見つけられた声
『雨の匂いが消えるまで』の公開から10日ほど経った頃、Nagiはいつも通り朝の電車へ乗っていた。イヤホンを耳に入れているものの音楽は流しておらず、片手でスマートフォンを持ちながら、昨夜から増えていた通知を少しずつ確認している。
会社へ向かう時間も、起きる時間も以前と変わっていない。
変わったのは、画面の中だった。
【再生回数 681,427回】
【チャンネル登録者 83,614人】
公開1週間で57万回を越えてからも、『雨の匂いが消えるまで』は急に止まることなく再生され続けている。以前のNagiなら数か月掛けても届かなかった数字へ、今回は2週間も経たず近づいていた。
「……増えてるな」
小さく呟き、スマートフォンを閉じる。
隣に立っている会社員は、Nagiがネットへ歌を投稿していることなど知らないだろう。
職場でも同じだ。
顔を出していない。
本名も公開していない。
会社の人間へ活動を積極的に話したこともないため、昼間の自分と夜に歌う自分は、今までほとんど交わらずに存在してきた。
Nagiは、それを不満に思っていなかった。
仕事が嫌いなわけではない。
音楽だけで生活できないから仕方なく会社員をしている、という感覚でもなかった。面倒な日もあれば残業したくない日もあるが、それは歌の録音でも同じようなもので、今の生活を丸ごと捨てたいと思ったことはない。
だからこそ、曲が伸び始めたあとに増えた言葉には少し戸惑っていた。
【これだけ伸びたら専業いけるんじゃない?】
【Nagiもっと投稿増やしてほしい。】
【仕事してるなら辞めて音楽一本でやってほしい。】
悪意があるとは思わない。
応援してくれているからこその言葉なのだろう。
それでもNagiは、それを見るたびに少しだけ息苦しくなった。
曲が伸びる。
登録者が増える。
それは嬉しい。
しかし、その結果として自分の生活まで変えなければならないのかと聞かれると、答えはすぐには出なかった。
そんな時に思い出すのが、Lentoから返ってきた言葉だった。
【再生回数が増えたから人生まで変えなきゃいけない、ということはないです。】
驚くほど簡単に言われた。
それで少し楽になった。
Lentoほど音楽で結果を出している人間なら、もっと音楽へ賭けることを勧めると思っていたからだ。
実際には逆だった。
大学へ通っているらしい。
しかも、それをうっかり喋った。
思い出したNagiは、満員電車の中で少しだけ笑った。
「意外と普通なんだよな」
曲だけ聞いていた時に想像していた人物とは、かなり違う。
もっと無口で、音楽のことしか考えていない職人気質の人間だと思っていた。
実際のLentoは、よく喋る。
冗談も言う。
そして何より、音楽だけで人生を決めようとしていなかった。
◇ ◇ ◇
Nagiが歌を投稿し始めたのは、今から数年前だった。
最初からプロを目指していたわけではない。
好きな曲を自分でも歌ってみたかった。
録音した声を聞いて、思っていた自分の声と違うことに驚いた。
せっかく録ったのだからと投稿した。
始まりは、その程度だった。
最初の動画は数百回。
次も似たような数字だった。
それでもコメントが1件付くと嬉しくて、また録音した。
少しずつ機材を買い、録音方法を調べ、ミックスも勉強した。
登録者が1,000人を越えた時は嬉しかった。
1万人へ届いた時には、自分でもかなり驚いた。
そして数年掛けて、6万人を越えた。
急激に伸びたことはない。
大きな話題になったこともない。
ただ、辞めずに続けてきた。
その中で、自分の声に対する考え方も変わった。
最初は気にしていなかった掠れが、録音を勉強するほど欠点に聞こえるようになった。
もっと綺麗に出したい。
高い音でも安定させたい。
息が漏れすぎないようにしたい。
録音するたびに修正した。
昔の動画を聞けば、今より下手だと思う。
実際、技術は上がっている。
それでもLentoは、わざわざ昔の動画まで聞いたうえで言った。
【昔の方が残ってる癖もあります。】
最初は、何を言っているのか分からなかった。
直してきた部分だ。
それを残した方がいいと言われた。
そして渡された『雨の匂いが消えるまで』を歌って、ようやく意味が分かった。
自分の声を曲へ合わせるのではない。
最初から、自分の声が入る場所が作られていた。
低い。
歌いやすい。
サビでも無理に張らなくていい。
むしろ、少し掠れた方が曲の空気に合う。
そんな曲を歌ったことはなかった。
◇ ◇ ◇
公開から2週間ほど経った夜。
Nagiは仕事から帰宅すると、簡単な夕食を済ませてからパソコンを起動した。
録音する予定はない。
今日はコメントを見るだけだ。
『雨の匂いが消えるまで』を開く。
【再生回数 742,861回】
【チャンネル登録者 85,927人】
以前なら、数字だけでかなり興奮していたと思う。
今も嬉しい。
しかし今回は、それ以上にコメントが気になった。
【この人の低音こんな良かったんだ。】
【過去動画も聞いてきた。昔から声好きだけど今回一番合ってる。】
【サビの最後、ちょっと掠れるところ毎回聞きたくなる。】
【Lentoが曲書いた理由なんとなく分かる。】
【Nagiは無理に高い曲歌わなくても、この辺の音域めちゃくちゃ強いんだな。】
Nagiは最後のコメントで手を止めた。
「……そうなのかな」
自分では分からない。
今まで高い音が出せる方が上手いと思っていたわけではないが、歌ってみた動画では原曲のキーを意識することが多く、自分に最も合う音域から曲そのものを選ぶ発想はそれほど強くなかった。
Lentoは違った。
最初からNagiの声を基準に曲を作った。
だから当然と言えば当然なのだろう。
それでも、他人に曲を書いてもらったことで初めて知る自分の声があるとは思わなかった。
Nagiはメッセージ画面を開いた。
【今度から曲選ぶ時、低めの曲増やしてみようと思います。】
送信する。
しばらくしてLentoから返事が来た。
【いいと思います。でも低い曲だけにしなくてもいいですよ。】
「どっちなんだ」
思わず声に出した。
続きが届く。
【今回そこで魅力が出ただけなので、今後ずっと同じことをする必要はないです。高い曲で別の良さが出ることもあると思います。】
Nagiは少し考えてから返信した。
【Lentoさん、思ったより同じことやらせないんですね。】
【同じ曲が欲しいなら雨の匂いをもう一回聞けばいいので。】
Nagiは笑った。
【それ、作った人が言います?】
【作ったから言ってます。】
少し変わった人だと思う。
ただ、その距離感は嫌いではなかった。
◇ ◇ ◇
一方、隼人はNagiの数字を毎日追い掛けてはいなかった。
公開から2週間を越えた頃には、自分の中で『雨の匂いが消えるまで』の制作は既に終わった仕事になっている。
もちろん、伸びていることは嬉しい。
Nagiから連絡が来れば返事もする。
しかし、曲を渡したあとまで細かく活動へ口を出すつもりはなかった。
その日の隼人は、大学の図書館でレポートを書いていた。
夏休みが終わり、後期の講義が始まっている。
窓の外には学生が行き交い、少し離れた席では友人たちが課題について話している。
Lentoとして曲を作っている時とは、まったく違う時間だった。
「立花、終わった?」
向かいに座っていた友人が聞く。
「あと少し」
「俺もう飽きた」
「まだ半分じゃん」
「だから飽きたんだよ」
「先に終わらせた方が楽だぞ」
「正論で殴るな」
隼人は笑いながらパソコンへ戻る。
LentoがNagiへ曲を提供したことは、既にネット上で知られている。
それでも、目の前の友人は何も知らない。
大学では普通の立花隼人として、レポートの締め切りを気にしている。
この切り替えが、隼人には心地よかった。
◇ ◇ ◇
図書館を出たあと、隼人は帰りの電車で活動用メールを確認した。
依頼は相変わらず届いている。
星乃ミナの『また明日』とNagiの『雨の匂いが消えるまで』が公開されたことで、Lentoへ楽曲提供を依頼したいという連絡は以前より明らかに増えていた。
それでも受ける数は増やしていない。
今月だけで10件以上断っている。
条件の悪い依頼ばかりだったわけではない。
報酬だけ見れば、受けてもいいと思える案件もあった。
ただ、声を聞いても曲が浮かばなかった。
それなら無理に受ける必要はない。
金が必要ならアルバイトを増やすという段階は既に過ぎている。Lentoの楽曲収益や提供料が入り始めた今、むしろ時間の方が貴重になっていた。
「大学の4年間まで仕事で埋める必要ないしな」
スマートフォンを閉じる。
その判断ができること自体、最初の人生とは大きく違う。
前世なら、音楽の仕事が来た時点で断るという発想を持てなかっただろう。
チャンスは全部つかむ。
断ったら次はない。
休む時間があるなら練習する。
そんな考え方で、自分から生活を狭くしていた。
今は、断ったあとにも音楽が続くことを知っている。
◇ ◇ ◇
9月の終わり。
Nagiから久しぶりに音声通話の相談が来た。
内容は深刻なものではない。
今後の活動について、少しだけ意見を聞きたいという話だった。
『最近、事務所から声掛けられたんですよ』
「へえ」
『小さいところですけど。所属しませんかって』
「入りたいんですか?」
『そこが分からなくて』
隼人は椅子へ座り直した。
これは、自分が答えを決めてはいけない話だ。
「条件は確認しました?」
『一応。活動サポートと案件紹介があって、収益の一部を事務所に払う形です』
「契約期間とか権利関係は?」
『そこまでちゃんと見てないです』
「じゃあ、まずそこじゃないですか」
『ですよね』
「俺は事務所所属したことないので、入るべきかは分かりません。ただ、入るなら何をしてもらえて、代わりに何を渡すのかは見た方がいいと思います」
隼人自身、Lentoとして独立した活動を続けている。
だからといって、全員に独立を勧めるつもりはない。
事務所に所属することで得られるものもあるだろう。
営業。
権利管理。
制作支援。
トラブル対応。
それを必要とする人もいる。
『Lentoさんは、ずっと個人でやるんですか?』
「今はそのつもりです。ただ、必要になったら税金とか契約とか、それぞれ専門家に頼むと思います」
『事務所には入らない?』
「全部まとめて誰かに預けるより、必要なところだけ頼む方が今は合ってるので」
『なるほど』
「でも、それは俺のやり方です。Nagiさんが同じにする必要はないですよ」
少し沈黙がある。
『やっぱり、決めてくれないんですね』
「Nagiさんの人生なので」
『分かってましたけど』
Nagiが笑う。
隼人も少し笑った。
「曲なら決めますよ。キーとかテンポとか」
『そこだけ強いんだ』
「俺の仕事なので」
それ以上、隼人は所属について意見を押しつけなかった。
Nagiが何を選ぶかは、Nagi自身が決めればいい。
◇ ◇ ◇
通話を終えたあと、隼人は制作ノートを開いた。
Nagiのページには、公開1週間時点の記録が残っている。
【Nagi『雨の匂いが消えるまで』】
【作詞・作曲 Lento】
【運命のダイス――未使用。】
【公開7日 再生回数574,826回】
【Nagi チャンネル登録者81,347人】
【曲は渡す。ただし、その人の人生までは引き受けない。】
最後の一文を、改めて読み返す。
今でも考えは変わらない。
むしろNagiと話すほど、その方がいいと思うようになっていた。
自分が曲を書いたことで、相手の登録者が増えた。
それは事実だ。
しかし、だからといってNagiの将来を決める権利まで得たわけではない。
仕事を続ける。
辞める。
事務所へ入る。
個人で活動する。
投稿頻度を増やす。
今まで通り続ける。
どれもNagiが決めることだった。
隼人はページの下へ新しく書き加えた。
【見つけることと、所有することは違う。】
Nagiの声を見つけた。
その声に合う曲を書いた。
それで十分だ。
◇ ◇ ◇
10月に入る少し前、『雨の匂いが消えるまで』は公開から1か月を迎えた。
Nagiから送られてきた数字は、隼人が想像していたより大きかった。
【公開30日】
【再生回数 1,284,617回】
【チャンネル登録者 92,846人】
「100万越えたか」
隼人は素直に嬉しくなった。
Nagiにとって初めての100万回再生らしい。
ただし、その知らせと一緒に届いた文章の方が隼人には印象的だった。
【会社は辞めないことにしました。】
【事務所も今回は入りません。もう少し今の生活で続けてみます。】
隼人は短く返信した。
【了解です。次の曲も楽しみにしてます。】
自分が次の曲を書くとは言わない。
Nagi自身が選ぶ曲でもいい。
別の作曲者から提供された曲でもいい。
それで活動が続けばいい。
数分後、Nagiから返信が来た。
【次は自分で選んだ曲を歌ってみます。】
「いいじゃん」
隼人は笑ってスマートフォンを置いた。
自分の曲で相手を囲い込まない。
Lentoが関わらなければ伸びない歌い手にするつもりもない。
むしろ『雨の匂いが消えるまで』をきっかけに、Nagi自身の声を好きな人が増えたのなら、次は本人が何を選ぶのか見てみたい。
それが一番自然だった。
◇ ◇ ◇
同じ日の夜。
隼人は大学の課題を終え、いつものように活動用メールを確認した。
その中に、これまで届いていた楽曲提供の相談とは少し雰囲気の違う件名があった。
【テレビアニメーション作品 エンディングテーマ制作のご相談】
「……アニメ?」
思わず声が出る。
差出人は、映像作品の音楽制作に関わっている会社だった。
隼人はメールを開く。
秋から放送予定のテレビアニメ作品について、エンディングテーマの作詞・作曲と歌唱をLentoへ依頼したいという内容だった。
提供だけではない。
今回はLento自身が歌う。
その時点で興味を持ったが、すぐには返事をしなかった。
添付されている企画資料を開く。
表紙に作品名が書かれている。
【『灰色の庭で眠る鳥』】
長い戦争が終わったあとの小さな国を舞台に、故郷へ戻った若い兵士が荒れた庭園を修復しながら、少しずつ日常へ戻っていく物語。
敵を倒す話ではない。
世界を救う物語でもない。
戦争そのものは、物語が始まった時点で既に終わっている。
それでも、終わったからといってすべてが元通りになるわけではない。
主人公だけではなく、家族を失った者や故郷を失った者、戦場へ行かなかったことへ複雑な感情を抱えている者まで、それぞれ違う形で過去を抱えて生きている。
隼人は途中から、椅子へ座り直して資料を読んでいた。
「……これ、好きだな」
少なくとも、条件だけを見て断る依頼ではなかった。
むしろ久しぶりに、自分で歌いたいと思える題材だった。
Nagiのために声から曲を作った。
星乃ミナには活動そのものから曲を書いた。
今度は、物語のために歌を作ることになるかもしれない。
隼人は最後まで企画資料を読み終えたあと、すぐ契約条件を見るのではなく、もう一度物語の概要へ戻った。
何かが終わったあとにも、人生は続いていく。
その感覚は、『余白の先へ』を作った自分にもよく分かる。
ただし今回は、自分だけの経験を歌えばいいわけではない。
1つの作品の中に生きる人物たちへ、Lentoの歌を置くことになる。
隼人は返信画面を開き、まずは作品側と詳しく話をしたいという内容を書いた。
受けるかどうかを決めるのは、そのあとでいい。
大学へ進学してから、音楽との関わり方は少しずつ広がっている。
自分で歌う曲。
誰かへ渡す曲。
そして今度は、物語の終わりに流れるかもしれない曲。
隼人は送信ボタンを押すと、企画資料を閉じずにもう一度最初のページへ戻った。今夜はまだ音を作らず、この物語がどんな時間を描こうとしているのか、それをもう少し知るところから始めようと思っていた。




