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リプレイ・ミュージック ―35歳、もう一度だけ夢を見る―  作者: にゅん


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4/42

誰にも知られない2年間

 高校へ入学して初めて迎えた夏休みは、隼人が当初想像していたよりも普通の高校生らしい日々になった。朝から晩まで音楽へ打ち込むわけではなく、週3日のアルバイトへ行き、学校から出された課題を進め、拓海たちに誘われれば遊びにも出かける。その合間へ発声や楽器の練習を組み込む生活が、少しずつ当たり前になっていた。


 最初の人生では、夏休みのような長期休暇ほど音楽へ時間を使える貴重な期間だと考えていた。朝からギターを弾き、午後には仲間とスタジオへ入り、帰宅してからも曲を作る。何もせず休んでいる時間があると、それだけで他の誰かに追い抜かれているような焦りを感じていたほどだ。


 だが今は、毎日何時間も練習しなくても不安にはならなかった。今日は発声を中心にして、明日はギター、その次の日には録音した自分の声を聞き直す。35歳まで音楽へ触れてきた経験があるからこそ、時間を増やすより目的を決めた方が効率的だと理解している。


 特に歌については、練習を続けるほど【芸能の加護】がどのような能力なのか分かってきた。高音へ向かうと喉に余計な力が入り、音程へ意識を向けすぎると声が硬くなる。録音した自分の歌を聞けば、その原因まで以前より遥かに細かく把握できた。


 何でもできる能力ではない。声域が突然何オクターブも広がるわけでもなければ、数回練習しただけでプロと同じ歌唱力になることもない。それでも自分の失敗へ自分で気づき、その理由を理解したうえで次の練習へ反映できることは、想像以上に大きな恩恵だった。


 そして数ヶ月ほど歌い続けたことで、自分の声についても少しずつ理解できるようになった。神様から本来最も優れていた才能は歌だと言われた時には、生まれつき圧倒的な美声でも持っているのかと思ったが、どうやら単純な話ではないらしい。


 普通に話しているだけなら、それほど珍しい声ではなかった。極端に低いわけでも高いわけでもなく、教室で話していれば他の男子生徒へ自然に紛れる程度でしかない。だが歌へ変わった瞬間、声の中へ感情を乗せる方法が不思議なほど直感的に分かった。


 悲しい歌だからといって、最初から最後まで悲しそうに歌えばいいわけではない。強い言葉だから声量を上げればいいとも限らず、むしろ力を抜いた方が聞く側へ深く届く場所もある。そうした違いを以前より遥かに敏感に感じ取れることこそ、自分の才能なのかもしれなかった。


「神様が言ってたのは、こういうことだったのかもな。派手じゃないけど、練習する側からしたら相当ありがたいぞ、これ」


 ある夜、スマートフォンへ録音した歌を聞き返しながらそう呟き、隼人は同じ部分をもう一度再生した。まだ自分を上手い歌手だとは思わない。それでも、これから伸びていけるという確信だけは以前より強くなっていた。


 夏休みの半ばには、アルバイトにもすっかり慣れていた。最初こそ料理を運ぶ順番や端末操作に戸惑ったものの、仕事の流れを覚えてしまえば難しいことは少ない。むしろ35歳まで会社員として働いていた隼人には、高校生らしく振る舞うことの方が難しかった。


「立花君って、本当に高校1年生なんだよね? 何か妙に落ち着いてない?」


 休憩中、大学生の先輩アルバイトから突然そんなことを聞かれた時には、さすがの隼人も一瞬だけ返事に詰まった。もちろん人生をやり直していることが疑われたわけではなく、接客中の態度が高校1年生にしては落ち着いているという意味だった。


「高校1年ですよ。昔からちょっと老けてるって言われるんで、そのせいじゃないですか?」


「見た目じゃなくて中身の話なんだけど。昨日だって怒ってるお客さん相手に、私より普通に落ち着いてたじゃん」


「内心では結構焦ってましたよ。顔に出にくいだけです」


 実際には、会社員時代にもっと面倒な相手を何人も見てきただけだった。取引先との交渉や接待で空気を読むことに比べれば、料理が遅いと不満を訴える客へ謝罪し、状況を確認して説明する程度なら慌てる理由も少ない。


 精神年齢を完全に15歳へ合わせることなど不可能なのだから、無理に演じ続ける必要もないだろう。周囲からは「少し落ち着いている高校生」と思われる程度に抑えればいい。そう割り切ってからは、学校でもアルバイト先でも随分楽になった。


 アルバイト代は毎月一定額を貯金へ回した。最初はパソコン、オーディオインターフェース、マイク、ヘッドホン、MIDIキーボードなど欲しい機材を並べていたが、金が貯まった瞬間に全部買うようなことはしなかった。


 最初に自分の金で買った機材は、高価なマイクでもパソコンでもなく、音を確認するためのヘッドホンだった。歌を録音して聞き直すにも使えるため、価格と性能を何度も比較し、派手な機能より長く使えることを優先して選んだ。


「35歳の頃なら、値段見てそのまま買って終わりだったんだけどな。高校生の数千円とか1万円って、こんなに重かったんだな」


 自分で働いて貯めた金だからこそ、箱を開ける時には少し緊張した。社会人だった頃には気軽に使っていた金額でも、今は何日も働いて手に入れたものだと思えば、その価値まで違って見えた。


 夏休みの後半には、拓海たちのバンドが初めて校内で演奏する機会もあった。文化祭へ向けた選考を兼ねた小さな発表で、隼人も友人として見に行くことにした。


 演奏はまだ粗い。ドラムは緊張すると少し走り、ベースはそこへ引っ張られ、拓海も高音へ入るほど余計な力が入っている。それでも4人とも楽しそうで、演奏が終わった瞬間には失敗した場所など気にせず笑っていた。


「どうだった? 結構よかっただろ?」


 演奏を終えた拓海が汗を拭きながら聞いてきたので、隼人は少し考えてから「楽しかったよ。見てる側まで楽しくなるなら、初めての人前としては十分じゃない?」と答えた。


「それだけ? お前ならギターが走ってたとか、ドラムがどうとか言うと思ったんだけど」


「感想が欲しいのか反省会がしたいのかで答えは変わるぞ。感想を聞かれたから、楽しかったって答えただけだ」


「……お前、前より面倒くさくなってない?」


「理屈っぽくなったとはよく言われる」


 実際、昔の隼人なら求められていなくても改善点を並べていただろう。良くするために悪い場所を指摘することが正しいと思い込み、相手がただ「楽しかった」と言ってほしいだけなのかまで考えていなかった。


 今なら、それぞれが音楽へ求めるものは違うと分かる。拓海たちが本気で改善したい時に相談されたなら答えればいい。楽しかった演奏の直後に、わざわざ採点する必要などなかった。


 秋の文化祭では、隼人自身もクラスの出し物へ普通に参加した。放課後まで教室へ残って装飾を作り、当日は交代で接客を担当する。拓海たちの軽音楽部の演奏も見に行ったため、その数日間はほとんど歌の練習ができなかった。


 それでも焦らなかった。文化祭が終われば、音楽は翌日から再開できる。しかし高校1年の文化祭は、その時にしか経験できない。最初の人生では理解できなかった単純なことを、今度は意識して守るようにしていた。


 冬が近づく頃には、歌にも目に見える変化が現れ始めた。声域が劇的に広がったわけではないが、無理なく使える範囲が少しずつ増え、以前なら声量で押していた場所でも力を抜いて歌えるようになった。


 そして何より、自分の録音された声へ違和感を覚えなくなったことが大きかった。35歳だった頃の声の記憶まで残っているため、最初は15歳の自分が歌う声を聞くたび別人のように感じていたが、何度も録音を繰り返すうちに、ようやく現在の声を自分のものとして扱えるようになった。


 派手に張り上げるより、少し抑えた声の方が自分には合っている。言葉を強く押し出すより、聞く側が感情を重ねられる余白を残した方がいい。その方向性は、頭の中に保管している〈12〉の曲とも相性が良かった。


 ただし、この段階でも〈12〉を完成させようとはしなかった。旋律の一部を発声練習へ使ったり、頭の中で構成を確認したりすることはあるが、最初から最後まで作品として制作するのは高校2年になってからと決めていた。


「作ろうと思えば今でも作れる。でも、今出したところで俺が後悔するだけだろうな」


 そう判断できる程度には、自分の現在地も分かってきた。能力があるから急ぐのではなく、能力があるからこそ、十分に準備してから使う。最初の人生ならできなかった待ち方だった。


 高校1年が終わる頃、隼人はノートを開き、この1年間について簡単にまとめた。公開した楽曲は0曲で、投稿用のアカウントもなく、当然ながら登録者や再生数も0のままだった。


【高校1年終了時点――公開楽曲0曲、投稿アカウントなし、活動名未定。発声の基礎練習を継続し、ギターは現在の身体へほぼ適応。鍵盤とベースも練習を再開し、アルバイトによる制作資金の貯蓄も継続。学校生活と成績に大きな問題なし。】


 数字だけ見れば、音楽活動は何も始まっていない。しかし隼人はその記録を眺めながら、むしろ満足していた。誰にも知られず、何の実績もないまま1年間を終えられたことが、今の自分には順調な証拠だった。


「上出来だな。高校1年で人生変える必要なんてないんだから、これくらいでちょうどいい」


 ノートを閉じると、階下から美智子に夕食だと呼ばれた。隼人は練習を延長することなく部屋を出て、いつものように家族と食卓を囲んだ。


 そして春を迎え、隼人は高校2年になった。


 2年目に入って最初に変えたのは、制作環境だった。高校1年の間に貯めたアルバイト代がそれなりの金額になったことで、以前から調べていた音楽制作向けのパソコンを本格的に購入することにした。


 ただし、パソコンだけで貯金の大半を使うのは避けたかった。これからマイクやオーディオインターフェースも必要になるため、隼人は夕食後、父へ相談してみることにした。


「父さん、ちょっと相談あるんだけど。音楽作るのに使えるパソコンを買いたい」


「学校の勉強用じゃなくて、音楽がメインか?」


「勉強にも使うけど、そっちがメイン。録音とか作曲とか、これから本格的にやってみたいんだよ」


 父は金額を尋ねたため、隼人は候補にしている機種と必要な性能、今後何年くらい使うつもりなのかまで説明した。35歳まで会社員だった経験が出てしまい、途中から自分でも高校生の買い物相談ではなく設備投資の説明をしている気分になった。


「……お前、パソコン1台買うのに随分調べたな」


「高いからな。買ってから足りませんでしたってなるの嫌だし」


「バイト代はどれくらい貯まった?」


 隼人が現在の貯金額を伝えると、父は少し考えてから「じゃあ半分出してやる」と言った。


「いいの?」


「去年の高校入学祝い、まともに欲しいもの言わなかっただろ。半分はそれってことにしてやる。残り半分を自分で出すなら、遊び半分で欲しがってるわけでもないだろうしな」


 隼人は少し迷った。最初はすべて自分で買うつもりだったが、親から助けてもらうことまで拒む必要はない。最初の人生では何でも自分で背負うことを格好いいと思っていたが、今なら助けてもらえる時には素直に頼ることも大切だと分かる。


「じゃあ出してもらう。でも少しずつ返すよ」


「だから入学祝いだって言ってるだろ」


「俺が返したいだけ。別に急いで返さないから」


「そこまで言うなら好きにしろ。変なところで頑固だな、お前」


 父は呆れながら笑った。


 こうして制作用のパソコンが手に入り、その後もオーディオインターフェースやマイク、MIDIキーボードを少しずつ揃えていった。ベースについては新品へ拘らず状態の良い中古品を選び、必要以上に高価なものへ手を出すこともしなかった。


 最終的に机の周囲へ揃った環境を見れば、それなりに金は掛かっている。それでも最初から一気に15万円を使ったわけではなく、アルバイト代を貯めながら半年以上かけて必要なものを追加していったため、学校生活や普段の小遣いを圧迫することはなかった。


 高校2年の春から夏にかけては、DTMと録音へ使う時間が増えた。35歳まで音楽へ触れていた知識があるとはいえ、現在使えるソフトやプラグインをすべて扱えるわけではないため、基本的な部分から改めて試していく。


 最初に作ったデモは、自分で聞いて笑ってしまうほど音が多かった。ギターも鍵盤も使えるから入れたくなり、ベースも動かしたくなり、さらに音を重ねる。個別に聞けば悪くないのに、全部合わせると互いに邪魔をしていた。


「昔の俺なら、この上にもう1本ギター重ねてたな。弾けるもの全部入れれば豪華になると思ってた時期、確実にあったわ」


 そう笑いながら不要な音を削っていくと、歌が前へ出てくる。曲に必要なのは、自分ができることを全部見せることではない。その当たり前の感覚も、最初の人生で遠回りしたからこそ身についていた。


 夏休みに入る頃には、自宅だけでも簡単なデモ音源を完成させられる程度になった。それでも隼人は、いきなり〈12〉へ手を付けることはせず、まずは自分で短い曲を作って一連の制作工程を確認した。


 コードを決め、旋律を作り、簡単な歌詞を書き、ギターとベースを自分で録音する。ドラムは打ち込み、必要な場所だけ鍵盤を重ね、最後に自分の声を録った。完成まで何度も失敗したが、その失敗も含めて面白かった。


 最初から最後まで自分だけで作った音源を再生し終えると、隼人は腕を組んでしばらく考えた。


「……普通だな。悪くはないけど、これ聞いて人生変わるやつはいないだろうな」


 だが、その感想が嬉しかった。


 神様から【芸能の加護】を与えられても、自分が適当に作った曲まで自動的に名曲になるわけではない。運命のダイスを使わなければ普通の曲も作るし、失敗もする。それなら自分で上達していく余地が、きちんと残っている。


「ダイスがあるからって、全部そこに任せる必要はないよな。いつか自分で作った曲がダイスの曲より伸びたら、その方が面白そうだし」


 その考えは、隼人の中へ自然に残った。


 運命のダイスは使う。


 便利なものをわざわざ封印するつもりはない。


 しかし、それだけで音楽をするつもりもなかった。


 高校2年の夏は、練習用の曲を作りながら過ぎていった。もちろん毎日を制作へ使ったわけではなく、家族で短い旅行にも出かけたし、拓海やクラスメイトと遊ぶ日もあった。


「高校生になったら家族旅行なんて嫌がると思ってたのに、普通についてくるのね」


 旅行の前日、美智子からそんなことを言われた隼人は、「宿と飯が付いてくる旅行を断るほど反抗期じゃない」と答えた。


「言い方が可愛くないのよ。普通に楽しみって言えばいいでしょう?」


「じゃあ楽しみ。これで満足?」


「急に素直になると、それはそれで気持ち悪いわね」


「注文が多すぎるだろ」


 結局、旅行先では隼人の方から家族写真を撮ろうと提案した。美智子には驚かれたが、理由までは説明しない。35歳だった頃、もっと写真を残しておけばよかったと思ったからという本当の理由は、自分だけが知っていればいい。


 そして高校2年の秋。歌も演奏も制作もある程度形になり、自宅の環境も整ったところで、隼人はようやく〈12〉を本格的に制作することにした。


「1年半待ったんだ。そろそろ、今の俺がどこまで作れるか試してみてもいいだろ」


 パソコンの前へ座り、運命のダイスで取得した情報へ意識を向ける。高校へ入学した日の朝から、必要以上に触れないようにしてきた楽曲の全体像が、久しぶりに鮮明な形で頭の中へ戻ってきた。


 第1回の運命のダイスで出た数字は、今でも忘れていない。


【第1回・運命のダイス――〈86〉〈27〉〈94〉〈24〉〈60〉〈12〉〈76〉〈66〉〈44〉〈51〉】


 その10曲の中から、最初に選んだのが最も低い〈12〉だった。基準通りなら1,200万人規模まで届く可能性を持つ曲だが、もちろん公開しただけで1,200万回再生される保証などない。


 改めて曲全体を確認すると、高校入学の日より遥かに多くのことが見えるようになっていた。なぜサビ前で音数を減らすのか、なぜ特定の言葉だけ伴奏を薄くするのか、なぜ最後のサビで単純に楽器を増やさないのか。2年間近く勉強したことで、完成形だけでなく、その構成が選ばれている理由まで少しずつ理解できる。


「なるほど。これ、派手にすればするほど良さが消えるんだな。最初に聞いた時は単純にいい曲だと思ったけど、今なら何でいいのか少し分かる」


 静かに始まり、少しずつ景色が広がっていく曲だった。暗さはあるが絶望ではなく、まだ夜の中にいる人間が、それでも少しずつ朝へ向かって歩いているような感覚がある。


 その雰囲気は、今の隼人自身にも妙に重なった。


 35歳で夢を諦めた。


 15歳へ戻った。


 だからといって、すぐ夢を叶えようとはしなかった。


 2年近く、誰にも歌を聞かせず準備を続けている。


 それでも止まっているとは思わない。


 まだ夜明け前でも、少しずつ進んでいる。


 仮歌を録音してみると、技術的には以前より遥かに安定していた。音程も大きく外れず、息も続き、声を張らなくても必要な場所へ届く。しかし最初の録音を聞き終えた隼人は、すぐに首を横へ振った。


「上手く歌おうとしすぎてるな。これじゃ俺が歌えることを見せる曲になってる」


 もう一度録る。


 今度は少し力を抜く。


 それでも違う。


 何度か試しているうちに、〈12〉が求めている歌い方も少しずつ分かってきた。疲れていてもいい。完璧に前向きでなくてもいい。まだ迷っている人間が、それでも歩くことだけはやめていない。そんな声の方が、この曲には似合っている。


 だから録音には時間を掛けた。ただし、夜中まで続けることはしなかった。翌日に学校があれば23時前には止め、アルバイトの日は無理に録音せず、拓海たちとの予定があればそちらへ出かける。


 昔なら、曲が完成するまで他の予定を邪魔だと思っただろう。今は逆だった。生活を守ったまま完成させられないなら、それは2度目の人生でやりたい音楽ではない。


 秋が深まり、最初の完全なデモがようやく完成した。


 隼人はヘッドホンを着け、最初から最後まで通して再生する。高校へ入学した日の朝、突然頭の中へ流れ込んできた旋律が、今は自分の演奏と自分の声によって1つの音源になっていた。


 最後の音が消えても、すぐには再生し直さなかった。


「……出そうと思えば、もう出せるな。でも、まだ出さなくていい」


 恥ずかしくない水準には来たと思う。


 だからこそ公開を急ぐ必要がなかった。


 高校3年から始めると、自分で決めている。


 数ヶ月早く公開したところで、人生が大きく変わるわけではない。むしろ数ヶ月寝かせれば、自分の耳と技術が成長して、今は気づけない問題が見つかるかもしれない。


 隼人は完成したデモを保存し、バックアップも作った。


 拓海には聞かせない。


 両親にもまだ聞かせない。


 学校の友人にも、インターネットの誰かにも聞かせない。


 最初の1曲は、誰にも知られないままパソコンの中で眠ることになった。


 冬になると、録音環境も少しずつ改善した。大掛かりな防音室を作れるわけではないため、部屋の反響を抑える工夫をし、録音する時間帯も家族へ迷惑が掛からない範囲に決めた。


 父に出してもらったパソコン代についても、隼人は少しずつ返していた。


「だから返さなくていいって言っただろ。入学祝いだって言ったじゃないか」


「俺が返したいんだからいいだろ。別に生活削ってまで返してないし」


「頑固だな、お前」


「親父譲りじゃない?」


「そこは母さんだろ」


「何で私に飛び火するのよ」と美智子が呆れ、夕食の席に笑いが広がった。


 そんな時間を過ごしているうちに年が明け、高校2年の終わりが近づいてきた。


 進路希望調査では、隼人は迷わず大学進学へ印を付けた。どの大学へ進むかは成績や学びたい内容を見ながら決めるが、音楽活動が始まったからという理由で進学を捨てるつもりはなかった。


 高校3年で、自分の曲を3曲だけ公開する。


 それで誰にも聞かれなかったなら、その結果を受け入れる。


 予想以上に聞かれたとしても、すぐに大学進学をやめることはしない。


 3曲あれば、少なくとも何かは分かるはずだった。1曲だけなら偶然伸びることもある。逆に1曲目が伸びなくても、それだけで自分に需要がないと決めつけるには早い。


「3曲出してから考える。それまでは結果が良くても悪くても、生活を変えない」


 ノートへそう書き込み、隼人は進路希望調査の用紙を鞄へしまった。


 そして春になった。


 高校へ入学した時は15歳だった隼人も17歳になり、高校3年へ進級した。クラス替えや新しい時間割に周囲が騒ぐ中、隼人にとってはもう1つ大きな区切りを迎えたことになる。


 自室のパソコンを起動し、数ヶ月前に保存した〈12〉のプロジェクトファイルを開く。


 久しぶりに最初から聞く。


 すると、以前は気づかなかった場所がいくつも耳へ引っかかった。歌の一部は録り直した方がいい。ギターも今ならもっと自然に弾ける。ミックスにも、少しだけ整理したい場所がある。


「やっぱり待って正解だったな。数ヶ月前はこれで十分だと思ってたのに、今聞くと直したいところ結構あるわ」


 高校入学の日から、約2年。


 その間、隼人の曲を聞いた人間は1人もいない。


 公開楽曲は0曲のまま。


 再生数も0回。


 登録者も0人。


 活動名さえ存在していない。


 それでも、何もしてこなかった2年間ではない。


 学校へ通い、勉強を続けた。拓海とは今でも友人で、他のクラスメイトとも遊んだ。文化祭にも参加し、家族旅行にも行き、アルバイトを続けながら自分の金で少しずつ機材を揃えた。


 その生活を捨てずに、歌を練習した。


 ギターを弾いた。


 ベースや鍵盤も触った。


 DTMを覚えた。


 録音とミックスを学び、自分で何曲か練習用の曲まで完成させた。


 そして〈12〉も、ようやく他人へ聞かせられるところまで育っている。


「うん。これなら始められる」


 ただし、今日すぐ公開するわけではない。


 音源を完成させても、インターネットへ投稿するなら見せ方も考える必要がある。顔を出さない以上、動画には曲の雰囲気を伝える絵や映像が必要になるだろう。


 そこで問題になるのが、隼人には絵を描く才能がまったくないことだった。


 試しに机の上のノートへ、人間らしきものを描いてみる。


「……これは人間じゃないな」


 35歳まで生きても、絵心だけは成長していなかったらしい。


 音楽なら練習する。


 歌も練習する。


 必要ならミックスだって覚える。


 しかし世の中には、何でも自分1人で抱え込むより得意な人へ頼んだ方がいい仕事もある。それを理解できるようになったことも、最初の人生から持ち帰った経験の1つだった。


 そして、絵について相談できそうな相手には心当たりがあった。


 佐倉紗月。


 同じ高校へ通う友人の1人で、昔から絵を描くことが好きな女子生徒だった。最近ではインターネットにも自作のイラストを投稿しており、隼人も何度か作品を見せてもらったことがある。


 もちろん友人だからといって、無料で描いてもらうつもりはない。


 依頼するなら金を払う。


 高校生同士なので大きな金額は難しいが、最初の1枚なら5,000円程度を考えている。紗月本人が受けるかどうかも分からないため、まずは曲のことを話して相談する必要があった。


 隼人はスマートフォンを手に取ったところで、一度指を止めた。


 まだ〈12〉には題名がない。


 これまでは番号で管理していれば十分だった。


 しかし誰かへ絵を依頼し、最終的にインターネットへ公開するなら、いつまでも〈12〉と呼ぶわけにはいかない。


 もう一度、曲を最初から再生した。


 静かな始まりから、少しずつ音が広がっていく。


 夜は終わっていない。


 けれど真っ暗でもない。


 まだ朝日は見えないのに、遠くの空だけが少しずつ明るくなっている。


 夢を諦めた35歳の自分と、夢へ向かって走りすぎていた15歳の自分。そのどちらとも違う場所に、今の隼人は立っている。


 急いで朝にしなくてもいい。


 まだ途中でいい。


 歩いているなら、それでいい。


 そんな曲だった。


「……『夜明けの途中』」


 口に出してみると、思っていたより自然に馴染んだ。


 格好をつけすぎていない。


 希望だけを押しつけてもいない。


 今の自分にも、曲そのものにも合っている。


 隼人はプロジェクトファイルの名前を変更した。


【〈12〉 夜明けの途中】


 それから改めてスマートフォンを開き、紗月とのメッセージ画面を表示する。依頼文を書き始めたところで、隼人は少し考えてから最初の文章を消した。


 いきなり「曲の絵を描いてほしい」とだけ送っても説明不足だろう。


 自分がこの2年間、誰にも言わず歌や音楽制作を練習していたこと。


 高校3年になったので、そろそろインターネットへ曲を投稿してみたいと思っていること。


 顔や本名、年齢、学校は出さず、音楽だけで活動するつもりであること。


 その最初の曲に使う絵を、紗月へ頼みたいこと。


 そして友人へのお願いではなく、きちんと依頼として5,000円を払いたいこと。


 そこまで文章を作ったところで、隼人は送信する前にもう一度読み返した。


「……長いな。仕事のメールじゃないんだから、もう少し普通でいいか」


 35歳の癖で、危うく高校生の友人へ業務依頼のような文章を送るところだった。


 少しだけ文章を崩し、必要な内容だけ残す。


 それでも送信ボタンを押す直前には、妙な緊張があった。


 これまでの2年間、音楽についてはほとんど自分の中だけで完結していた。


 このメッセージを送れば、初めて他人が関わる。


 まだ曲を公開するわけではない。


 それでも、自分だけの準備期間が終わる最初の一歩にはなる。


「まあ、断られたら別の方法考えればいいか」


 その程度でいい。


 隼人は送信ボタンを押した。


 返信が来るまでの間、再び『夜明けの途中』を再生する。


 活動名は、まだない。


 投稿用のアカウントも、まだ作っていない。


 どのタイミングで公開するかも、細かな日付までは決めていない。


 今決める必要のないものは、今決めなくていい。


 高校へ入学した朝から約2年かけて、隼人が学んだことはそれだった。


 少しすると、机の上に置いていたスマートフォンが震えた。


 紗月からの返信だった。


【え、隼人って曲作ってたの!? 聞きたい。というか、5,000円もいらないんだけど】


 予想通りの反応に、隼人は思わず笑った。


「いや、そこは払わせろ。友達だからこそ無料で頼みたくないんだよ」


 そう返しながら、もう一度『夜明けの途中』のファイルへ視線を向ける。


 誰にも知られないまま過ごした2年間は、これで終わる。


 ただし、ここから急に走り出すつもりもない。


 最初の曲を完成させる。


 絵を用意する。


 投稿する場所を決める。


 そして実際に公開する段階になった時、初めて活動するための名前も考えればいい。


 今はまだ、立花隼人のままで十分だった。


 高校3年の春。


 誰にも聞かれていなかった最初の歌が、ようやく他人へ届くための形を持ち始めていた。

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