クビライの玉座
一四〇七年九月、北京西方。
北京の城壁は、平野の向こうに長く伸びていた。
ティムール軍の先鋒が城外の村々を制圧してから、すでに十日が過ぎていた。
西と南の街道には騎兵が配置され、周辺の堡寨も大半が陥落していたが、城内にはなお多数の明兵が残っていた。
城壁の上には旗が並び、門楼の屋根が朝の光を受けている。
ティムールの本営は、城の西南にある高台に置かれていた。
天幕の周囲には親衛隊が陣を敷き、麓には騎兵と荷駄隊が広がっている。各地から徴発した穀物や飼料が運び込まれ、兵士たちは攻城兵器の組み立てを進めていた。
大天幕では軍議が開かれていた。
ジャハーンシャー・バルラスが、北京周辺の地図を広げていた。地図には城門と街道の位置が記され、捕虜から得た情報が書き加えられている。
「西の門には兵が集められております。壕も掘り直され、門前には木柵が築かれました。南側にはまだ二つの堡寨が残っておりますが、明日には攻撃できます」
ティムールは敷物に座り、右脚を伸ばしていた。傍らには杖が置かれている。
「城内は」
「兵はおよそ二万。ほかに民兵が集められております。守将は降伏を拒んでおりますが、城内では食糧の値が上がり、住民の間に不安が広がっているとのことです」
ティムールは地図を見たまま、次の報告を待った。
「皇帝は北方に兵を集めております。ブンヤシュリーとアルクタイはなお北の城の付近にあり、敵軍を引きつけております。ただし、こちらへ向かっているとの知らせはございません」
「西の軍は」
「北西の城から南下しております。山の関門へ通じる道を狙っているものと思われます」
ティムールは小さく頷いた。
しばらく地図を眺めてから、城内の中央を指した。
「クビライの玉座は」
ジャハーンシャーが答えた。
「かつて燕王が住んだ宮殿にございます。元の宮殿から移されたものと聞いております」
「どこだ」
ジャハーンシャーが地図の一点を指すと、ティムールはそこを見た。
やがて杖を取り、立ち上がった。
「西を攻めよ」
将軍たちは頭を下げた。
******
軍議が終わると、ジャハーンシャーはシャー・マリクとともに陣営の外れにある丘へ向かった。
そこからは北京の城壁がよく見えた。
城の西側には攻城兵器が並び、兵士たちが木材や石を運んでいる。南では騎兵が街道を巡回し、遠くの村から煙が上がっていた。
「宣府の敵軍が関門へ向かっているそうだな」
シャー・マリクが言った。
「山道には守備兵を残してある。だが、敵が大軍を送れば長くは持たぬだろう」
「糧道を断たれれば、この軍は飢える」
ジャハーンシャーは笑った。
「それを大アミールが知らぬとでも思うのか」
「そうは言っておらん」
「ならば、なぜここまで来た」
二人は城壁を見た。
ティムールは大同も宣府も攻めず、敵の主力を避けて北京へ進んだ。
明軍の城塞を背後に残したまま、長い山道を越えてきたのである。退路を脅かされる危険は、進軍を始めたときから分かっていた。
「アンカラでも、バヤズィトは自分の方が敵を追い詰めたと思っていた」
ジャハーンシャーが言った。
「大アミールは敵の背後へ回り、水場を押さえた。バヤズィトが戻ってきたときには、すでに戦う場所を選ばれていた」
「今度はヒターイの皇帝に同じことをさせるつもりか」
「北京を奪われれば、皇帝は兵を率いて来るだろう。しかも我らの退路を断てると思えば、急いで決戦を挑むかもしれん」
「そのとき、我らはどこにいる」
「それは大アミールがお決めになる」
シャー・マリクはしばらく黙っていた。
「ダマスクスのときもそうだった。城を囲んだだけで、すぐには総攻撃を命じられなかった。敵が何を恐れ、何を守ろうとしているかを見ておられた」
「ヒターイの皇帝が守ろうとしているのは、この城か」
「城だけではあるまい。かつて自分が住んだ都だ。しかも今は、大アミールご自身がここにおられる」
二人は再び北京を見た。
城壁の上には明軍の旗が並び、門楼の間を兵士たちが行き来している。その背後には、城内の屋根が遠くまで広がっていた。
「皇帝は来るだろうか」
シャー・マリクが尋ねた。
ジャハーンシャーは答えなかった。
******
翌朝、ティムール軍は北京の西側で攻撃を始めた。
夜明け前から弓兵が前進し、城壁へ向けて矢を放った。
明軍も門楼と城壁の上から弩を射かけ、壕に近づく兵士たちを押し返した。攻城兵器には火矢が浴びせられ、木製の盾や梯子が次々に燃え上がった。
ティムールは城壁から離れた高台に馬を止め、戦闘を見ていた。
西の門では、盾を持った歩兵が壕を埋めようとしていた。
明軍が石を落とすたびに兵が倒れ、後ろから新しい兵が進んでくる。門楼の上では太鼓が鳴り続け、煙の間から明軍の旗が見え隠れしていた。
昼過ぎ、南側の城壁から火の手が上がった。
ジャハーンシャーが報告に来た。
「南の堡寨を落としました。敵は城内へ退いております」
ティムールは南を見た。
「続けよ」
攻撃は翌日も続いた。
ティムール軍は西側で攻城兵器を動かし、城壁へ石を投げ込んだ。
明軍は壊れた箇所を修復し、夜になると城外へ兵を出して攻城兵器を焼こうとした。しかし、そのたびに待ち伏せしていた騎兵に襲われ、城内へ退いた。
三日目、城内から使者が現れた。
使者は降伏の条件を尋ねた。城内の兵と住民の生命を保証するなら、門を開く用意があるという。
ジャハーンシャーは使者をティムールのもとへ連れていった。
ティムールは使者の話を聞き終えると、しばらくその顔を見つめた。
「門を開けよ」
使者は頭を下げた。
しかし、翌朝になっても門は開かなかった。
城内では降伏を主張する役人と、抵抗を続けようとする将校たちが争っていた。守将は降伏派の役人を捕らえ、城門の警備を増やした。
ティムールはその報告を受けると、南側の攻撃を強めるよう命じた。
同時に、城内へ矢文を射込ませた。門を開く者は助命するが、抵抗を続ける者は容赦しないという内容だった。
さらに二日が過ぎた。
南側の城壁では激しい戦闘が続き、守備兵は何度も兵を入れ替えた。西側では攻城兵器が門楼を破壊し、城壁の一部が崩れた。
六日目の夜、城内で火が上がった。
降伏派の兵士たちが南の門を開き、ティムール軍を引き入れたのである。
城内へ入った兵士たちは門の周辺を制圧し、街路に沿って進んだ。明軍は市場や役所の周囲に柵を築いて抵抗したが、次第に押し返され、翌朝には主要な街路を失った。
西の門も開かれた。
ティムール軍の旗が城壁の上に掲げられ、門楼から明軍の旗が降ろされた。
北京は陥落した。
******
九月中旬、北京。
ティムールは朝のうちに入城することを命じた。
西の門の外には親衛隊が整列し、馬に乗った将校たちが命令を待っていた。
城門の周囲には戦闘の跡が残り、壕には折れた槍や盾が浮かんでいる。門楼の屋根は一部が焼け、黒く焦げた梁が露出していた。
ジャハーンシャーが馬を寄せた。
「宮殿までの道は押さえております。城内の残兵も捜索中でございます」
ティムールは頷いた。
「皇帝は」
「北方に兵を集めているとの知らせがございます。ブンヤシュリーはなお北の城の付近にあり、アルクタイが敵軍を牽制しております」
ティムールはそれ以上尋ねなかった。
従者が馬を引いてきた。ティムールは差し出された手を借りて鞍に上がった。
七十歳の身体には長い遠征の疲労が残り、右脚も以前より動きが悪くなっていたが、馬上では背筋を伸ばしていた。
親衛隊が進み始めた。
城門の前には、武器を取り上げられた明兵たちが跪いていた。彼らの背後には、城内から連れ出された役人や商人が集められている。
ティムールが近づくと、兵士たちは頭を地面につけた。
ティムールは彼らを見ず、門楼を見上げた。
高い煉瓦の壁が朝日に照らされていた。門の内側は暗く、馬蹄の音が反響している。
そのとき、門楼の上で何かが動いた。
親衛兵の一人が顔を上げた。
「上だ!」
叫び声とほとんど同時に、弓弦が鳴った。
矢は門楼の暗がりから飛び出し、ティムールの胸に突き立った。
衝撃で彼の身体が後ろへ反った。
手綱を握っていた右手が離れ、馬が驚いて横へ跳ねた。ティムールは鞍にしがみつこうとしたが、胸に鋭い痛みが走り、息が詰まった。
ジャハーンシャーが馬を寄せた。
「大アミール!」
ティムールは答えなかった。
胸元には矢羽が突き出し、その周囲の衣服が赤く染まり始めていた。彼は矢を見下ろし、左手で胸を押さえた。
門楼の上では、明兵がもう一本の矢をつがえようとしていた。
親衛隊の弓兵が一斉に射かけた。矢が煉瓦の壁に当たり、木の柱に突き刺さる。明兵は身を伏せたが、階段を駆け上がった兵士たちに取り押さえられた。
男は若かった。
鎧は汚れ、顔には煤がついていた。兵士たちが腕を掴んで引きずり出すと、男は抵抗したが、すぐに地面へ押さえつけられた。
「殺せ!」
親衛兵の一人が叫んだ。
別の兵が剣を抜いた。
そのとき、門の下から低い声が聞こえた。
「外へ出すな」
ジャハーンシャーが振り返った。
ティムールはまだ馬上にいた。親衛兵が左右から身体を支え、馬の手綱を押さえている。
顔色はすでに悪く、呼吸のたびに肩がわずかに動いていた。
「大アミール、すぐに医師を」
ティムールは門の内側を見た。
「カンバリクで死ぬ」
ジャハーンシャーは一瞬、言葉を失った。
「しかし、その傷では」
ティムールが彼を見た。
ジャハーンシャーは口を閉じた。
親衛隊は再び動き始めた。
******
城門を抜けると、広い街路がまっすぐ東へ伸びていた。
道の両側には煉瓦造りの塀が続き、その向こうに瓦屋根の家々が並んでいる。
街路は遠くまで見通すことができ、一定の間隔で南北の道が交差していた。
大きな屋敷は高い塀に囲まれ、門の前には石の獅子が置かれている。市場の周辺には商家が密集し、木の看板にはヒターイの文字が記されていた。
ティムールは馬上でそれらを見た。
胸の矢はまだ抜かれていなかった。衣服の内側では血が流れ、呼吸のたびに鋭い痛みが走った。
親衛兵が左右から身体を支えている。馬の歩みが揺れるたびに、ティムールは眉をひそめた。
ジャハーンシャーは医師を呼び寄せた。
医師は馬を降りるよう求めたが、ティムールは応じなかった。傷を調べようとして衣服に触れると、彼は手を払った。
「宮殿へ」
医師はジャハーンシャーを見た。
「このままでは……」
「分かっている」
ジャハーンシャーは答えた。
彼は前方の兵に、道を急いで確保するよう命じた。
街路の角には、武器を持った親衛兵が立っていた。
家々の扉は閉ざされ、窓の隙間から人々が外を窺っている。道端には荷車が放置され、割れた陶器が散らばっていた。
しかし、街路そのものは驚くほど広かった。
ティムールはサマルカンドやイスファハン、バグダード、ダマスクスを知っていた。どの都市にも大きな市場や宮殿があり、壮麗な建物が建ち並んでいた。
だが、この都では街路が長くまっすぐに伸び、区画が整然と並んでいる。建物の一つ一つだけでなく、都市全体があらかじめ定められた形に従って造られているようだった。
道を進むにつれ、宮殿の屋根が見えてきた。
幾重にも重なる瓦屋根が、広い空の下に連なっている。朱塗りの柱と緑の装飾が朝日に照らされ、門の上には金色の文様が輝いていた。
サマルカンドの青いドームとは違う美しさだった。
ティムールはしばらくその屋根を見ていた。
やがて唇がかすかに動いた。
「北京は……美しい」
声はかすれていた。
左右で身体を支えていた兵士たちにも、何を言ったのか聞こえなかった。
ジャハーンシャーが顔を近づけた。
「大アミール」
ティムールは答えなかった。
胸の奥で何かが詰まるような音がし、口元には血が滲んでいた。彼は息を吸おうとして胸を大きく動かしたが、空気が十分に入ってこなかった。
医師は再び馬を止めるよう求めた。
ジャハーンシャーはティムールの顔を見た。
「大アミール、もうすぐ宮殿でございます」
ティムールは目を開けた。
「進め」
親衛隊は速度を上げた。
******
燕王の宮殿には、すでにティムール軍の兵が配置されていた。
大門の前には武装した親衛兵が並び、内側の広場には明軍から奪った旗や武器が積み上げられていた。
宮殿の建物は戦火を免れ、赤い柱と黄色い瓦屋根が朝の光を受けていた。
ティムールの馬が門をくぐった。
広場に入ったところで、彼の身体が大きく傾いた。
ジャハーンシャーと親衛兵が慌てて支えた。
ティムールは手綱を握ろうとしたが、指に力が入らなかった。馬を止め、数人がかりで鞍から降ろした。
医師が駆け寄った。
矢は胸の右側に深く刺さっていた。医師は衣服を切り開き、傷の周囲を調べた。ティムールは苦しそうに息をしながら、医師の手元を見ていた。
「抜くな」
医師が言った。
「抜けば血が止まらなくなります」
ジャハーンシャーは頷いた。
「助かるのか」
医師は答えなかった。
ティムールが顔を上げた。
「中へ」
ジャハーンシャーは兵士たちに命じた。
ティムールを担架に乗せようとしたが、彼はそれを拒んだ。
左右から身体を支えられ、杖を握ろうとしたものの、立ち上がることも難しかった。
結局、兵士たちが彼の身体を抱えるようにして宮殿へ運んだ。
長い廊下を進む間、ティムールはほとんど目を閉じていた。時折、息を吸おうとして胸を大きく動かしたが、そのたびに顔が歪んだ。
大広間の扉が開かれた。
奥には、高い台の上に玉座が置かれていた。
金色の龍が背もたれに彫られ、肘掛けには雲の文様が刻まれている。年月を経て金箔の一部は剥がれていたが、磨かれた木の表面にはなお光沢が残っていた。
かつてクビライが座ったと伝えられる玉座だった。
ティムールは目を開けた。
ジャハーンシャーが顔を近づけた。
「大アミール、玉座でございます」
ティムールは何も言わなかった。
兵士たちは彼を台の上へ運んだ。
玉座の前まで来ると、ティムールは自分で身体を動かそうとしたが、右脚がついてこなかった。
ジャハーンシャーが肩を支え、別の兵が腰を抱えた。
ティムールは玉座に座った。
背もたれに身体を預けると、胸から小さな音が漏れた。医師が近づき、傷を押さえようとしたが、ティムールはもう手を払わなかった。
広間には将軍たちが集まり始めていた。
誰も大きな声を出さなかった。兵士たちは壁際に並び、ジャハーンシャーは玉座の傍らに立っていた。
ティムールはしばらく正面を見ていた。
広間の奥には大きな扉があり、その向こうに中庭が見えた。朱塗りの柱が並び、瓦屋根の上を白い雲が流れていた。
ジャハーンシャーが声をかけた。
「大アミール」
ティムールは目を動かした。
「皇帝が来れば、我らは迎え撃ちます。兵はまだ十分におります」
ティムールは何も言わなかった。
ジャハーンシャーはさらに言葉を続けようとしたが、やめた。
そのとき、広間の外から慌ただしい足音が聞こえた。
伝令が入口で膝をついた。
「西の門の周辺で火が出ております。兵が民家に押し入り、略奪を始めております」
ジャハーンシャーは玉座を見た。
ティムールは目を閉じていた。医師が胸の傷を押さえ、血に濡れた布を取り替えている。
「火を消させろ。宮殿へ近づけるな」
伝令が走り去った。
開け放たれた扉の向こうでは、青い空に黒い煙が昇っていた。
医師がティムールの手首を取った。
脈は弱く、速かった。胸の傷からはなお血が滲み、呼吸のたびにかすかな音が聞こえた。
ティムールは口を開いた。
ジャハーンシャーが身を乗り出した。
「大アミール」
しかし、声は出なかった。
ティムールはもう一度息を吸おうとした。胸が大きく動いたが、途中で止まり、喉の奥から低い音が漏れた。
ジャハーンシャーは彼の肩を支えた。
「大アミール!」
ティムールの目は開いていた。
彼は正面を見ていた。玉座の向こうには広間の扉があり、その先に宮殿の屋根が連なっていた。
やがて、まぶたがゆっくりと下りた。
医師が手首を握り直した。
しばらく脈を探していたが、やがて顔を上げた。
ジャハーンシャーは医師を見た。
「どうした」
医師は答えなかった。
「申せ」
医師は震える声で言った。
「お亡くなりに……」
ジャハーンシャーは玉座を見上げた。
ティムールは動かなかった。
かつてクビライが座した玉座に、ティムールは座っていた。
もう、立ち上がることはなかった。




