前に、男へ両手を見せさせた。
柏木は男の顔より、封筒と上着の脇を見ていた。
柏木が言った。
「右手は見えます。左手が封筒の陰です」
小倉が位置を変えた。
「左も見えた。何も持ってない」
封筒は高橋へ回されることになった。
男は門内へ入らず、灰犬側へ戻る。
「盾、戻せ」
柏木は一歩下がった。
固定台へ向かう。
その途中で、左手の位置を変えた。
「どうした」
榎本が聞いた。
柏木は止まった。
「左の小指がしびれました。今、出ました」
秋人は時計を見た。
盾を持ち上げてから、二分四十秒。
「交代」
小倉が言った。
柏木は返事をしなかった。
持ち手を握ったまま、固定台を見ている。
「柏木」
榎本が呼ぶ。
「申告した。次は交代だ」
柏木の呼吸が一度、深くなった。
「誰が代わりますか」
「小倉」
小倉が柏木の右側へ入った。
「下だけ持つ。君が台へ戻す」
柏木は頷いた。
小倉が盾の下端を支える。
柏木は持ち手から手を離さない。
二人で固定台まで運んだ。
下端を木枠へ入れる。
倒れ止めを留める。
柏木は左腕を保持帯から抜いた。
右手も持ち手から離した。
小倉はすぐに校門内側へ戻った。
成人門衛の位置へ入る。
竹刀を持ち、道路と入口を交互に見る。
持ち場は空にならなかった。
柏木は固定台の前にいた。
両手が盾から離れている。
左手を開く。
小指が少し遅れた。
「終了」
榎本が言った。
秋人は時計を見た。
交代時刻を書く。
柏木は校門を見ていた。
小倉がそこにいる。
柏木が言った。
「入口、見えてますか」
「見てる」
小倉は振り返らずに答えた。
理沙が柏木を椅子へ座らせた。
しびれの範囲を確認する。
呼吸。
肩。
前腕。
指。
「出た時に言えました」
理沙が言った。
柏木は褒められた顔をしなかった。
「でも、交代しました」
「はい」
「自分の持ち場を離れました」
「交代したので、離れていいんです」
柏木は自分の左手を見た。
「俺がしびれたって言わなかったら、どうしてましたか」
理沙は答えなかった。
榎本が校門を見たまま言った。
「こちらで止める」
「見ている人も、止めるのが遅れたら?」
「そのために、本人申告と、監督者と、時間制限を重ねる」
柏木は顔を上げた。
本人が言った。
小倉が交代した。
理沙が体を見た。
秋人が時間を書いた。
一つだけで入口を守る手順ではなかった。
「次に戻る時は、俺が決めるんじゃないんですね」
榎本が答えた。
「次の任務票で決める。勝手には戻らない」
柏木は少し黙った。
「分かりました。任務票が出るまで待ちます」
高橋が登録票へ書いた。
登録番号。
付与保留。
登録状態。
確認中。
任務区分。
条件付き警戒補助。
識別。
任務用仮識別。
条件。
成人門衛と組む。
単独勤務不可。
校門内側のみ。
外側巡回不可。
追跡不可。
盾の常時保持なし。
体調悪化時、即時申告。
携行武器。
なし。
盾。
警察備品仮管理。
灰犬責任下。
本人使用、条件付き。
見直し日。
三日後。
「正式登録ではありません」
高橋が言った。
「番号もまだ付けません」
柏木は番号欄を見た。
空欄だった。
「それでも、警戒補助には入れるんですか」
「条件付きです」
「盾を置いている時間も?」
「警戒補助です」
高橋は登録票を柏木へ向けた。
入口確認。
異常、死角、来訪者の動作を成人門衛へ報告。
柏木はその二行を読んだ。
「盾を持つ、とは書いてない」
「盾は道具です。担当そのものではありません」
柏木はもう一度、二行を読んだ。
柏木は固定台の盾を見た。
黒い正面。
小さな防弾窓。
白い被弾痕。
持ち手は見えない。
「次の担当は」
高橋が聞いた。
柏木は校門の小倉を見た。
「今は小倉さんです」
「あなたの次回確認は」
「三日後です」
「今の持ち場は」
「休憩です。勝手には戻りません」
高橋は頷いた。
「盾を持っていない時の担当は」
柏木は校門を見た。
「来た人の手と、持っている物を見る。通路が塞がりそうなら先に言う。見えない場所は、小倉さんに確認します」
「追う?」
「追いません」
「外へ出る?」
「出ません」
「一人で立つ?」
「一人では立ちません」
高橋は条件欄の横へ確認印を付けた。
秋人は登録票の記録補助欄へ署名した。
瀬戸秋人。
荻一〇二二。
開始時刻。
静止保持三分。
移動確認四分二十秒。
実地確認。
盾保持中、二分四十秒で左小指側しびれ申告。
成人門衛へ交代。
固定台へ返納。
持てる時間は、一つではなかった。
立っているだけの三分。
歩く四分二十秒。
入口で必要になってからの二分四十秒。
そのどれも、次に同じだけ持てるという意味ではない。
秋人は最後に書いた。
本人申告により交代。
柏木は盾から離れ、体育館入口の椅子に座っていた。
校門には小倉がいる。
盾は固定台にある。
入口は空いていなかった。
午前の終わりに、秋人は柏木の登録票を持って職員室前の机へ戻った。
柏木は体育館入口の椅子に残り、校門を見ていた。
そこへ灰犬の連絡員が来た。
先ほど校門で受け取った、汚れた封筒を持っている。
高橋が受領時刻を書いた。
封筒の表には、
善福寺川方面帰路。
死亡確認票、二通。
給水点記録、照合要。
とあった。
秋人は椅子から立たなかった。
高橋が封を開く。
一枚目の氏名欄が見えた。
片瀬志保。
二枚目。
片瀬晴人。
昭栄公園の給水点で聞いた名前だった。
蓋のない鍋。
清潔な小容器。
二百ミリ。
秋人は机の端にある給水照会票を見た。
片瀬志保申告。
同行外一名。
氏名未確認。
状態未確認。
次回連絡便で再照会。
死亡確認票は二通だった。
給水点の照会票には、同行外一名と残っていた。




