夏の輪郭
夏休みに入ってから1週間が過ぎる頃には、『青のコンパス』の輪郭がかなりはっきりしていた。
午前中は受験勉強を進め、午後の空いた時間を制作へ使う。アルバイトがある日は無理に作業時間を増やさず、家族や友人との予定が入っていればそちらを優先する生活を続けているため、制作速度そのものは決して速くない。
それでも毎日少しずつ、曲は完成へ近づいていた。
「今日は歌詞を最後まで固めるか」
昼食を終えて自室へ戻った隼人は、パソコンで『青のコンパス』のプロジェクトを開いた。ギターを中心にした音作りは既に固まりつつあり、前作の『夜明けの途中』とは明確に違う曲になっている。
残っている大きな課題は歌詞だった。
運命のダイスから〈14〉を取得した時点で、この曲が何を伝えようとしているのかは理解している。しかし、与えられた制作指針をそのままなぞるのではなく、現在の自分が本当に歌える言葉へ置き換えたかった。
「前向きすぎると違うんだよな」
何度も書き直したサビを確認する。
未来は明るいと断言し、自分を信じれば夢は叶うと歌えば分かりやすい。迷わず進み続ければ目的地へ辿り着けるという言葉も、青春を題材にした曲としては使いやすいだろう。
だが、隼人自身はそんなことを信じていなかった。
35歳まで生きた最初の人生では、本気で音楽へ取り組んでも夢は叶わなかった。努力が足りなかった部分もあれば、自分で選択を間違えた部分もあり、どうにもできなかった出来事だってある。
だから、努力すれば必ず報われるとは歌えない。
進み続ければ正解へ辿り着くとも言えない。
それでも、自分で選ぶことには意味があると思っていた。
「自分で選んだ道なら後悔しない……っていうのも違うか」
一度入力した歌詞を消す。
自分で選んだって後悔することはある。
高校を卒業して大学へ行かず、音楽一本の人生を選んだのは自分だった。その選択を後悔したことは何度もあるし、35歳になってから「あの時に別の道を選んでいたら」と考えた夜もあった。
それでも、最初の人生そのものを消したいとは思わない。
バンドをやったから出会えた人もいる。
音楽へ本気で向き合ったから得られた経験もある。
失敗したからこそ、今の自分が大切にしたいものも分かっている。
「後悔したら、また選び直せばいいのか」
その考えなら、今の自分にも合っていた。
最初に選んだ方向が違うと思ったら、途中で変えてもいい。少し立ち止まって考えてもいいし、周囲の人間と違う方向へ進んでも構わない。
コンパスは目的地を決める道具ではない。
現在の自分が、どちらを向いているのかを確かめるものだ。
「これなら歌えるな」
隼人はキーボードへ手を伸ばした。
難しい表現はできるだけ使わない。17歳の高校生が歌っても不自然ではなく、それでいて大学生や社会人になった人が聞いても、自分のこととして受け取れる言葉を探していく。
何度も実際に歌い、音へ乗らない部分を削った。
文章として読めば綺麗でも、歌にすると説明的になりすぎる言葉がある。逆に文字だけなら平凡に見えても、メロディーと声が加わった瞬間に感情を持つ言葉もあった。
「作詞って、やっぱり文章とは別物だよな」
1時間ほど修正を続けたところで、ようやく手を止める。
細かな変更は今後もあるだろうが、曲全体を通して違和感なく歌えるところまでは来た。最初の人生を経験した35歳の自分と、進路を考えている17歳の自分が、同じ歌詞をそれぞれの意味で受け取れる。
今の隼人には、それが何より重要だった。
◇ ◇ ◇
翌日は、志望校候補の1つになっている大学のオープンキャンパスへ行く予定だった。
朝から電車へ乗り、同年代の高校生たちに混じって目的地へ向かう。最寄り駅から大学までの道にも案内資料を持った高校生や保護者の姿が多く、改めて自分が受験生なのだと実感させられた。
「大学か……」
最初の人生では、ほとんど縁がなかった場所だ。
高校3年だった頃には、卒業後はバンドへ専念すると決めていた。周囲が志望校について話していても興味を持たず、受験勉強へ使う時間があるならギターを弾いた方がいいと本気で考えていた。
今は自分からキャンパスへ来ている。
受付を済ませて学部説明を聞き、学生が普段使っている教室や食堂を見て回る。案内役の大学生が話す授業や学生生活についても、以前なら聞き流していたような内容まで自然と興味を持てた。
特に気に入ったのは図書館だった。
「思ってたよりでかいな」
高校の図書室とは規模が違う。
専門書だけではなく一般書も多く、個人で勉強できる場所も十分に用意されている。ここなら授業の合間に受験とは違う勉強をしたり、音楽について調べたりすることもできそうだった。
大学生になった自分を想像する。
講義を受け、友人と昼食を食べ、空いた時間にはLentoの曲を作る。高校より自由な時間が増えるなら、音楽との両立もしやすくなるかもしれない。
もちろん、現実には課題や試験もある。
Lentoとしての活動が今以上に大きくなれば、予定通りにいかないことも出てくるだろう。それでも、まだ起きてもいない問題を理由に大学を諦める必要はなかった。
キャンパス内を歩いている途中、軽音楽系のサークルが演奏している場所を見つけた。オープンキャンパスへ来た高校生も自由に見学できるらしく、十数人ほどが少し離れた場所から聞いている。
隼人も足を止めた。
演奏している学生たちは上手かったが、それ以上に楽しそうだった。プロを目指しているのか、大学生活の趣味として演奏しているだけなのかは分からない。
それでも、どちらでもいいのだと思えた。
「こういう音楽もあるんだよな」
最初の人生では、音楽を本気でやるならプロを目指すものだと考えていた時期がある。
売れたいと思い、ライブハウスを満員にしたいと願い、いつか音楽だけで生活したかった。その目標自体を否定するつもりはないし、今でも自分の歌が多くの人へ届けば嬉しい。
ただ、それだけが音楽との付き合い方ではない。
大学へ通いながらバンドをしてもいいし、社会人になってから休日だけ演奏してもいい。音楽を仕事にしなくても、本気で好きでいることはできる。
「拓海も、こんな感じになるのかな」
大学へ進みながらバンドを続けると言っていた友人を思い出す。
前世なら、その選択を中途半端だと考えたかもしれない。
今は、拓海自身が納得しているならそれでいい。
しばらく演奏を聞いてから、隼人は再びキャンパス見学へ戻った。今日ここへ来た目的は音楽ではなく、自分が4年間を過ごすかもしれない場所を確かめることだった。
帰宅する頃には、この大学の志望順位を少し上げてもいいと思っていた。
◇ ◇ ◇
「どうだった、大学?」
夕食の席で美智子に聞かれ、隼人は麦茶を飲んでから答えた。
「結構良かった。図書館も広かったし、通学も思ってたほど大変じゃなさそう」
「じゃあ受けるの?」
「候補には入れる。あと何校か見てから決めるけど」
「ちゃんと高校3年生してるな」
父が横から口を挟む。
「俺を何だと思ってるんだよ」
「最近は音楽の人って感じがするからな」
「普通に高校生だから」
「10万人以上に登録されてる普通の高校生ね」
美智子が楽しそうに笑う。
「そこを毎回付け足さなくていいって」
家族にはLentoの活動状況を隠していない。
収益が発生していることも話しており、今後の金銭管理については父にも相談している。高校生が自分だけで判断するより、必要な部分では大人の経験を借りた方がいいと考えていた。
「そういえば、次の曲も作ってるんでしょう?」
「作ってるよ」
「いつ出すの?」
「まだ決めてない。夏休み中に完成させて、公開は9月くらいでもいいかなと思ってる」
「意外とゆっくりなのね」
「名前がLentoだからな」
「便利な名前にしたわね」
「自分でもそう思う」
家族3人で笑う。
登録者が10万人を超えた以上、投稿間隔を短くした方が数字を維持しやすい可能性はある。実際、コメント欄には次の曲を待っている人もいる。
それでも、夏休みを制作だけで終わらせるつもりはなかった。
大学も見る。
アルバイトも続ける。
家族とも出掛ける。
友人と過ごす時間だって残しておきたい。
そうした生活を続けながら完成させられる速度が、今の自分にはちょうどよかった。
◇ ◇ ◇
数日後、紗月から『青のコンパス』用の最初のラフが届いた。
【とりあえず1案目。まだかなりラフ。】
学校が休みなので直接見せてもらうのではなく、送られてきた画像をパソコンで開く。
「おお……」
画面の大部分を、広い青空が占めていた。
下側には緩やかな道が伸び、その先で2つに分かれている。分かれ道の手前には小さな人物が1人立っており、後ろ姿なので顔は見えず、服装も簡略化されているため性別も分からない。
空には夏らしい白い雲が浮かんでいた。
明るい。
それでも、ただ爽やかなだけではない。
人物が分かれ道の手前で立ち止まっていることで、これからどちらへ進むのか迷っていることが伝わってくる。
「いいな、これ」
『夜明けの途中』とは明らかに違う絵だった。
前作は暗い空と遠くの光によって、静かな孤独を感じさせるものだった。今回は画面全体が明るく、視界も大きく開けている。
それでも2枚を並べれば、どこか共通するものがある。
隼人はしばらく眺めてから返信した。
【かなり好き。空、もう少し広くてもいいかも。】
【やっぱり? 私もそう思ってた。人物さらに小さくする?】
【それでもいい。人より景色が主役なくらいで。】
【コンパスそのものは描く?】
隼人は少し考えた。
タイトルが『青のコンパス』なのだから、道具としてのコンパスを描けば意味は伝わりやすい。
しかし、今回の曲で重要なのは道具そのものではなかった。
【直接は描かなくていい気がする。】
【私もそっち派。タイトル見た人が想像するくらいでいいと思う。】
【じゃあ無しでいこう。】
【了解。もう少し詰めてみるね。】
そこでやり取りは一度終わった。
隼人は画像を閉じず、もう一度ラフを見る。
前作と同じ人物だと思ってもいい。
まったく別の人物だと思ってもいい。
『夜明けの途中』で暗い道を歩いていた誰かが、ようやく青空の下へ出てきたと考えることもできる。
答えを決めない方が面白かった。
「紗月、やっぱり上手いな」
前回の5,000円から1万円へ依頼料を上げたことを改めて思い出す。
今後Lentoの活動が大きくなれば、さらに金額を相談することになるかもしれない。友人だから安く頼める相手ではなく、作品を一緒に作る相手として扱いたかった。
最初の人生では、そこを曖昧にしたことがある。
バンド仲間だから助けてもらって当然だと思い、互いの時間や労力を好意だけで埋め合わせようとしていた。関係が良い間は問題にならなくても、誰かに余裕がなくなった瞬間、その曖昧さが負担へ変わる。
今回は長く続けたい。
だからこそ、最初から無理をさせない関係を作っておきたかった。
◇ ◇ ◇
8月に入ると、隼人の夏休みは思っていた以上に忙しくなった。
週3日のアルバイトを続けながら受験勉強も進め、大学の資料を取り寄せて志望校を整理する。その合間に『青のコンパス』を制作しているため、何も予定がない日はそれほど多くなかった。
さらに、家族との小旅行の日も近づいていた。
旅行前日の夜、隼人は荷物をまとめながら机の上のノートパソコンを見る。
「これは置いていくか」
持っていこうと思えば持っていける。
ホテルでも制作はできるし、夜に少しだけ歌詞を確認する程度なら難しくない。
それでも今回は1泊2日の短い家族旅行だった。
そこでまで曲を作る必要はない。
スマートフォンや財布、着替えなど必要なものだけを鞄へ入れ、音楽関係の機材はすべて部屋へ残した。
翌朝、家族3人で家を出る。
車を運転するのは父で、隼人は後部座席から流れていく街並みを眺めていた。
35歳だった頃、この3人で最後に旅行したのがいつだったのか、すぐには思い出せない。
高校を卒業してからは、バンド活動を何より優先した。ライブへの出演や日々の練習、楽曲制作や録音に時間を使い、少しでも空きがあれば次の活動へ回していたため、家族旅行へ行こうという発想そのものが次第になくなっていった。
金に余裕がない時期も長かった。
会社員になってからは時間も金も以前より安定したが、今さら両親と旅行へ行く年齢でもないと思い込み、結局ほとんど行かなかった。
そして、美智子は亡くなった。
そうなってから初めて、行こうと思えば行けたのだと気づいた。
「隼人、何か食べる?」
助手席から美智子が振り返った。
「何ある?」
「お菓子持ってきたわよ」
「まだ出発して30分くらいだろ」
「旅行は移動中から始まってるの」
「母さん、そういうところあるよな」
「嫌なら食べなくていいわよ」
「いや、食べる」
差し出された小さな袋を受け取る。
父が運転しながら笑った。
「結局食うんじゃないか」
「もらえるものはもらう主義なんだよ」
「誰に似たのかしら」
「父さんじゃない?」
「俺に振るな」
車内に笑い声が広がった。
特別な会話ではない。
むしろ、どこの家族でもありそうなやり取りだった。
だからこそ隼人は、その時間を大切にしたかった。
15歳へ戻った直後なら、美智子が隣にいるだけで最初の人生を思い出し、泣きそうになっていた。
今は違う。
失った未来を悲しみ続けるために戻ってきたわけではない。
普通に話して、笑って、一緒に過ごせる時間を増やしていけばいい。
目的地へ着いてからは観光地を歩き、昼食を食べ、景色の良い場所へ立ち寄った。隼人は以前より意識して写真を残すようになっており、美智子と父が並んでいる姿も何枚か撮った。
「最近、写真よく撮るわね」
美智子に言われ、隼人はスマートフォンを確認する。
「残しといた方がいいだろ」
「前は自分が写るの嫌がってたのに」
「今も自分はそんなに写らなくていいよ」
「じゃあ3人で撮りましょう」
「話聞いてた?」
「聞いてたから3人なのよ」
結局、近くにいた観光客へ頼み、家族3人の写真を撮ってもらうことになった。
隼人は少し照れながら両親の間へ立つ。
撮影された写真を確認すると、3人とも特別に格好をつけているわけではなく、ごく普通に笑っていた。背景には観光地らしい景色が広がっているものの、写真そのものはどこにでもある家族写真にしか見えない。
その普通さが、隼人には嬉しかった。
「これ、あとで送って」
「隼人が自分から欲しがるなんて珍しいわね」
「いいだろ、別に」
「送るけど消さないでよ?」
「消さないよ」
美智子が笑う。
最初の人生では、家族との写真をもっと残しておけばよかったと思った。
今度は同じ後悔をしなくていい。
◇ ◇ ◇
旅行から帰った翌日、隼人は午前中をゆっくり過ごした。
制作を再開したのは昼食を終えてからだった。2日間まったく曲へ触れていなかったため、最初は感覚を戻すところから始めるつもりだったが、再生してみると予想とは違うことが起きた。
「ここ、詰めすぎてるな」
旅行前には気にならなかった部分が、すぐに耳へ引っかかった。
サビへ入る直前に入れていた音を1つ減らす。
もう一度聞く。
今度は歌が自然に前へ出た。
「休んだ方が分かることもあるんだな」
昔なら信じなかっただろう。
曲から離れれば、その分だけ完成が遅れると思っていた。
だが、同じ音を何時間も聞き続けていると、耳が慣れて判断できなくなることがある。一度生活へ戻り、別の景色や音へ触れてから聞き直した方が、問題点が簡単に見つかる場合もあった。
さらに歌詞を確認すると、旅行中に見た景色が自然と思い出された。
車窓から見えた遠くの山。
観光地に広がっていた夏空。
初めて歩いた道。
両親と並んで撮った写真。
『青のコンパス』は家族旅行について歌う曲ではない。
それでも、実際に生活したことで得た感覚は確実に歌へ混ざっていた。空の広さを想像だけで歌うのと、夏の空を見上げた数日後に歌うのでは、自分の中に浮かぶ景色が少し違う。
「これがやりたかったんだろうな」
隼人は椅子へ深く座った。
音楽のために生活を削るのではなく、生活した自分が音楽へ戻ってくる。
友人と話したことも、大学を見たことも、家族と出掛けたことも、直接歌詞に書かなくても自分の中には残っている。
そう考えれば、曲を作っていない時間まで無駄にはならない。
「前の俺、これ知らなかったんだよな」
最初の人生では、音楽から離れている時間を損失だと思っていた。
遊びに行くなら練習した方がいい。
家族と過ごすなら曲を作った方がいい。
休むくらいなら次のライブへ向けて準備した方がいい。
そんなふうに、自分から生活を細くしていった。
けれど、歌うものが人生の中から生まれるのなら、人生そのものを削り続けることが本当に正しかったのか。
今なら答えは分かる。
「だから今回は、ちゃんと両方やる」
隼人は『青のコンパス』を最初から再生した。
旅行前と同じ音源なのに、少し違って聞こえる。
曲が変わったのではなく、自分の方に2日分の時間が増えている。
その日の制作は、予定していた2時間ほどで終えた。
以前なら気になった部分を見つけた勢いで夜まで作業していただろうが、今日は十分に前へ進んだ。明日になれば、また新しい耳で聞くことができる。
完成までは、あと少しだった。
◇ ◇ ◇
8月中旬になると、紗月から完成に近いイラストが届いた。
最初のラフより空の面積がさらに広くなり、青の濃淡にも奥行きが生まれている。画面の下側には分かれ道が伸び、その手前に小さな人物が立っていた。
前作の人物と同じかどうかは分からない。
それでも『夜明けの途中』と並べて見ると、夜の道を歩いていた誰かが、ようやく朝を越えて広い場所へ出てきたようにも感じられた。
「これ、かなりいいな」
隼人は画像を拡大し、細かな部分まで確認する。
人物が小さいからこそ空が広く見える。
道は途中で分かれているものの、どちらか一方だけが明るく描かれているわけではない。見る側へ正解を示さない構図になっていた。
すぐに紗月へ連絡する。
【ほぼこのままでお願いしたい。】
【本当? 直したいところない?】
【細かいところは任せる。曲のイメージはかなり合ってる。】
【よかった。前の絵より明るすぎるかなって少し心配だった。】
【曲自体が前より明るいから大丈夫。ただ、人物が分かれ道で止まってるから、明るいだけには見えない。】
【そこ結構こだわった。どっちかの道だけ良さそうに見えないようにしてる。】
その説明を読んで、隼人はもう一度画像を見る。
確かにそうだった。
片方が正解で、もう片方が間違いだと分かる描き方にはなっていない。
【それすごくいい。この曲も正解の道を教える歌じゃないから。】
【じゃあ方向性合ってたね。】
【かなり。ありがとう。】
【まだ完成してないから、お礼は完成してからでお願いします。】
【仕事人になってきたな。】
【1万円もらうので。】
「そう返してくるか」
隼人は笑った。
最初に5,000円を渡そうとした時には、友人からそんなに受け取れないと言っていた。それが今回は、自分から報酬に見合うものを作ろうとしている。
良い変化だと思う。
自分が依頼したことで、紗月が絵を仕事として考えるきっかけになるかもしれない。
ただし、その先まで隼人が決めることではない。
紗月が将来イラストを仕事にするのか、趣味として続けるのかは本人が選べばいい。今回の仕事が何かにつながれば嬉しいが、その人生まで背負うつもりはなかった。
それは拓海に対しても同じだった。
友人だからこそ、それぞれ自分の方向へ進めばいい。
必要な時に一緒に何かを作り、終わればまた普通の友人へ戻る。
今の隼人には、その距離の方がずっと健全に思えた。
◇ ◇ ◇
8月後半に入ると、『青のコンパス』は本番の歌唱を録音できる段階まで仕上がった。
隼人はすぐに録音を始めず、まず仮歌を何度も聞き直した。前作とは求められる感情が違うため、同じ歌い方を使えばLentoらしくは聞こえても、この曲らしさが失われる。
『夜明けの途中』では、疲れを抱えながらも歩き続ける人間を意識した。
今回は、その人物が少しだけ顔を上げている。
迷いは残っている。
未来への不安も消えていない。
それでも、周囲を見る余裕が少し生まれ、自分の方向を選ぼうとしている。
「明るく歌いすぎない。暗くもしない。その間だな」
芸能の加護による補助もあり、必要な表現そのものは感覚的に分かる。
だが、理解できることと実際に歌えることは別だった。
最初のテイクは綺麗だった。
音程も安定している。
しかし、少し優等生すぎる。
「これじゃ正解知ってる人だな」
録り直す。
2回目は意識的に力を抜いたが、今度は迷いの方が強くなりすぎた。
「難しいな。でも前より面白い」
以前なら、思い通りに歌えないことへ苛立っていたかもしれない。
今は違う。
自分の中にある感情をどう声へ変えるのか考えること自体が楽しかった。
少し休憩して、水を飲む。
窓の外を見ると、夏の強い日差しが住宅街を照らしている。
旅行で見た青空を思い出す。
大学のキャンパスを歩いた時のことも思い出した。
拓海が大学へ行きながらバンドを続けると話していた昼休みも、紗月が描いた分かれ道も頭に浮かんだ。
未来は決まっていない。
それでも、今の自分は何も持っていないわけではない。
選べるものがある。
「……よし」
隼人は再びマイクの前へ立った。
今度は、上手く歌うことを一度忘れる。
17歳の夏に、自分の進む先をまだ決めきれていない人間として歌った。
大学へ行く。
音楽も続ける。
家族との時間も捨てない。
友人には友人の人生を歩いてもらう。
その選択が正解なのかは、まだ分からない。
だからこそ、この歌を歌える。
最後まで歌い終え、少し間を置いて録音を止める。
すぐには判断しなかった。
水を飲み、5分ほど別のことをしてから、最初から聞き直す。
「……これだな」
技術的には、最初のテイクの方が綺麗な部分もあった。
だが、今回の方が曲の中に人間がいる。
隼人はそのテイクを残した。
◇ ◇ ◇
8月最後の週、紗月から完成版のイラストが届いた。
隼人も最終的なミックスを終え、映像へ組み込む準備を進める。前作と同じく派手な演出は使わず、歌詞とイラストが邪魔をしない程度の簡単な動画に仕上げるつもりだった。
完成した映像を最初から最後まで確認する。
青空の下に広がる分かれ道。
その手前に立つ、小さな人物。
軽いギターから始まる音楽。
迷いを残しながら、それでも自分の方向を選ぼうとする歌声。
前作とは違う。
けれど、Lentoが歌う2曲目として違和感はなかった。
「できたな」
隼人は椅子へ深く座った。
すぐに投稿画面を開くことはしない。
まず紗月へ完成版を送り、イラストのクレジット表記について確認する。前回と同じ活動名を使い、本人の個人情報につながるものは出さない。
【完成した。確認お願い。】
しばらくして返信が来た。
【すごい。絵が曲の中に入ってる感じする。】
【それは元々お前の絵だからな。】
【そういう意味じゃない!】
【分かってる。ありがとう。今回も助かった。】
【公開いつ?】
【9月最初の土曜日、19時にしようと思ってる。】
【今度は最初から宣伝していい?】
隼人は少し考える。
『夜明けの途中』では、紗月の告知による影響を避けるため、最初の1週間は宣伝しないでもらった。
今回は条件が違う。
Lentoには既に10万人以上の登録者がいる。
完全なゼロから曲がどう広がるのかを見る段階は終わった。
【今回は大丈夫。公開されたら普通に告知して。】
【了解! やっと堂々と自分の絵ですって言える。】
【前回も1週間後には言ってただろ。】
【最初から言えるのが大事なの。】
隼人は笑いながら、約束していた1万円を支払う準備も済ませた。
これで制作に必要な大きな作業は終わった。
あとは公開するだけ。
しかし、その前にやることがある。
翌日はアルバイトが入っており、その次の日には模試の復習をする予定だった。夏休みの残りには拓海たちと出掛ける約束もあり、受験勉強も止めるわけにはいかない。
新曲が完成しても、生活は続く。
むしろ隼人は、それを望んでいた。
『夜明けの途中』を公開した時には、再生回数が増えるたびにスマートフォンを確認したくなった。初投稿だったのだから、それ自体は仕方がなかったと思う。
今回は少し違う。
数字が伸びれば嬉しい。
前作より伸びなければ悔しいだろう。
それでも、その結果だけで自分の生活を変えるつもりはなかった。
高校在学中に公開する自分の曲は3曲まで。
その方針も変えていない。
2曲目がどれほど伸びても、すぐに3曲目を出すことはしない。
反対に、思ったほど聞かれなかったとしても、焦って似た曲を作るつもりはない。
「1曲目だけで判断しないって決めたんだから、2曲目だけでも判断しない」
隼人はノートを開き、現在の状況を書き残した。
【〈14〉『青のコンパス』】
【制作完了。】
【公開予定――9月第1土曜日 19:00】
【高校在学中の公開予定3曲のうち、2曲目。】
【結果にかかわらず、大学進学の予定は変更しない。】
最後の一文を見て、少し笑う。
ここまで何度も確認しているのだから、わざわざ書かなくても忘れるはずはない。
それでも残しておきたかった。
数字が大きくなった時ほど、最初に何を考えていたのかは見失いやすい。
35歳までの人生で、それも学んでいる。
隼人はノートを閉じ、パソコンも終了した。
窓の外では、夕方になっても蝉の声が残っている。
今年の夏は、前世の高校3年だった頃とはまるで違うものになった。
大学を見に行き、家族と旅行をし、アルバイトを続けながら、友人と話した。そうして過ごした時間の中で、Lentoとして2曲目になる『青のコンパス』を完成させた。
どれか1つを捨てなければ、音楽へ本気になれないわけではなかった。
少なくとも今の隼人は、そう思っている。
9月になれば、新しい歌を公開する。
その時に何人が聞いてくれるのかは分からない。
前作より速く広がるかもしれないし、思ったほど伸びない可能性もある。
けれど、その結果を知る前から、この夏を過ごしたことには意味があった。
『青のコンパス』には、ダイスから与えられた完成形だけではなく、この夏に隼人が見た景色や考えたことが少しずつ混ざっている。
だから今度は、自分の2曲目として送り出せる。
公開予定日まで、あと少し。
隼人はその日を急いで迎えようとはせず、残りの夏休みもいつも通りに過ごすつもりだった。




