夜明けの途中
佐倉紗月から返信が届いた翌日、隼人は昼休みになると校舎の端にある空き教室へ向かった。普段なら拓海たちと教室で昼食を取るところだが、今日は紗月に『夜明けの途中』を聞かせる約束をしているため、人の出入りが少ない場所を選んでいた。
数分ほど待っていると、紗月が弁当箱とスマートフォンを抱えてやってきた。肩より少し長い髪を揺らしながら教室へ入るなり、隼人の向かいへ座る。
「昨日のメッセージ、本気だったんだ。私、最初は何かの冗談かと思ったんだけど」
「曲作ったから絵を描いてくれって、あんまり冗談で送らないだろ」
「だって隼人、絵を頼むどころか、自分で曲作ってるなんて今まで一度も言わなかったじゃん。ギター弾けるのは知ってたけど」
それは当然だった。高校へ入学してから約2年間、隼人は自分が歌やDTMを練習していることを積極的には話していない。拓海でさえ、いつか1人でネットへ曲を出したいらしいという程度しか知らなかった。
「まだ誰にも聞かせられる状態じゃなかったからな。作ったって言っても、練習用の曲ばっかりだったし」
「じゃあ、昨日言ってた曲が初めて出すやつ?」
「その予定。まだ完成じゃないけど、かなり近いところまではできてる」
「それなら早く聞かせて。昨日から普通に気になってたんだから」
紗月は弁当箱を机へ置き、期待するように身を乗り出した。隼人は少しだけ迷ってから、持ってきたスマートフォンへイヤホンを接続する。
本来ならヘッドホンで聞かせたいところだが、学校へ持ってくるには少々大きい。今日の目的は音質の細かな確認ではなく、曲からどんな景色を感じるか聞くことなので、イヤホンでも十分だった。
「一応言っとくけど、まだ公開前だから他のやつには聞かせないでくれよ」
「分かってる。というか、そんな大事な曲を私が最初に聞いていいの?」
「絵を頼む相手が聞かないでどうするんだよ」
「それはそうだけど……何か急に緊張してきた」
「作った俺より緊張するなよ」
イヤホンを渡し、再生ボタンを押す。
静かなギターから曲が始まった。
紗月の表情が少し変わる。
隼人は何も言わず、その反応を見ていた。
自分以外の誰かが『夜明けの途中』を最初から最後まで聞くのは、これが初めてだった。
約2年間、誰にも聞かせなかった。
拓海にも、両親にも聞かせていない。
再生数どころか、他人の感想すら存在しなかった曲が、初めて自分以外の耳へ届いている。
思ったより緊張する。
「……こういう感じなのか」
小さく呟いたが、イヤホンをしている紗月には聞こえていない。
ライブへ出た経験なら前世にいくらでもある。
自分の曲を人前で演奏したこともある。
客席がほとんど埋まらなかったライブも、逆にそれなりに盛り上がったライブも経験した。
それなのに今は、たった1人に聞かせているだけで妙に落ち着かなかった。
理由は分かっている。
今回は、昔のバンドの曲ではない。
自分が歌っている。
自分で演奏し、自分で組み立て、自分の声で完成させようとしている。
誰かの後ろに立つギタリストではなく、曲の中心に自分がいる。
その違いは思った以上に大きかった。
曲が終わる。
紗月はすぐにイヤホンを外さなかった。
数秒ほどそのまま黙り、画面へ視線を落としている。
「……どうだった?」
さすがに隼人から聞いた。
紗月はようやくイヤホンを外すと、最初に出てきたのは感想ではなく質問だった。
「これ、本当に隼人が歌ってるの?」
「そこから?」
「だって普段の声と全然違うんだけど」
「歌ってる時まで教室と同じ喋り方だったら、それはそれで嫌だろ」
「そういう意味じゃないって。何て言えばいいんだろ……思ってたより、ちゃんとしてた」
「褒め方下手だな」
「違う、かなり褒めてる!」
紗月が慌てて言い直すので、隼人は笑ってしまった。
「じゃあ音楽の感想はそれでいいとして、絵を描く側として何が見えた?」
「切り替え早くない?」
「昼休み終わるからな」
「急に現実的……」
紗月は少し考え、もう一度スマートフォンの画面へ視線を落とした。
「夜かな。でも真夜中じゃない。空が少し青くなってきてるくらい」
隼人は黙って続きを待った。
「朝日はまだ見えない方がいいと思う。太陽が出てると、もう夜明けちゃった感じがするから。この曲って、まだ何も解決してないんでしょ?」
その言葉に、隼人は少し驚いた。
「そう聞こえた?」
「うん。頑張れば絶対大丈夫とか、明日は全部良くなるとか、そういう歌じゃない気がする。でも止まってもない。だから……夜と朝の間くらい」
「いいな。それ」
頼む相手を間違えなかったらしい。
紗月は絵を描けるだけではなく、曲から受け取ったものを自分の言葉へ変えることができる。
「道とかあってもいいかも。真ん中に人が立ってるんじゃなくて、遠くに小さくいるくらい。誰なのか分からない方が、この曲には合いそう」
「顔は描かない?」
「描かない。というか、顔を見せたらその人の歌になっちゃう気がする」
それも隼人の考えと合っていた。
自分の顔を出すつもりはない。
ならば映像の中に、自分の代わりとなる人物を大きく配置する必要もない。
「それでお願いしていい?」
「描きたい。普通に描きたい」
「じゃあ5,000円で」
「だから高いって。私まだ高校生だし、仕事で絵描いたことないよ?」
「俺だって仕事で曲出したことないぞ。条件同じだろ」
「でも友達から5,000円もらうの変な感じする」
「無料で何時間も作業してもらう方が、俺は変な感じするんだよ」
紗月はしばらく納得していない顔をしていたが、最終的には隼人が押し切った。
「分かった。でも、その代わりちゃんと注文して。友達だから何でもいいとか言ったら怒るから」
「それは助かる。俺、絵については本当に分からないから、変なこと言ったら止めてくれ」
「そこは任せて」
こうして『夜明けの途中』のイラスト制作が始まった。
放課後になると、隼人はいつも通り授業を終え、アルバイトのない日は自宅へ戻った。紗月へ絵を頼んだからといって、音源が完成したわけではない。
数ヶ月前に作ったデモを聞き直し、気になる部分を1つずつ修正していく。
最初に手を入れたのはギターだった。
以前の演奏でも大きな問題はない。
しかし高校3年になった今なら、同じフレーズをもう少し自然に弾ける。必要以上に音を揃えようとせず、ほんの僅かな揺れを残した方が曲全体の雰囲気に合っていた。
ベースは逆に、以前より動きを減らした。
「ここ、弾けるから動かしてるだけだな」
自分で作ったデータへ容赦なく判断を下し、音を削る。
前世ではベースも弾けることを見せたくなり、必要以上に動かしてしまうことがあった。今は曲を聞く側にとって必要かどうかを先に考えられる。
鍵盤も同じだった。
足すより、減らす。
その結果、最初のデモより音数は少なくなったのに、曲そのものは広く感じられるようになった。
「余白って大事だな。昔の俺に聞かせたら、絶対この隙間に何か入れるだろうけど」
自分で想像して笑う。
そして最も時間が掛かったのは、やはり歌だった。
高校1年から2年間続けてきた発声練習によって、技術だけならかなり安定している。
音程を外すことは少ない。
息も以前より長く使える。
強弱も細かく調整できる。
それでも、上手く歌えば完成するわけではなかった。
最初のAメロを何度も録る。
聞き返す。
削除する。
もう一度録る。
「綺麗すぎるな」
また録る。
「今度は狙いすぎ」
削除する。
「……面倒くせえ」
思わず本音が漏れた。
しかし嫌ではない。
面倒ではある。
それでも、もう一度マイクの前へ立つ。
そんな作業を何日か繰り返しているうちに、隼人は自分が何を間違えているのか少しずつ理解した。
曲の主人公を演じようとしすぎている。
夜の中を歩いている誰かを想像し、その人物になろうとしていた。
しかし、それでは少し遠い。
「別に俺が歌えばいいのか」
35歳で夢を諦めた。
音楽から離れた。
それでも完全には嫌いになれなかった。
神様に出会い、15歳へ戻った。
そして2年間、誰にも知られないまま準備してきた。
まだ成功していない。
何も始まっていない。
それでも、少しずつ前へ進んでいる。
それなら無理に別の誰かを演じる必要はなかった。
自分の経験をそのまま声へ置けばいい。
「もう1回だけやるか」
録音を開始する。
今度は、上手く歌おうとしなかった。
声を綺麗に聞かせようとも考えない。
歌詞の意味だけを追う。
必要な場所で息を吸い、必要な言葉だけ少し前へ出す。
最後まで歌い終わる。
録音を止め、聞き返した。
「……これだな」
技術だけなら、それまでの録音の方が綺麗だった場所もある。
僅かに息が混じっている。
語尾も完全には揃っていない。
だが、その方が曲に合っていた。
隼人はそのテイクを残した。
完璧な100点を探して何十回も録り続けるつもりはない。
自分の中で80点を超え、曲として伝えたいものが伝わるなら、そこで前へ進む。
最初の人生では、100点を求めて止まってしまうことが何度もあった。
今度は違う。
完成させる。
そして次へ行く。
数日後、紗月から最初のラフが届いた。
スマートフォンへ表示された絵を見て、隼人は思わず姿勢を正した。
画面の大部分を占めるのは、夜明け前の空だった。
上部にはまだ夜の濃い色が残り、地平線へ近づくほど僅かに明るくなっている。
道路が奥へ伸びている。
その先に、小さな人影が1つだけある。
顔は見えない。
性別も分からない。
どこへ向かっているのかも分からない。
ただ、立ち止まってはいなかった。
「……いいな」
思っていた以上だった。
隼人はすぐに返信する。
【かなり好き。方向性これでお願いしたい。人物は今くらい小さい方がいい。あと朝日は見せないでほしい。】
数分後、紗月から返信が来た。
【私も朝日は出さないつもり。まだ夜明けの途中だから。】
「分かってるなあ」
隼人は笑った。
その日の夕食中、美智子から「何か最近楽しそうね」と言われた。
「そう?」
「前から音楽やってたけど、最近は特に。部屋から同じところ何回も歌ってるの聞こえるし」
「聞こえてたの?」
「そりゃ聞こえるわよ。防音室じゃないんだから」
隼人は少し気まずくなった。
「うるさかった?」
「夜遅くにはやってないから大丈夫。でも、同じ歌ばっかりね」
「今作ってる曲だから」
「自分で作ったの?」
「まあ、そんな感じ」
運命のダイスについて説明するわけにはいかない。
ただ、現在の音源を自分で制作していることに嘘はなかった。
「完成したら聞かせてよ」
美智子が何気なく言った。
隼人は一瞬だけ箸を止める。
最初の人生でも、母は自分の音楽を応援していた。
バンドを始めた頃も。
大学へ行かず音楽を続けると決めた時も。
心配はしていたはずなのに、最後まで強く止めることはなかった。
その結果、自分は何も返せなかった。
そう考えかけて、隼人は止めた。
今は違う。
過去の借りを返すために音楽をするわけではない。
「公開する時になったら聞かせるよ」
「公開するの?」
「ネットに出してみようと思ってる。顔とか名前は出さないけど」
「へえ。高校生でもそういうことできるのね」
「むしろ高校生の方が多いんじゃない?」
「母さん、その辺全然分からないから」
美智子はそう言って笑った。
父も話を聞いていたらしく、「学校の成績落とすなよ」とだけ言った。
「分かってる。大学も行くつもりだし」
「なら好きにやればいい」
それ以上、父は何も言わなかった。
隼人にとっては、それくらいがありがたかった。
音楽を特別なものにしすぎない。
夕食の話題の1つとして出て、その後は学校の話へ移る。
それでいい。
高校3年になったからといって、生活の中心を突然音楽へ変えるつもりはなかった。
4月の終わりが近づく頃には、『夜明けの途中』の音源もかなり完成へ近づいていた。
紗月のイラストも、ラフから線画、着彩へ進んでいる。
隼人は曲を聞きながら、動画としてどう見せるか考え始めた。
派手な映像はいらない。
紗月の絵を中心にする。
歌詞を表示し、必要な場所だけ僅かに動きを加える程度で十分だろう。
自分が前へ出る必要はない。
曲を聞いてもらえればいい。
その考えは、最初から変わっていなかった。
そして、もう1つ決めていることがある。
高校在学中に公開する曲は、3曲まで。
1曲目を出したあと、すぐ次を作るつもりはない。
反応を見る。
数字を見る。
自分の生活がどう変わるのかも確認する。
そのうえで2曲目へ進む。
高校生である以上、受験もある。
大学へ行く。
そこは変えない。
「1曲出して100万回とか行ったら、さすがに考えるけどな」
冗談半分で呟いてから、隼人は少し黙った。
〈12〉の基準は1,200万人規模。
もちろん保証ではない。
だが、可能性としては存在する。
「……いや、100万でも予定は変えない方がいいな」
数字が出た瞬間に生活を変える。
それこそ最初の人生と同じだった。
1曲伸びただけでは何も分からない。
偶然かもしれない。
次が全く聞かれない可能性もある。
だから3曲。
最初から決めた通りにする。
隼人はノートへ新しい一文を書き加えた。
【1曲目の数字だけで人生を変えない。高校在学中は3曲まで。それから先を考える。】
書き終えると、スマートフォンが震えた。
紗月からだった。
【完成した! 一応大きいサイズのデータも送る。直したいところあったら言って。】
添付された画像を開く。
「……おお」
ラフの時より、遥かに良くなっていた。
夜の濃い色が残る空。
遠くへ伸びる道。
地平線の向こうから、僅かに近づいている朝。
そして道の途中を歩く、小さな人影。
朝日はない。
ゴールも見えない。
それでも、夜だけではない。
隼人はしばらく画像を眺めたあと、短く返信した。
【これで完成でお願い。めちゃくちゃいい。ありがとう。】
すぐに返事が来る。
【よかった! じゃあ5,000円は今度ジュース奢ってくれたらそれでいいよ。】
「まだ抵抗するのかよ」
翌日、隼人は約束通り5,000円を渡した。
「本当に受け取るの?」
「受け取ってくれ。次また頼みたくなった時、毎回無料で頼む方が嫌なんだよ」
「次も頼むつもりなの?」
「今回の結果次第だけどな」
「じゃあ、次はもっと上手くなっとく」
「俺もそうする」
そのやり取りが、隼人には妙に心地よかった。
友人だから無料で助けてもらうのではない。
自分は音楽を作る。
紗月は絵を描く。
必要な時に頼み、対価を払う。
まだ高校生同士の小さなやり取りでしかないが、最初の人生で何度も曖昧にしてきた部分だからこそ、今回は最初から大切にしたかった。
5月へ入る頃、音源とイラストの両方が揃った。
隼人は簡単な動画編集を覚え、歌詞を配置していく。
文字を派手に動かすことはしない。
絵を邪魔しない。
曲を邪魔しない。
必要なものだけ置く。
何度か修正を繰り返し、ようやく1本の動画が完成した。
再生する。
紗月の描いた夜明け前の景色が映る。
イントロが始まる。
歌詞が現れる。
自分の声が流れる。
最後まで再生する。
映像が静かに終わる。
「……できたな」
高校へ入学した朝から、2年以上。
ようやく最初の1曲が完成した。
〈12〉。
題名は『夜明けの途中』。
歌唱も演奏も制作も、自分で行った。
イラストだけは紗月へ頼んだ。
ここまで来れば、あとは投稿するだけだった。
だが、隼人はすぐにアカウントを作らなかった。
もう一晩だけ置くことにした。
翌日、学校へ行く。
授業を受ける。
拓海と昼飯を食べる。
放課後にはアルバイトへ行く。
帰宅して風呂へ入り、夕食を食べる。
それからもう一度、完成した動画を見る。
それでも出したいと思えたなら、次へ進む。
翌日の夜。
隼人は再びパソコンの前へ座っていた。
完成した『夜明けの途中』を最初から最後まで再生する。
昨日と同じだった。
直したい場所はいくつかある。
もっと良くできる気もする。
あと1ヶ月あれば、さらに上手く歌えるかもしれない。
半年待てば、ミックスも上達するだろう。
でも、それを言い始めれば終わらない。
「80点なら出す。それで次に行く」
自分へ言い聞かせる。
100点になるまで待つのではない。
今の自分が納得できるところまで作ったなら、一度外へ出す。
評価されなければ、その結果から学べばいい。
隼人はブラウザを開いた。
動画を投稿するためのサービスへアクセスする。
アカウント作成。
メールアドレス。
必要な情報を入力していく。
そして、1つの入力欄で指が止まった。
【チャンネル名】
「……そういや、これ決めてなかったな」
高校へ入学してから2年以上。
活動名を決める機会はいくらでもあった。
それでも隼人は、必要になるまで決めなかった。
そして今、ようやく必要になった。
自分の本名は使わない。
年齢も出さない。
学校名も出さない。
顔も出さない。
なら、この名前だけが、これから曲を聞く人間にとって自分を示すものになる。
「さて……何にするか」
隼人は椅子へ深く座り直した。
成功を願う名前はいらない。
頂点や夢や未来を大げさに掲げる名前も、自分には合わない。
今度の人生で大切にしたいものは、もう決まっている。
止まらない。
けれど、急がない。
音楽の中には、その感覚に近い言葉があった。
隼人は入力欄を見つめながら、昔から知っている1つの音楽用語を思い出していた。




