港湾都市ナポルへ
その夜は、マットの寝室と化している応接室で、雑多に置かれた荷物を奥に山と積んで何とか作ったスペースで、ミーナが届けてくれたチキンのトマト煮込みを食べて、入院患者用のベッドでルシンダは寝ることになった。
寝る前に診察がてら話をしておこうと、診察室の丸椅子にルシンダを座らせ血圧を計りながら、
「とりあえず、その船の出航するのは何時なんだい?」
これからの予定を決めるのに最低限の日程は知っておきたいと、マットが今更ながらに質問した。
「今日から10日後の正午に出航よ!私、夜行列書も豪華客船も始めてなのよ。嫁入りの時は軍艦に乗せられて海渡ったのよ、色気の無いことでしょう?本当に楽しみだわ」
ルシンダは目をキラキラと輝かせて答えた。
軍艦で嫁入りとはどういうことだ、と不穏に思うも、過去のことはまた後日と、先の予定を聞くことにして、
「その乗船切符は持っているのかい?ちょっと見せてくれ」
予定が決まっているのだから当然切符は持っているはず、そう思って軽く聞いた。
「え、切符?侍女頭のジュリアが護衛騎士のアーチーと一緒にフルーレゾンの追手を巻いきつつ帝国からとんぼ返りをして、ナポルの波止場で落ち合う予定になのだもの。私は持っていないわ」
そう驚きの回答が返ってきた。
「え?何だって、いったい今回の逃避行はどう言うストーリーなんだ!俺には聞く権利があるだろう!?」
思った以上に計画性が有りそうで、その中身は無関係なマット頼りな計画の予感に、眉間に皺があっという間に寄ってしまった。
今回の計画は、病院からアルビオン王国の大使館へと偽王子妃その1が向かうのに意識を向けている間に、帝国行きの夜行列車でフルーレゾン王国から出国し、偽王子妃その2が特別室で帝国まで行くのを更なる目眩ましとして、本人はフィオレンツァ共和国のナポルから客船に乗って、大陸を離れる。
但し、偽王子妃その2役の侍女と護衛騎士は帝国に到着するや否やフィオレンツァ共和国行きの夜行列車に乗り換えて戻って来て、一緒に世界旅行に向かうので、乗船切符は侍女が持ってくるのだとか。
遺跡の国アメンティア王国、多神教の国ムガル帝国、長い鎖国を解いた神秘の国ハポネ皇国を巡って半年後にアルビオン王国へと到着するのだと言う。
「なぜ、君の分の切符だけでも貰っておかなかった?飛び出したいんだろう、籠の中から」
「ふふ、そうね。飛び立ちたいけれど、もしその時にジュリアたちが来なかったとしたら、計画は失敗したと言うこと、私のわがままに付き合った使用人が罰せられると言うことでしょう。
偽王子妃その1たちは大使館に逃げ込めば、そのまま亡命できるように指示してきたけれど、ジュリアたちは命の危険を負っているでしょう?ジュリアたちが現れなかったら、そこでこの逃避行はお仕舞いよ。
ドクターマット、その時にはフィオレンツァのフルーレゾン王国の大使館へ連れていって頂戴ね。貴方はそこでお仕事は終了、お礼は後日、秘密のルートでお支払するから心配しないで」
そのシニカルな笑顔は社交界に居る大多数の、運命と諦め全てを飲み込み我慢を重ねた淑女の微笑そのもので、昼間見た少女のような弾ける笑顔とは別人のようだった。
「わかった。では、侍女殿たちと落ち合うまで、一所に居つかない方が良いな。フィーナからロマーナを経由してナポルまで真っ直ぐ南下する街道が整備されているんだが、どうせそこはフルーレゾンの兵士が見張っているだろう。
君の身体に負担となるが、一度東側の丘陵地帯へと出て、小さな村々を巡回する医者のふりをしながら、旧道を南下してナポルへと向かおう。休み休み向かえば、10日後に波止場へと着く」
予定が決まれば、早々にルシンダを寝かせて、マットは旅支度を整えた。
翌朝、まだ薄暗い時間に、ルシンダは麻の大判のフードを纏い幌馬車の荷台へと乗せられた。
ガタンゴトンと言う振動をダイレクトに受け、お世辞にも乗り心地が良いとは言えない。
だが、その荷台には、どこかで使っていたであろう厚手の絨毯と診療所の寝具、柄の不揃いなクッションが多数敷き詰められていて、マットがルシンダの身体を気遣っているのが伺われた。
次第に明るくなって行くと幌馬車が走っているのが道ではなく丘陵の草原であるのを、幌の隙間から覗いていて気がついた。
大きな木のある小川の畔で小休憩した時に、ルシンダはマットにお願いをしてみた。
「私も御者台に座っちゃダメかしら?」
マットはエエッと驚いた顔をして、また眉間に皺を寄せたから、迷惑かしら?とやっぱり止めておくわと言おうとしたが、徐に荷台からクッションやブランケットをたくさん持ってきて、御者台に敷き詰めて、
「これで少しは座り心地が良くなれば良いが」
とかブツブツ言いながら、先に御者台に上がって手を伸ばして来た。
「ありがとう」
そう言いながらその手を取ると、あっという間に引き上げられて、今までより見晴らしの良い席に感動したのだった。
「君が思っているより、田舎の村は人が少ないんだ。そして村は多く、あちこちにある」
そう言いながら、マットは本当に村を回って体調に変わりはないかと尋ね歩いた。
「マット先生、今年は少し遅かったねえ。何かあったのかい」
「じいさん、そんな不躾に聞くんじゃないよ。見りゃわかるだろう?」
「ああ、とうとう先生も嫁さん貰ったのか!こりゃ目出度い。村長に言ってくるよ」
村外れの一軒屋を覗くと、中から老夫婦が出てきて、マットとルイージを見て喜んだ。
「ああ、コホン。アンナさん、ヨゼフじいさんも。嫁じゃない。村長にも言う必要ないから。ちょっと遠くに出掛けてただけだ。あー、体調に変わり無いかい?」
マットが落ち着いた口調で嗜めて、問診を始めたが全く意に介さず。
「ああ、遠くの家に嫁取りの挨拶に言ってたのか!新婚さんか、それなのに巡回診察に来させちまってわるかったねえ。じいさん、村長の奥さんにも早く伝えに言っとくれ」
「行かんで良い。嫁じゃない。彼はルイージ、鞄持ちの使用人だ」
とうとう大声で否定したのだが、そんな会話も気にせずにヨゼフじいさんは足早に駆けていった。
どうみても老人であろうあの人が、どうしてそんなに早く走れるのか。
目の前で繰り広げられるその一部始終を驚きながら見ていたルシンダを、アンナと呼ばれている老女がジッと見てフッと鼻で笑った。
「先生、わたしの目を舐めちゃダメだよ。私が何年女をやってると思ってんだい。私は先生の倍年食ってんだ、その間私はずっと女だよ、その私が女かどうか見間違うはず無いだろう」
その言葉にルシンダは、アンナさんの頭から爪先まで、恰幅の良い姿をじっくりと見て、確かにぃと納得して頷いてしまった。
「初めまして、ルーシーです。ふつつか者ですが以後お見知りおきを」
そう挨拶をして、フードの裾をちょんと持って、軽く膝を曲げてご挨拶をした。
「まあまあ、ご丁寧に。何だい、先生。良いとこの娘っ子娶ったのかい!ああ、訳ありだね、駆け落ちかい!?こりゃ騒ぎにしちゃ不味いね、ちょっと村長のとこに言ってくるから中で待ってな」
ルーシーの挨拶に何かを感じ取ったアンナ婆さんが、坂を転がるように軽快に駆けていって、あっという間に小さくなったので、マットがため息を一つついて、
「すまない。娯楽が少ない田舎なもんだから、惚れたはれたが大好物なんだ。中で休んでいよう」
勝手に扉を開けて、ルシンダの手を引いて中へと入ったのだった。
まあ、行く村行く村同じような感じで、数時間幌馬車に揺られて、誰かの家で休ませてもらい、また次の村で泊めてもらいの繰り返し。
村民の歓待の中で、あっという間に10日が経って、紺碧の海が目の前に広がっていた、港湾都市ナポルに無事到着したのだった。




