二・五リットル
昭栄公園への給水行は、その後も何度か続いていた。
前の給水記録には、違う種類の不足が同じ欄へ入っていた。
翌朝、高橋の机に、受領票と帰着記録が並んでいる。
受領予定、五百六十リットル。
給水点側割当減、四十リットル。
容器不備による受領不可、四十リットル分。
実受領、四百八十リットル。
帰着確認、四百三十五・五リットル。
受け取る予定だった量と、避難所で確認できた量の差は、百二十四・五リットルだった。
その内訳には、受け取る前に減った水と、受け取った後に減った水が混ざっている。
漏出、十六リットル。
途中使用、六リットル。
医療区画先行使用、二十リットル。
原因未確定、二・五リットル。
数字は足せた。
足せることと、どこで減ったか分かることは別だった。
秋人は鉛筆の先を、不足の欄で止めていた。
「予定量との差と、受領後の差を分けましょう」
高橋が言った。
机の横には理沙がいた。手には避難所内の水置場を描いた紙がある。
「用途も分けてください。給水点で飲用可として渡された水。医療用に優先する水。処理予定で、まだ飲用に回せない水。手洗いと清掃に使う水。それから、使用保留」
理沙は、一つずつ場所を指した。
体育館脇。
給食室前。
発熱者区画の入口。
校庭の南端。
荻窪小学校には、水がないわけではなかった。
受水槽の底に残った水。
雨を受けた容器。
プールから汲み上げた水。
近くの建物から運ばれ、出所の確認が終わっていない水。
けれど、同じようには使えない。
採った場所が違う。容器が違う。濁りも匂いも違う。煮沸や塩素処理を予定していても、それだけで飲めると決められない水があった。
「置場を分けても、札が外れたら分からなくなるぞ」
小倉が扉の近くで言った。
「だから容器番号も要ります」
理沙は答えた。
「飲用と書いた容器へ、清掃用を足さないでください。医療優先分を、帰着確認の前に持っていく時も記録を残してください」
前回の二十リットルは、校庭で全体量を測る前に発熱者区画へ運ばれていた。
水そのものは消えていない。
記録の順番から外れていた。
秋人は、医療区画先行使用の横へ書き足した。
帰着確認前。
受渡し先、発熱者区画。
「これで二十は分かります」
高橋が言った。
「漏れた十六と、途中で使った六も、聞き取りはできます」
秋人は原因未確定の欄を見た。
二・五リットル。
そこだけは、聞く相手も、容器も、使い道も書かれていなかった。
校庭では、空のポリタンクが三列に並べられていた。
給水へ持ち出すのは二十九個だった。
二十リットル容器が二十八個。
予備の空容器が一個。
一般飲用、二十三。
医療優先、五。
受領予定は、合わせて五百六十リットルだった。
持ち出す数を決める前に、使えない容器が列から外されている。
蓋の合わないもの。
底に細い亀裂があるもの。
内側に油の匂いが残っているもの。
容量表示が消えたもの。
前回は、給水点まで運んだ後で二個が使えないと分かった。
水はあった。
入れるものがなく、四十リットルを受け取れなかった。
高橋が番号を読み上げ、小倉が蓋を締めた。
「荻一、飲用一。内側」
「異常なし」
「蓋」
「締まる」
「容量」
「二十」
秋人は容器番号表へ丸を付けた。
野上は二台目の台車へしゃがみ込み、取っ手へ通した紐を引いていた。昨日受け取った青い腕章には、荻一〇二三とある。
「それ、結び直すのか」
小倉が聞いた。
「緩いです」
「空だからだ。水が入れば張る」
野上は紐から手を離さなかった。
「じゃあ、入った後にもう一回見ます」
小倉は少し黙り、別の結び目を指した。
「見るなら全部見ろ。一本だけ直しても、ほかが外れたら同じだ」
野上は台車の反対側へ回った。
満水後は、一人で容器を持ち上げない。
台車の固定と蓋を確認する。
成人運搬員と二人で扱う。
野上の任務票には、そう書かれていた。
秋人の任務票には、記録補助とある。
同行先、昭栄公園指定給水点。
帰着予定、正午前後。
携行武器、なし。
母は給食室前で、その三行を読んだ。
「遅れた時は」
「校門外の灰犬から連絡が来るよ」
「誰に」
「高橋さん。そこから避難所内へ知らせるはず」
母は帰着予定の欄をもう一度見た。
署名は求められなかった。
昨日の登録票へ書かれた、区域外同行への反対も消えていない。今回の給水行は、避難所周辺の個別任務として承認されていた。
「今回は記録だけ?」
「容器を運ぶのは手伝うかもしれない」
「水には」
「勝手には触らない」
母は頷いた。
真衣が、列の端にある空容器を指した。
「それだけ何も書いてない」
「予備だよ」
「水、入れないの?」
「使えない容器があった時に替えるため」
「使わなかったら?」
「空のまま持って帰る」
真衣は、空の容器と、飲用の札が付いた容器を見比べた。
「水があっても、入れるのがないと持って帰れないんだ」
「前回はそうだった」
真衣は予備容器の蓋を見た。
「これは閉まる?」
「閉まる」
「じゃあ、持っていけるね」
空容器を載せた台車は、校門を出ると乾いた音を立てた。
からからと容器が鳴る。
車輪が舗装の割れ目を越えるたび、取っ手同士がぶつかった。
灰犬隊員が前後に一人ずつついた。榎本は隊列の中ほどを歩き、小倉は先頭の台車を押している。
野上は二台目の横で、結び目を順に見ていた。
秋人は最後の台車の後ろを歩いた。記録板には、二十九個の容器番号と、まだ入っていない水の量が書かれている。
空のものに、五百六十と書いてあった。
秋人はそのことに気づいてから、容器の音が少し違って聞こえた。
今は軽い。
帰りには、同じ道を五百六十キログラム近い水と一緒に戻る。
歩道には割れたガラスが残っていた。
店のシャッターには、所有者確認中、立入禁止、水場ではない、と別々の紙が貼られている。
電柱では、古い避難誘導の上へ、新しい通行制限が重ねられていた。
善福寺川に近づくと、湿った匂いが強くなった。
水の匂いではない。
泥と草と、腐ったものの匂いだった。
橋の手前で、人の列が見えた。
昭栄公園指定給水点。
公園の看板の下に、管理局の掲示がある。
登録避難所別受領。
個人受領は保留列へ。
容器確認必須。
医療申告は救護担当へ。
未登録者への直接配水、原則停止。
遊具には紐が張られていた。
砂場の横に空容器が積まれ、ベンチは記録机になっている。給水車から伸びたホースの先だけ、地面が濡れていた。
水を待つ場所なのに、足元の水は誰も汲まなかった。
ホースの継ぎ目から、細い水が落ちている。
係員が洗浄用と書かれたバケツを下へ置いた。
飲用の容器には移さない。バケツが半分まで溜まると、別の係が公園入口の泥を流すために運んでいった。
同じ給水車から出た水でも、落ちた場所と受けた容器で使い道が変わっていた。
秋人は、前回記録の漏出欄を思い出した。
こぼれた水と、飲める水は、量だけなら同じだった。
ここでは同じものとして戻さなかった。
木へ掛けた札ごとに列が分かれている。
荻窪第一。
桃井第二。
井草方面。
西荻北。
個人申告。
保留。
容器不備。
列は札の前で曲がり、途中から重なっていた。
蓋のない鍋を持つ人。
やかんを抱えた老人。
空のペットボトルを袋へ詰めた人。
子どもを背負った人。
全員が、給水車の方を見ていた。
三枝は公園の外周にいた。
灰犬隊員の位置と、列の出口を順に見ている。秋人たちに気づくと、榎本へ手を上げた。
「荻窪、遅れなし。容器二十九」
榎本が報告した。
「一個は予備です」
秋人が付け足すと、三枝は記録机を示した。
「先に向こうの係と合わせろ」
ベンチの端に、短い髪の少女が座っていた。
前髪が汗で額へ貼りついている。
袖口は水に濡れ、乾きかけたところだけ色が薄い。
左腕に青い識別帯があった。
荻窪の登録青腕章より細く、端の縫い方も留め方も違う。金属の鳩目はない。
桃二〇四。
番号は、机の給水点控えにある登録一覧と一致していた。
昨日、秋人が清書した時、水原千尋は四文字の名前だった。
その横に十六歳、記録補助、給水量記録と並んでいた。
用紙には、汗で貼りついた前髪も、濡れた袖口もなかった。
秋人は見比べたまま、少し止まっていた。
少女は、長さの違う鉛筆を三本、記録板の上へ並べていた。使っている一本は短く、数字の桁を縦に揃えて書いている。
顔を上げる前に言った。
「避難所名は」
「荻窪小学校避難所。登録上は荻窪第一居住区」
「受領予定」
「五百六十リットル」
「容器数」
「入水二十八。予備一。合計二十九です」
そこで少女が顔を上げた。
秋人の記録板を見てから、左腕の番号を見る。
「荻一〇二二」
「はい」
「新しい形式ですね」
少女は荻窪側の番号一覧と照合し、受領票へ書き写した。
秋人は、先に見ていた名前を思い出した。
桃井第二仮登録所。
十六歳。
記録補助。
給水量記録。
「水原千尋さん」
少女は短い鉛筆を止めた。
「水原でいいです。ここだと、苗字の方が呼ばれてすぐ気付けるので」
「水原」
「はい」
水原は秋人の容器番号表へ目を戻した。
「この一覧、容量がありません」
「全部二十リットルです」
「予備も?」
「二十です」
「同じでも、書いてください。途中で容器を替えたら分からなくなります」
秋人は容量の列を作った。
二十。
二十。
二十。
水原の集計表には、容器番号、容量、用途、受領量、保留理由が並んでいる。
「運ぶ人の名前は書かないんですか」
秋人が聞いた。
水原は自分の表を見た。
「給水点側は、受領代表だけです」
「途中で聞く時、誰に聞けばいいか分からなくなります」
水原の目が、秋人の同行者欄へ動いた。
小倉。
野上。
成人運搬補助六名。
「荻窪側に残るなら、あとで合わせます」
「判断した人も」
「何の判断ですか」
「途中で使った時とか、別の場所へ渡した時」
水原は一度、給水点の集計表を見直した。
空いている右端へ、細い縦線を引く。
担当・判断者。
「ここへ入れます」
秋人は容量を書き終えた。
水原は、今引いた縦線の幅を見た。
狭すぎたらしく、隣の保留理由欄を少し詰める。迷わず書いているように見えたが、一度作った表を崩すことには時間がかかった。
秋人は、自分の記録板にも同じような跡があることを知っていた。
人が増えるたびに、最初にはなかった欄が増えた。
水原の集計も、最初から完成していたわけではなかった。
水原は前回分の控えを取り出した。
「荻窪の前回記録、持っていますか」
秋人は高橋から預かった束を出した。
水原は最初に数字を見た。
受領予定。
割当減。
容器不備。
実受領。
帰着。
指先が、順に欄を下りる。
「合計は合っています」
「二・五が合っていません」
「合計と、分け方は別です」
水原は三つの場所を指した。
「給水点で出せなかった四十。容器が使えず、受け取れなかった四十。受け取った後の差、四十四・五」
水原の鉛筆が、その下を分けた。
漏出、十六。
途中使用、六。
医療先行使用、二十。
原因未確定、二・五。
「同じ不足にすると、次に直す場所が分かりません」
秋人は、自分の記録と水原の集計を見比べた。
秋人の紙には、誰が運び、どこへ渡したかが多く書かれている。
水原の紙には、どの容器から、どれだけ減ったかが並んでいた。
どちらにも、ない欄があった。
「今日の帰着まで見れば、前回分も分かりますか」
「前回使った容器と、運んだ人に聞ければ」
水原は二・五の数字を見た。
「分からないことが分かるだけかもしれません」
秋人と水原が読み合わせをしていると、記録机の横で、声が上がった。
「子どもがいるんです」
蓋のない鍋を抱えた女が、個人申告の列から半歩出ていた。
隣に、八歳くらいの男の子がいる。泣いてはいなかった。女の腰へ額をつけ、目を閉じている。
給水点の係が手を上げた。
「医療申告は救護担当へお願いします。ここは避難所受領です」
「こんなの並んでたら倒れるわ」
「登録番号は」
「知らない」
後ろの列が詰まった。
その隙間を、別の男がポリタンクを抱えて前へ出ようとした。
容器の側面に泥が塗られている。
消し切れなかった文字が、その下に残っていた。
井草北。
榎本が男の前へ入った。
「容器を置いてください」
「空だよ」
「置いてください」
「拾ったんだ」
「拾得なら照会します」
男は容器を抱えたまま動かなかった。
灰犬隊員が横へ回る。
小銃は下を向いたままだった。
小倉が列と男の間へ立った。
「手を見せろ」
榎本の声は大きくなかった。
男は周りを見た。
それからポリタンクを地面へ置いた。
空の音がした。
「列の外へ。容器番号と所属を確認します」
「水は」
「照会の後です」
男は舌打ちをしたが、灰犬隊員の示した場所へ移った。
秋人には、その容器が盗まれたものか、拾われたものか分からなかった。
分かったのは、表示された場所と、持っていた人の申告が違うことだけだった。
水原は記録板を膝へ引き寄せた。
容器所属不一致。
本人申告、拾得。
給水札なし。
照会保留。
「不正、ではないんですか」
秋人が小声で聞いた。
水原は、不正と書きかけた跡を一本線で消した。
「まだ決まっていません」
蓋のない鍋を抱えた女が、もう一度言った。
「この子だけでも」
水原が顔を上げた。
「避難所は」
「西荻北」
「登録番号」
「分からないって言ってるでしょ」
「氏名」
「片瀬志保」
水原が書く。
「子どもの氏名」
「晴人。八歳」
「発熱はいつから」
「昨日の夜から」
「嘔吐は」
片瀬志保は答えに詰まった。
水原の質問が止まる。
救護、と書かれた腕章の女が列の横から来た。
「そこからは私が見ます」
水原は一歩下がった。
救護担当は晴人の肩へ触れ、呼びかけへの反応を確かめた。片瀬志保から、吐いた回数と、最後に水を飲んだ時刻を聞く。
秋人は氏名を書いた。
片瀬志保。
片瀬晴人。
八歳。
西荻北申告。
登録番号未確認。
「もう一人いるんです」
片瀬志保が言った。
水原の鉛筆が止まった。
「給水に来られない子がいるんです」
「その方の状態は」
片瀬志保は晴人を抱き寄せた。
「熱じゃない。怪我でもない。荷物を見てくれてるの」
水原は記録票の欄を見た。
登録人数。
同行人数。
医療申告。
どこにも入らなかった。
秋人は余白へ書いた。
同行外一名申告。
氏名未確認。
状態未確認。
片瀬志保へ再照会。
水原が、その行を見た。
「集計には入れられません」
「照会する人は残せます」
秋人が答えると、水原は少しだけ黙った。
自分の表の右端へ、照会先、と書いた。
片瀬志保。
名前を書いても、水を渡すかは決まらなかった。
救護担当が給水点係へ向いた。
「予備から二百ミリ。清潔な小容器で。ここでは全部飲ませない。西荻北の医療区画へ案内を付けて」
給水点係が、小さな蓋付き容器へ水を入れた。
救護担当は自分の担当印を記録票へ押した。
水原が書く。
発熱申告。
医療票なし。
給水点予備より二百ミリ。
救護担当判断。
西荻北医療区画へ案内。
後ろの列から声が出た。
「こっちにも子どもがいる」
「うちも熱が出てるんだ」
水原は顔を上げた。
声は変わらなかった。
「個人申告へ氏名と避難場所を書いてください。救護担当が順に確認します」
鉛筆の芯が欠けた。
小さな黒い破片が、記録票の上へ落ちる。
水原は一度だけ息を止めたように見えた。
折れた鉛筆を机へ置き、並べていた短い一本へ持ち替える。
平気だから声が変わらないのではないのかもしれない。
秋人がそう気づいた時には、水原は次の氏名を聞いていた。
片瀬志保は、小さな容器の蓋を両手で包んでいた。
晴人はまだ目を閉じている。
二百ミリの水を受け取っても、列から消えるわけではなかった。救護担当が西荻北へ戻る人間を探し、同行者が決まるまで、親子は保留札の脇へ移された。
秋人の記録には名前が入った。
水原の記録には量と判断者が入った。
それでも、もう一人の氏名は空いたままだった。
荻窪分の給水が始まった。
容器番号を読み、給水点係がホースを入れる。
水が容器の底へ当たる音がした。
初めは軽い。
水位が上がるにつれ、音が低くなる。
「荻一、飲用一。二十リットル」
水原が読む。
「受領、二十」
秋人は、運搬担当と積載台車を書く。
「小倉。第一台車」
「荻一、飲用二。二十リットル」
「受領、二十。成人運搬補助、第一台車」
二人の記録は、同じ容器を違う順番で追っていた。
水原は量から入り、秋人は人を付けた。
秋人が容量を書き、水原が運搬担当を書き加える。
何個か進むと、聞き返す回数が減った。
「荻一、医療一。二十。赤札」
理沙が用意した赤い用途札が、取っ手へ結ばれる。
一般飲用の容器とは別の台車へ載せた。
野上が満水の容器へ手を伸ばした。
「二十リットルです。二人で」
水原が言った。
「持てます」
「持てるかではなく、二人運搬です」
野上は水原を見た。
水原はもう次の容器番号を確かめている。
小倉が反対側の取っ手を持った。
「上げるぞ」
野上は言い返さず、二人で台車へ載せた。
置いた後、蓋を押し、固定紐を引く。
「こっち、緩いです」
野上が申告した。
小倉は結び目を見た。
「締め直す。隣も見ろ」
野上は次の容器へ移った。
二十八個目に蓋が締まり、予備容器だけが空のまま残った。
受領量は五百六十リットル。
給水点側の減量なし。
容器不備なし。
水原は二つの欄へ、零と書いた。
「前回の照合には、荻窪の容器と聞き取りが要ります」
水原が言った。
三枝は給水点責任者へ向いた。
「桃井第二から、こいつを荻窪の照合へ回せるか」
「桃井の帰着分は誰が見る」
水原が先に答えた。
「午前分の転記が残っています。保留列の控えも途中です。帰着分の確認者が要ります」
給水点責任者は、隣の机にいた成人記録員を呼んだ。
水原は自分の控えを開き、未転記の行と、保留票の束を示した。
「ここまで転記済みです。赤い留め具から後が未転記。桃井第二の帰着予定は午後二時」
成人記録員が復唱した。
「赤い留め具から後。帰着予定二時」
「保留票は別束です」
「別束」
給水点責任者が短期派遣票を出した。
派遣元、桃井第二仮登録所。
派遣先、荻窪小学校避難所。
目的、給水記録照合。
帰着連絡、翌日午後四時まで。
延長時、桃井第二へ連絡。
携行武器、なし。
未成年補助員同行。
桃井第二側管理担当、承認。
荻窪側受入担当、高橋修司。
水原は内容を読み、自分の番号を書いた。
桃二〇四。
「記録鞄は持っていきます」
「持っていけ」
三枝が言った。
水原は給水点責任者を見た。
「桃井第二の夕方集計は」
「引継ぎが終わったら、そっちの担当が見る」
「保留分の照会は」
「今日中に回答が来なければ、明朝へ繰り越す。お前の控えは持ち出さない」
水原は机に残す束と、荻窪へ持っていく束を分けた。
指先が一度、桃井第二の帰着予定表で止まる。
自分がいなくても続く形になっているか、最後まで確かめていた。
水原は鉛筆三本と赤鉛筆、前回控え、給水点集計を鞄へ入れた。
折れた鉛筆も捨てなかった。
帰り道は、行きより遅かった。
空だった容器の中で、水が揺れる。
段差を越えるたび、どぷん、と鈍い音がした。
台車の板が沈み、取っ手へ通した紐が張っている。
野上は蓋に手を置かず、結び目を見るようになっていた。
道幅が狭い場所では、一台ずつ進んだ。
角を曲がった先で、榎本が手を上げた。
全員が止まる。
道の端に、手押し車が倒れていた。
車輪が片方外れている。
泥へ水が広がり、その上へ薄く灰が落ちていた。
容器はない。
荷台には切れた紐だけが残っている。
灰犬隊員が周囲を確認した。
人影はなかった。
秋人は、泥の下から出ている札を見た。
井草方面。
その先は破れ、容器番号も氏名も読めない。
秋人は記録板へ書いた。
帰路、運搬具転倒。
井草方面札、一部確認。
人影なし。
容器不明。
水原は水の広がり方と、荷台の大きさを見ていた。
「量は分かる?」
秋人が聞いた。
「分かりません。地面へ染みた分と、流れた分が分けられません。容器の容量もありません」
水原は自分の控えへ書いた。
流出量、推定不能。
容量、未確認。
倒されたのか。
壊れて逃げたのか。
容器だけ持っていかれたのか。
どれも記録には入らなかった。
野上が二台目の台車へ戻り、固定紐を見た。
「ここ、少し動いてます」
小倉がそれを確認する。
結び目が一つ、段差で緩んでいた。
野上と小倉の二人で締め直した。
荻窪小学校へ着くと、校門の内側に空の椀を持つ人が集まっていた。
成人門衛が通路を空ける。
校門の外では、灰犬の天幕が風を受けていた。車両二台と、交代要員が見える。武器管理箱は天幕の奥にあり、避難所側からは見えなかった。
「先に帰着確認をします」
高橋が校庭へ出てきた。
「配布は、その後です」
列が少し動いた。
水が目の前にある。
それでも、すぐには飲めなかった。
理沙が医療優先の台車を受け取る。
「赤札はこちら。一般飲用と離してください」
小倉と成人運搬員が、容器を指定された位置へ移した。
野上は蓋と番号を読み上げる。
秋人は帰着時刻を書いた。
母は給食室前にいた。
洗浄用の水で拭いた椀を、伏せて並べている。
秋人を見ると、手を止めた。
「遅れなかったね」
「途中で止まった」
「何かあった?」
「倒れた手押し車があった。人はいなかった」
母の目が一度、校門の方へ動いた。
「先に記録を付けにいく?」
「うん」
「終わったら来て」
「分かった」
真衣は、台車の端にある空容器を見つけた。
「これ、空のままだね」
「予備。使わなかった」
「じゃあ、いらなかった?」
「今日はね」
秋人は蓋を確かめた。
「次は使うかもしれない」
真衣は空容器を軽く押した。
満水の容器とは違い、すぐに動いた。
「水が入ってない方も、戻すんだ」
「容器は減ってないから」
水原が、校庭の置場を見ていた。
高橋が近づく。
「桃井第二の水原さんですね」
「水原千尋。桃二〇四。給水記録照合で一時派遣です」
水原は短期派遣票を渡した。
高橋は派遣元、目的、帰着連絡を確認した。
「荻窪側の担当は私です。記録補助は瀬戸」
水原は秋人を見た。
「知っています」
高橋は少しだけ目を上げたが、すぐに校庭へ戻した。
「宿泊は女性用休息区画です。記録鞄は職員室の保管棚へ入れられます」
「鍵は」
「私と夜間担当が持っています」
水原は鞄の肩紐を握った。
「前回控えは、作業が終わるまで自分で持ちます」
高橋は無理に預かろうとしなかった。
「終わった時に、保管方法を決めましょう」
「置場を確認してください」
水原は一般飲用と医療優先の間を見た。
「この間隔だと、列ができた時に混ざります」
小倉が振り向いた。
「どこへ動かす」
水原は給食室の壁と、発熱者区画へ向かう通路を見比べた。
「医療優先を壁側へ。一般飲用は校庭側。赤札が列から見える向きにしてください」
「通路は」
「一人分空けます」
小倉は高橋を見た。
高橋が頷いた。
「その配置で」
水原が一人で人を動かしたわけではなかった。
高橋が決め、理沙が医療分を受け、小倉と野上が容器を運ぶ。
秋人と水原は、一本ずつ番号を合わせた。
現在分の受領量は五百六十リットル。
帰路で使用した水はない。
二本の蓋の周りが濡れていた。
計量容器で残量を確かめる。
荻一、飲用七。
受領二十。
帰着十九・六。
蓋緩み。
漏出推定〇・四。
荻一、医療三。
受領二十。
帰着十九・七。
取っ手側に水滴。
漏出推定〇・三。
もう一本は、容器の外側が濡れていただけだった。給水時に付いた水か、途中で漏れた水か判断できない。
水原は、漏出へ入れなかった。
「濡れてる」
秋人が言った。
「中の量は二十あります」
「じゃあ、漏れてない」
「漏れた後に別の水が付いた可能性もあります。でも、量は減っていません」
水原は外側濡れ、残量差なし、と書いた。
現在分は、
受領五百六十。
帰着五百五十九・三。
漏出推定〇・七。
原因未確定、零。
今回の水は、数字の上で帰ってきた。
水原は原因未確定の零へ、丸を付けなかった。
「ぜろなら終わりじゃないの」
真衣が、少し離れたところから聞いた。
水原は真衣を見た。
「全部の容器を配り終えるまでは、まだ変わります」
「飲んだら減るよ」
「配った量として残します」
「こぼしたら?」
「こぼした量です」
真衣は少し考え、空の予備容器を指した。
「何も入れなかったのは?」
「受領、零。未使用」
水原が答えると、真衣は納得したような、していないような顔をした。
「何もないのも書くんだ」
水原は予備容器の欄を見た。
「次に、なくなったのか使わなかったのか分けるためです」
秋人は真衣の横顔を見た。
昨日まで名前だけだった水原が、真衣へ空容器の説明をしている。
それを不思議だと思ってから、自分がまだ水原を名簿の中に半分残していたことに気づいた。
配布が始まった後、前回使った容器と担当者の聞き取りを行った。
小倉は、前回の帰路で台車の車輪へ泥が絡んだことを覚えていた。
「飲用の容器から使った」
「量」
水原が聞いた。
「ひしゃく二杯」
「どのひしゃくですか」
小倉は給食室の方を見た。
「黄色い柄のやつだ」
野上が取りに行き、同じひしゃくを持ってきた。
計量容器へ一杯入れる。
約〇・五リットルだった。
「二杯で、推定一リットル」
水原が言った。
「用途」
「車輪洗浄」
「判断者」
小倉は面倒そうに眉を寄せた。
それでも答えた。
「俺」
小倉が肩をすくめながら自分を指差した。
水原が書く。
途中使用六リットルのうち、
車輪洗浄一リットル。
判断者、小倉。
「そこまで要るのか」
小倉が聞いた。
「飲用として減ったのか、別の用途へ使ったのかが変わります」
水原は答えた。
秋人は、その横へ容器番号と担当者を書いた。
前回の六リットルは、一つの出来事ではなかった。
隊員が飲んだ水。
車輪へ使った水。
蓋を洗った水。
聞き取りをすると、使った場所と人が少しずつ戻った。
漏出十六リットルも、亀裂のあった容器と、締まり切らなかった蓋へ分けられた。
医療先行使用二十リットルには、受渡し先と受取担当が入った。
給水点側割当減四十。
容器不備四十。
漏出十六。
途中使用六。
医療先行使用二十。
発生した場所が、別々の欄へ移った。
それでも二・五リットルは残った。
夕方、高橋は水原の短期派遣票を避難所側の記録へ移した。
水原千尋。
十六歳。
桃二〇四。
桃井第二仮登録所。
記録補助。
荻窪小学校避難所、給水記録照合補助。
一時派遣。
携行武器なし。
帰着連絡、翌日午後四時まで。
水原は記録鞄を職員室の机の下へ置いた。
寝る場所は、女性用休息区画の端に決まった。
桃井第二へ戻る予定があるため、荷物は鞄一つのままだった。
夕食の配給を受け取った後も、水原はすぐには食べなかった。
前回控えの角を揃え、折れた鉛筆を小刀で削っている。短くなった鉛筆を捨てないのは、物が足りないからだけではないように見える。
芯の先を整えると、ようやく配給の器を引き寄せた。
冷めかけた粥を数口食べ、また記録へ戻る。
鞄はすぐそばに置いたままだ。
秋人は、食べるのが遅いのか、記録を止めるのが苦手なのか分からなかった。
「冷めるよ」
「もう冷めています」
「もっと」
水原は器に触れた。
「分かりました」
返事をしてから、もう一行だけ書いた。
秋人は、それ以上言わなかった。
夜になっても、秋人と水原は職員室にいた。
配布は終わっていた。
全員へ十分な量が渡ったわけではない。
一般飲用。
医療優先。
乳幼児のいる世帯。
調理。
高橋と理沙が順番を決め、受渡し量を別の記録へ移している。
秋人は前回分の氏名と担当を清書した。
水原は容器番号と量を集計し直した。
二人の間には、一リットルの計量容器があった。
底に水滴が残っている。
「この途中使用、担当者が一人足りません」
秋人が言った。
水原は聞き取り票を見た。
「量はあります」
「あとで聞き直せない」
「瀬戸の方は、この容器の容量がありません」
秋人は自分の記録を見た。
容器番号はある。
担当者もいる。
容量だけが抜けていた。
「二十」
「書いてください」
秋人は二十と書いた。
水原は担当者の空欄へ、要再照会と入れた。
「名前がないと、あとで誰に聞けばいいか分からない」
秋人が言った。
「量がないと、何を聞けばいいか分かりません」
水原は答えた。
同じことを言っているようで、同じではなかった。
秋人は人へ戻ろうとする。
水原は量が減った場所へ戻ろうとする。
片瀬志保の記録も、二人の間にあった。
水原の集計では、給水点予備二百ミリ。
救護担当判断。
西荻北へ案内。
秋人の記録では、片瀬晴人、八歳。
同行外一名。
片瀬志保へ再照会。
水原は、同行外一名の行を見た。
「人数へ入れると、登録数と合わなくなります」
「入れなくていい。照会先だけ残したい」
「照会が終わったら」
「その時に人数へ入れる」
水原は少し考えた。
「では、集計外。照会一件」
自分の表へそう書いた。
「氏名が分かったら、どこへ入れますか」
「西荻北の登録が確認できたら、西荻北。違ったら、その人のいる場所」
「場所も分からなかったら」
秋人は答えられなかった。
片瀬志保は、給水点で西荻北と申告した。
もう一人が同じ場所にいるとは限らない。家族とも、同じ名字とも、まだ決まっていない。
「照会を残す」
秋人が言った。
水原は、照会一件の横へ小さく期限欄を作った。
「いつまで」
「分からない」
水原は鉛筆を止めた。
「期限なしだと、終わった照会と残っている照会が混ざります」
「次の給水まで」
「次回日は未定です」
二人とも、しばらくその欄を見た。
最後に水原が書いた。
次回連絡便で再照会。
日付の代わりに、動くものが入った。
名前は人数にならなかった。
けれど、次に誰へ聞くかは残った。
前回分の集計へ戻る。
受領後差、四十四・五。
漏出十六。
途中使用六。
医療先行使用二十。
残り、二・五。
水原は最初の容器番号へ戻った。
秋人も、最初の担当者名へ戻った。
一度目と同じ数字だった。
二度目も変わらなかった。
計量容器の底で、水滴が一つ動いた。
水原はもう一度、集計を最初から始めた。
二・五リットルは、どの容器にも戻らなかった。




