第3話 18歳の黒いスーツ
第3話 18歳の黒いスーツ
雪混じりの雨だった。
二月の朝は暗く、施設の窓ガラスには白く曇った結露が張りついている。
絃はいつものように早く起きて、洗濯場でシーツを畳んでいた。
冷えた指先が痛む。
けれど、今日は少しだけ違った。
十八歳。
それだけだった。
特別な予定なんてない。祝ってくれる家族もいない。ただ戸籍の数字が変わるだけの日。
「絃ちゃん、おはよ」
小さな女の子が眠そうに目を擦りながら近づいてくる。
「おはよう」
「今日、誕生日なんでしょ?」
「……うん」
「これ、あげる」
差し出されたのは、折り紙だった。
少し歪んだ花。
ピンク色の紙は端がよれていて、それでも一生懸命折ったのがわかる。
絃は目を丸くした。
「……私に?」
「うん!」
無邪気な笑顔。
胸の奥がじんわり熱くなる。
「ありがとう」
絃が微笑むと、少女は嬉しそうに笑った。
「今日はいいことあるかもね!」
その言葉に、絃は曖昧に笑った。
いいこと。
そんなもの、もうずっとなかった。
朝食を終え、食器洗いをしていた時だった。
施設の外から低いエンジン音が響いた。
ゴウ、と静かな振動。
職員たちがざわつく。
「なにあれ……」
「高級車?」
絃も窓を見る。
黒塗りの車だった。
雨に濡れた車体が鈍く光っている。
こんな場所には似合わない。
車のドアが開く。
降りてきた男を見た瞬間、空気が変わった。
黒いコート。
細身の長身。
濡れた雨粒を払う仕草まで無駄がない。
男は施設を見上げると、真っ直ぐこちらへ歩いてきた。
革靴が濡れた地面を踏む音が響く。
職員の佐伯が慌てて出迎える。
「あ、あの、どちら様で……」
「九条です」
低く落ち着いた声だった。
「白鷺絃さんを迎えに来ました」
その瞬間、施設中の視線が絃へ集まった。
「……え?」
自分の名前を呼ばれ、絃は固まる。
男は静かにこちらを見る。
切れ長の目だった。
冷たそうなのに、不思議と威圧感だけではない。
「白鷺絃さんですね」
「……はい」
「初めまして。九条蓮司と申します」
男は名刺を差し出した。
そこには弁護士事務所の名前が刻まれている。
絃は戸惑いながら受け取った。
「弁護士……?」
「あなたのお父上、白鷺恒一氏の遺言執行人です」
心臓が止まりそうになった。
「……お父さんの?」
蓮司は小さく頷いた。
「お話があります。少しお時間をいただけますか」
応接室に通される。
古びたソファ。薄いコーヒーの匂い。
窓の外では雨が降り続いていた。
蓮司は鞄から分厚い封筒を取り出す。
古い羊皮紙のような色。
震える指で、絃はそれを見つめた。
「これは……」
「あなたのお父上から預かっていたものです」
蓮司の声は静かだった。
「白鷺絃さんが十八歳になった日に渡すよう、正式に依頼されていました」
絃の喉が鳴る。
恐る恐る封を切る。
中には、一通の手紙。
父の字だった。
見間違えるはずがない。
絃の視界が滲む。
『絃へ』
その文字だけで、胸が苦しくなる。
震える手で続きを読む。
『まず謝らなければならない』
『お前を守れなかった』
涙がぽたり、と紙へ落ちた。
『香苗がお前に向けていた悪意に、私は気づいていた』
『だが、私の病気は想像以上に進行していた』
『私が死ねば、お前は確実に狙われる』
絃は息を呑む。
『だから私は、お前を一時的に施設へ隔離した』
「……え……?」
声が漏れる。
蓮司は黙っていた。
『施設には私の後援が入っている』
『九条蓮司にも、お前を陰から守るよう依頼してある』
『お前には憎まれるかもしれない』
『それでも、生きていてほしかった』
絃の肩が震えた。
あの日の父の言葉が蘇る。
『もう少しだからな』
あれは。
全部、知っていたから――。
「そんな……」
涙が止まらない。
「だったら、どうして……っ」
もっと早く。
もっと何か。
叫びたいのに、声にならない。
蓮司が静かに口を開く。
「会長は最後まで悩んでいました」
会長。
父をそう呼ぶその声に、長い付き合いが滲んでいた。
「ですが、香苗さん側には反社会的な繋がりも疑われていました」
絃は顔を上げる。
「……え」
「あなたを表に置けば、命の危険があると判断されたんです」
背筋が冷えた。
蓮司は淡々と続ける。
「そして本日、あなたが十八歳になったことで、すべての権利が正式に移行されました」
鞄からファイルを取り出す。
「白鷺ホールディングス株式五十一パーセント」
紙が机に置かれる。
「ブランド“SIRAGI”経営権」
また一枚。
「白鷺邸宅および関連資産」
さらに一枚。
「預金口座、信託資産、特許権利」
絃は呆然とした。
「……全部……?」
「はい」
「私……の?」
「正式に、あなたのものです」
頭が追いつかない。
施設の薄暗い部屋。
冷えた食事。
穴の開いた制服。
そんな毎日から、突然別世界の言葉を突きつけられている。
絃は震える声で呟いた。
「……香苗さんたちは」
「現時点では、あなたの資産を不正使用していた立場になります」
蓮司の目が冷たく細まる。
「証拠も揃っています」
その瞬間。
胸の奥で何かが燃えた。
悔しかった。
苦しかった。
奪われた。
踏みつけられた。
母のミシンも、父の家も、自分のデザインも。
全部。
全部。
蓮司は静かに立ち上がる。
「最後に」
車へ戻った彼は、大きな箱を持ってきた。
「会長からです」
開けた瞬間、絃は息を呑んだ。
黒いスーツだった。
漆黒。
けれどただ黒いだけじゃない。
光の角度で、生地が静かに艶めく。
触れた瞬間わかる。
極上の布。
裏地には繊細な刺繍。
父の会社の技術だった。
「……綺麗」
思わず零れる。
蓮司が言う。
「会長は仰っていました」
静かな声。
「“絃はいつか、自分の足で立つ。その時、この服を鎧にしろ”と」
絃はスーツを抱きしめた。
布の匂い。
微かに残る新品の香り。
涙がまた溢れる。
でも今度は、前とは違った。
悲しみだけじゃない。
胸の奥で、熱が生まれていた。
怒り。
悔しさ。
そして。
立ち上がる力。
絃はゆっくり顔を上げる。
雨はまだ降っている。
けれど、もうあの日みたいに寒くなかった。
「九条さん」
「はい」
「……全部、返してもらいます」
蓮司は静かに微笑んだ。
それは初めて見る、人間らしい笑みだった。
「はい。お嬢様」
その瞬間。
施設へ捨てられた少女は終わった。
黒いスーツは喪服じゃない。
これは戦闘服だ。
絃はそれを纏い、静かに覚醒した。




