豪華客船『ステラ・マリス号』その1
ナポルに近付くにつけて、道が変わった。
今まで走ってきたのは、丘陵の草の丈が低い場所を道と呼んで通ってきただけ。
その先で、村に近付けば土がそのまま残る確かに道と認識できるものになるのだけれど、それも先に進めばまた土は見えなくなり、草の丈の低いところを突き進む。
多くの幌馬車が進むので、草原の道、そう呼べばそうだな、と納得できるのだが。
しかし、ナポルへ繋がる街道に出ると、そこは敷き詰められた煉瓦で舗装された、ルシンダが良く知る道になって、城門を潜ると、多くの商店や家屋が立ち並ぶ、街であった。
マットは、ナポルの中心街を幌馬車で走り抜け、下町の外れの比較的大きな商店のような場所に停めた。
ルシンダの手をとって、御者台から抱えてゆっくりと地面へ下ろす。
「まあ、どこの紳士かと思ったら、マット先生じゃないか!」
建物の2階から顔を出して、女性が大声で話しかけてきた。
「モニカ、久しぶり」
その女性ににこやかに声をかけて、ルシンダの手を引いて、建物の中へと入っていった。
「どうしたんだい、先生久しぶりじゃないか!ん?そちら、あらぁ~先生の良い人かい!おめでとう、まあ、どうしましょ!あんた、おーい、あんたこんな時に居ないのかい。大変、たいへんだよぉ」
ここまで通って来た村とは明らかに規模の違う大きな街なのに、先生に連れられたルイージ姿のルシンダを見ての態度が同じことに、ルシンダは面白味を感じて、
「初めまして。ルーシーと申します。以後お見知りおきを」
なんて、いつもの挨拶を軽快にしちゃったりして、
「まあまあまあまあ、こちらこそヨロシクお願いしますよ。あら、先生も隅に置けないねえ、良いとこの若い娘を拐って来たのかい!」
なんて、恰幅の良い元気な女性にマットが背中を叩かれるのも、毎度のことだったりする。
「なんでえ、大声で、向こう三軒先までお前の声が響き渡ってらー」
外から丸太のように太い腕を組んだ大男が、ノシノシと歩いてきた。
「あら、あんたどこほっつき歩いてたんだい。こんな時に。良いかい、あんた、マット先生が良いとこの若い娘を拐って駆け落ちしてきたよ!」
「拐ってないし、駆け落ちしてない。落ち着いてくれ、モニカ。彼女はルーシー、俺の、」
「わぁあぁあ、なんて別嬪さん連れてきてんだ、この熊面マットの癖に、生意気だぞ!初めましてお嬢さん、俺はこの商店主レオナルド、貴女の恋の奴隷だ、セニョリータ。何でも俺に命じてくれ」
マットの台詞に大声で被せて、膝をついて手を取ると、オペラ歌手のような美声で愛を囁きだした。
「まあまあ、あらあら、ご丁寧に。でも恋の奴隷はモニカさんにだけにしてね。浮気な男は嫌いなの、ふふ」
「ああ、その笑顔に痺れない男がいたら会ってみたいもんだ。俺の女神よ、ぎゅ、うぐっがっ」
バシっと後頭部を平手でモニカさんに叩かれて、どうやら舌を噛んだらしい。
「ルーシーさん、気をつけておくれよ。フィオレンツァ共和国の男はみんな浮気者なんだから。あんた、先生の嫁さんに手を出そうとしてんじゃないよ、バカなこと言ってないで仕事しな!」
ギューッと耳を引っ張られて、叱られて、大男なのに涙目になってゴメンゴメンと謝る姿が、面白くて、うふふあははと声を上げて笑ってしまった。
「レオ、この幌馬車を買い取って欲しいんだ。当面、使う予定無いからどんどんリセールしてくれて良い」
マットがご夫婦のやり取りを無視して話かける。
「なんだい、先生。どっか遠くにに出かけるのかい?」
不思議そうな顔を向ける二人と、何にもわかっていないルシンダの顔を見て、
「そりゃ、新婚だものハネムーンに決まってるだろう。ご祝儀弾んでおくれよ!」
ニヤリと笑って言うもんだから、ルシンダは顔を赤らめ、夫婦はキャーワーと奇声を上げた。
「マット、悪どいんじゃありませんこと?騙したら可哀想じゃない」
と、倍の値段で買って貰えたと単純に喜ぶマットを見て、ルシンダは今度は顔を青くして文句を言った。
「良いんだ、別に。あれにはたくさん寝具もついてるし、ご祝儀だってモニカも言ってただろう?」
「そうは言っても、山賊避けの男装じゃ色気が無いって服までプレゼントしてくれて申し訳無いわ」
今、ルシンダの身を包んでいるのは、蒼い水玉模様の、細身の踝丈のワンピースと同じ色の蒼いサンダルで、大振りの白地にオレンジ色の幾何学模様が入ったスカーフを頭に巻いていた。
立ち姿が美しいのもあるので、ただそこに居るだけで人の目を引く。
「良いじゃないか、その装いはどちらで?なんて何人にも聞かれて、モニカ洋装店って君が答えたから、今ごろ千客万雷さ。モニカは商売人だよ、でも良い奴だ。レオは知らん」
どこまで本気かわからないが、マットが目を細めて、ルシンダの装いを見ている姿に、まあ良いかと思うことにした。
「さあさあ、ここは海辺の街、美食の街だ。ほら、何でも食べなさい。君、好き嫌いは無いだろう?」
ナポルで一番有名なタベルナに入って、ライブキッチンで大鍋でタコと言う軟体動物を茹で、それを大きなレードルで汁ごと器に豪快に盛る、なんなら腕まで熱湯かかって超絶熱そうなパフォーマンス付きのスープやら、天井高くピザ生地を投げ合って大きく広げて作る釜焼きピザやら、ゴロゴロと大きな牛肉が入ったミートソースパスタやら、ルシンダの見たことも食べたことも無い食べ物をテーブル一杯に並べて、マットはせっせとルシンダの皿に取り分けて、食事の手伝いを始めた。
「先生もどうぞ召し上がって。温かいうちに食べた方が美味しいわ。それに、誰かと一緒に食事をするってとても楽しいじゃない、はい、先生もお一つどうぞ」
自分の食事そっちのけでルシンダの世話を焼くマットに、ルシンダが切り分けたピザを差し出した。
「あ、ああ。ありがとう、そうだな、一緒に食べよう。俺はいくらでも入るから、君は遠慮せず好きな物を好きなだけ食べなさい。無理に食べることは無いからな。ゆっくり、ゆっくり噛んで食べ」
「はい、マット。ゆっくりゆっくり、噛んで食べるのよ、はい、あーん」
またまたルシンダの世話焼きモードに入りつつあった、マットの口元にピザを持っていって差し出した。
「ま、あ、あーん、あーん?え、え?」
突然、目を白黒させて慌て出した姿が可笑しくて奥歯を噛み締めて笑いを堪え、ようやく笑いが治まった頃、まあもう良いかな?と、マットの皿に置こうとしたそのピザを持つ手をマットの大きな手が掴んで自分へと持っていき、ガブリとルシンダの指先まで大口で食べてしまって、ペロッと指先のソースまで舐め取った。
きゃー、な、何てこと、あーんなんて、少女小説の世界のことだと思ってたのに!こんな人前でしかも指まで舐めたわ、ハレンチだわ破廉恥よ。
自分が仕掛けた悪戯だったのに、返り討ちにあい自分自身がノックダウンされて、ルシンダは顔から首まで真っ赤に染まって恥ずかしがった。恥ずかしくて、顔を覆ってしまった。
その様子に、髭面をくしゃくしゃに歪ませ、ククッとマットが声を出して笑った。
「まあ、マットったら酷いわ。私をからかって笑ったわね」
キーッと赤い顔のまま大きな目で睨みつけたけれど、あははあははと大きな声で笑って気にした素振りもない。
「悪い男にちょっかいをかけたのは君の方だからな、これでお愛顧だ。さあ、食事を続けよう」
「ふんだ、もう知らないわ」
ルシンダは、大きなタコの足にフォークを刺してそれこそ大きな口を開けてガブリと噛みついたのだった。
ジャジャアーン、ジャジャアーンとギターの演奏が始まって、ポツポツとフロアの真ん中に出て、踊り始めるカップルが出始めた。
クルクルと女性が回されて、スカートが花のように色とりどりに広がって、その様子を見るのもとても楽しい。
「美しいセニョリータ、もし宜しければ、一曲だけこの恋の奴隷と踊って頂けませんか?」
突然、ルシンダの目の前に膝をついて、カーリーな黒髪の長髪を無造作に後ろで縛った背の高い男が誘ってきた。
その堂に入った態度に、思わず見とれてしまった。
「ん、んん。君、連れの前で失礼じゃないか」
如何にも気分を害しましたと言いたげな表情でマットが黒髪の男に文句をつけると、
「セニョール、ここはナポルだよ、ナポル、情熱の港町。ナポルのタベルナで恋の女神に会ったなら誰でもどこでも声をかけるだろう。マンジャーレ、カンターレ、アモーレなんだから」
立ち上がるとマットを見下ろして、オペラ歌手のような良い声で歌うように言った。
「そうさ情熱のナポル、こんな機会に、私の女神に、ダンスを乞い願うのは俺だけだろう」
マットはそう言うとテーブルの反対側に回り込んで、膝をつき手を差し出して、
「私の女神、ルーシー。どうぞ、君を愛する夫の手を取っておくれ」
そう願った。
「まあまあ、では、よろしくお願いしますね、旦那様」
そう言って、手を乗せると、マットは素早く立ち上がり、ルシンダの腰を抱いてフロアの中央へと進んだ。
「さあ、美の女神が喜ぶ楽しい曲を頼むよ」
マットがバンドリーダーにそう声をかけると、アップテンポな曲を始めた。
「まあ、こんな目立つところでどうしましょう、マット、私人生で一度しか、デビュタントで一曲ワルツを踊ったことしかないのだけれど」
一切社交場に出たことの無いルシンダは人前でダンスを踊った経験がほとんどない。
公爵邸でダンス教育は受けていたけれども、それも随分昔のこと。
「そんなの気にしなくて良い。音楽に合わせて揺れながら、俺に身を任せて」
そう言うだけのことはあって、マッドは難なくルシンダをリードして、時おりリフトをしたり、クルクルと回したりした。
ルシンダは、デビュタントの距離より随分顔が近い、身体の密着度も高いな、なんて思いながらも、マットから香る柑橘系の仄かな匂いを深く吸い込んで、なんとも言えない幸福感を感じた。
曲の終わりのターンの後、思いの外至近距離で見つめ合いながらのフィニッシュポーズに、ルシンダの動悸が激しくなった。
「ルーシー、どうだった?ダンスは楽しめた?」
頭上からマットの低い声が降ってきて、あまりの近さに胸の高鳴りが聞こえてしまいそうな気がして、飛び上がって、距離を取った。
「どうした?大丈夫?」
距離を取って落ち着こうとしている人の気も知らないで、もっと近付いてくるマットに、イラっとして、
「ええ、大丈夫よ。とても楽しかったわ」
と、長年標準装備していた淑女の微笑で綺麗なお返事を返した。
「そう、なら、ご褒美をくれる?」
マットが珍しいことを言うので、瞬きが少し増えてしまったけれど、無関係の彼を振り回している自覚はあるので、
「ええ、勿論よ。なんでも言って」
と、軽く答えてしまった。
その瞬間、マットの目がスッと細くなって、さっきよりももっと低い声で耳元で囁かれた。
「では、ルシンダ、ご褒美のキスを」
「な!」
パッと耳を押えてマットの顔を見上げた。
きっと、顔も身体も真っ赤に染まっているだろう、生娘でもあるまいに。
「さあ、ルーシー夫の頬にご褒美のキスを」
マットが今度は少し大きな声でそう言って、頬を寄せてきたので、目を瞑ってソッと口づけた。
「ありがとう、一つ君に忠告だ。ルーシー男になんでもあげるなんて決して言ってはいけないよ。世の中の男はみんなその身の内に獣を飼っているんだから」
席までのエスコートの最中、小さな低い声で、耳元でひっそり囁かれた。
私の心臓が早打ちしすぎて、オーバーヒートで止まってしまわないかしらと心配になるくらい高鳴っていた。
本日より投稿増やします。今日は21時にもう一話投稿します。
明日からは6時12時19時半の3回投稿します。
よろしくお願い申し上げます。




