第2話 ガラス窓のない部屋
第2話 ガラス窓のない部屋
施設の朝は早かった。
まだ空が白み始める前から、廊下に響く足音と金属音で目が覚める。
「起床ー! 早く起きなさい!」
女性職員の声が飛ぶ。
絃は薄い毛布から身体を起こした。冷え切った空気が肌に刺さる。小さな部屋には鉄製の二段ベッドが並び、古い暖房はほとんど効いていない。
隣のベッドでは、小学生くらいの女の子が布団を頭まで被って震えていた。
「……寒い」
掠れた声。
絃は黙って、自分の毛布を少しだけその子へ掛けた。
「ありがと……」
少女は小さく笑った。
施設へ来て三ヶ月。
絃はようやく、この場所の空気に慣れ始めていた。
食堂へ向かう廊下は古びていて、床は軋み、壁紙は剥がれている。漂うのは消毒液と煮込み料理の匂い。
窓ガラスは曇っていた。
朝食は冷めた味噌汁と硬いパン。
「いただきます」
誰も楽しそうに食べない。
スプーンの音だけが響く。
絃は黙々と口へ運んだ。
豪邸にいた頃より食事は質素だったが、それでも空腹に怯えなくていいだけ、少しだけ安心できた。
「ねえ」
向かい側に座った少年が、じっと絃を見た。
「お前、前は金持ちだったんだろ」
「……」
「なんでこんなとこ来たの?」
周囲の視線が集まる。
絃は俯いた。
「……知らない」
少年は鼻を鳴らした。
「ふーん」
その言い方に、絃は慣れていた。
可哀想。
でも面倒には関わりたくない。
そんな視線。
施設の子供たちは優しくない。
自分が生きるだけで精一杯だから。
朝食後、子供たちは古い制服に着替える。
灰色のブレザー。色褪せたスカート。
袖丈の合わない制服を見下ろしながら、絃はふと母を思い出した。
『服はね、その人を守る鎧にもなるのよ』
母の声。
柔らかいミシン音。
優しい布の匂い。
胸が痛む。
「絃ちゃん」
職員の佐伯が声を掛けてきた。
五十代くらいの女性で、施設では珍しく穏やかな人だった。
「洗濯物、一緒にお願いできる?」
「はい」
裏庭に出ると、冬の空気が頬を刺した。
冷たい水に手を浸しながら、絃は黙々とシーツを洗う。
「……あんた、手ぇ綺麗ね」
佐伯がふと言った。
「え?」
「縫い物する手してる」
絃は少し驚いた。
「……わかるんですか」
「昔、洋裁やってたからねぇ」
佐伯は笑った。
「今どき珍しいよ。若い子でミシン触れるなんて」
絃は洗濯物を絞りながら、小さく呟く。
「……好きだったので」
「だった?」
「……」
言葉に詰まる。
好き、という言葉を使うのが怖かった。
あの家では、好きなものは全部奪われたから。
その日の夜だった。
倉庫整理を手伝っていた絃は、埃だらけの部屋の隅で古いミシンを見つけた。
布を被ったそれは、まるで忘れられた遺物みたいだった。
絃の呼吸が止まる。
ゆっくり布を外す。
黒い鉄製のボディ。錆びた車輪。
壊れている。
でも。
指先で触れた瞬間、胸の奥が熱くなった。
「……まだ動く」
「え?」
後ろにいた佐伯が首を傾げる。
「それ、廃棄するやつよ?」
絃はミシンを見つめた。
壊れていてもわかる。
丁寧に作られた機械だった。
「……直せます」
「え?」
「私、直したいです」
その夜。
消灯後の倉庫で、絃はひとりミシンを分解していた。
油の匂い。
金属の冷たさ。
指先が真っ黒になる。
小さな懐中電灯だけが手元を照らしていた。
カチャ、カチャ。
ネジを締める音。
壊れた部品を磨きながら、絃は夢中になっていた。
時間を忘れるくらい。
まるで死んでいた心臓が、少しずつ動き出すみたいだった。
「……すご」
振り返ると、いつの間にか子供たちが集まっていた。
「直るの、それ?」
「たぶん」
小さな男の子が目を輝かせる。
「お姉ちゃん、ミシン屋さん?」
絃は少し困ったように笑った。
「違うよ」
そして最後のネジを締める。
恐る恐るペダルを踏んだ。
ガタガタ、と揺れた後。
カタタタタッ――。
針が動いた。
子供たちが歓声を上げる。
「動いた!」
「すげぇ!」
絃は目を見開いた。
胸の奥が熱い。
壊れていたものが、生き返る。
その感覚に、涙が出そうになる。
翌日から、絃は空き時間に服を直し始めた。
寄付された古着はサイズもバラバラで、破れたものも多かった。
けれど絃は、それを少しずつ縫い直した。
余った布を足し、レースを付け、小さな刺繍を入れる。
「わぁ……!」
鏡の前で、女の子が目を輝かせる。
「これ、ほんとに私の?」
「うん」
「かわいい……!」
その笑顔を見た瞬間、絃の胸がじんわり温かくなった。
誰かが笑ってくれる。
自分の作った服で。
それが、こんなに嬉しいなんて。
「次、僕も!」
「ずるい!」
「お姉ちゃん、こっちも直して!」
子供たちが集まってくる。
騒がしい声。
笑い声。
施設へ来て初めて、絃は少しだけ笑った。
だがその頃。
テレビの向こうでは、別の世界が輝いていた。
『今話題の高校生デザイナー、白鷺ルナさんです!』
食堂の古いテレビ。
眩しいスタジオ照明の中で、ルナが笑っていた。
『今回のテーマは?』
「“傷ついた女の子でも輝ける服”です」
絃の手が止まる。
画面には、見覚えのあるドレスが映っていた。
胸元のカット。
裾のライン。
色の重ね方。
全部、自分のノートに描いていたものだった。
ルナが笑う。
「昔から、可哀想な子を見るのが放っておけなくて」
周囲が感嘆の声を上げる。
『優しいー!』
『天才!』
『神デザイナーJK!』
絃はテレビを見つめたまま動けなかった。
胸の奥が冷えていく。
苦しい。
吐きそうだった。
「……あれ」
隣にいた少女が首を傾げる。
「どうしたの?」
絃は唇を噛んだ。
言えなかった。
それが自分のデザインだなんて。
誰も信じない。
だって今、世界はルナを讃えている。
眩しい光の中で。
一方、自分は。
窓の曇った施設で、古着を縫っているだけの少女だった。
その夜。
絃はひとり倉庫でミシンを踏んでいた。
カタ、カタ、カタ。
針の音だけが響く。
悔しい。
悔しい。
悔しい。
けれど泣かなかった。
泣けば壊れてしまいそうだったから。
絃は震える指で布を握りしめ、小さく呟いた。
「……絶対に、忘れない」
ミシンの針が、まるで傷口を縫い合わせるみたいに静かに動き続けていた。




