最初の1曲が届く
日曜日の朝、隼人が目を覚ましたのは8時を少し過ぎた頃だった。平日ならとっくに起きている時間だが、今日は学校もアルバイトもなく、目覚ましを設定せずに眠っていた。
目を開けて最初に思い出したのは、昨夜公開した『夜明けの途中』だった。
寝る前に最後に確認した時点では、再生回数184回、チャンネル登録者21人。初投稿として良いのか悪いのか判断できるほど経験はないものの、少なくとも誰にも聞かれず終わる最悪の展開は避けられた。
「……何回くらいになったかな」
枕元にはスマートフォンが置いてある。手を伸ばせば数秒で確認できるのだが、隼人は画面を点ける寸前で思い直し、そのまま身体を起こした。
「起きて最初に再生数見る生活は、まだ早いだろ」
昨日までは存在すらしなかったLentoという名前に、朝の行動まで支配されたくはない。数字が気になること自体は仕方ないとしても、生活の中心へ置くかどうかは別の話だった。
着替えて階段を下りると、美智子がキッチンで朝食を準備していた。父は既に食事を終えたらしく、リビングのソファでコーヒーを飲みながらテレビを眺めている。
「おはよう。今日は随分ゆっくりね」
「休みだからな。昨日ちょっと緊張してたせいか、思ったより寝た」
「曲の再生回数は見たの?」
「まだ。起きて最初に確認するようになったら、何か負けた気がする」
「誰と戦ってるのよ」
「俺にも分からない」
美智子に笑われながら椅子へ座る。
朝食はいつもと変わらなかった。昨夜Lentoとして初めて曲を公開したからといって、食卓に祝いの料理が並ぶわけでもなく、父との会話も近所に新しい店ができたという程度のものだった。
隼人は、そんな朝が気に入っていた。
音楽で何かが始まっても、立花家の日曜日まで特別なものに変える必要はない。Lentoとして活動する時間と、立花隼人として普通に暮らす時間。その両方を持つために、今回は音楽だけを人生にしないと決めたのだから。
「ごちそうさま。ちょっと上行ってくる」
「数字見るんでしょう?」
「……まあ、見るけど」
「負けたの?」
「朝飯を食ったから引き分けってことで」
食器を片づけ、自室へ戻る。
そこでようやくパソコンを起動した。
「200は超えてるかな」
昨夜が184回だった。
寝ている間にも誰かが聞いてくれたなら、300回くらいまで増えているかもしれない。500回ならかなり嬉しいし、1,000回を超えていたら初投稿としては十分すぎる結果だろう。
管理画面を開く。
数秒後、現在の数字が表示された。
【Lento - 夜明けの途中】
【再生回数 8,614回】
【チャンネル登録者 1,037人】
「…………は?」
隼人は画面を見つめたまま動かなかった。
何かの表示がおかしいのではないかと思い、一度ページを更新する。数秒待って再表示された数字は元へ戻るどころか、さらに増えていた。
【再生回数 8,792回】
【チャンネル登録者 1,061人】
「いや、増えるの早くない?」
昨夜20時を過ぎた頃には184回だった。
そこから半日も経っていない。それなのに再生回数は8,000回を超え、登録者まで1,000人を突破している。しかも更新した短い時間だけで、再生回数が100以上増えていた。
隼人は驚きながらも、すぐに管理画面の詳しい情報を確認する。
「何か大きいところで紹介された……わけじゃないのか」
紗月には最初の1週間ほど宣伝しないよう頼んでいる。本人が約束を破ったとも思えないし、外部の大きなアカウントから一気に人が流れ込んだ形跡もなかった。
目立っているのは、おすすめからの視聴だった。
昨夜、偶然見つけた誰かが聞く。その人が最後まで聞いたことで、別の視聴者へ表示される。そこで聞いた人の反応も良ければ、さらに別の人へ曲が届いていく。
まだ小さな規模ではあるが、その循環が既に始まっているらしい。
「これが〈12〉の力なのか、それとも普通に起こる範囲なのか……まだ分からないな」
運命のダイスは、楽曲の成功そのものを保証する能力ではない。
〈12〉なら1,200万人規模へ到達する可能性を持つ。それだけであり、公開すれば必ず1,200万回再生されるとは神様も言っていなかった。
それでも、完全無名の初投稿が一晩で8,000回を超えている。
隼人が能力の影響を疑うには十分だった。
コメント欄も、昨夜とは比べものにならないほど賑わっている。
【昨日たまたま見つけた時は再生2桁だったのに、朝起きたら8,000超えててびっくりした。】
【初投稿なのかな。声と曲の雰囲気がかなり好き。】
【夜明け前に聞いたらめちゃくちゃ刺さった。】
【サビで無理に盛り上げないのがいい。最後まで夜なのに、少しずつ明るくなる感じがする。】
【Lentoって新人? 他の曲も聞こうと思ったらこれしかなかった。】
隼人はゆっくりとコメントを読み進めた。
数字が増えたことはもちろん嬉しい。だが、それ以上に嬉しかったのは、自分が制作中に大切にした部分を受け取ってくれている人がいることだった。
「ちゃんと伝わってるな」
派手なサビにはしなかった。
歌唱でも必要以上に技巧を見せず、朝日が昇って何もかも解決するような終わり方にもしていない。まだ夜の中を歩いているけれど、遠くの空だけは少しずつ明るくなっている。
それが『夜明けの途中』だった。
運命のダイスから与えられた曲をそのまま出したのではなく、2年以上かけて理解し、自分の声で歌い、自分なりの形へ仕上げた。その部分まで届いているのだと思うと、再生回数とは別のところで嬉しさが込み上げてくる。
スマートフォンが震えた。
紗月からメッセージが届いている。
【起きてる!? 数字見た!?】
「朝から元気だな」
隼人は笑いながら返信した。
【起きてる。今見た。】
【8,000超えてるんだけど!? 昨日184じゃなかった!?】
【俺が寝る前はな。】
【怖くない?】
【ちょっと怖い。】
そこは素直に認めた。
1,000回程度なら「初投稿にしてはかなり良かった」と喜べばいい。ところが一晩で8,000回を超え、今も増加速度が上がっているとなれば、単純に喜んでいるだけでは済まなかった。
それでも、〈12〉の基準は1,200万人規模である。
8,000回では、まだ入口にも届いていない。
「……これで最初の10曲の中じゃ一番低いんだよな」
高校へ入学した日の朝、最初に引いた10個の数字を思い出す。その中には〈94〉という、今考えても扱いに困る数字が残っていた。
基準だけなら9,400万人規模。
「やっぱり、あの時〈94〉を選ばなくて正解だったな」
15歳になった直後、歌唱も制作環境も整っていない状態で〈94〉を使っていたら、曲の力に自分自身が追いつかなかった可能性が高い。
今ならそれがよく分かる。
〈12〉ですら、既に想像より速かった。
隼人は一度管理画面を閉じ、予定通り机へ受験用の問題集を広げた。数字が気にならないと言えば嘘になるが、日曜日を丸ごと再生回数の監視へ使うつもりはない。
午前中は決めていた範囲まで勉強を進める。
途中でスマートフォンへ通知が届いても、すぐには確認しなかった。数学の問題を解いたあとは英語の長文へ移り、一区切りついたところでようやく時計を見る。
11時を少し過ぎていた。
「休憩するか」
飲み物を持って戻り、そこで初めて管理画面を開いた。
【再生回数 21,846回】
【チャンネル登録者 2,913人】
「……3時間で倍以上か」
朝より明らかに増加速度が上がっている。
コメント欄だけでなく、外部のSNSでも『夜明けの途中』という曲名が少しずつ使われ始めていた。大きな話題になっているわけではないが、偶然見つけた人が短い感想と一緒にリンクを共有している。
【おすすめに知らない人が出てきたから聞いたら当たりだった。Lentoって誰なんだろう。】
【『夜明けの途中』、朝に聞く曲かと思ったけど個人的には深夜に聞きたい。】
【歌い方は落ち着いてるのに、声そのものは若い気がする。年齢が全然分からない。】
【プロフィールを見ても「音楽を作っています」しか書いてない。本当に何も分からなくて笑う。】
「狙い通りではあるけど、本当に何も分からない人になってるな」
隼人は苦笑した。
17歳だと公表すれば、「高校生が作った曲」という情報が音楽より先に広がる可能性がある。それが悪いとは思わないが、自分が望んでいる形ではなかった。
曲だけを聞いてもらう。
今はそれで十分だった。
休憩を終えると、再び問題集へ戻る。再生回数が2万を超えていても、午後になれば昼食を食べ、美智子から頼まれれば買い物へも行く。
Lentoが少しずつ知られ始めた日曜日も、立花隼人にとっては普通の休日だった。
◇ ◇ ◇
月曜日の朝。
学校へ行く準備を終えた隼人は、家を出る前に一度だけ管理画面を確認した。
【公開2日目 7:12】
【再生回数 64,731回】
【チャンネル登録者 7,804人】
「6万か……」
昨日の朝は8,000回だった。
まだ世間で大ヒットと呼ばれる規模ではない。それでも完全無名の新人が、何の告知もせず公開した最初の1曲として考えれば、隼人にも異常な伸び方なのは分かった。
だからといって学校を休む理由にはならない。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
美智子に送り出され、いつも通り家を出た。
教室へ入れば、拓海が既に自分の席にいた。
「おはよ、隼人」
「おはよう」
「今日の小テスト、勉強した?」
「昨日やった」
「俺、昨日バンドの練習で忘れてたんだよな」
「それは昨日のお前に文句言ってくれ」
拓海は「冷たいなあ」と笑っている。
Lentoの曲が6万回以上再生されたところで、現実の隼人を取り巻く環境は何も変わっていなかった。
午前中はいつも通り授業を受けた。
数学では昨日復習した範囲が出たので問題なく解けたし、現代文では指名されて教科書を読むことになった。英語では拓海が居眠りしかけて教師に注意され、休み時間になると本人が「昨日遅かったんだよ」と言い訳していた。
隼人はそんな日常を過ごしながら、時々不思議な気分になった。
今この瞬間にも、知らない誰かが自分の歌を聞いているかもしれない。
それでも教室にいる自分は、ただの高校3年生だった。
その距離感が心地いい。
ところが昼休みになった頃、Lentoの世界と学校生活が初めて小さく交差した。
「これ知ってる?」
少し離れた席にいる女子生徒が、友人へスマートフォンを見せていた。
「何?」
「昨日おすすめに出てきた曲。結構いいよ」
スマートフォンから小さく流れたイントロに、隼人の箸が一瞬止まる。
聞き間違えるはずがない。
自分で何十回も調整した『夜明けの途中』だった。
「……もうここまで来たか」
もちろん声には出さない。
目の前では拓海が購買で買ってきたパンを食べており、数メートル先で流れている曲が隼人のものだとは気づいていない。
「新人らしいよ。昨日見た時は登録者まだ何千人とかだった」
「男の人?」
「たぶん。歌は男の人っぽい。でもプロフィールに何も書いてないんだよね」
「へえ、後で聞いてみる」
女子生徒たちはそのまま片方ずつイヤホンを使い、続きを聞き始めた。
隼人は何も言わず弁当を食べる。
自分の曲が数メートル先で聞かれているのに、歌っている本人は母親が作った弁当の卵焼きを食べている。その状況が妙におかしくなり、口元が少し緩んだ。
「どうした?」
拓海が気づいた。
「何が?」
「今ちょっと笑ってなかった?」
「お前のパンの食い方が面白かった」
「どんな食い方だよ」
「説明するほどでもない」
「絶対適当に言っただろ」
拓海が不満そうな顔をする。
隼人は笑いながら誤魔化した。
まだ知られるつもりはない。
だが、自分が思っていたより早く、曲は身近な場所まで届き始めていた。
放課後に自宅へ戻り、制服を着替えてから管理画面を確認する。
【公開2日目 17:36】
【再生回数 103,482回】
【チャンネル登録者 11,927人】
「10万超えたか」
初めて見る6桁の再生回数だった。
前世のバンド時代、自分たちの曲を10万人へ届けることなど何度も夢見た。それをLentoとして最初に出した曲が、わずか2日ほどで超えている。
嬉しくないわけがない。
だが、ここで判断を変えるつもりもなかった。
「まだ2日だからな。1曲だけなら偶然って可能性もある」
1週間を見る。
1ヶ月を見る。
そして高校在学中に3曲を公開する。
最初に決めた判断基準を、数字が伸びたからという理由で変えない。
隼人はノートを開いた。
【『夜明けの途中』公開2日目】
【再生回数 103,482回】
【チャンネル登録者 11,927人】
【想像していたより遥かに速い。ただし、まだ判断しない。】
記録を終えてノートを閉じる。
その日は夕方からアルバイトが入っていた。
家を出て、いつものファミリーレストランへ向かう。店に着けばLentoの再生回数など関係なく、制服へ着替えて接客をし、注文を取り、料理を運ぶ。
休憩時間になったところで、大学生の先輩が隼人の顔を見た。
「立花君、今日ちょっと機嫌よくない?」
「分かります?」
「何となく。テスト良かったとか?」
「まあ、そんな感じです」
「高校生はいいねえ。俺なんか単位落とさないかで毎日怖いよ」
「それは俺も数年後に通る道かもしれないので、笑えないですね」
10万回再生されたとは言わなかった。
ここではLentoではなく、週に3日ほど働いている高校生の立花隼人でいられる。
そういう場所が残っていることに、隼人は安心していた。
◇ ◇ ◇
公開から4日が経つと、『夜明けの途中』の数字はさらに大きくなっていた。
【公開4日目】
【再生回数 238,761回】
【チャンネル登録者 19,406人】
翌日には、さらに伸びる。
【公開5日目】
【再生回数 341,927回】
【チャンネル登録者 23,871人】
「落ち着くどころか、まだ伸びてるな」
公開直後だけ一気に見られて終わるのではなく、少しずつ新しい人へ届き続けていた。
特に目立ったのは、1つの大きな拡散ではなく、小さな紹介が大量に生まれていることだった。数百人から数千人ほどのフォロワーを持つ人たちが、それぞれ短い感想と一緒に曲を紹介している。
【寝る前に偶然見つけた。こういう曲もっと聞きたい。】
【朝焼けじゃなくて、朝焼けになる直前みたいな曲。タイトルがすごく合ってる。】
【Lento、初投稿しかないのにもう20万以上再生されてるの何者?】
【歌い方が落ち着いてるから20代後半くらいかと思ったけど、声だけ聞くともっと若そう。】
年齢についての推測も増えていた。
17歳だと考える人もいれば、20代だと思う人もいる。中には30歳前後ではないかと予想する人までいて、35歳まで生きた記憶を持つ隼人としては少し複雑だった。
「実年齢17歳、中身35歳まで当てるやつがいたら、それはもう推理じゃなくて能力者だろ」
誰もいない部屋で呟き、1人で笑う。
もちろん、年齢について答えるつもりはなかった。
コメントへの返信も必要なものだけに留めている。
【聴いていただきありがとうございます。】
【感想ありがとうございます。】
聞いてくれたことへの礼は伝える。
だが、年齢や住んでいる場所について質問されても答えない。次の曲について聞かれても、具体的な投稿日を約束するつもりはなかった。
高校在学中に公開する自分の曲は3曲まで。
その方針は変わっていない。
投稿頻度を約束して、自分自身を追い込むつもりもなかった。
◇ ◇ ◇
そして、『夜明けの途中』を公開してから7日が経った。
次の土曜日の夜。
隼人は公開時刻からちょうど1週間になるのを待ち、管理画面を開いた。
【Lento - 夜明けの途中】
【公開7日】
【再生回数 531,842回】
【チャンネル登録者 28,614人】
「……50万か」
隼人は椅子へ深く座り直した。
50万人という人数を、数字だけで理解するのは難しい。前世で出演していたライブハウスなら何千回も満員にしなければ届かず、国内の大きな会場を使ったとしても一度では到底収容できない。
それだけの回数、自分の歌が再生された。
学校で授業を受けている間にも、アルバイトで料理を運んでいる間にも、家族と夕食を食べている間にも、知らない誰かが『夜明けの途中』を聞いていた。
「ネットって、改めて考えるとすごいな……」
運命のダイスより先に、そこへ驚いた。
35歳まで生きた前世でも、ネット発の音楽が大きくなる様子は何度も見てきた。それでも自分自身が数字の内側へ入ってみると、実感はまるで違う。
登録者も28,614人まで増えている。
次に何かを公開すれば、そのうちの何割かには最初から存在を知ってもらえる。1週間前、登録者0人から始めた時とは明らかに状況が変わっていた。
スマートフォンが鳴った。
紗月からだった。
【50万おめでとう!!】
【ありがとう。俺も今見てた。】
【もう私、宣伝しなくてもよくない?】
【今から紗月が紹介してくれても、最初の実験には影響なさそうだな。好きにしていいよ。】
【じゃあ絵を担当しましたって紹介していい?】
【もちろん。むしろちゃんと宣伝してくれ。】
少しして、紗月からもう一度メッセージが届いた。
【知らない人が絵も褒めてくれてるの、思ったより嬉しい。】
隼人はコメント欄を開く。
確かに曲だけではなく、紗月のイラストについて触れている感想もかなり増えていた。
【この絵と曲の組み合わせが好き。】
【人物を小さく描いてるから、景色の中を1人で歩いてる感じがする。】
【朝日そのものを描いてないのが曲に合ってる。】
自分が曲を作り、紗月が絵を描いた。
制作中は別々だったものが、動画になったことで1つの作品として受け取られている。
「次は5,000円じゃ安いかもな」
高校生同士だからと決めた金額だったが、次も頼むなら少し上げてもいい。
もちろん紗月が引き受けてくれることが前提ではあるものの、友人だから安く使うという関係にはしたくなかった。
その時、部屋の扉がノックされた。
「隼人、ちょっといい?」
「いいよ」
美智子が扉を開けた。
「あなたの曲、50万回超えたんでしょう?」
「……何で知ってるの?」
「たまに見てるもの」
「母さん、俺より確認してない?」
「最初の曲なんだから気になるじゃない。それで、50万回ってすごいの?」
「普通に考えたら、かなりすごいと思う」
隼人は少し考えてから続けた。
「でも、これが続くかはまだ分からない。1曲だけ偶然伸びることもあるだろうし、俺は高校にいる間に3曲出して、その結果を見てから今後の活動を考えるつもりだから」
「50万回でも決めないの?」
「決めない。大学へ行くのも予定通り」
美智子はしばらく息子の顔を眺めた。
「本当に慎重になったわね」
「昔から慎重だっただろ?」
「どうだったかしら。もっと勢いで動く子だった気もするけど」
「……高校生にも色々あるんだよ」
危ないところだった。
15歳までの自分がどの程度慎重だったのか、35歳の記憶が混ざっているせいで時々分からなくなる。
美智子は特に疑った様子もなく、柔らかく笑った。
「でも、おめでとう。母さんは嬉しいわよ」
「ありがとう」
その言葉は素直に受け取った。
美智子が部屋を出たあと、隼人はもう一度画面へ目を向ける。
531,842回。
十分に大きな数字だった。
それでも〈12〉が示していた1,200万人規模へ届くには、ここからさらに20倍以上伸びなければならない。
以前なら途方もない数字にしか見えなかった。
今は少し違う。
「もしかしたら、本当に行くのかもな」
そんな気持ちが初めて生まれた。
だからこそ、急がない。
50万回を超えたからといって、翌日に2曲目を出す必要はない。未使用のダイスから強い数字を選び、勢いがあるうちに次々と曲を投げる必要もなかった。
まずは『夜明けの途中』がどのように伸び、どこで落ち着くのかを見る。
その間も学校へ行く。
受験勉強をする。
友人と遊び、アルバイトも続ける。
音楽が伸び始めた時こそ、最初に決めたことを忘れない方がいい。
◇ ◇ ◇
公開から2週間ほど経つ頃には、学校でも『夜明けの途中』を知っている生徒が明らかに増えていた。
「最近これよく聞くんだよね」
「Lentoでしょ? 私も知ってる」
「そう。まだ1曲しかないんだよね」
廊下を歩いていると、そんな会話が聞こえてくることもある。
最初は自分の名前が聞こえるたびに反応しそうになったが、数日もすると少しずつ慣れてきた。Lentoと呼ばれているのは自分であって自分ではないような、不思議な距離感が生まれ始めている。
そして、その日の昼休み。
ついに拓海まで曲へ辿り着いた。
「なあ隼人、これ聞いたことある?」
拓海がスマートフォンを差し出してくる。
画面には、もう見慣れたサムネイルが表示されていた。
【Lento - 夜明けの途中】
隼人は一瞬だけ黙った。
「……あるよ」
「やっぱ知ってる? 最近結構伸びてるらしいんだよ。俺、昨日初めて聞いたんだけどさ」
「へえ。どうだった?」
「好き。派手じゃないけど、何回か聞きたくなる感じ。あとギターが結構いい」
「そこ褒めるんだ」
「俺らギターやってるんだから、そこは聞くだろ」
拓海は笑った。
隼人も普段通りに笑い、その場では何も言わなかった。
ところが放課後。
鞄を持って帰ろうとしていた隼人を、拓海が呼び止めた。
「なあ、ちょっといい?」
「何?」
教室にはまだ何人か残っている。
拓海は廊下へ出るよう促し、人の少ない階段付近まで移動してから声を落とした。
「Lentoって、お前?」
隼人の足が止まった。
「……何で?」
「やっぱそうなのか?」
「質問に質問で返すなよ。何でそう思った?」
拓海は少し考えてから答えた。
「一番はギター。細かいところがお前っぽい」
「それだけ?」
「歌い方も。お前、カラオケじゃ本気で歌わないけど、たまに声の抜き方が似てる。それに前から家で曲作ってるっぽいこと言ってただろ」
「よく見てるな」
「何年友達やってると思ってんだよ」
隼人にとっては、その言葉が少しだけ重かった。
拓海が知る時間以上に、自分は彼との年月を覚えている。
最初の人生では同じバンドで夢を追い、最後には別々の道を選んだ。あの別れに恨みはなくても、自分が彼へ求めすぎていたことは今でも忘れていない。
「誰かに言った?」
「言ってない。確信なかったし」
「なら正解。Lentoは俺」
拓海の目が大きくなった。
「マジで!?」
「声でかいって」
「いや、だってお前、もうかなり再生されてるだろ!」
「投稿した本人だから数字は知ってるよ」
「何で黙ってたんだよ!」
「まだ1曲しか出してないし、学校で宣伝するつもりもなかったから。別にお前だけに隠してたわけじゃない」
拓海はしばらく隼人とスマートフォンの画面を交互に見ていた。
「全部お前が作ったの?」
「絵は紗月に頼んだ。曲と演奏と歌、それから音源制作は俺」
「紗月も知ってんの?」
「絵を頼んでるんだから、さすがにな」
「俺より先に知ってたのか……」
「そこ気にする?」
「ちょっとだけ悔しい」
「何の勝負なんだよ」
2人で笑う。
少しすると、拓海の表情が真面目になった。
「これ、誰にも言わない方がいい?」
「そうしてくれると助かる。少なくとも学校では広めたくない」
「分かった」
返事は早かった。
隼人は少し意外に思う。
「理由とか聞かないの?」
「顔とか名前を出したくないんだろ?」
「まあ、それもある」
「だったら言わないよ。俺、お前の曲普通に好きだし。変なところからバレて邪魔したくない」
隼人はすぐには返事をしなかった。
最初の人生では、この友人へ自分の夢を背負わせようとした。
自分が音楽だけを選んだから、拓海にも同じ覚悟を求めた。拓海が大学へ行き、就職し、それでも空いた時間をバンドへ使ってくれていたことに気づかず、自分と同じだけ人生を賭けてほしいと願ってしまった。
今は違う。
拓海には拓海のバンドがある。
隼人にはLentoとしての音楽がある。
同じ道を歩かなくても、友人でいられる。
「ありがとう」
「でも、新曲出す時は教えろよ」
「それは考えとく」
「そこは教えろよ!」
「公開したら教えてやる」
「それじゃ他の視聴者と同じじゃねえか!」
拓海の声に笑いながら、2人で昇降口へ向かった。
秘密を知る人間が1人増えた。
それでも、不思議と不安はなかった。
むしろ最初の人生ではできなかった距離で、拓海と音楽の話ができたことの方が嬉しかった。
◇ ◇ ◇
『夜明けの途中』を公開してから30日が経った。
高校3年の初夏。
隼人は月に一度だけ詳しい数字を記録すると決め、夕食と入浴を終えてから管理画面を開いた。
【Lento - 夜明けの途中】
【公開30日】
【再生回数 1,827,441回】
【チャンネル登録者 81,306人】
「……180万か」
公開1週間で531,842回。
そこから最初の勢いは多少落ち着いたものの、曲そのものは止まらなかった。おすすめから新しく見つける人がいて、誰かが感想を投稿し、その感想を見た別の誰かが曲を聞く。
夜に聞く曲として紹介する人もいれば、通学中や勉強中に流しているという人もいた。
公開直後だけ注目されて消えていくのではなく、『夜明けの途中』は少しずつ長く聞かれる曲になり始めていた。
「登録者8万か。こっちの方が実感ないな」
8万人以上が、Lentoの次の曲を待つ可能性がある。
1ヶ月前まで、このチャンネルには誰もいなかった。
その変化を考えると、再生回数以上に不思議だった。
隼人はノートを開き、1ヶ月分の記録を書き込む。
【〈12〉『夜明けの途中』】
【公開30日 再生回数1,827,441回】
【チャンネル登録者81,306人】
【公開直後の伸びだけではなく、現在も継続して再生されている。】
最後に少し考えて、もう1行加えた。
【1曲だけでは判断しない。予定通り、高校在学中は3曲まで。】
「これでいい」
50万回を超えた時にも思った。
100万回を超えた時にも、少しだけ心が揺れた。
これだけ聞かれるなら、もっと早く次の曲を出した方がいいのではないか。
勢いがあるうちに未使用のダイスを使い、何曲も続けて公開した方が数字は伸びるのではないか。
そう考える自分は確かにいる。
35歳まで生きても、数字が伸びれば嬉しい。
もっと欲しくなる気持ちまで消えたわけではない。
だからこそ、自分で決めたルールが必要だった。
「前の人生でも、最初は少しずつだったんだよな」
もっと練習したい。
もっとライブをしたい。
もっと良い曲を作りたい。
もっと音楽へ時間を使いたい。
その「もっと」を繰り返した結果、気づいた時には音楽以外のものをほとんど手放していた。
今回まで同じことをする必要はない。
隼人はノートを閉じた。
机の端には受験用の参考書が置かれている。
明日は学校がある。
週末にはアルバイトも入っているし、拓海からは今度バンドの練習を見に来ないかと誘われていた。美智子とは夏休みに家族でどこかへ行く話もしている。
そして、その生活の中に音楽もある。
それが今の隼人だった。
「次は……そろそろ考えてもいいか」
高校在学中に公開する曲は3曲。
『夜明けの途中』で1曲目を出した。
残りは2曲。
急いで明日から作る必要はないが、夏頃に2曲目を公開するなら、少しずつ準備を始めてもいい時期だった。
隼人はパソコンの中に保存している楽曲用のフォルダを開いた。
そこには『夜明けの途中』とは別に、自分で練習用として作った曲もいくつか残っている。
そして、まだ形にしていない運命のダイスの楽曲もあった。
「1曲目が夜明け前だったから、次も似た曲にする必要はないよな」
Lentoという名前は『夜明けの途中』だけのために付けたものではない。
ゆるやかに進むという意味は、活動そのものへ付けた。
なら、次は少し違う景色を見てもいい。
隼人は椅子へ座り直した。
まだ次の曲を決めるつもりはない。
今夜は候補を考えるだけで十分だった。
それでも、1ヶ月前とは明確に違うことがある。
最初の曲を作っていた頃、Lentoという名前は存在しなかった。
聞いてくれる人もいなかった。
今は81,306人がチャンネルを登録している。
その全員が次の曲を聞くわけではないし、期待に応えなければならない義務が生まれたわけでもない。それでも、次に公開する曲には最初から待っている人がいる。
隼人は、その事実を少しだけ嬉しく思った。
「でも、急がない」
Lentoという名前を選んだ夜に決めたことを、もう一度自分へ言い聞かせる。
1曲目が届いたからこそ、2曲目を焦って作らない。
学校生活を削らない。
受験を後回しにしない。
家族や友人との時間を、音楽より価値の低いものとして扱わない。
そのうえで、次の曲も本気で作る。
最初の人生ではできなかったやり方だった。
隼人は『夜明けの途中』の管理画面を閉じると、明日の授業で使う教科書を鞄へ入れた。
再生回数は、画面を閉じたあとも増えていくだろう。
それを一晩中見届ける必要はない。
明日の朝になれば、また普通に学校へ行く。
その生活を続けながら、次の歌を作ればいい。
ゆるやかに。
けれど、止まらずに。
Lentoとして始まった音楽は、ようやく最初の1曲を誰かへ届けたばかりだった。




