第5話 赤い口紅は戦闘開始の合図
第5話 赤い口紅は戦闘開始の合図
雨上がりの朝だった。
窓ガラスを伝っていた雫がゆっくり落ちていく。灰色だった空は少しずつ薄青く変わり始めていた。
絃は静かな部屋で、一枚の紙を見つめていた。
机の上には分厚いファイルが積まれている。
白鷺グループ資金流用記録。
不正送金履歴。
架空経費申請。
そして。
虐待記録。
絃は呼吸を止めるようにページを捲った。
録音データの文字起こし。
『役立たず』
『あんたなんか死ねばよかったのに』
『食べる価値もない』
そこに残っていたのは、自分が毎日浴びてきた言葉だった。
文字になると、こんなにも冷たい。
こんなにも残酷だったのかと、今さらみたいに胸が痛んだ。
「……全部、残ってたんですね」
向かいに座る深見蓮が淡々と答える。
「会長は、かなり前から記録を始めていました」
静かな声だった。
以前みたいに前へ出過ぎない。
必要以上に慰めない。
それが逆にありがたかった。
絃は次の資料へ手を伸ばす。
そこにはルナのインタビュー記事が並んでいた。
『孤独から生まれたデザイン』
『幼少期の苦しみを作品へ昇華』
『若き天才デザイナー』
笑いそうになる。
苦しかったのは、誰だったのだろう。
絃は記事の写真を指先でなぞった。
ルナは真っ白なスタジオで笑っている。
昔、自分が描いたデザイン画を抱えて。
「……これも私のですね」
「はい」
「このジャケットも」
「はい」
「このドレスも」
「ええ」
深見は短く答えるだけだった。
余計な言葉を足さない。
その沈黙が、逆に現実を重くした。
絃は目を閉じる。
思い出す。
眠れなかった夜。
冷たい屋根裏。
痛む指。
ルナの怒鳴り声。
『まだできないの!?』
『ほんっとノロマ!』
頬を叩かれながら、それでも描き続けたデザイン。
認められたかったわけじゃない。
ただ、服が好きだった。
誰かを綺麗にしたかった。
それだけだった。
なのに。
全部奪われた。
絃はゆっくり息を吐いた。
「……私、ずっと」
喉が震える。
「自分が悪いんだと思ってました」
深見は黙っている。
「鈍くて、暗くて、役立たずだから、嫌われるんだって」
窓の外で風が鳴った。
「でも違った」
絃は顔を上げる。
涙は出なかった。
その代わり、胸の奥が静かに熱かった。
「最初から、あの人たちは奪うつもりだった」
深見が小さく頷く。
「あなたは壊され続けていただけです」
その言葉が、胸へ深く刺さった。
壊されていた。
自分は。
ずっと。
絃は立ち上がる。
「……髪、切りたいです」
「今からですか」
「はい」
その声は驚くほど静かだった。
美容室はホテル街の近くにあった。
ガラス張りの店内は白く明るく、甘い香水とヘアオイルの匂いが漂っている。
「いらっしゃいませ」
美容師が笑顔を向ける。
絃は少し緊張しながら椅子へ座った。
鏡の中の自分を見る。
長い黒髪。
施設時代、結ぶことしかできなかった髪。
手入れをする余裕もなく、ただ伸び続けていた。
「どれくらい切ります?」
美容師が訊く。
絃は少しだけ考えた。
鏡越しに、自分の目を見る。
屋根裏で泣いていた少女。
施設で古着を縫っていた少女。
全部、まだここにいる。
でも。
もう終わりにしたかった。
「……肩まで」
「結構切りますね」
「はい」
ハサミの音が響く。
シャッ、シャッ。
黒い髪が落ちていく。
床へ散らばる。
まるで過去が剥がれていくみたいだった。
美容師が微笑む。
「すごく似合いますよ」
鏡の中には、知らない女がいた。
首筋が見える。
輪郭が出る。
目元が強く見えた。
絃は自分を見つめたまま、小さく息を吐く。
そのあと立ち寄った化粧品売り場で、絃は一本の口紅を手に取った。
真紅。
血みたいに鮮やかな赤だった。
「こちら人気ですよ」
店員が笑う。
「かなり印象変わります」
絃は静かに頷いた。
ホテルへ戻る。
洗面台の前。
白い照明が顔を照らしていた。
絃はゆっくり口紅の蓋を開ける。
甘い蝋の匂い。
震える指で唇へ滑らせる。
赤。
強い色。
母は昔言っていた。
『赤ってね、怖い色じゃないの』
『生きる色なのよ』
絃は鏡を見る。
施設の少女はいなかった。
そこにいるのは、静かに怒っている女だった。
深見が背後から言う。
「雰囲気が変わりましたね」
絃は鏡越しに彼を見る。
「怖いですか」
「いいえ」
深見は少しだけ目を細めた。
「ようやく本来の顔になった気がします」
絃は小さく笑った。
その時だった。
テレビからルナの声が流れる。
『次の慈善パーティーでは、新ブランド構想も発表予定です!』
画面の中でルナが笑っている。
香苗も隣で微笑んでいた。
『施設支援にも力を入れていて』
その言葉に、絃は静かにテレビへ近づく。
施設支援。
自分を捨てた人間が。
子供を踏みにじった人間が。
よくそんな顔をできる。
怒りで頭が熱くなる。
でも不思議と冷静だった。
以前みたいに泣き崩れない。
壊れない。
絃はテレビを見つめたまま呟く。
「……もう終わり」
深見が視線を向ける。
絃はゆっくり振り返った。
真紅の唇が静かに動く。
「今度は私が、あの人たちを裸にする」
その声は低く、静かだった。
けれど確かに。
戦いの始まりの音がした。




