Lento
高校3年の5月。時刻は22時を少し回ったところだった。机の上には学校で使う教科書と大学受験に向けて買った参考書が重ねられ、その横では音楽制作用のパソコンが静かに動いている。
画面に表示されているのは、新しく作成している投稿用アカウントの設定ページだった。専用のメールアドレスを用意し、本名につながる情報を避けながら必要な項目を順番に埋めてきた隼人だったが、最後に近いところで指が止まっていた。
【チャンネル名】
「……名前か。そういや、結局ここまで決めてなかったんだよな」
高校へ入学してから2年以上、活動名について真剣に考えたことはなかった。いつかインターネットへ曲を投稿すること自体は15歳へ戻った朝から考えていたものの、名前など実際に必要になってから決めればいいと思っていたからだ。
そして今、本当に必要になった。
適当な英単語を組み合わせれば、それらしい名前はいくらでも作れる。『夜明けの途中』に合わせて光や朝を意味する言葉を使ってもいいし、音楽に関係する単語から格好のいいものを探す方法もある。
「でも、最初の1曲だけに合わせた名前ってのも違うよな。これから何年使うか分からないんだし」
隼人は椅子の背もたれへ身体を預け、ぼんやりと天井を見上げた。せっかくなら何か意味のある名前にしたいが、意味を込めすぎて自分自身を縛るようなものにはしたくない。
成功や夢を意味する名前も考えてみた。
頂点へ向かう。誰よりも高い場所へ行く。必ず夢を叶える。
そんな意味を込めた名前なら、最初の人生で高校生だった頃の自分は喜んで選んだかもしれない。当時の隼人は本気でメジャーデビューを目指し、いつか大きな会場を満員にして音楽だけで生きていくことを夢見ていた。
その夢自体を、今さら恥ずかしいとは思わない。あれほど本気だったからこそ楽しかった時間もあり、失敗したからといって最初の人生まで否定する必要はなかった。
ただ、もう一度同じ速度で走りたいかと聞かれれば、答えは違う。
「今度は、そこまで急がなくていいんだよな」
大学へ進む。家族との時間も残す。友人と遊ぶ日があってもいいし、必要ならアルバイトだって続ける。その生活を守ったうえで、音楽をやる時だけは本気で向き合う。
高校へ入学した朝から、その考えだけは変わっていなかった。
ゆっくりでも構わない。
そう考えた瞬間、隼人の頭に1つの言葉が浮かんだ。
「……Lento」
音楽をやってきた人間なら知っている、速度を示す音楽用語だった。意味は「ゆるやかに」「遅く」であり、楽譜を読んだ経験のある人間なら一度くらい目にしたことがあるだろう。
特別珍しい言葉ではない。
それが逆に良かった。
「Lento……うん。悪くないな」
速くなくていい。
だが、止まっているわけでもない。
誰かより先へ行くために、自分の生活まで削る必要もない。自分が続けられる速度で少しずつ進めば、それでもいつか今とは違う場所へ辿り着ける。
高校へ入学してからの2年間が、まさにそうだった。
公開した曲は0曲で、登録者も0人。インターネット上の音楽活動という意味では、誰から見ても何も始まっていない。
それでも歌を練習し、15歳の身体へ楽器の感覚を馴染ませ、DTMや録音について学んだ。アルバイト代を貯めて少しずつ機材を揃えながら、学校にも通い、友人とも遊び、家族との時間も過ごしてきた。
音楽だけを見れば、随分と遠回りした2年間だったのかもしれない。
だが人生として考えるなら、何も無駄にはなっていない。
「よし。これにするか」
隼人はキーボードへ指を置いた。
【Lento】
入力欄へ5文字が表示される。
その瞬間に特別なことが起こるわけではなかった。神様から新しい能力が与えられることもなければ、運命のダイスが反応して何かを知らせてくることもない。
ただ、昨日まで存在しなかった名前が1つ生まれた。
立花隼人ではない。
17歳の高校生でもない。
これからインターネットへ音楽を出す時だけ、自分が名乗る名前。それがLentoだった。
「今日から音楽やる時は、これでいくか」
チャンネル名を確定し、次の項目へ進む。
プロフィールについては、名前ほど悩まなかった。
【Lento】
【音楽を作っています。】
「……地味だな」
思わず笑ってしまうほど簡素だったが、これ以上書く必要もない。年齢も、高校生であることも、出身地も学校名も公開しない。
性別についても積極的に書くつもりはなかった。歌を聞けば男性だと判断する人は多いだろうが、わざわざプロフィールへ個人情報を並べる必要はない。
使用機材や音楽歴についても同じだった。
まだ1曲も公開していない人間の経歴など、誰も気にしていないだろう。
曲を聞いてもらえればいい。
自分自身まで売り込む必要はなかった。
プロフィール画像については紗月へ追加で依頼することも考えたが、最初は簡単な文字だけのものへ留めた。活動が続き、本当に必要になった時に改めて考えればいい。
一通りの設定を終えると、新しいチャンネルが完成した。
【Lento】
【登録者 0人】
【動画 0本】
「何か、この0は結構好きだな」
運命のダイスを持っていても、最初からファンまで与えられるわけではない。〈12〉が1,200万人規模へ届く可能性を持っていたとしても、この瞬間にLentoを知っている人間はほとんど存在しなかった。
名前を検索する人すらいない。
今日生まれたばかりなのだから当然だった。
隼人は別の画面を開き、完成している『夜明けの途中』を確認した。紗月が描いた夜明け前の空と、その下を歩いている小さな人影が画面へ表示される。
「さて、本当に出すか」
ここまで来て怖くなったわけではない。
ただ、公開する前に最後の確認だけはしておきたかった。
顔は映っていない。本名もない。学校名につながるものもない。動画の中に不用意な個人情報が入っていないことを確認し、ファイル名なども投稿用に整理する。
35歳まで会社員として働いていた経験のせいか、こういう確認だけは妙に細かかった。
「最初の曲を出した瞬間に身バレとか、さすがに笑えないからな」
確認を終え、動画をアップロードする。
タイトル欄には少し考えてから、最も単純な形を入力した。
【Lento - 夜明けの途中】
初めてLentoという名前と曲名が並んだ。
隼人は数秒だけ画面を眺めた。
「……悪くないな」
説明欄には必要最低限の情報だけを記載する。
音楽制作と歌唱についてはLento名義。イラストについては紗月本人と相談したうえで、彼女が普段インターネットで使用しているイラスト名義を載せた。
友人だからといって、その辺りを曖昧にするつもりはない。自分が匿名で活動するなら、協力してくれた紗月についても学校や本名へつながる情報を勝手に出すべきではなかった。
アップロードの処理が少しずつ進んでいく。
まだ誰にも聞かれていない。それなのに、100%へ近づく表示を眺めているだけで心臓が少し速くなる。
「ライブ前とは違う緊張だな、これ」
前世では何度もライブハウスへ出演した。
ステージへ出る前の緊張なら知っている。ライブには目の前に客がいて、客席が埋まっているかどうかも分かり、演奏が終われば拍手や歓声がその場で返ってくる。
インターネットでは違う。
誰が最初に聞くのか分からない。
誰にも見つけてもらえない可能性もあるし、数十回だけ再生されて終わるかもしれない。何ヶ月も掛けて少しずつ伸びることもあれば、逆に運命のダイスが示している可能性へ想像以上の速度で近づくこともあるのかもしれない。
「まあ、それを見るために出すんだけどな」
アップロードが完了した。
次に公開日時を決める。
現在は平日の22時を過ぎていた。今すぐ公開しても構わないが、翌日は普通に学校がある。初投稿の数字が気になって夜中まで画面を更新し続ければ、自分で決めた方針を最初から破ることになる。
隼人は数日後の土曜日を選んだ。
時間は19時。
【公開予定 土曜日 19:00】
「これなら次の日も休みだし、何かあっても確認できる。最初から投稿時間の正解なんて分かるわけないし、このくらいでいいだろ」
予約を確定する。
これで自分から取り消さない限り、土曜日の19時になれば『夜明けの途中』が誰でも聞ける状態になる。
2年以上、公開する時期さえ決めずに準備してきた曲へ、初めて具体的な期限が付いた。
「……やっとここまで来たか」
隼人は椅子の背もたれへ身体を預け、大きく息を吐いた。
もっと強い達成感があると思っていた。
実際には、意外なほど静かだった。まだ曲は公開されていないし、誰からも評価されていない。成功したわけでも失敗したわけでもなく、投稿予約を1つ設定しただけなのだから当然かもしれない。
それでも、少し嬉しかった。
高校へ入学した朝に選んだ〈12〉が、ようやく自分以外の誰かへ届くところまで来た。
隼人はスマートフォンを手に取り、紗月へメッセージを送った。
【土曜日の19時に公開することにした。動画にも絵の名義入れてある。】
少しして返信が来る。
【本当に出すんだ! 公開されたら私も見に行く。私のアカウントで紹介していい?】
隼人は少し考えた。
紗月のイラスト用アカウントには、既にある程度のフォロワーがいる。決して大規模ではないが、完全に0から始めるLentoより遥かに人へ届きやすい。
【最初だけ紹介なしでお願いしていい? 何もしない状態でどれくらい聞かれるのか見てみたい。】
【分かった。じゃあ黙って見てる。】
【全然伸びなかったら笑ってくれ。】
【そこは普通に励ますよ。】
「優しいな」
隼人は笑ってスマートフォンを置いた。
運命のダイスが示しているのは、あくまで到達可能性だ。
〈12〉なら1,200万人規模。
しかし投稿した瞬間から自動的に人間を呼び込む能力なのか、曲を聞いた人が誰かへ勧めたくなることで徐々に広がるのか、その仕組みまでは説明されていない。
だから最初は余計なことをしたくなかった。
純粋に曲だけを置いてみる。
それで何が起こるのか確認する。
「さて、明日も学校だし寝るか」
時計は23時前だった。
投稿予約をした記念に夜更かしする理由もない。隼人はパソコンを閉じ、翌日の時間割を確認してから布団へ入った。
◇ ◇ ◇
翌朝も、いつもと変わらなかった。
「隼人、起きてる!? 遅刻するわよ!」
「起きてる! 今降りる!」
制服へ着替えて階段を下りる。
食卓には朝食が並び、父は新聞を読み、美智子は隼人の弁当を準備していた。
昨夜、インターネット上にLentoという名前が生まれた。
しかし立花家の朝には何の変化もない。
「そういや母さん、この前言ってた曲、今週の土曜に出すことにした」
「ああ、ネットに載せるって言ってたやつ?」
「そう。19時」
「じゃあ聞くわ。お父さんにも教えてあげないと」
「別に家族揃って正座して聞くようなものじゃないぞ。普通に聞いてくれればいいから」
新聞から顔を上げた父が、少し興味を持った様子で尋ねてきた。
「本名で出すのか?」
「いや。Lentoって名前にした」
「レント?」
「音楽用語。ゆるやかにとか、遅くって意味」
父は少し考えたあと、納得したように頷いた。
「お前にしては随分のんびりした名前だな」
「だからいいんだよ。今度は急がないって決めてるから」
「そうか」
父はそれ以上聞かなかった。
美智子も「覚えやすくていいんじゃない?」と言っただけで、すぐに今日の天気と帰宅時間の話へ移る。
隼人は味噌汁を飲みながら、そんな普通の食卓を少しだけ嬉しく思った。
音楽活動を始めても、ここは変えたくない。
Lentoとして何が起こったとしても、朝になれば立花隼人として学校へ行く。夕方になれば家へ帰り、家族と飯を食う。それくらいの距離を保っていた方が、自分にはきっと合っている。
学校へ着けば、さらに日常へ戻った。
「隼人、今日の数学の小テスト勉強した?」
席へ着く前に拓海から聞かれる。
「一応やった」
「ちょっとノート見せて」
「勉強したか聞いた直後に答えを要求するな」
「友達だろ?」
「友達をカンニングの共犯にしようとするなよ」
拓海は笑いながら自分の席へ戻った。
隼人も、Lentoという名前を教えなかった。隠し通したいわけではないが、自分から宣伝する必要もないと思っている。
もし拓海が偶然曲を見つけたなら、その時はその時だった。
昼休みには紗月と少し話した。
「土曜日、本当に何も宣伝しなくていいの?」
「最初はな。1週間くらい経ったら好きに紹介していいよ」
「私のフォロワーなんて、そんなに多くないけど」
「俺の登録者は0人だから、それと比べたら大手だぞ」
「比較対象がおかしいよ」
「0には何を掛けても0だからな」
「数学の話?」
「今日小テストだったから影響されてる」
紗月が笑う。
こうして学校で普通に話している相手が、自分の最初の作品へ関わっている。そのことが少し不思議で、同時に悪くないと思えた。
それから土曜日までは、驚くほど何も起こらなかった。
授業を受け、受験勉強をする。
アルバイトへ行き、家へ帰れば必要な日だけ歌や楽器の練習をする。
完成した『夜明けの途中』には、もう触れなかった。
公開直前になって修正を始めれば終わらなくなる。今より良い歌が録れるかもしれないと思い始めれば、1週間後も1ヶ月後も同じことを考えているだろう。
80点で出す。
残りの20点は、次の曲で取りに行く。
そう決めたのだから、今さら100点になるまで磨こうとはしなかった。
◇ ◇ ◇
そして土曜日。
隼人は朝から特別なことをしなかった。午前中は学校の課題を進め、受験用の問題集を少し解く。昼食を食べたあとはギターを触り、その後は美智子から買い物を頼まれたため近所のスーパーまで出かけた。
自分の最初の曲が公開される日でも、牛乳と卵は買いに行く。
「こういうのでいいんだよな」
スーパーの袋を提げながら帰宅し、隼人は少し笑った。
前世の自分なら、初めて何か大きな挑戦をする日は朝から音楽だけを考えていたかもしれない。だが今は、公開予定時刻までずっとパソコンの前で待機するようなことはしたくなかった。
17時を過ぎた頃、美智子が夕食の準備を始める。
「何か緊張してる?」
「少しだけ」
「珍しいわね。最近の隼人、あんまり緊張してるところ見ないから」
「今日は知らない人に初めて曲聞かせるからな。さすがにちょっとは緊張するよ」
35歳まで生きた記憶のおかげで、高校生活の多くは以前より落ち着いて受け止められる。
しかし今日は違った。
2年以上かけて準備してきたものを、自分のことを何も知らない人間へ初めて渡す日だった。
「誰にも聞かれなかったらどうするの?」
「普通にへこむと思う」
「その時は母さんが聞くから、0回にはならないわよ」
「記念すべき最初の再生が母親だったら、ちょっと格好つかないんだけど」
「高校生なんだから贅沢言わないの」
「高校生でも格好はつけたいんだよ」
横で聞いていた父まで笑った。
そんな普通の会話をしながら夕食を済ませ、18時半頃には自室へ戻る。
パソコンを起動した。
【Lento】
【登録者 0人】
【動画 0本】
まだ何もない。
公開予定の動画だけが、管理画面の中で待っている。
【Lento - 夜明けの途中】
【公開予定 19:00】
あと30分だった。
隼人は画面を眺め続けることはせず、別のタブを開いて大学について調べ始めた。進学先の候補や学部、通学時間、学費など、これから具体的に考えなければならないことはいくらでもある。
音楽が始まるからといって、進路を後回しにはしない。
もし『夜明けの途中』が伸びても大学へ行く。
伸びなくても大学へ行く。
1曲の数字だけで人生を変えない。
「最初に決めたことくらい守らないとな」
大学の情報を見ているうちに、時計は18時55分を回っていた。
「あと5分か」
さすがに管理画面へ戻る。
公開までの時間が少しずつ減っていく。
18時57分。
18時58分。
18時59分。
あと1分になったところで、隼人はマウスから手を離した。
高校へ入学した日の朝、運命のダイスで〈12〉を選んだ。
あれから2年以上が経った。
歌を練習し、楽器を弾き、アルバイトをして機材を買った。DTMや録音を学び、何度も歌い直し、紗月へイラストを頼み、動画まで自分で形にした。
そして、活動するための名前も決めた。
Lento。
ゆるやかに進む。
2度目の人生で自分が選んだ速度を、そのまま名前へした。
時計が19時へ変わった。
画面の表示も切り替わる。
【公開】
「……出たな」
それだけだった。
部屋が光るわけでもなければ、神様が現れることもない。運命のダイスから特別な通知が届くこともなく、階下からはテレビの音が聞こえ、窓の外では車が通り過ぎていく。
いつもの土曜日の夜に、インターネット上へ動画が1本増えた。
ただ、それだけのことだった。
隼人は公開されたページを開く。
【Lento - 夜明けの途中】
【再生回数 0回】
【登録者 0人】
「本当に0からなんだな」
少し嬉しかった。
ここから始められる。
能力をもらったからといって、最初から成功した状態を与えられたわけではない。〈12〉がどれほど強い曲であっても、Lentoという名前そのものには今のところ何の価値もなかった。
隼人は一度だけ画面を更新する。
【再生回数 2回】
「……母さんと父さんか?」
タイミング的には十分あり得る。
自分で再生して数字を増やすつもりはないため、そのまま少し待つ。
19時05分。
【再生回数 6回】
【登録者 0人】
家族以外にも誰かが聞いたのかもしれない。
それとも同じ人が何度か再生しただけなのか。
今の数字では何も分からない。
19時10分。
【再生回数 17回】
【登録者 1人】
「お、登録者付いた」
たった1人だった。
それでも0と1では違う。
その1人が家族なのか、偶然見つけた知らない人なのかも分からない。紗月は宣伝しない約束なので、自分で曲を聞く以外には何もしていないはずだった。
さらに数分すると、最初のコメントが付いた。
【おすすめに出てきました。初投稿なのかな。声と曲の雰囲気が好きです。】
隼人は、その文章を2回読んだ。
「……知らない人だ」
当たり前なのに、不思議だった。
自分の本名を知らない。
年齢も知らない。
高校生だということも、35歳から人生をやり直していることも、運命のダイスを持っていることも当然知らない。
ただ曲を聞いた。
それだけで「好き」と書いてくれた。
前世ではライブの客から感想をもらったこともある。それでも今は、自分自身が歌った曲へ初めて知らない人から言葉が届いたことが、思っていた以上に嬉しかった。
「これがLentoへの最初の感想か」
コメントへ返信するか少し迷った。
最終的には、簡単に礼だけ返した。
【聴いていただきありがとうございます。】
それ以上は書かなかった。
自分を知ってほしいわけではない。
曲を聞いてくれたことへの礼が伝われば、それで十分だった。
19時30分。
【再生回数 63回】
【登録者 7人】
「少しずつ増えてるな」
爆発的というほどではない。
しかし、告知を一切していない初投稿として考えれば、隼人が想像していたより早く知らない人へ届いていた。
コメントも数件増えている。
【夜に聞くとすごくいい。】
【声が好き。次も出してほしい。】
【おすすめから来たけど、登録者1桁でびっくりした。】
短い感想ばかりだったが、それで十分だった。
知らない人間が曲を聞き、そのうち何人かが登録ボタンまで押してくれている。数字として見れば小さいが、現実の人数へ置き換えれば決して少なくない。
20時を過ぎる。
【再生回数 184回】
【登録者 21人】
「思ったより増えるな」
まだ184回。
〈12〉が持つ1,200万人規模という可能性から見れば、比較する意味すらないほど小さな数字だった。
それでも隼人にとっては、184人だった。
高校の教室なら4クラス以上になる。
前世で出演していた小さなライブハウスなら、184人が入れば客席の景色はかなり違ったはずだ。自分たちが必死に声を掛けても、そこまで集められなかったライブはいくらでもあった。
「再生数って数字だけ見ると小さく感じるけど、184人が目の前にいると思ったら普通に多いな」
そう考えると、急に数字の見え方が変わった。
1人ずつ顔があるわけではない。
どこで聞いているのかも分からない。
それでも画面の向こうには、確かに曲を再生した人間がいる。
隼人は管理画面を閉じた。
「今日はもういいか」
これ以上追い続ける必要はない。
公開したばかりなのだから、数分おきに数字を確認したところで自分にできることは何もない。伸びるなら見ていなくても伸びるし、止まるなら画面へ張り付いていても止まる。
スマートフォンが震えた。
紗月からだった。
【公開おめでとう! ちゃんと動画になってるの見ると、私まで緊張した!】
【ありがとう。絵かなりいい感じだった。】
【曲も良かったからね!】
【そこは自分で言うの恥ずかしいから助かる。】
少しして、もう1件届く。
【今184回だよ。見てる?】
【見てた。でも今日はもう閉じた。】
【早くない?】
【明日になれば増えてても増えてなくても分かるからな。】
返信を送ったあと、スマートフォンも机へ置いた。
まだ20時を少し過ぎた程度だった。
普段なら音楽の練習をする時間でもある。
しかし今日は、もう十分だった。
自分の最初の曲を公開した。
知らない人が聞いた。
登録してくれた人もいる。
コメントまで届いた。
今日のうちに、それ以上を求める必要はない。
隼人は学校の鞄から問題集を取り出した。
「明日休みだからって、勉強しない理由にはならないしな」
30分ほど問題を解く。
途中で再生数を確認したくなったが、パソコンは開かなかった。数字を見るたびに一喜一憂するようになれば、音楽を生活の一部に留めるという最初の方針まで簡単に崩れてしまう。
問題集を終えたあとは風呂へ入り、少しだけリビングでテレビを見た。
「曲、よかったわよ」
美智子が何気なく言った。
「ありがとう」
「いつも部屋から聞こえてたのと、ちゃんと完成したのは全然違うのね。絵も綺麗だったし」
「絵は友達に頼んだ。ちゃんと5,000円払ったぞ」
「高校生同士で随分ちゃんとしてるのね」
「無料で何回も頼む方が嫌だからな」
父もテレビから視線を外した。
「思っていたよりちゃんとしてたな」
「親父、それ紗月にもほぼ同じこと言われたぞ。褒め方がみんな一緒なんだけど」
「ちゃんとしてたんだから仕方ないだろ」
「もう少し感動的な言葉とかない?」
「高校生相手に褒めすぎると調子に乗るからな」
「厳しいなあ」
隼人は笑った。
35歳の自分なら、「中身は高校生じゃない」と言い返したくなるところだが、それを口にするわけにはいかない。
ただ、家族が自分の曲を聞いている。
それだけで十分だった。
前世では音楽を人生そのものにしてしまった。
成功しなければ意味がないと思い込み、結果を出すことばかり考えていた。
今は違う。
184回でも嬉しい。
母が聞いてくれたことも嬉しい。
父の微妙に褒め方が下手な感想さえ、少し嬉しかった。
自室へ戻る。
時計は22時を過ぎていた。
寝る前に管理画面を開こうとして、隼人はマウスへ伸ばしかけた手を止めた。
「……明日でいいか」
気になるのは当然だった。
今確認して数字が増えていれば、もう一度見たくなる。逆に増えていなければ、それはそれで気になって眠れなくなるかもしれない。
なら、今日は見ない。
隼人はパソコンを閉じたまま布団へ入った。
Lentoとして最初の夜だった。
活動名を決め、初めての曲を公開し、知らない誰かから初めて感想をもらった。それだけでも、今日という日は十分に特別だった。
それでも明日になれば、普通の日曜日が来る。
朝食を食べる。
受験勉強をする。
時間があれば音楽にも触れる。
再生数が200回になっていても、500回になっていても、やることは大きく変わらない。
「おやすみ、Lento……って、自分で言うと気持ち悪いな」
誰もいない部屋で自分に突っ込み、隼人は目を閉じた。
◇ ◇ ◇
その夜。
本人が管理画面を閉じたあとも、『夜明けの途中』は少しずつ再生され続けていた。
1人が偶然おすすめから動画を開く。
最後まで聞く。
そのうち何人かが登録する。
別の曲も聞いてみようとチャンネルを開き、まだ『夜明けの途中』しか存在しないことに気づく。
そして、ごく一部の視聴者が曲のリンクを誰かへ送る。
大規模な拡散ではない。
話題になっているわけでもない。
Lentoという名前を知っている人間も、インターネット全体から見れば存在しないに等しかった。
それでも、動きは止まらなかった。
184だった数字が200を越える。
やがて300へ届く。
登録者も、少しずつ増えていく。
誰かが聞き終えた直後に、また別の誰かが再生を始める。
まだ小さな流れだった。
けれど、その流れは消えなかった。
高校へ入学してから2年以上、誰にも知られない場所で準備を続けてきた曲が、初めて隼人の知らない場所へ届き始めている。
それは本人が眠っている間も続いていた。
そして翌朝。
いつも通り美智子に起こされ、少し遅めの朝食を食べた隼人が自室へ戻り、何気なくパソコンを起動する頃には、昨夜とは明らかに違う動きが始まっていた。
まだ爆発ではない。
誰もが知るヒット曲になったわけでもない。
それでも、昨夜までの緩やかな増え方とは違う。
おすすめから来た誰かが最後まで聞き、その視聴履歴から別の誰かへ表示される。コメントを残した人間が曲名を投稿し、それを見た人間がさらに動画を開く。
小さな流れが、いくつも重なり始めていた。
隼人はまだ、その数字を見ていない。
だからこの瞬間も、彼にとってLentoは登録者21人の新人だった。
だが、インターネットの向こう側では既に、隼人の想像より少しだけ速い速度で『夜明けの途中』が歩き始めていた。
名前の意味は、ゆるやかに。
それでも曲まで、ゆっくり進んでくれるとは限らなかった。




