オトラルの冬
一四〇五年二月。
シル川のほとり、オトラル。
ティムールが病に倒れたとき、シャイフ・ヌールッディーンは、まず軍の糧秣を調べさせた。
城外には何万もの馬がいた。
サマルカンドから運ばれた麦や乾草は倉に積まれ、さらに西から荷車が到着していた。
だが、冬の道は悪かった。車輪が雪に埋まり、凍った轍で車軸が折れた。シル川を越えた先には、もっと長い道が待っている。
ティムールは前年の暮れ、明を征服するためにサマルカンドを出発した。
冬にこれほどの大軍を動かすことには、出発前から反対があった。それでも誰も止められなかった。
そして今、遠征を命じた本人が寝台から起き上がれなくなっていた。
ヌールッディーンは兵糧の帳簿を閉じた。
「シャー・マリクを呼んでくれ」
従者が出ていった。
窓の外では雪が降っていた。
しばらくしてシャー・マリクが入ってきた。毛皮の外套に雪がついていた。
「容体は」
ヌールッディーンが尋ねた。
「変わらん。熱が高い。医師たちも困っている」
「話はできるのか」
「できる。今朝は飼葉の不足を聞いて、担当の将を叱りつけたそうだ」
ヌールッディーンはわずかに笑った。
「それなら、まだ大丈夫だろう」
シャー・マリクは笑わなかった。
「医師はどう言っている」
「今夜を越せるか分からんそうだ」
二人は黙った。
城外から馬のいななきが聞こえた。
「先鋒には予定どおり進ませるのか」
シャー・マリクが尋ねた。
「命令は変わっていない」
「陛下が亡くなられたら?」
ヌールッディーンは帳簿を開き直した。
「まだ生きておられる」
「だから今のうちに聞いている」
ヌールッディーンは顔を上げた。
「軍を引き返させるにしても、誰が命じる。ヒターイへ進むにしても、誰が率いる。陛下の名で出した命令は、陛下が亡くなればどうなる」
「ピール・ムハンマド殿下がおられる」
「カンダハールにな」
シャー・マリクは椅子に腰を下ろした。
「ここにおられるわけではない。サマルカンドにもおられぬ。ヘラートにはシャー・ルフ殿下がいる。タシュケントにはハリール・スルタン殿下がいる。西にはミーラーン・シャー殿下もいる」
「皆、陛下の御子や御孫だ」
「だから厄介なのだ」
ヌールッディーンは返事をしなかった。
シャー・マリクは声を落とした。
「誰がサマルカンドを押さえるか。それを考えている者は、もういるはずだ」
******
ティムールは寝台の上で目を開けた。
天井が見えた。
ここはオトラルの城だった。寝かされているのは、城主が明け渡した一室である。
六十八歳。
右脚には若いころの傷が残り、右手の指にも古傷があった。だが、身体がここまで言うことを聞かなくなったのは久しぶりだった。
「水を」
侍医が杯を差し出した。
ティムールは二口飲んだ。
「ヌールッディーンは」
「外におります」
「呼べ」
侍医はためらった。
「陛下、今はお休みを」
「余はヌールッディーンを呼べと言った」
侍医は頭を下げた。
ほどなくしてヌールッディーンが入ってきた。
「陛下」
「軍はどうしている」
「各隊、命令を待っております」
「先鋒は」
「出発の準備を整えております」
「いつ出す」
「雪がやめば、すぐにでも」
ティムールは顔をしかめた。
「雪がやむのを待っていたら、春になるぞ」
「馬が弱っております。飼葉の輸送も遅れております」
「馬が弱るのは知っている。だから何だ」
「軍を失うわけにはまいりません」
ティムールはヌールッディーンを見た。
「余は何のために、この冬に出陣した」
「明を討つためです」
「明は余の軍が来るのを知っている。春になれば、奴らは兵を集め、道を塞ぐ。雪の中を進む我らを、奴らは予想しておるまい」
「しかし、明に至るまでの道も長うございます」
「長いからこそ、早く出たのだ」
ティムールは咳き込んだ。
侍医が背を支えた。
「余の身体を案じているのか」
「はい」
「ならば早く明を討たせろ」
ヌールッディーンは頭を下げた。
「御意」
「シャー・マリクにも伝えよ。先鋒を動かせ。余は後から行く」
「承知いたしました」
ヌールッディーンは退出した。
廊下に出ると、シャー・マリクが待っていた。
「どうだった」
「先鋒を動かせと」
「それだけか」
「明を討たせろと仰せだ」
シャー・マリクは扉を見た。
「まだ、明を討つつもりでおられるのだな」
「そのために来られた」
「分かっている」
シャー・マリクは外套の襟を直した。
「だが、医師の話では、今夜を越せるかどうかだ」
******
その夜、ティムールの熱はさらに上がった。
侍医たちは交代で脈を取り、額に濡れた布を当てた。
時折、ティムールは目を開けた。何かを言いかけ、また目を閉じた。
夜半を過ぎたころ、突然、はっきりした声が出た。
「ソユルガトミシュ」
侍医は顔を上げた。
「陛下」
「ソユルガトミシュ・ハンを呼べ」
侍医は隣の男を見た。
ソユルガトミシュは十七年前に死んでいた。
かつてティムールは、チンギズ家の血を引くその男をハンとして擁立した。自らはアミールとして軍を率い、ハンの名のもとに命令を出した。
「陛下、ソユルガトミシュ・ハンは……」
「余が話す。連れてこい」
「承知いたしました」
侍医はそれ以上言わなかった。
ティムールは目を閉じた。
しばらくすると、今度は別の名を呼んだ。
「ジハーンギール」
侍医の手が止まった。
「ジハーンギールはどこだ」
長男ジハーンギールは二十九年前に死んでいた。
「陛下」
「馬を用意させろ。あれを先に行かせるな。余が話す」
侍医は寝台のそばに膝をついた。
「陛下、どうかお休みください」
「ジハーンギール」
声が弱くなった。
「余の馬を使わせろ」
それきり、ティムールは黙った。
侍医はしばらく待ち、隣の男に囁いた。
「ヌールッディーン殿を呼べ」
******
夜明け前、シャー・マリクはヌールッディーンとともに城内の小部屋にいた。
侍医から容体を聞き終えると、シャー・マリクは深く息を吐いた。
「亡くなったハンと御子息の名を呼ばれたのか」
「そうだ」
「意識は」
「戻ったり、混濁したりしている」
ヌールッディーンは窓際に立った。
「シャー・ルフ殿下には使者を送った」
「間に合うまい」
「分かっている」
「ピール・ムハンマド殿下にも?」
「送った」
シャー・マリクはしばらく黙っていた。
「ハリール・スルタン殿下はどうする」
「タシュケントにおられる」
「軍を持っておられる。サマルカンドにも近い」
「それがどうした」
「陛下が亡くなれば、ハリール殿下が最初に動ける」
ヌールッディーンは振り返った。
「陛下はまだ生きておられる」
「分かっている。だが、我らは軍を預かっている。陛下が亡くなってから考え始めたのでは遅い」
「お前はハリール殿下を推すのか」
「そうは言っていない」
「では誰だ」
シャー・マリクは答えなかった。
外で足音がした。
二人は口を閉じた。
衛兵が入ってきた。
「陛下がお呼びです」
******
そのころ、タシュケントではハリール・スルタンが軍の報告を受けていた。
二十一歳。
ミーラーン・シャーの息子で、ティムールの孫だった。
インド遠征にも従軍し、祖父の軍がどのように動くかを知っていた。若いが、兵を率いた経験もあった。
報告を終えた将が、もう一通の書状を差し出した。
「オトラルからです」
ハリール・スルタンは封を切った。
祖父が病に倒れたこと、熱が下がらないこと、先鋒にはなお進軍の命令が出ていることが記されていた。
ハリールは読み終えると、書状を折った。
「いつの報告だ」
「三日前でございます」
「その後は」
「まだ届いておりません」
ハリールは窓の外を見た。
雪の積もった中庭に、馬が二頭つながれていた。
「サマルカンドへの道は」
「通れます。ただし、荷車は遅れております」
「騎兵なら」
「問題ありません」
ハリールは頷いた。
「オトラルに使者を出せ。祖父上のご容体を確かめよ。どんな小さな変化でも知らせるように」
「御意」
「それから、軍を動かせるようにしておけ」
将は顔を上げた。
「オトラルへ向かわれますか」
「まだ決めていない」
「サマルカンドへは?」
ハリールは将を見た。
「余がサマルカンドへ行くと言ったか」
「いいえ」
「ならば、聞かれたことだけをせよ」
将は頭を下げた。
退出しかけたところで、ハリールが呼び止めた。
「待て」
「はっ」
「祖父上が亡くなられたという報せが来ても、すぐに兵に広めるな。まず余に知らせよ」
「承知いたしました」
将が出ていくと、ハリールはもう一度書状を開いた。
祖父は、これまで幾度も病や傷から立ち直ってきた。
今回もそうなるかもしれない。
だが、もし死んだら。
ハリールは書状を畳み、卓上に置いた。
******
オトラルでは、ティムールの容体が悪化していた。
シャー・マリクが寝台のそばに立つと、ティムールは目を開けた。
「シャー・ルフは」
「ヘラートにおられます」
「使者は」
「すでに送りました」
「もう一人出せ」
「御意」
「ピール・ムハンマドにも」
「承知しております」
ティムールは目を閉じた。
「ジハーンギールは」
シャー・マリクの顔がこわばった。
「陛下」
ティムールはしばらく黙っていた。
「……死んだな」
「はい」
「いつだった」
「二十九年前でございます」
ティムールは返事をしなかった。
シャー・マリクは寝台のそばに立ったまま、次の言葉を待った。
やがてティムールが言った。
「下がれ」
「御意」
シャー・マリクは退出した。
ティムールは目を閉じた。
馬の蹄の音がした。
目を開けると、アンカラの平原だった。
乾いた夏草が踏み荒らされ、遠くで土煙が上がっていた。オスマンの兵が逃げていた。バヤズィトの軍旗が倒れ、騎兵がその上を駆け抜けていった。
バヤズィトが連れてこられた。
かつてアナトリアに君臨したスルタンは、疲れ切った顔でティムールを見た。
ティムールは何か言おうとした。
だが、言葉が出なかった。
バヤズィトの顔が変わった。
トクタミシュだった。
かつて自分が助け、ジョチのウルスのハンに据えた男。のちに敵となり、幾度も軍を率いて戦った男だった。
「トクタミシュ」
ティムールは呼んだ。
男は振り返らなかった。
馬の蹄の音が遠ざかった。
今度は煙が見えた。
デリーだった。
城壁の向こうで家々が燃えていた。通りには死体が横たわり、兵たちが荷を運び出していた。
熱風が吹いた。
ティムールは馬上からその光景を見ていた。
煙の向こうに、ジハーンギールが立っていた。
「ジハーンギール」
息子は若かった。
ティムールが最後に見たときの姿だった。
「そこにいたのか」
ジハーンギールは答えなかった。
ティムールは馬を進めようとした。
だが、馬が動かなかった。
足元を見ると、馬はいなかった。
ティムールは寝台に横たわっていた。
身体が熱かった。
誰かが水を飲ませようとしていた。
「陛下」
ティムールは目を閉じた。
今度は薪のはぜる音がした。
乾いた木が燃える匂いがした。
その向こうに父、タラガイが座っていた。
ティムールは五歳だった。
******
一三四一年ごろ。ケシュの近郊。
夜の草原には風があった。
馬が数頭、暗がりで草を食んでいた。
ティムールは父の隣に座り、火を見ていた。
タラガイは薪を一本、焚き火にくべた。
「昔、チンギズ・ハンが世界を取ったころは、東にも西にも、まだ知らぬ土地があったそうだ」
ティムールは黙っていた。
「チンギズ・ハンは軍を四方に送った。山を越え、砂漠を越え、大きな川を渡った。遠くの王たちは金銀を差し出し、城の門を開けた。逆らった王は滅ぼされた」
父は火に手をかざした。
「やがてチンギズ・ハンは、四人の息子に世界を分けた。ジュチには日の沈む方の草原を、チャアダイにはこの土地を、ウゲデイには東の土地を、末のトルイには父祖の土地を残した」
「世界は四つになったのですか」
「そうだ。だが、大ハーンは一人だった。ウゲデイが継いだ」
「ほかの三人は従ったのですか」
「従った。チンギズ・ハンが決めたことだからな」
ティムールは頷いた。
「ウゲデイの時代には、遠くの国からも使者が来たという。西の果てからも、東の果てからもだ。馬を何度も替え、幾月もかけて来る者もいた。金や銀、絹や宝石を持ってな」
「皆、大ハーンの命令を聞いたのですか」
「そうだ。どの土地にもチンギズ・ハンの子孫がいて、大ハーンの命令が伝えられた」
「今は?」
「今は違う」
「なぜですか」
「長い年月が過ぎたからだ。チンギズ・ハンも息子たちも死んだ。その子供たちが大きくなり、また子供が生まれた。誰もが自分の土地を欲しがり、誰もが自分の兵を持った」
父は薪を動かした。
「兄弟が兄弟と戦い、叔父が甥と戦った。大ハーンが二人立ったこともあった。東の草原でも西の草原でも、チンギズ・ハンの子孫たちが争った」
「大ハーンが二人いたら、誰の命令を聞くのですか」
「自分が従うと決めた方だろう」
「二人とも大ハーンなのに?」
「二人ともそう名乗ったのだ」
ティムールは少し考えた。
父は続けた。
「そのころ、東にはフビライ・ハーンという男がいた。ヒターイへ行き、そこに座った。大きな都を持ち、数え切れぬほどの人間を治めたそうだ」
「ヒターイ?」
「東の果てにある国だ」
「どのくらい東ですか」
「ずっとだ。山を越え、砂漠を越え、まだその先だという」
「どのくらい馬を走らせれば着くのですか」
父は首を傾げた。
「さあな。行ったことがない」
「父上も知らないのですか」
「ヒターイまで行った者の話なら聞いたことがある。大きな川があり、畑がどこまでも続いているそうだ。町には人があふれ、絹を織る者が大勢いる」
ティムールは父を見た。
「フビライ・ハーンは、そこに座ったのですか」
「そうだ」
「どうして座ったのですか」
「大きな国を治めるためだろう」
「馬には乗らなかったのですか」
「乗ったとも。軍も率いたし、狩りにも出た。だが、都はヒターイに置いた。そこから諸国に命令を出したのだ」
ティムールは火を見た。
「遠くにいても、命令を聞いたのですか」
「聞いた者もいた。聞かぬ者もいた。カイドゥという男はフビライに従わず、長く戦った。こちらのチャアダイの子孫たちも争った」
「フビライ・ハーンは帰ってこなかったのですか」
「どこへだ」
「草原へ」
「北の草原へは行ったそうだ。だが、都は移さなかった」
ティムールは黙っていた。
父は話を続けた。
「西ではジュチの子孫たちが争い、こちらではチャアダイの子孫たちが争った。昔は一つだった世界が、今ではいくつにも分かれている」
「大ハーンはいないのですか」
「いる。ヒターイには今もフビライの子孫がいる。だが、こちらのハンたちが皆、その命令を聞くわけではない」
薪が崩れ、火の粉が舞った。
「父上」
「何だ」
「チンギズ・ハンが死んだとき、軍はどうなったのですか」
「息子たちが引き継いだ」
「それで、四つになったのですか」
「軍も土地も、それぞれの家に分かれた。だが、大ハーンのもとで一緒に戦うこともあった」
「大ハーンが死んだら?」
「次の大ハーンを立てる」
「皆が従わなかったら?」
「戦になる」
ティムールは何も言わなかった。
父は立ち上がった。
「もう寝るぞ」
ティムールも立った。
天幕へ向かいかけて、父を振り返った。
「父上」
「まだ何かあるのか」
「フビライ・ハーンは、ヒターイにずっと座っていたのですか」
「そういう話だ」
「大ハーンなのに?」
父は少し笑った。
「大ハーンだからこそ、座っていたのかもしれんな」
ティムールはそれ以上尋ねなかった。
父とともに天幕へ向かった。
******
「陛下」
誰かが呼んでいた。
ティムールは目を開けた。
最初に天井が見えた。
また、薪のはぜる音がした。だが、父の焚き火ではなかった。部屋の隅で侍医が火鉢に炭を足していた。
「陛下、お分かりになりますか」
ティムールは侍医を見た。
「ここは」
「オトラルでございます」
ティムールは目を閉じた。
しばらくして、口を開いた。
「何日だ」
「二月の十七日でございます」
「軍は」
「動いておりません」
ティムールは目を開けた。
「諸将を呼べ」
******
ヌールッディーンとシャー・マリクが呼ばれた。
ティムールは寝台に横たわったまま、二人を見た。
「ピール・ムハンマドは」
ヌールッディーンが答えた。
「カンダハールにおります」
「使者は」
「送りました」
「シャー・ルフは」
「ヘラートにおります」
「ハリールは」
「タシュケントにおります」
ティムールは目を閉じた。
「余の後は、ピール・ムハンマドに継がせる」
二人は膝をついた。
「ジハーンギールの子だ。余が決めた」
「御意」
「諸将にも伝えよ。ピール・ムハンマドを主として仰げ。余が死んでも、争ってはならぬ」
ヌールッディーンは頭を下げた。
「誓います」
シャー・マリクも頭を下げた。
「誓います」
ティムールは二人を見た。
「余の前で誓ったことを忘れるな」
「決して」
「ハリールにも伝えよ。余の命令だ」
「御意」
ティムールは咳き込んだ。
侍医が近づいたが、ティムールは手で制した。
「軍は」
「陛下」
「余は後継者の話をした。軍の話はまだ終わっておらぬ」
ヌールッディーンは顔を上げた。
「先鋒は出発の準備を整えております」
「いつ出す」
「陛下のご命令があれば、すぐに」
「ならば出せ」
シャー・マリクが言った。
「陛下、まずはお身体をお治しください」
ティムールはその男を見た。
「余が死ぬと思っているのか」
シャー・マリクは答えなかった。
「答えよ」
「医師たちは、危険な状態だと申しております」
「医師が明を討つのか」
「いいえ」
「ならば、余の命令を聞け」
シャー・マリクは頭を下げた。
「御意」
「先鋒を出せ。川を越えろ。余は後から行く」
******
二人が部屋を出ると、ヌールッディーンは廊下の壁に手をついた。
「どう思う」
シャー・マリクが尋ねた。
「後継者のことか」
「それもある」
ヌールッディーンは答えなかった。
「ピール・ムハンマド殿下を主と仰ぐ。誓いは立てた。だが、殿下は遠い。ハリール・スルタン殿下はタシュケントにいる。シャー・ルフ殿下はヘラートにいる」
「陛下の命令だ」
「分かっている」
シャー・マリクは声を落とした。
「我らが誓いを守っても、ほかの者が守るとは限らん」
ヌールッディーンは窓の外を見た。
雪がやんでいた。
「先鋒を出そう」
「陛下は」
「まだ生きておられる」
シャー・マリクは頷いた。
二人は階段を下りた。
******
翌朝、先鋒がオトラルを出発した。
兵たちは馬を引き、凍った道を進んだ。荷車が軋み、飼葉を積んだ駱駝が列を作った。
城内では、ティムールの熱が少し下がっていた。
侍医は脈を取り、もう一度確かめた。
「陛下」
ティムールは目を開けた。
「何だ」
「熱が下がっております」
「知っている」
「脈も昨日より強うございます」
ティムールは寝台の縁に手をついた。
「杖を」
侍医は驚いた。
「陛下、まだお立ちになるのは」
「余は立つ」
侍医が杖を差し出した。
ティムールはそれを握り、身体を起こした。
右脚に力が入らなかった。
一度、膝が折れた。
侍医が支えようとすると、ティムールは手で制した。
しばらく息を整え、もう一度立ち上がった。
今度は立てた。
「馬を」
侍医は頭を下げた。
******
シャー・マリクが城の中庭に入ったとき、ティムールはすでに外に出ていた。
毛皮の外套をまとい、杖をついていた。
顔は痩せ、頬はこけていた。歩くたびに右脚を引きずっていた。
それでも、自分の足で歩いていた。
シャー・マリクは馬から飛び降りた。
「陛下!」
ティムールは振り返った。
「先鋒は」
「川を越えました」
「兵糧は」
「後続の荷車が到着しております」
「道案内は」
「さらに三人、見つかりました」
ティムールは頷いた。
「馬を連れてこい」
黒い馬が引かれてきた。
ティムールは杖を従者に渡した。
鐙に足をかけようとしたが、右脚が上がらなかった。
従者が膝をついた。ティムールはその肩に手を置き、身体を持ち上げた。
鞍に腰を下ろすと、馬が一歩動いた。
ティムールは手綱を引いた。
ヌールッディーンも中庭に入ってきた。
「陛下、お身体は」
「余の身体なら、ここにある」
ティムールは馬上から二人を見た。
「軍を進めるぞ」
ヌールッディーンは頭を下げた。
「御意」
シャー・マリクも頭を下げた。
「御意」
ティムールは馬をゆっくりと歩かせた。
城門の外では、兵たちが道を開けた。
最初は誰も声を出さなかった。
やがて一人が叫んだ。
「大アミール万歳!」
別の兵が叫んだ。
「大アミール万歳!」
声は次々に広がった。
シャー・マリクはその声を聞きながら、馬に乗った。
数日前まで、軍の誰もが主君の死を覚悟していた。
ピール・ムハンマドの名が挙がり、ハリール・スルタンの動向が話題になり、シャー・ルフへの使者が走った。
だが、ティムールは生きていた。
シャー・マリクは前を行く老人の背中を見た。
右脚を引きずり、馬に乗るにも人の助けが必要な男だった。
その男が馬を進めると、数万の兵が動き始めた。
ティムールは振り返らなかった。
シル川の向こうには、まだ雪の残る草原が続いていた。
その先にモグーリスタンがあり、さらに東にヒターイがあった。
ティムールは馬の腹を蹴った。




