<14番>の歌
夏休みまで残り2週間ほどになった頃、隼人はLentoとして公開する2曲目について、本格的に考え始めていた。
『夜明けの途中』は公開から50日以上が経過しても再生され続け、チャンネル登録者は10万人を超えている。学校でも曲名を耳にすることが珍しくなくなり、コメント欄には次の曲を待つ言葉も少しずつ増えていた。
だからといって、急いで似た曲を作るつもりはなかった。
「同じ雰囲気の曲を出すのが、一番安全なんだろうけどな」
自室の机に座った隼人は、これまで練習用として作ってきたデモを順番に聞いていた。『夜明けの途中』が好評だったのだから、似たテンポや音数、歌唱方法を使えば、最初の曲を好きになってくれた人には受け入れられやすいだろう。
だが、それを繰り返してLentoの形を固定するのは違うと思っていた。
Lentoという名前に込めた「ゆるやかに」という意味は、活動の速度について決めたものだ。静かな曲だけを作るという意味ではなく、まして『夜明けの途中』に似た曲を量産するという意味でもない。
「1曲目が夜明け前なら、次はもう少し明るくてもいいか」
隼人はノートを開いた。
少し前に考えた2曲目の方向性が残っている。
【2曲目――明るめ。進路、方向、自分で選ぶ。】
高校3年の夏という今の時期にも合っていた。
クラスでは進路について話す時間が明らかに増えている。大学へ進む生徒だけでも志望校や学部は違い、専門学校や就職を考えている者もいる。それぞれが少しずつ、高校を卒業した先のことを考え始めていた。
隼人自身は大学へ進むと決めている。
しかし、それで人生の方向すべてが決まったわけではない。
大学で何を学ぶのか、Lentoをどこまで続けるのか、卒業後にどんな仕事を選ぶのか。35歳までの記憶を持っていても、今回は前世と違う選択をしている以上、その先に何が待っているのかは隼人にも分からなかった。
「だったら、今の俺が歌う意味もあるよな」
自作曲を使うことも考えた。
高校へ戻ってから作った練習曲は、最初の頃より遥かに良くなっている。作曲や編曲の知識も増え、自分の声に合わせて曲を組み立てる感覚も少しずつ身についてきた。
それでも『夜明けの途中』と並べると、まだ完成度には明確な差を感じる。
悔しくないわけではない。
だが、2年程度で埋められる差なら、運命のダイスという能力を神様がわざわざ与える必要もなかっただろう。
「いつか自分で作った曲が、ダイスの曲と普通に並べられればいい。その時までは教材として使わせてもらうか」
最近では、運命のダイスをそう考えるようになっていた。
完成度の高い曲を取得できるだけの能力ではない。
なぜそのメロディーなのか。
なぜその楽器を使うのか。
なぜそこで音を減らすのか。
なぜその歌い方が合うのか。
実際に制作しながら理解していけば、自分の音楽にも残っていく。
隼人はシステムを呼び出した。
【運命のダイス】
高校へ入学した朝にも見た表示が、視界の中へ静かに現れる。
最初に得た10個の数字からは〈12〉を使っただけで、〈86〉や〈94〉をはじめとする大きな数字は現在も残してある。それとは別に、360日が経過するごとに新しい抽選権も追加されていた。
15歳へ戻ってから既に2年以上が経っている。
使おうと思えば、曲はいくらでも増やせる。
だからこそ、強い数字から順番に消費するような使い方はしたくなかった。
「今のLentoに合うかどうかだな」
今回は、新しく得ていた抽選権から10回分を使ってみることにした。
どんな数字が出ても、気に入らなければ使わない。
その前提で抽選を実行する。
【運命のダイス・抽選結果】
【〈57〉〈14〉〈68〉〈31〉〈82〉〈46〉〈71〉〈25〉〈63〉〈90〉】
「……また90台いるじゃん」
思わず顔をしかめる。
最初の〈94〉ほどではないとはいえ、〈90〉なら基準到達可能性は9,000万人規模になる。現在の『夜明けの途中』が約250万回なのだから、数字だけを比べればあまりにも大きい。
「神様、俺にそんなに強い曲ばっかり渡してどうするんだよ」
当然ながら返事はない。
隼人は〈90〉から意識的に目を外し、低い数字から確認していく。その中で最初に気になったのは、今回の最低値である〈14〉だった。
【〈14〉】
【基準到達可能性――1,400万人規模】
【楽曲情報を確認しますか?】
「1,400万人を見て安心するの、完全に感覚がおかしくなってるよな」
〈12〉より少し高いだけ。
そう考えかけた自分へ苦笑する。
1,400万人という規模は、決して小さくない。それでも〈90〉を先に見たせいで、随分と現実的な数字に感じられてしまった。
「まあ、確認だけしてみるか」
隼人は〈14〉の楽曲情報を開いた。
まだ取得を確定したわけではない。
最初に頭へ浮かんだのは、広い空だった。
『夜明けの途中』にあった、夜が少しずつ薄くなっていく空とは違う。もっと明るく、どこまでも視界が開けていくような青空が楽曲全体の景色として浮かんでくる。
「……いいな」
テンポは前作より少し速い。
ギターが曲の前面へ出ており、それを支えるベースとドラムには軽い推進力がある。鍵盤は必要以上に主張せず、歌を含めた全体の空気を広げる役割に回っていた。
爽やかではある。
だが、単純な青春応援歌ではない。
未来へ向かって迷わず走れと背中を押す曲でもなかった。
進む方向が分からない。
周囲の人間は、それぞれ違う道を選び始めている。
自分だけが取り残されたように感じる瞬間もある。
それでも誰かに正解を教えてもらうのではなく、自分が進む方向くらいは自分で選ぼうとする。
そんな曲だった。
「……これだな」
数日前、自分でノートへ書いた言葉を思い出す。
【進路、方向、自分で選ぶ。】
驚くほど近かった。
運命のダイスが隼人の感情を読み取っているのか、それとも100種類ある楽曲の中から偶然近いものを引いただけなのか、その仕組みまでは分からない。
ただ、今の自分なら歌いたいと思えた。
「〈14〉を取得する」
選択を確定する。
すると、先ほどまで輪郭だけだった楽曲情報が一気に鮮明になった。メロディーとコード進行、それを支えるギターやベース、ドラム、鍵盤の構成に加え、歌唱時の感情や音作りの方向性までが互いに結びついた状態で頭の中へ流れ込んでくる。
隼人はしばらく目を閉じ、その情報を受け止めた。
「……前と全然違うな」
曲が違うという意味ではない。
自分の理解度が違う。
15歳の朝に〈12〉を取得した時は、完成された音楽の情報量に圧倒された。どんな曲なのかは分かっても、なぜその音がそこにあるのかまでは十分に理解できなかった。
今は、1つずつ理由を考えられる。
「ギターが前に出てるのに歌の邪魔をしない。ベースは結構動くけど、ドラムをシンプルにして全体が走りすぎないようにしてるのか」
鍵盤も面白かった。
単体で聞けば目立たない。
だが抜いてしまうと、曲から空の広さが少し失われる。
「こういうの、2年前なら気づかなかっただろうな」
運命のダイスから完成形を教えてもらうだけではなく、その理由まで考えられるようになった。
それが嬉しかった。
隼人はパソコンを起動し、新しいプロジェクトを作る。
今夜の目的は完成させることではない。
まずは頭の中にある曲の輪郭を、自分の手で音へ変えてみる。
ギターで基礎となる進行を確認し、簡単なリズムを作る。そこへベースを加え、鍵盤も仮の音で置いてみると、先ほどまで頭の中だけに存在していた景色が少しずつスピーカーから聞こえるようになった。
「やっぱり『夜明けの途中』とは全然違うな」
前作より明るい。
テンポも少し速い。
何より、部屋の中で静かに聞くというより、外を歩きながら聞きたくなるような軽さがあった。
ただし、明るさだけを強くすると曲の核が消える。
隼人はそこを忘れないよう、プロジェクトのメモ欄へ書き残した。
【明るい。ただし、迷いは消さない。】
【未来が見えた歌ではなく、自分で方向を選ぼうとする歌。】
「これくらいでいいか」
30分ほど作業したところで、隼人は手を止めた。
もっと触りたい気持ちはある。
しかし時刻は23時へ近づいていた。
ここから集中し始めれば、簡単に日付を越える。
「続きは明日だな」
保存してパソコンを閉じる。
以前の自分なら、思いついた瞬間に朝まで作っていたかもしれない。
今は違う。
曲は逃げない。
明日になっても〈14〉は残っている。
そして自分には、明日も学校がある。
◇ ◇ ◇
翌日の昼休み、隼人は拓海と一緒に弁当を食べていた。
「そういや、お前の方は進路決まった?」
「大学行くのは決めてるけど、どこにするかはまだ。隼人は?」
「俺も似たような感じ。候補はだいぶ絞った」
「みんな急に進路の話するようになったよな」
「3年だからな」
「分かってるけどさ。去年まで文化祭どうするとか言ってたのに、いきなり人生決めろって言われても困るだろ」
拓海が牛乳を飲みながらぼやく。
その言葉を聞きながら、隼人は昨夜取得した〈14〉を思い出していた。
「別に今決めた進路で、人生全部決まるわけじゃないだろ」
「また妙に達観したこと言ってる」
「大学へ行って違うと思ったら、その時また考えればいい。仕事だって一生同じところにいる必要ないし、音楽も続けたければ続ければいいだろ」
「高校生に転職の話されても実感ないんだけど」
「……それもそうだな」
隼人には実感がありすぎた。
35歳まで生き、夢を諦め、会社員として働き、その人生からさらに高校生へ戻っている。進路を一度選んだ程度で人生が固定されるわけではないことを、嫌というほど知っていた。
「でも、最初の方向くらいは自分で決めたいよな」
「方向?」
「周りが大学へ行くから自分も行くとか、親に言われたから就職するとかじゃなくてさ。後から変えてもいいけど、今の自分がどっちへ進みたいかくらいは考えた方が納得できるだろ」
拓海は少し考えてから頷いた。
「じゃあ俺、大学行きながらバンド続けるわ」
「俺に宣言することか?」
「今決めたから聞いてほしかった」
「なら聞いた。頑張れ」
「軽いなあ」
「俺が人生の責任取るわけじゃないからな。最終的には自分で決めろ」
「急に現実的になるじゃん」
2人で笑う。
前世なら、隼人は違うことを言っていたかもしれない。
本気で音楽をやりたいなら、もっと時間を使え。
大学へ行きながらでは足りない。
そんな言葉を、善意のつもりで拓海へぶつけていた可能性がある。
今は、拓海が大学へ行きながらバンドを続けたいと言うなら、それでいいと思える。
どれだけ音楽を大切にするかは、本人が決めることだ。
「……タイトル、方向系でもいいかもな」
考えながら呟く。
拓海がすぐ反応した。
「何の?」
「こっちの話」
「新曲?」
「勘いいな」
「お前が急に曲っぽいこと言い出す時、それしかないだろ」
隼人は少し迷ったが、拓海には既にLentoの正体を知られている。
「昨日から作り始めた。まだ誰にも聞かせられる段階じゃないけど」
「どんな曲?」
「前より明るい。少し速くて、ギターも多め」
「いいじゃん。俺そっちの方が好きかも」
「聞いてもいないのに判断するなよ」
「ギター多めって時点で加点だから」
「単純だな」
拓海は楽しそうに笑っている。
「できたら聞かせてくれよ」
「完成したらな」
「紗月には先に聞かせるんだろ?」
「絵を頼むなら当然だろ」
「また俺より先か……」
「何と競ってるんだよ、お前」
以前にも似たやり取りをした。
隼人は笑いながら残っていた弁当を食べる。
2曲目について友人とこんな話ができること自体、前世とは違う。
音楽を一緒にやっていなくても、音楽の話はできる。
それくらいの距離が、今は心地よかった。
◇ ◇ ◇
その週末から、隼人は〈14〉の制作を本格的に進め始めた。
最初に時間を掛けたのはギターだった。『夜明けの途中』では音数を抑えて静かな空間を作ることを優先したが、今回はギターそのものが曲を前へ運ぶ役割を持っている。
だからといって、勢いよく弾けば成立するわけではない。
「走りすぎると違うんだよな」
最初のテイクを聞き返す。
技術的には大きな問題がない。
それでも、少し強すぎる。
迷いながら方向を探す曲なのに、演奏だけが「答えはもう決まっている」と言っているように聞こえた。
隼人は録り直す。
今度は慎重になりすぎた。
音は綺麗だが、若さがない。
「難しいな。上手く弾けばいいって話じゃないのが一番面倒だ」
少し休憩する。
ギターを膝へ置いたまま、自分がどんな曲にしたいのかを改めて考えた。
今回必要なのは、迷いのない大人の演奏ではない。
まだ進路も未来も決まっていない人間が、それでも前へ進もうとする音だった。
そこで隼人は、自分自身について考える。
「俺、今は17歳なんだよな」
35歳までの記憶を持っている。
会社員として働いた経験もある。
バンドを諦めた記憶もある。
だが、現在の自分が偽物の高校生というわけではない。
毎朝制服を着て学校へ行き、受験について考え、拓海と昼飯を食べ、美智子に帰宅時間を聞かれる。大学の候補を調べながら、夏休みの予定まで考えている。
それは今の隼人が、本当に生きている時間だった。
「無理に35歳の俺を出さなくていいのか」
経験を捨てる必要はない。
ただ、今の身体と生活から出てくる感情まで抑える必要もなかった。
そう考えてから、もう一度ギターを構える。
今度は完成形へ合わせようとしすぎず、曲の流れへ身体を乗せるように弾いた。少しだけ荒い部分が残ったものの、そのテイクには前の2つになかった軽さがある。
「……これだな」
完璧ではない。
だから残した。
『夜明けの途中』でも、技術的に最も綺麗な歌ではなく、感情が合っているテイクを選んだ。
今回も同じだった。
音楽は採点競技ではない。
ミスが少ないことと、曲に合っていることは必ずしも同じではなかった。
ギターを基準にして、ベースや鍵盤の仮音源も調整していく。運命のダイスから得た制作指針を参考にしながらも、自分の声や演奏に合わせて音の位置を少しずつ変えた。
2年前なら、こんなことは怖くてできなかった。
与えられた完成形が正解だと思い、それを可能な限り忠実に再現しようとしていただろう。
今は違う。
曲の核がどこにあるのかを考えられる。
そこさえ壊さなければ、自分の歌として調整していい。
「ちゃんと成長してるな」
誰かから評価されたわけではない。
再生回数とも関係がない。
それでも『夜明けの途中』を作り始めた頃より、自分で判断できることが増えている。
その実感は、200万回再生とは別の意味で嬉しかった。
◇ ◇ ◇
制作を始めてから1週間ほど経った土曜日の午後、隼人は仮歌まで入れた最初のデモを完成させた。
午前中は受験勉強をしていたため、音楽に触れ始めたのは昼食を終えてからだった。以前なら制作中の曲がある日に勉強を優先するなど考えられなかったが、今ではそれが普通になっている。
ヘッドホンを着け、最初から再生する。
明るいギターから始まり、軽いリズムが加わる。
歌詞にはまだ仮の部分が残っているものの、曲が伝えたいものはかなり見えてきた。
誰かが示した正解へ向かうのではない。
自分で方向を決める。
迷ってもいいし、途中で変えてもいい。
未来が見えないことを恐れるのではなく、見えないままでも自分が向く方向を選ぶ。
「方向……コンパスか」
ふと浮かんだ言葉だった。
地図ではない。
地図なら、目的地までの道そのものが描かれている。
今回の曲はそこまで親切ではなかった。
正しい道を教えてくれるわけではないし、どこへ行けば幸せになれるかも分からない。ただ、自分がどちらを向いているのかを確かめるためのものなら、曲のイメージに合っている。
「青い空とコンパス……」
隼人は窓の外を見る。
夏へ近づいた空は明るかった。
前作は、夜が終わり始める時間の曲だった。
そこから次へ進むなら、青い空があってもいい。
「『青のコンパス』」
声に出してみる。
もう一度、曲を最初から再生した。
ギターの軽さと、まだ少し迷いを残している歌詞。その奥にある、自分で進む方向を決めようとする感情を考えると、思っていた以上にしっくりくる。
「うん。これだな」
プロジェクト名を変更する。
【〈14〉 青のコンパス】
2曲目に、正式な名前が付いた。
タイトルが決まったことで、頭の中にあった景色まで少し鮮明になった気がする。
まだ完成には遠い。
歌詞を詰め、演奏を録り直し、本番の歌唱を入れる必要がある。ミックスも残っているし、今回も動画用のイラストを紗月へ依頼するつもりだった。
隼人はスマートフォンを手に取る。
【次の曲、デモできた。今回も絵お願いしたい。】
数分後、紗月から返信が来た。
【来た! 聞きたい!】
【前より明るい曲。タイトルは『青のコンパス』。】
【タイトルからもう青い。】
【その感想はどうなんだ。】
【褒めてるから送って。】
隼人は仮歌であることを伝えたうえで、デモ音源を送った。
すぐには返信が来ない。
紗月が実際に曲を聞いているのだろう。
その間に机の上を片づけ、午前中に使った参考書を本棚へ戻す。音楽制作の機材と受験勉強の道具が同じ机に並んでいる光景にも、いつの間にか違和感がなくなっていた。
しばらくして、スマートフォンが震えた。
【好き。前の曲より外に出た感じする。】
「外に出た、か」
面白い表現だった。
【どういう意味?】
【『夜明けの途中』は1人で夜の道を歩いてる感じだったけど、今回はもっと空が広い。まだどこに行くか決まってないけど、とりあえず外に出た感じ。】
隼人は少し驚いた。
自分が考えていたものと近い。
【それ、かなりイメージ合ってる。】
【じゃあ青空?】
【青空。ただ、爽やかな青春ソング全開にはしたくない。迷ってる感じは残したい。】
【分かる。道とか入れる?】
【欲しいかも。今回は分かれ道でもいいな。】
【また道なんだ。隼人、道好きだね。】
【俺も今思った。】
思わず笑う。
『夜明けの途中』にも道があった。
ただし、今回の道は少し違う。
前作では夜の中を歩いていた。
今回は明るい場所まで出てきたものの、目の前に複数の道がある。どれが正解なのかは分からず、それでも立ち止まったままではいられない。
【人は前回と同じ感じ?】
【小さくていい。顔も性別も分からないくらい。】
【前と同じ人かどうかも分からないようにする?】
隼人は少し考えた。
【それいいな。同じ人だと思ってもいいし、別の人だと思ってもいい。】
【了解。考えてみる。】
そこで、もう1つ送る。
【あと今回、依頼料1万円で。】
ほとんど間を置かずに返事が来た。
【まだ言ってる!】
【前回5,000円は安かったからな。】
【曲が伸びたのは隼人の曲が良かったからでしょ。】
【絵についてのコメントもかなりあった。曲が伸びたことと、紗月の仕事に価値があったことは別の話だよ。】
返信が少し途切れた。
やがて、先ほどまでより真面目な文章が届く。
【じゃあ、ちゃんと1万円分頑張る。】
【金額分だけ余計に頑張らなくていい。前回と同じくらい本気でやってくれれば十分。】
【それ言われると逆に緊張するんだけど。】
【俺も曲作る時は同じだから、お互い様だな。】
隼人はスマートフォンを机へ置いた。
前作では、友人へ金を払って仕事を頼むことに少し緊張していた。
今回は紗月がどんな絵を作ってくれるのか、純粋に楽しみにしている。
友人だからこそ曖昧にしない。
仕事として頼み、その仕事へ金を払う。
そのうえで学校では普通に友人として話す。
今のところ、その関係は上手くいっていた。
◇ ◇ ◇
翌週になると、学校全体が夏休み前の空気へ変わり始めた。
期末試験を終えた教室には少しだけ解放感があり、休み時間になると旅行や部活動、夏期講習、オープンキャンパスについて話す声があちこちから聞こえてくる。進路が違えば夏休みの過ごし方も変わるため、高校3年の夏らしい話題が自然と増えていた。
隼人にも既にいくつか予定がある。
志望校候補のオープンキャンパスへ行く日があり、アルバイトも普段通り続ける。家族で短い旅行へ行く話も進んでおり、その合間へ『青のコンパス』の制作時間を組み込むつもりだった。
前世の隼人なら、順番が逆だった。
最初に音楽の予定を限界まで入れ、残った場所へ他の予定を押し込んでいた。友人との約束や家族との時間が練習を邪魔しているように感じたことさえある。
今は、生活全体を先に見る。
その中で音楽へ使える時間を決める。
時間が少ない日は30分でもいい。
逆に余裕がある日は2時間ほど集中する。
何時間作業したかではなく、その時間で何を進めたかを考えるようになった。
「昔は朝まで作業しただけで、ちょっと頑張った気になってたからな」
ある日の夜、歌詞を修正しながら苦笑する。
10時間スタジオにいた。
睡眠を削って練習した。
朝まで曲を作った。
そうした行動を努力の証明だと思っていた時期がある。
もちろん長い時間が必要なこともある。
だが、疲れて判断力が落ちた状態で同じ部分を何時間も触り続ければ、むしろ翌日に聞いて全部戻すことさえあった。
今は作業を始める前に、その日の目的を決めている。
今日は歌詞。
明日はギター。
週末は仮歌の録り直し。
それだけでも迷う時間はかなり減った。
その夜の目的は、サビへ入る直前の歌詞を整えることだった。
未来への不安を消すのではなく、不安があるままでも自分で方向を選べるという内容にしたい。そのため、格好よすぎる言葉や、何もかも分かったような表現はできるだけ避けていく。
「これ、ちょっと決めすぎだな」
気に入っていた一節を削る。
文章だけなら悪くない。
だが、17歳の自分がこの曲で歌うには少し完成されすぎている。
もっと迷っていていい。
その方が今の自分にも、同じように進路を考えている同級生にも近い。
何度か歌いながら言葉を変えていくと、最初より随分と素直な歌詞になった。
「……こっちだな」
保存する。
まだ完成ではない。
それでも少しずつ、自分の曲になってきている。
運命のダイスから〈14〉として受け取った時には、既に完成された楽曲情報が存在していた。
そこへ自分の声を重ね、今の生活で感じているものを混ぜていく。
その作業が以前より楽しくなっていた。
◇ ◇ ◇
夏休み初日の朝、隼人は普段より少し遅い時間に目を覚ました。窓の外からは既に強い日差しが差し込んでおり、制服へ着替える必要がないだけで、いつもの朝より身体が軽く感じられる。
階段を下りると、美智子が朝食を用意していた。
「今日から夏休みね」
「受験生だから完全な休みって感じでもないけどな」
「今日は何するの?」
「午前中は勉強。午後から曲作る。夕方は母さんの買い物付き合う約束だっただろ」
「覚えてたのね」
「俺を何だと思ってるんだよ」
「曲作り始めると時間忘れる息子」
「否定しづらいな」
以前なら、そのまま忘れていた可能性もある。
だから今回は予定へ入れていた。
午前中に受験勉強を進め、昼食後に少し休憩してから『青のコンパス』のギターを録り直す。夕方には美智子と買い物へ行き、夜は余裕があれば仮歌を録るつもりだった。
音楽だけを考えれば、朝から夜まで制作へ使った方が早く完成する。
しかし、その速さは必要ない。
夏休みはまだ始まったばかりで、『青のコンパス』にも明日がある。今日できることを今日すべて終わらせる必要などなかった。
「午後、何時くらいまで曲やるの?」
「16時くらいには止めるよ。買い物17時だろ?」
「そうね。スーパーとホームセンター寄りたいから」
「了解」
朝食を終え、自室へ戻る。
机には受験用の参考書と、音楽制作に使う機材が同じように並んでいた。
隼人は迷わず参考書を開く。
Lentoの登録者が10万人を超えても、次の曲を作り始めても、午前中にやると決めたことは変えない。
2時間ほど勉強し、途中で休憩を挟む。
昼食を食べたあと、ようやくパソコンを起動した。
【〈14〉 青のコンパス】
プロジェクトを開く。
昨日までに作った音源が流れ始めると、すぐに気になる部分が見つかった。
「ここ、もう少しギター軽くてもいいな」
録り直す。
今度は曲全体の広さを意識した。
前へ進む力は残す。
だが、急かさない。
青空の下で道を選ぶ人間へ、「早く決めろ」と迫るような演奏にはしたくなかった。
何度か試したところで、納得できるテイクが録れた。
次は仮歌を聞き直す。
歌唱についても、少しずつ方向が見えてきている。
『夜明けの途中』では疲れを抱えながら歩く声が必要だった。
『青のコンパス』では、そこから少しだけ顔を上げる。
まだ自信に満ちているわけではない。
けれど、昨日よりは遠くを見る。
その違いを声で表現したかった。
「難しいけど、面白いな」
同じ自分が歌っている。
それでも曲が変われば、必要な声も変わる。
芸能の加護は、どのように歌えば曲へ合うのかを感覚的に理解しやすくしてくれる。だが、その声を実際に出すには自分で練習しなければならない。
何度か試し、今日は本番録音までは進めないと決めた。
まだ歌詞にも調整したい部分がある。
焦って録っても、後で全部やり直すだけだ。
時計を見る。
15時45分。
「ちょうどいいな」
保存して作業を終える。
もう少し続けたい。
その気持ちは残っている。
だが、続きは明日でもできる。
隼人はヘッドホンを外し、机の上を片づけた。制作中の曲から意識を切り替えるため、少しだけ窓を開けると、夏らしい熱い空気が部屋へ入り込んでくる。
外から蝉の声が聞こえた。
その音を聞いた瞬間、『青のコンパス』に考えていた青空が、先ほどまでより少し現実の景色へ近づいた気がした。
「夏の曲になりそうだな」
季節そのものを歌っているわけではない。
それでも17歳の夏に作った曲として、いつか聞き返した時に今の空気まで思い出せるかもしれない。
16時を過ぎた頃、美智子の声が階下から聞こえた。
「隼人、そろそろ出る準備して!」
「分かった!」
隼人は返事をして立ち上がった。
机のパソコンには、制作途中の『青のコンパス』が保存されている。
まだ完成していない。
公開日も決めていない。
紗月のイラストも、これから形になっていく。
それでいい。
曲を急いで完成させることより、この夏そのものをちゃんと過ごすことも大切だった。
美智子と買い物へ行き、家族と夕食を食べ、受験勉強を進める。拓海とも遊ぶだろうし、オープンキャンパスにも行く。
その全部を経験した自分が、また『青のコンパス』を歌う。
前世では音楽のために生活を削っていた。
今は生活の中で得たものを、音楽へ持ち帰ることができる。
隼人は財布とスマートフォンを持って部屋を出た。
階段を下りながらも、頭の中には新しい曲が流れている。
けれど、その続きを今すぐ形にする必要はない。
今日のところは母親と買い物へ行けばいい。
明日になれば、また少し先へ進める。
急がず、止まらず、自分で選んだ方向へ進む。
『青のコンパス』は、そんな隼人の2曲目として、ゆっくりと形になり始めていた。




