こちらから声をかける
星乃ミナへ『また明日』を提供してから数日後、隼人は大学の講義を終えると、図書館の端にある席でノートパソコンを開いていた。次の講義までは1時間ほど空いており、課題も前日に終わらせていたため、今日は久しぶりに音楽だけを聞くつもりだった。
イヤホンから流れているのは、Lentoへ届いた依頼の参考音源ではない。
登録者数が6万8,000人ほどの歌い手、Nagi。
顔を出さず、歌動画を中心に活動している人物だった。更新頻度はそれほど高くなく、投稿される動画も月に1本あるかどうかだが、数年前から活動そのものは途切れずに続いている。
隼人がNagiを知ったのは、『リンクライト』を公開したあとだった。
画面の向こうにいる様々な歌い手やVTuberを意識して聞くようになり、その中で偶然おすすめに表示された動画を開いたのが最初だった。
特別に派手な歌い方ではない。
高音を強く響かせるタイプでもなければ、圧倒的な声量で押してくるわけでもない。低音から中音域にかけて少し掠れた声を持ち、息を抜いた時には独特の乾いた響きが残る。
そして、完璧ではなかった。
高い音では少し声が細くなる。
長く伸ばす場所では、最後まで綺麗に保てないこともある。
それでも隼人は、何度も聞きたくなった。
「やっぱり、この掠れ方いいんだよな」
以前にも聞いた動画を、もう一度再生する。
3年前に投稿されたカバー曲。
現在の動画より録音環境が悪く、ミックスも少し粗い。それでも、サビへ入る直前に声が僅かに掠れる瞬間だけは、今より強く耳へ残った。
技術が上がるにつれて、消えかけている部分でもある。
隼人はそこが気になっていた。
上手くなることは悪くない。
ただ、技術を身につける過程で、自分にしかない癖まで直してしまう人はいる。
Nagiの声にある掠れは、欠点として消すより残した方がいい。
芸能の加護による感覚も、同じ方向を示していた。
この声には、明るく大きな曲より、音数を少し抑えた曲が似合う。低音から中音域を中心にして、声を張らせすぎず、息と掠れが自然に残る構成にすれば、今までの動画では十分に出ていなかった魅力を前へ持ってこられる。
隼人は制作ノートを開いた。
以前書いた言葉が残っている。
【Nagi】
【雨が上がったあとに残る匂い。】
その下には、まだ何も書かれていなかった。
「……作ってみるか」
依頼されていない。
相手と話したこともない。
作ったからといって、歌ってもらえる保証もない。
それでも、自分から曲を書いてみたいと思った。
星乃ミナの時とは違う。
あの時は、依頼が先にあった。
今回は、声が先にある。
隼人はノートへ新しい一文を書き加えた。
【この声でしか成立しない曲を作る。】
その日は、まだ本人へ連絡しなかった。
曲もないのに声を掛けて、相手を待たせる必要はない。
まずは自分で形にしてみる。
途中で違うと思えば、そのまま捨てればいい。
仕事ではないからこそ、それくらい自由に始められた。
◇ ◇ ◇
その週の日曜日、隼人は朝から曲を作り始めた。
運命のダイスは開かない。
今回は最初から、自分だけで作ると決めていた。
最初に置いたのは、少し湿った質感のギターだった。
歪ませすぎない。
綺麗にも整えすぎない。
雨が止んだ直後、濡れた道路を1人で歩いている時のような音が欲しかった。
そこへベースを重ねる。
ドラムも派手にはしない。
細かなリズムで勢いを作るのではなく、歩く速さを保つ程度に留める。空間を埋める音も必要以上には足さず、Nagiの声が入る場所を最初から広く残しておく。
1時間ほど作ったところで、隼人は一度再生を止めた。
「俺が歌うなら、もうちょい上げるんだけどな」
キーが低い。
Lentoとして自分が歌う曲なら、もう少し上へ持っていった方が声を使いやすい。
しかし今回は変えない。
Nagiの低い声が最も自然に響く場所を基準にしているからだ。
星乃ミナの『また明日』でも感じたことだが、自分以外の人間を前提にすると、曲作りの選択肢そのものが変わる。
自分なら選ばない音域を使える。
自分なら避ける旋律も置ける。
歌い手が違えば、同じ作曲者でも違う曲になる。
「面白いな、やっぱり」
隼人は少し笑って、再び作業へ戻った。
ただし昼になると、予定通り制作を止めた。
午後は大学の友人と出掛ける約束がある。
曲が乗っているからといって、約束を断って続きを作るつもりはなかった。
保存する。
パソコンを閉じる。
続きは明日でもできる。
その感覚が、今ではすっかり自然になっていた。
◇ ◇ ◇
曲の骨格ができたのは、それから10日ほど後だった。
隼人は大学から帰宅した夜、仮歌を入れて全体を確認した。
自分の声では、やはり少し違う。
悪くはない。
しかし、完成形が自分ではないことが明確に分かる。
特にサビの最後。
音程を大きく上げず、少し息を抜きながら終わる旋律は、隼人が歌うと綺麗にまとまりすぎる。
Nagiなら、ここに僅かな掠れが入る。
その方がいい。
歌詞も、強い結論を置かなかった。
雨は既に止んでいる。
空が晴れたとも言わない。
濡れた道には水が残り、服にも少し湿気が残っている。それでも傘を閉じて歩き始める程度には、状況が変わっている。
何かを完全に乗り越える歌ではない。
嫌なことが消える歌でもない。
少しだけ時間が進んだあと、さっきまで降っていた雨の匂いがまだ残っている。
そんな曲になった。
「タイトル……これしかないな」
ノートへ書く。
【『雨の匂いが消えるまで』】
以前書いた「雨が上がったあとに残る匂い」という言葉から、そのまま生まれたタイトルだった。
隼人は完成したデモをもう一度聞く。
自分で歌いたいとは思わない。
それが嬉しかった。
Lentoのために作った曲ではないことが、音だけでも分かる。
Nagiの声が入って、初めて完成する曲だった。
「じゃあ、連絡してみるか」
ここまで作った以上、あとは本人がどう判断するかだ。
断られても構わない。
その場合は公開しなければいい。
別の歌手へ回すつもりもなかった。
これはNagiの声を聞いて作った曲なのだから、Nagiが歌わないなら、それで終わりにするつもりだった。
◇ ◇ ◇
問題は、どう連絡するかだった。
Nagiの活動ページには仕事用の連絡先が記載されている。
隼人はメール作成画面を開いたものの、最初の一文を書いたところで手を止めた。
「怪しいよな、普通に」
突然知らない相手から、自分のために曲を書いたと言われる。
しかも送り主はLento。
名前自体は以前より知られるようになっているが、それでも本人確認ができなければ偽物を疑われても仕方がない。
隼人は少し考え、Lentoの公式チャンネルに記載している活動用メールアドレスから送ることにした。
内容も簡潔にする。
以前からNagiの歌を聞いていること。
声に合うと思った曲を書いたこと。
もし興味があればデモを聞いてほしいこと。
依頼ではなく、こちらから提供したいと考えているため、制作費を請求するつもりはないこと。
ただし、興味がなければ断ってもらって構わないこと。
デモ音源そのものは、最初のメールには添付しなかった。
知らない相手から突然ファイルを送りつけられても困るだろう。
文章を読み返す。
「……営業メールみたいだな」
仕方がない。
友人へ送るわけではない。
送信する。
あとは待つだけだった。
◇ ◇ ◇
返信が来たのは、翌日の夜だった。
隼人は夕食後にメールを確認し、件名を見て少し笑った。
【Re: 楽曲提供について】
本文を開く。
最初に書かれていたのは、本当にLento本人なのか確認してしまったことへの謝罪だった。
「そりゃ確認するよな」
どうやらNagiは、Lentoのチャンネルに掲載されているメールアドレスと照合したらしい。
その上で、曲を聞いてみたいと書かれている。
ただし、無料で提供されることについては困惑している様子だった。
隼人は返信する。
【今回は私から声を掛けているので、制作費は必要ありません。公開方法や権利関係については、曲を聞いていただいたあとで相談できればと思います。】
その文章と一緒に、デモを共有した。
送信後は、別の作業をする。
返事を待ちながら画面を更新し続けるようなことはしない。
相手にも生活がある。
すぐ聞けるとは限らない。
隼人は大学の課題を1つ終わらせ、その日は日付が変わる前に眠った。
◇ ◇ ◇
翌朝。
Nagiから返信が届いていた。
文章は、それほど長くない。
【聞きました。】
【正直、かなり驚いています。】
【自分の声で歌ったらどうなるのか、初めて聞いた時点で想像できました。】
【もし本当に自分が歌っていい曲なら、歌いたいです。】
隼人は朝食前の自室で、その4行を2回読んだ。
「よかった」
少なくとも、方向は間違っていなかったらしい。
その日の夜、初めてNagi本人と音声通話をすることになった。
声を聞いた瞬間、隼人は少し意外に感じた。
歌声より普通だった。
当然と言えば当然だが、会話では歌う時ほど掠れが強くない。
『初めまして、Nagiです』
「初めまして。Lentoです」
『……本当に本人なんですね』
「昨日も同じ確認されました」
『すみません。普通に偽物だと思いました』
「俺でも思うと思います」
少し笑いが起きる。
星乃ミナとは違い、Nagiは会話の間を長く取るタイプだった。
隼人も無理に埋めない。
『あの、1つ聞いていいですか』
「どうぞ」
『なんで自分だったんですか?』
予想していた質問だった。
「声です」
『声?』
「低いところから中音くらいまでの掠れ方が好きでした。特に昔の動画の方が分かりやすいです」
『昔のまで見たんですか』
「3年前くらいのやつも」
『恥ずかしいな……』
「録音は今の方が上手いです。でも、昔の方が残ってる癖もあります」
少し沈黙がある。
『それ、直した方がいいと思ってました』
「掠れるところですか?」
『はい。ちゃんと発声できてないのかなって』
「無理に出す必要はないですけど、全部消さなくていいと思います」
隼人は言葉を選びながら続ける。
「少なくとも俺は、そこを残す前提で曲を書きました。綺麗な声に直すより、今ある声を使った方がこの曲は良くなると思ってます」
『……そんなこと言われたの、初めてです』
その声が少しだけ低くなった。
隼人は余計なことを言わない。
Nagiの人生まで知っているわけではない。
ただ、声を聞いて曲を書いた。
言えるのは、それだけだった。
◇ ◇ ◇
話を進めるうちに、Nagiが普段は会社員として働いていることも分かった。
音楽だけで生活しているわけではない。
平日は仕事をし、夜や休日に録音する。
顔を出していないのも、現在の生活と活動を分けたいという理由が大きいらしい。
『登録者増えた時に、仕事辞めるのかってコメントされたこともあるんですけど』
「辞めたいんですか?」
『今は別に。仕事嫌いじゃないので』
「じゃあ辞めなくていいんじゃないですか」
隼人は迷わず答えた。
『……即答ですね』
「音楽だけで生活することが、活動のゴールじゃないと思ってるので」
『Lentoさんがそれ言うんだ』
「俺も大学生なので」
口にしたあと、隼人は一瞬だけ止まった。
年齢までは言っていない。
大学生であることも、公には出していない情報だった。
『えっ、大学生なんですか?』
「……そこは内緒でお願いします」
『はい。もちろん』
「今の発言、忘れてもらってもいいです」
『無理です』
「ですよね」
Nagiが初めて少し大きく笑った。
隼人も苦笑する。
顔も本名も伝えていない。
大学名も年齢も話していない。
ただ、NagiにはLentoが大学生であることだけ知られる形になった。
少し余計な情報を出したが、致命的ではない。
「とにかく、今の仕事を続けたいなら続ければいいと思います。音楽で食える可能性が出たからって、必ずそっちへ行く必要はないです」
『Lentoさんって、もっと音楽一筋の人だと思ってました』
「よく言われます」
『曲のイメージですかね』
「たぶん」
実際には、音楽一筋で生きた結果を一度知っている。
だからこそ今は、違う道を選んでいた。
◇ ◇ ◇
録音は、Nagiが普段使っている環境で行うことになった。
プロ用のスタジオを手配する案もあったが、隼人は最初の録音を聞いてから決めたいと伝えた。
数日後、Nagiから最初の音源が届く。
隼人は大学から帰宅し、夕食を済ませてからヘッドホンを着けた。
再生する。
最初の歌い出し。
想像していたよりいい。
「……やっぱ合うな」
自分で入れた仮歌とは、まるで違う。
少し乾いた低い声がギターの隙間へ入り、息を抜く場所では声が僅かに掠れる。
しかし、サビに入った瞬間だけ印象が変わった。
綺麗すぎる。
Nagiが声を整えようとしている。
高い音を丁寧に出し、掠れを消している。
技術的には正しいのかもしれない。
だが、この曲では違った。
隼人は修正内容を文章にまとめる。
【サビも、綺麗に歌おうとしなくて大丈夫です。特に語尾の息と掠れは消さず、そのまま残してください。音程を外していいという意味ではなく、声質を整えすぎない方向でお願いします。】
少し考えて、もう1つ加えた。
【今の声を直して曲に合わせるのではなく、曲の方をNagiさんの声へ合わせて作っています。】
送信する。
翌日、録り直した音源が届いた。
最初のサビを聞いた時点で、隼人は笑った。
「これだよ」
少しだけ粗い。
しかし、その粗さが曲の中では感情になる。
雨が止んだあと。
まだ空気は湿っている。
服も少し濡れている。
それでも傘を閉じて歩き始める。
その景色に、綺麗すぎる声はいらなかった。
◇ ◇ ◇
公開方法についても話し合った。
今回はNagi本人のチャンネルから公開する。
作詞作曲にはLentoの名前を記載するが、Lento側の新曲として扱うつもりはない。
隼人から声を掛けた以上、制作費も受け取らなかった。
ただし権利関係だけは曖昧にしない。
楽曲の使用範囲や収益の扱い、二次利用については文書にまとめ、お互いが後から困らない形にした。
友人ではないから、というだけではない。
友人であっても、本来はそうするべきだと今の隼人は思っている。
前世では、人間関係と音楽活動の境界を曖昧にした。
誰がどこまで担当するのか。
時間をどれだけ使うのか。
金をどう分けるのか。
夢を共有しているのだから細かく決めなくても分かるだろうと考え、その曖昧さが少しずつ負担になった。
今回は繰り返さない。
曲を渡す。
ただし、相手の人生までは引き受けない。
Nagiがこの先も会社員を続けるのか、音楽へ比重を移すのか、それは本人が決めればいい。
隼人の役割は、その声に合う曲を1つ作るところまでだった。
◇ ◇ ◇
公開日は、8月最後の金曜日に決まった。
20時。
隼人はその日も大学の友人と夕食を食べてから帰宅した。
夏休み中ではあるが、大学の友人との付き合いも続いている。Lentoとして曲を提供した日だからといって、それ以外の予定を空ける必要はないと思っていた。
帰宅したのは19時40分頃。
シャワーを浴びる時間はなかったので、着替えて飲み物を用意し、自室のパソコンを開く。
Nagiのチャンネルには公開待機ページができていた。
【Nagi - 雨の匂いが消えるまで】
【Music / Lyrics:Lento】
その表記を見る。
星乃ミナの時にも感じたが、自分の名前があるのに自分が歌わない動画というのは、まだ少し不思議だった。
20時。
動画が公開される。
ギターから始まる。
そしてNagiの声が入った。
隼人はコメントではなく、最初は曲だけを聞いた。
制作中に何度も聞いている。
それでも公開された場所で聞くと、少し違う。
これはもう自分の制作データではない。
Nagiの曲として並んでいる。
最後まで再生してから、初めてコメント欄を見る。
【Nagiの声めちゃくちゃ合ってる。】
【サビで声ちょっと掠れるところ好き。】
【Lento作詞作曲!?】
【こういう低い曲もっと歌ってほしい。】
【雨上がりの帰り道で聞きたい。】
【いつもより声の癖がそのまま出てる感じする。今回かなり好き。】
隼人は最後のコメントを見て、少しだけ嬉しくなった。
聞いている側にも伝わっている。
直すのではなく、残した部分が魅力として受け取られている。
「よかったな」
数字はまだ見ない。
Nagiのチャンネルには6万8,000人ほどの登録者がいる。
Lentoや星乃ミナと比べれば小さいが、それでも十分多くの人がいる。
どこまで伸びるかは分からない。
しかし、この曲については最初から数字を目的にしていなかった。
◇ ◇ ◇
公開から1時間ほど経った頃、Nagiからメッセージが届いた。
【コメントで声の掠れ褒められてます。】
【見ました。】
【今まで直そうとしてたところなのに。】
隼人は少し考えて返信する。
【直す必要がある癖と、残した方がいい癖は別だと思います。】
しばらくして返事が届く。
【自分だと分からないものですね。】
【自分の声は毎日聞いてるので、むしろ分かりにくいと思います。】
【Lentoさんもそうですか?】
【自分の声は録音して散々聞いてますけど、それでも他人の方が気づくことはあります。】
そこで一度やり取りが止まる。
数分後、Nagiからもう1つ届いた。
【この曲が伸びたら、仕事辞めた方がいいと思いますか?】
隼人は画面を見たまま少し考えた。
答え自体は決まっている。
ただ、決めるのは自分ではない。
【俺が決めることじゃないです。】
続けて送る。
【Nagiさんが仕事を辞めたいなら考えればいいし、続けたいなら続ければいいと思います。再生回数が増えたから人生まで変えなきゃいけない、ということはないです。】
返事は少し遅かった。
【ありがとうございます。】
それだけだった。
隼人も、それ以上は言わなかった。
◇ ◇ ◇
翌朝、隼人は朝食後に動画を確認した。
【公開12時間】
【再生回数 84,617回】
【チャンネル登録者 71,284人】
「結構伸びたな」
普段のNagiの動画と比べると、かなり速いらしい。
Lentoの名前から来た人も多い。
しかし、コメントを見る限り、そのままNagiの過去動画まで聞きに行っている人もいる。
それなら十分だった。
Lentoの名前だけを見て曲を聞き、Nagi本人には興味を持たれない形では意味がない。
今回見つけてほしかったのは、自分ではなくNagiの声だからだ。
隼人は分析できる範囲だけ数字を確認し、画面を閉じた。
今日は両親と昼食へ出掛ける予定がある。
曲が伸びているからといって、予定を変更する理由にはならない。
◇ ◇ ◇
公開から1週間。
Nagiから共有された数字が届いた。
【Nagi - 雨の匂いが消えるまで】
【公開7日】
【再生回数 574,826回】
【チャンネル登録者 81,347人】
6万8,000人ほどだった登録者が、8万人を越えている。
数字だけを見れば大きな変化だった。
それでもNagiは、翌週も普通に会社へ行くらしい。
隼人はそれを聞いて、少し安心した。
辞めないことが正解だからではない。
曲が伸びたからといって、周囲に押されるまま人生を変えなかったことが良かった。
今後、本人が音楽だけで生活したいと思えば、その時に考えればいい。
制作ノートへ記録する。
【Nagi『雨の匂いが消えるまで』】
【作詞・作曲 Lento】
【運命のダイス――未使用。】
【公開7日 再生回数574,826回】
【Nagi チャンネル登録者81,347人】
その下へ、もう1つ書いた。
【曲は渡す。ただし、その人の人生までは引き受けない。】
星乃ミナへ『また明日』を書いた時には、依頼された相手へ曲を渡す面白さを知った。
今回は、自分から声を探した。
登録者数ではなく、歌声を聞いて選んだ。
その声に合う曲を自分で考え、ダイスを使わずに書き、本人へ直接声を掛けた。
そして曲は、自分の手から離れた。
それでいい。
むしろ、それがいい。
Lentoの曲だから聞かれるのではなく、最終的にはNagiの歌として残ってほしい。
隼人はノートを閉じたあと、久しぶりにNagiの3年前の動画を開いた。
以前より録音環境の悪い声が流れる。
少し掠れている。
当時のNagiは、その部分を欠点だと思っていたのかもしれない。
今は、その同じ癖を好きだと言う人が増えている。
曲が人を別人へ変えたわけではない。
もともと持っていたものを、少し見つけやすい場所へ置いただけだ。
隼人にとって、それは再生回数以上に面白い結果だった。
自分が歌うために曲を作る。
依頼された誰かのために曲を書く。
そして、自分から見つけた声へ曲を渡す。
大学へ入ってからの数か月だけでも、音楽との関わり方は高校時代よりずっと広がっていた。それでも隼人は、そこで活動量まで急激に増やそうとは思わなかった。
次の相手を探さなければならないわけでもない。
毎月提供曲を出す必要もない。
書きたい声と出会えば書けばいい。
自分で歌いたい曲ができれば、自分で歌えばいい。
何もなければ、普通に大学へ行けばいい。
そのくらいの距離が、今の隼人にはちょうどよかった。
そう考えていた数日後、Lentoの活動用メールへ、それまでとは少し種類の違う依頼が届いた。
差出人は個人の歌い手でも、VTuber事務所でもない。
秋から放送予定のテレビアニメに関わる音楽制作会社から届いた、エンディングテーマ制作の相談だった。
隼人は大学から帰宅した夜、そのメールを開き、添付された企画資料の表紙に書かれた作品名を読む。
『灰色の庭で眠る鳥』。
今度は、誰か1人の声ではない。
1つの物語の終わりに、自分の歌を置く仕事だった。




