進撃
一四〇七年四月、エチナ。
春になっても、砂漠の朝は冷え込んだ。
夜明け前の陣営では、すでに数万の兵が出発の準備を進めていた。
天幕を畳む者、ラクダに穀物の袋を積む者、馬を水場へ引いていく者。革袋に詰めた水は部隊ごとに数えられ、荷車には干し肉と飼料が積み込まれていた。
軍の先頭が出発しても、最後尾が動き出すまでには半日以上かかるほどの大軍だった。
ジャハーンシャー・バルラスは、騎兵の隊列を抜けてティムールの大天幕へ向かった。
入口には武装した親衛兵が立ち、将校たちが順番を待っていた。中から出てきた男は、額に汗を浮かべていた。
天幕の中では、ヒターイ北辺の地図が広げられていた。明から得た地図をもとに、商人や捕虜の証言を書き加えたものだった。
山脈と河川、城塞の位置が記されているが、東へ行くほど不確かな箇所が増えている。
とりわけ陰山の北から東へ続く道は、水場の位置さえ十分には分かっていなかった。
ティムールは敷物に座り、将校たちの報告を聞いていた。右脚を伸ばし、杖を傍らに置いている。
七十歳の老人だったが、目は鋭く、報告する者が言葉を選んでいる間も、じっとその顔を見ていた。
西の縦隊はすでに出発の準備を終えていた。北の縦隊は馬の集結が遅れ、さらに二日を要するという。
報告した将校は、その理由を説明しようとしたが、ティムールが片手を上げると口を閉じた。
「明朝出せ」
それだけだった。
将校は頭を下げた。
集結していない馬をどうするか、遅れた兵をどこで合流させるかは、自分で考えなければならない。
ジャハーンシャーは地図の西端を指し、明軍の動向を報告した。
涼州会戦以来、明は河西の諸城に兵を増やし、寧夏方面にも騎兵を集めていた。
ヒターイの皇帝は、ティムール軍が再び南東へ進み、城塞を攻略しながら内地へ侵入すると考えているらしい。
ティムールは地図を眺めたまま、何も言わなかった。
ジャハーンシャーは続けて、ニンシャ方面に五千騎ほどの別働隊を出す案を述べた。
敵の斥候に姿を見せ、明軍の注意を引きつける。城塞を攻める必要はなく、敵が兵を集め始めたところで引き返せばよい。
ティムールは小さく頷いた。
それで軍議は一つ進んだ。
「ブンヤシュリーからも使者が参っております」
その名を聞くと、ティムールは初めて顔を上げた。
ジャハーンシャーは使者の口上を伝えた。
ブンヤシュリーはアルクタイの支持を得て諸部族を集め、南へ動く準備を進めている。
グイリチはなおカアンを称しているが、ブンヤシュリーの陣営ではすでに彼を正統のカアンとして遇していた。
使者は、ティムール軍がいつ東へ向かうのか知りたがっていた。
「奴の兵は」
「およそ三万と申しております。ただし、アルクタイの兵を含めた数でございます」
「三万」
ティムールは口元をわずかに動かした。
「自分で動けと伝えよ」
ジャハーンシャーは頭を下げた。
ブンヤシュリーがそれを聞いてどう思うかは分からない。しかし、ティムールがそれ以上の返答をするつもりのないことは分かった。
軍議が終わりかけたとき、ティムールは地図の東端に目を向けた。
そこには大きな城が描かれ、周囲からいくつもの道が集まっていた。
ジャハーンシャーは、ティムールがその城を見ていることに気づいた。だが、彼が何を考えているのかは分からなかった。
やがてティムールは杖を取り、立ち上がった。
将校たちは一斉に頭を下げた。
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五月、宣府。
趙彝は城壁の上を歩きながら、北方の山並みを眺めていた。
春の風が吹き、城外の畑には若い麦が伸び始めている。城門からは荷車が出入りし、街道を行く旅人の姿も見えた。
だが城壁の上では兵士たちが忙しく働き、崩れた箇所に土を詰め、煉瓦を積み直していた。城外の堡寨には新しい柵が設けられ、烽火台にも兵が増やされている。
趙彝は若いころ、宣府から万全、懐来にかけての築城に携わったことがあった。この地方の山々も、街道も、水場もよく知っていた。
北方から大軍が侵入するなら、どこかで明軍の守る道を通らなければならない。
問題は、どの道を通るかだった。
副将が城壁へ上がってきた。手には急報が三通あった。
一通は寧夏からで、帖木児の騎兵数千が賀蘭山の西に現れたという。
二通目は大同からで、北方の草原に多数の騎兵が見られたというものだった。
三通目は開平からで、本雅失里と阿魯台の軍が南下を始めたと報じていた。
趙彝は三通を読み比べた。
「帖木児の本軍は、どこにいる」
「まだ確かな報告はございません。大同の北に数万騎が現れたとのことですが、斥候が近づけず、数も分からぬそうです」
趙彝は眉をひそめた。
昨年の涼州会戦で、皇帝は西方から来た帖木児と戦った。明軍は大きな損害を受けたが、敵も無傷ではなかった。
趙彝は、帖木児がしばらく河西方面で兵を休め、再び寧夏か甘粛を攻めるものと考えていた。
ところが、敵は北へ動いた。
しかも、蒙古の諸部族も同時に動き始めている。
本雅失里は元朝の皇統を引く者であり、阿魯台はその軍事力を支える有力者だった。
彼らが開平方面へ南下すれば、明軍は東方にも兵を割かなければならない。
帖木児と本雅失里がどこまで通じているのかは分からなかった。
「北へ斥候を増やせ。大同にも知らせよ。敵の本軍がどこにいるか、まずそれを確かめねばならん」
副将が頭を下げた。
趙彝は城壁の外を見た。
街道には、馬に乗った伝令が西へ向かって走っていた。遠くの山々は、春の霞の中に沈んでいる。
あの山の向こうに、帖木児がいるのかもしれない。
そう考えると、趙彝は落ち着かなかった。
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六月、陰山北麓。
日が高くなると、地面から熱が立ち上った。
ティムール軍の縦隊は、谷沿いに東へ進んでいた。騎兵の後ろにはラクダと荷車が続き、さらにその後方を予備の馬群が進んでいる。
水場のある谷では、部隊ごとに順番が決められていたが、先に到着した兵士が勝手に水を汲み始め、後から来た部隊と争いになることもあった。
その日も、浅い池のほとりで二つの部隊が衝突した。
兵士たちは互いに怒鳴り合い、革袋を奪い合っていた。将校が馬を寄せて制止しようとしたが、興奮した兵士たちはなかなか収まらなかった。
そこへティムールが現れた。
騒ぎはたちまち静まった。
兵士たちは道を開け、将校が馬から飛び降りて跪いた。ティムールは水場を見渡し、争いの原因を尋ねた。
将校が説明すると、彼はしばらくその顔を見つめた。
「順番を決めたのは誰だ」
「私でございます」
「ならば守らせよ」
それだけ言って、ティムールは馬首を返した。
将校は青ざめた顔で立ち上がり、兵士たちを整列させた。命令に背いた者はその場で鞭打たれた。
ティムールは少し離れた丘に上がり、馬群を眺めた。
痩せた馬が一頭、兵士に引かれて歩いていた。脚を引きずり、何度も立ち止まっている。将校の報告によれば、昨日までに二百余頭の馬を失ったという。暑さと飼料の不足が原因だった。
ティムールは、歩けぬ馬を屠って肉を兵に分けるよう命じた。
兵士が馬を群れから離していく。
馬はしばらく抵抗したが、やがて諦めたように歩き始めた。
ティムールは黙ってその姿を見ていた。
四十年以上前にも、同じように馬を殺したことがあった。
あのときは、肉を分ける兵士もほとんどいなかった。フサインと、数人の従者。そしてウルジャイ。
乾いた丘陵が続く道を、彼らは何日も逃げていた。
その夜、ティムールは天幕に戻ってもなかなか眠れなかった。
外では馬が鳴き、兵士たちが水を運ぶ音がしている。革袋の栓を締める音を聞いているうちに、彼の意識は次第に遠い昔へ沈んでいった。
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一三六二年、マー・ワラー・アンナフル南方。
井戸は涸れていた。
ティムールが馬を降りて覗き込むと、底には乾いた泥がひび割れていた。従者の一人が縄を垂らしたが、桶は空のまま戻ってきた。
フサインは怒りを隠さなかった。
「昨日のうちに北へ曲がるべきだった」
「北には追手がいる」
ティムールは答えた。
「ここにもいるかもしれん。だが、水がなければ戦うこともできぬ」
二人はしばらく睨み合った。
ウルジャイが馬から降りてきた。
頭を覆っていた布をほどき、額の汗を拭っている。長い逃亡生活で頬は痩せ、唇は乾いていたが、彼女の目にはまだ力があった。
「兄上、喧嘩はあとにして」
「喧嘩ではない」
「そう見える」
ウルジャイは革袋を取った。中にはわずかな水しか残っていなかった。
「これを馬に飲ませましょう」
フサインが顔をしかめた。
「人間の分がなくなる」
「馬が倒れたら、私たちも歩くことになる」
ティムールは革袋を見た。
「半分だ」
ウルジャイは頷き、馬の口元に水を注いだ。
馬が舌を伸ばして水を舐める。残った水を彼女はフサインに渡した。
「兄上も」
フサインは一口飲み、袋をティムールへ渡した。ティムールも少しだけ口を湿らせた。
「お前も飲め」
ウルジャイは受け取ったが、すぐには飲まなかった。
「本当に次の谷には水があるの?」
「ある」
「昨日もそう言ったわ」
ティムールは笑った。
「昨日は道を間違えた」
「今日は?」
「今日は間違えぬ」
ウルジャイは彼を見つめた。
「あなたはいつもそう言う」
「そして、いつも生き延びている」
「今のところはね」
フサインが笑った。ウルジャイも笑った。
三人は再び馬に乗った。
日が傾くころ、遠くの丘の向こうに緑が見えた。水のある谷だった。
フサインが馬を速めた。
ウルジャイはティムールを振り返った。
「今度は当たったわね」
ティムールは答えず、彼女の後を追った。
******
ティムールは目を開けた。
天幕の外が白み始めていた。
しばらく身を起こさず、天幕の天井を見つめていた。外では兵士たちが出発の準備を始めている。馬のいななきと、荷車の車輪が軋む音が聞こえた。
やがて従者を呼び、衣服を整えさせた。
ジャハーンシャーが報告に来た。
ブンヤシュリーの軍が開平の北で明軍と衝突し、アルクタイが敵の前衛を破ったという。
捕虜と馬を得たとの報告だったが、戦果の数は誇張されている可能性が高かった。
一方、明軍は開平に兵を集め、ブンヤシュリーの南下を阻止しようとしていた。
ジャハーンシャーは、ブンヤシュリーがさらに南へ進めるかどうか分からないと付け加えた。
ティムールは報告を聞き終えると、東の山々を見た。
「進め」
それだけ命じた。
******
七月、宣府。
趙彝のもとに、三通の急報がほぼ同時に届いた。
一通は大同からで、帖木児の騎兵が北方に現れたという。
二通目は開平からで、本雅失里と阿魯台の軍が南下し、明軍の前衛を攻撃したというものだった。
三通目は、宣府の北へ出した斥候からだった。
敵軍を発見したが、その後を追った部隊が戻らない。
趙彝は三通を机に並べ、地図を広げさせた。
「帖木児の本軍は、まだ見えていないのか」
「はい。大同の北に数万騎が現れたとのことですが、旗と馬群を見ただけで、正確な数は分かりませぬ」
「敵の旗は幾つもある。馬群だけでは兵の数は分からん」
趙彝は地図の上を指でなぞった。
大同から東へ向かう道。宣府へ通じる谷。その南には蔚州があり、さらに東には紫荊関がある。
敵が宣府を攻めるなら、いずれ北方の谷から姿を現すはずだった。だが、帖木児はなかなか姿を見せなかった。
その日の夕方、負傷した兵士が十数人戻ってきた。
彼らは谷の奥で敵に包囲されたという。
先に現れた騎兵は少数だった。明軍が追うと退き、丘の向こうへ消えた。そこへ別の騎兵が現れ、左右から矢を射かけられた。
趙彝は負傷兵の話を最後まで聞いた。
「帖木児はいたか」
「見ておりませぬ」
「大きな旗は」
「黒い旗がございました」
「どこに」
「丘の上でございます」
「その下に誰がいた」
「遠くて分かりませぬ」
趙彝は兵士を下がらせた。
敵は明軍の斥候を狩っている。本軍の所在を隠すためだろう。
しかし、どこへ向かうのか。
趙彝は地図の南東を見た。
「蔚州へ知らせよ」
副将が顔を上げた。
「蔚州でございますか」
「敵が南へ曲がるかもしれん」
「しかし、宣府を攻める可能性も」
「だから宣府の兵は動かさぬ」
趙彝は立ち上がった。
「敵の主力を見つけるまで、こちらから決戦を挑むな」
******
七月下旬、北京。
劉福は木材を担いで城門へ向かっていた。
城門の周囲では、兵士たちが土嚢を積み、門扉の補強を進めていた。木工職人が何人も集められ、厚い板を切り、鉄の金具を打ちつけている。
劉福もその一人だった。
仕事は増えていたが、銭はなかなか払われなかった。市場では米の値が上がり、薪も高くなっている。城外から避難してきた農民が、門の近くで荷物を抱えて座っていた。
昼過ぎ、劉福は休憩のため城門の陰に腰を下ろした。
隣の職人が言った。
「蒙古が来るそうだ」
「蒙古なら、いつも北にいるだろう」
「今度は違うらしい。西の方から来る韃子だと」
「同じじゃないのか」
「知らん。帖木児とかいう大将がいるそうだ」
「蒙古の汗か」
「いや、汗は別にいるらしい。本雅失里とかいう」
「二人いるのか」
「もっといるかもしれん」
別の職人が口を挟んだ。
「西の大将は足が悪いそうだ」
「足が悪い?」
「昔、矢を受けたとか」
「それでどうやって戦う」
「馬には乗るらしい」
劉福は水を飲んだ。
城門の外では、兵士が荷車を調べている。以前ならそのまま通れた農民たちも、今は一人ずつ荷を開かされていた。
「本当に来るのかね」
劉福が言った。
「知らんよ。だが、城門をこんなに直しているんだ。何かあるんだろう」
夕方、劉福は家に戻った。
妻が米を炊いていた。
「また値が上がったわ」
「いくらだ」
妻が答えると、劉福は顔をしかめた。
「明日も役所へ行く。銭を払うよう言ってみる」
「払ってくれるの?」
「言わなければ払わん」
子供たちは部屋の隅で木片を積んで遊んでいた。
外から太鼓の音が聞こえた。城門を閉じる時刻だった。
******
八月初旬、蔚州北方。
ティムールの軍はここで南東へ進路を変えた。
先鋒が山道へ入り、後続の騎兵が谷を埋めた。荷車は一部を後方に残し、ラクダには軽い荷を積み直した。
明軍は東の関門に兵を集め、山道に柵を築いていた。弩兵が高所に配置され、狭い道には石が積まれている。
ジャハーンシャーは地図を持ってティムールのもとへ向かった。
関門を正面から攻めれば、大きな損害が出る。しかも宣府から明軍が南下しており、数日以内に後方へ到着する可能性があった。
ジャハーンシャーは、山道の状況と守備兵の配置を説明した。
ティムールは黙って聞いたあと、地図の一点を指した。そこには、関門の北側を回る険しい山道があった。
「ここを通せ」
ジャハーンシャーは地図を見た。
「馬は通れませぬ」
「歩かせよ」
それだけだった。
その夜、選抜された兵が山道へ入った。鎧を軽くし、短い槍と弓を持って岩場を登っていく。
馬は麓に残した。
翌朝、関門の西側で戦闘が始まった。
明軍は柵の内側から矢を放ち、石を落とした。ティムール軍の先鋒は何度も押し返されたが、昼過ぎになると山腹から別の部隊が現れた。
守備兵は急いで兵を回した。
その間に、正面の敵が再び攻撃した。
戦闘は夕方まで続いた。
二日目、明軍は外側の柵を失った。
三日目の朝、関門の背後にティムール軍の兵が現れた。守将は残った兵を集めて抵抗したが、午後には門を破られた。
関門の内側で火が上がった。
夕方には、ティムールの軍旗が長城の上に立った。
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八月中旬、宣府。
趙彝は紫荊関陥落の報告を受けた。
大同は健在だった。宣府も健在だった。居庸関には兵を集めてある。
それなのに、帖木児の軍は北京の西方へ抜けた。
趙彝は地図を広げて、敵の進路をたどった。
帖木児は河西の諸城を落とさず、大同も宣府も無視して、ただ東へ進んでいた。
明軍の主力を滅ぼしたわけではない。皇帝の都は南京にあり、北京を攻めたところで大明が滅びるわけではない。
それなのに、敵は北京へ向かっている。
趙彝には、その理由が分からなかった。
「騎兵を集めよ」
副将が頭を下げた。
「北京へ向かわれますか」
「いや。南へ出て敵の後方を脅かす」
趙彝は地図の紫荊関を指した。
「敵はここを通った。ならば糧もここを通る。道を断てば、北京の前で動けなくなる」
副将は命令を受け、急いで部屋を出ていった。
趙彝はしばらく地図を見ていた。
帖木児は何を考えているのか。
彼には分からなかった。
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八月下旬、北京西方。
ティムール軍の先鋒は、北京まで数日の距離に迫っていた。
明軍は各地から兵を集めている。皇帝自身が軍を率いて出てくる可能性もあった。
ティムールは野営地の外れで馬を降りた。
従者が杖を差し出した。
夕暮れの空には薄い雲が広がり、遠くの山々が赤く染まっていた。
ジャハーンシャーが報告に来た。
明軍は東に集結しているが、兵力はまだ分からない。ブンヤシュリーの軍は開平の北で動きを止め、アルクタイが明軍を牽制しているという。
ティムールは報告を聞き終えると、しばらく東を見た。
やがて、ブンヤシュリーへ使者を送るよう命じた。
南へ動け、と。
それ以上の説明はなかった。
ティムールは天幕へ戻った。
中には食事が用意されていた。彼は少しだけ食べ、杯の水を飲んだ。
従者が食器を下げると天幕の中は静かになった。
夜が更けても、ティムールはなかなか眠れなかった。
外では馬の鈴が鳴り、兵士たちが交代で見張りに立っている。遠くから水を汲む音が聞こえた。
革袋に水が注がれ、栓を締める音がする。
ティムールは目を閉じた。
やがて、音は遠ざかった。
代わりに、女の声が聞こえた。
「あなた、また怒っている」
ウルジャイの声だった。
******
ウルジャイは寝台に横たわっていた。
頬が痩せ、唇は乾いていた。額には汗が浮かび、呼吸は浅く、時折苦しそうに胸を上下させている。
ティムールは寝台の傍らに座り、彼女の手を握っていた。
医師はすでに三人呼んでいた。薬も与えた。祈祷も行わせた。それでも熱は下がらず、ウルジャイは日に日に弱っていった。
ティムールは医師たちに怒鳴り、別の薬を持ってこさせた。遠くの町にも使者を走らせた。彼女が何かを口にしたいと言えば、すぐに用意させた。
しかし、ウルジャイはほとんど食べられなくなっていた。
その日、彼女は朝から何度も目を閉じ、呼びかけてもすぐには返事をしなかった。
ティムールは彼女の手を握り、顔を覗き込んだ。
「ウルジャイ」
彼女はゆっくり目を開けた。
「いるわ」
声はかすれていた。
「医師が来る。今度はよく効く薬を持ってくる」
ウルジャイは小さく首を振った。
「もういいの」
「何が」
「そんなに怒らないで」
ティムールは答えなかった。
ウルジャイは彼の手を握り返そうとしたが、指にほとんど力が入らなかった。
「あなたは、いつも……」
言葉が途切れた。
ティムールは身を乗り出した。
「何だ」
彼女は何か言おうとした。
しかし、声にならなかった。
ティムールは耳を彼女の口元へ寄せた。
「聞こえぬ。もう一度言え」
ウルジャイはかすかに唇を動かした。
それきりだった。
ティムールは顔を上げた。
「ウルジャイ」
返事はなかった。
「ウルジャイ」
彼は彼女の肩に手を置いた。
胸はまだわずかに動いているように見えた。
ティムールは医師を呼んだ。
医師が近づき、彼女の手首を取った。しばらく脈を探し、顔を覗き込んだ。
その表情が変わった。
ティムールは医師の腕を掴んだ。
「何だ」
医師は答えなかった。
「何を黙っている」
「ティムール様……」
ティムールは医師を突き飛ばした。
「まだ生きている」
彼はウルジャイの身体を抱き起こした。
「ウルジャイ、起きろ」
彼女の頭が、彼の腕の中で傾いた。
ティムールは慌てて支え直した。
「ウルジャイ」
彼女の頬に触れた。
まだ温かかった。
「目を開けろ」
返事はなかった。
「ウルジャイ!」
彼は彼女を強く抱きしめた。
医師が何か言おうとしたが、ティムールは聞かなかった。
「水を持ってこい!」
従者が走った。
ティムールは彼女の唇に水を含ませようとした。しかし、水は口の端からこぼれ、寝具を濡らした。
「飲め。ウルジャイ、飲むんだ」
彼女は動かなかった。
ティムールは何度も名を呼んだ。
やがて声が震え始めた。
「ウルジャイ……」
彼は彼女の顔を両手で包んだ。
「頼む」
それまで一度も口にしたことのないような声だった。
「頼むから、目を開けてくれ」
彼女は答えなかった。
ティムールは顔を歪めた。
喉の奥から、獣のような声が漏れた。
彼は彼女を抱きしめ、肩を震わせた。
「ウルジャイ!」
叫び声が部屋に響いた。
従者たちは立ち尽くした。医師も近づけなかった。
ティムールは泣いた。
声を上げ、何度も彼女の名を呼び、彼女の髪に顔を埋めた。涙が頬を伝い、彼女の衣服を濡らした。
彼は何度も身体を揺すり、顔を覗き込み、また抱きしめた。
もう二度と彼女が目を開けないことを、どうしても受け入れられなかった。
かつて荒野で水を分け合い、追手から逃れ、何度も死を免れてきた女だった。
どれほど危険な道でも、彼女は彼とともに進んだ。
それなのに、今は何をしても動かなかった。
ティムールは彼女を抱いたまま、長い間泣き続けた。
******
ティムールは目を開けた。
天幕の外が明るくなっていた。
しばらく横になったまま、天井を見つめていた。
ウルジャイ・トゥルカン・アガは死んだ。
彼女の兄のアミール・フサインもバルフで死んだ。
ティムールが処刑した。
もう、半世紀近く昔のことだった。
遠くで馬が鳴いた。
やがて従者を呼び、起き上がるのを手伝わせた。
ジャハーンシャーが入ってきた。
「先鋒から報告が参りました。ヒターイの軍が東に集結しております」
ティムールは黙って聞いていた。
「皇帝の所在は、まだ分かりませぬ」
ティムールは杖を取り、立ち上がった。
「進め」
ジャハーンシャーは頭を下げた。
天幕の外に出ると、朝日が東の空に昇っていた。
騎兵たちが馬に乗り、旗を掲げている。遠くで太鼓が鳴り、軍勢がゆっくりと動き始めた。
ティムールは従者の手を借りて鞍に上がり、東の空を見た。
フビライは草原を出て、カンバリクに座した。
その都まで、あとわずかだった。




