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第1話 黒い喪服と、泥だらけの少女

第1話 黒い喪服と、泥だらけの少女


 母が死んだ日のことを、絃は匂いで覚えていた。


 消毒液。白い花。冷えた雨の匂い。


 病院の窓を打つ雨粒を見つめながら、絃は母の細い手を握っていた。かすかに骨ばった指先はもう熱を失いかけていて、それでも母は最後まで笑おうとしていた。


「絃……泣かないで」


 掠れた声だった。


「お母さんの代わりに、ちゃんと……生きるのよ」


「いや……っ、やだ……!」


 喉が裂けそうだった。涙で視界が滲み、母の顔がぼやける。


「まだ、服……一緒に作るって……約束したのに……!」


 母は弱々しく笑った。


「絃の作る服、好きだったなぁ……」


 その言葉を最後に、母の呼吸は静かに止まった。


 白い部屋から音が消えた。


 絃の世界からも、色が消えた。


 それからだった。


 継母の香苗が変わったのは。


「いつまで泣いてるの。みっともない」


 葬儀の準備で慌ただしい廊下。黒いヒールを鳴らしながら、香苗は冷たく言い放った。


 絃は振り返る。


 父の再婚相手である香苗は、喪服姿ですら完璧だった。艶のある黒髪、真珠のピアス、長い睫毛。まるで雑誌から抜け出してきたみたいに美しい。


 けれど、その目は氷みたいに冷えていた。


「お母さんが死んだからって、世界が止まるわけじゃないのよ」


「……」


「ほら、ぼさっとしてないで動いて。来客用のお茶、足りないから」


 絃は唇を噛んだ。


 以前の香苗は、まだ優しかった。


 少なくとも父の前では。


 だが母が死んでから、香苗は隠そうとしなくなった。


「ルナのドレス、まだ直ってないんでしょ? 本当にノロマね」


 背後から高い声が飛ぶ。


 振り返ると、義姉のルナが不機嫌そうに立っていた。


 高校生モデルとして人気を集め始めていたルナは、鏡を見ながら髪を巻いている。


「明日の撮影で着るんだから、ちゃんと仕上げてよ?」


「……わかった」


「は? 聞こえない」


「……はい」


 ルナは鼻で笑った。


「暗。だから嫌いなんだよね、あんた」


 その夜から、絃は屋根裏部屋へ移された。


 埃っぽい狭い部屋だった。


 窓は小さく、隙間風が寒い。古い木材の匂いと湿気が鼻につく。


 以前、自分が使っていた部屋は、もうルナの衣装部屋になっていた。


「ここ、今日からあんたの部屋ね」


 香苗はそう言って、薄い毛布を投げた。


「感謝しなさい? 普通なら追い出してるんだから」


 扉が閉まる。


 暗闇。


 絃は毛布を抱きしめ、小さく丸まった。


 泣き声を漏らしたら怒鳴られる気がして、唇を噛み締める。


 母が縫ってくれたパジャマの袖を握る。


 柔らかい布地だけが、まだ母の記憶を残していた。


 学校も辞めさせられた。


「学費の無駄」


 香苗はそれだけ言った。


「どうせあんたに才能なんてないし。ルナにお金かけた方が未来あるもの」


 代わりに絃は、毎日家事をやらされた。


 掃除、洗濯、料理、買い出し。


 そして深夜になると、ルナの衣装制作。


 ミシンの音だけが静かな部屋に響く。


 カタ、カタ、カタ。


 針が布を貫くたび、指先に痛みが走る。


 眠気で視界が揺れる。


 それでも止まれない。


「ねえ、まだぁ?」


 ソファでスマホをいじりながら、ルナが苛立った声を上げた。


「明日朝早いんだけど」


「……もう少し」


「遅っ」


 次の瞬間、頬に衝撃が走った。


 乾いた音。


 絃の顔が横へ弾かれる。


「とろいんだよ!」


 ヒリヒリと熱を持つ頬を押さえ、絃は俯いた。


 反抗したら、もっと酷くなる。


 だから黙るしかなかった。


 父だけが、そんな絃を庇ってくれた。


「香苗、やめないか!」


 珍しく怒鳴った父の声を、絃は今でも覚えている。


 書斎に響いた低い声。


「絃は君たちの使用人じゃない!」


 香苗はため息をついた。


「あなた、この子を甘やかしすぎなのよ」


「甘やかしてなんかいない!」


「だって本当に役立たずじゃない。この子」


 絃は廊下の陰で震えていた。


 父は絃を見ると、苦しそうに笑った。


「……すまない、絃」


「お父さん……」


 父の手は熱かった。


 咳も増えていた。


 それでも父は絃の頭を撫でた。


「もう少しだからな」


「え……?」


「……いや、なんでもない」


 その意味を、あの時の絃は知らなかった。


 冬の終わりだった。


 父が倒れた。


 病院の白い天井。機械音。薬品の匂い。


 痩せた父は、別人みたいだった。


「絃」


 弱った声で、父は呼ぶ。


「生きろ」


 それが最後の言葉だった。


 葬儀の日、空は灰色だった。


 黒い喪服を着た大人たちが、泣いたふりをしている。


 線香の煙が漂う。


 息が苦しい。


 父の遺影だけが、優しく笑っていた。


 焼香が終わった夜。


 香苗は冷たく言った。


「じゃあ、出て行って」


 絃は顔を上げた。


「……え?」


「施設、決まってるから」


 頭が真っ白になる。


「し、施設……?」


「うちはもう他人を養う余裕ないの。わかる?」


 ルナが笑う。


「ていうか邪魔だったし」


「待って……私……」


「荷物、それだけ?」


 香苗は床に小さなボストンバッグを投げた。


 中には着替えが数枚。


 母の形見は入っていなかった。


「お母さんのミシン……!」


「ああ、捨てたわよ?」


 世界が止まった。


「え……」


「ボロだったし」


 絃の喉から声にならない音が漏れる。


 胸の奥が引き裂かれる。


 香苗は面倒そうに眉を寄せた。


「うるさいわね。ほら、車来てるから」


 雨が降っていた。


 冷たい雨だった。


 施設の前で車を降ろされる。


 泥水が黒い靴を濡らした。


「じゃ」


 バタン、とドアが閉まる。


 赤いテールランプが遠ざかっていく。


 絃は追いかけなかった。


 追いかけても、誰も振り返らないと知っていたから。


 濡れた喪服が肌に張り付く。


 寒い。


 苦しい。


 それでも涙は出なかった。


 施設の古びた門を見上げながら、絃はただ小さく呟いた。


「……お母さん」


 雨音だけが、静かに答えていた。



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