豪華客船『ステラ・マリス号』その2
散々マットに心身共に振り回されて、お腹一杯名物を食べて、楽しくて嬉しくて、ちょっと恥ずかしい、そんな気分のまま、店を出た。
さっきの名残なのか、なぜかエスコートではなくて、マットと手を繋いで歩いていた。
手を繋いでの街歩き!少女小説の定番デートね。
王子と男爵令嬢、伯爵子息とメイド、騎士と村娘、少女小説にはいつでも身分差の恋が溢れていて、みんなその生まれながらの枷に縛られていて悩むのだ、小説では。
実際はどうなんだろうと、記憶を探ると、自分の夫、この場合は戸籍上の捨ててきた夫ダミアンであるが、彼は別に平民だろうと、人妻だろうと、娼婦だろうと関係なく楽しそうに戯れていた。
私が知っているのは、定期的にもたらされる報告書での誰とどこに居て、どんな会話をし、現在の状況はどうなのかと書類上の情報なので、実際の彼の悩みはわからないが、あれだけ複数の愛人、恋人、不倫相手を侍らかしていて、成さぬ恋に悩んでいたとは、到底思えない。
やはり、恋の切なさと言うのは、小説の中にしか存在しない物なのだろうか、なんて思いに耽りながら、マットに手を引かれて歩いていた。
暫くして、乗り合い馬車の乗り場へ着き、波止場行きの馬車へと乗り込んだ。
持ち物は、お互い鞄1つずつだけ、今回はマッドが片手でヒョイヒョイと持ってくれた。
乗り合い馬車は空いていて、豪華客船に乗る人は、自家の馬車で向かうので乗り合い馬車で行く人はそんなに居ないんだと、そんなことを思った。
「大丈夫だ、きっとすぐ二人に逢える」
随分長い時間無言でいた様子に、ルシンダが合流するはずのジュリアとアーチーのことを心配していると思ったようで、気持ちを慮ってくれていることの良くわかる慰めの言葉に心が温かくなった。
「そうね、私もそう思っているわ」
実際、夜行列車に乗り込んだフルーレゾンの騎士や兵士たちは、フルーレゾン王国の外での非常識な行動に非難を浴びているのではないか、とルシンダは思っていた。
何の権限で、他国で、汽車の捜索をしたのかしら?
そこに目当ての人が居なければ、傍若無人なだけの狼藉国家よね。
ルシンダが居ないことに気がついた時はもう遅すぎ、詰んでいるのだ。
ルシンダが内心で、うっそりとした黒い微笑みを浮かべている間に、馬車は波止場の停留所に到着した。
そこからマットに手を引かれて、停留している『ステラ・マリス号』に向かって歩み進めた。
「なあ、その者たちとはどこで待ち合わせなんだい、タラップかい?切符売場かい?待合室かい?」
たくさんの人が出たり入ったりしている建物の側でマットがルシンダに聞いてきた。
「ええ、どうしましょう。決めてなかったわ」
焦ってどうしましょう、どうしましょう、と繰り返すルシンダを見て、マットがふむと息を吐いた。
「じゃあ、このまま船に乗り込もう」
「え、でも乗船切符が無いと乗れないのでしょう?」
「ああ、普通はね。でも君は切符を持たないと乗れないって知らなかったのだろう?だったら、きっとそのままで良いはずさ」
「ん、んん。あー、ドクターマット。ちょっと伺いたいのだけれど、あなた私をバカにしてらっしゃるの?」
特別おかしなことを言っている気の無いマットは、半音声が低くなったことを不思議に感じた。
「いや、全くそんな気はないが。それより、先に進もう」
ん?と小首を傾げてルシンダを見つめて、暫くじっと見つめていて、急にハッとしてからルシンダの手を引いてまた歩み始めた。
なんなのよ、その小首を傾げる仕草なんて、幼子か成人間際の乙女しか可愛くないはずなのに、どうしたのかしら、熊のような髭もじゃ顔が可愛らしく感じてしまうわ。
髭、さっきキスをした時にチクチクしたのは、あの髭なのかしら。
そんな記憶を不意に思い出して髭と肌の感触まで甦って、その瞬間、かあっと身体が熱くなって、胸もまたドキドキと高鳴って、私ったらどうしちゃったのかしら、病気の進行が早いのかしら?なんて思いながら、手を繋いでいることも意識した途端にじんわりと掌が汗ばんでしまったのだった。
そんな思考の波に飲まれている間にタラップを昇って、乗船する為に氏名を告げ切符を提示する場所についてしまった。
えっと、ジュリアもアーチーも逢わなかったから、切符が無いのだけれど。
え?マット、どうするの?あなた、何て答えるつもり?
「お客様、お名前を頂けますか?」
「私は、マット・セシル、こちらが妻のルーシー・セシルだ。切符は先行して乗船した者が持っているはずだが」
「はい先に受け取っております、お連れ様のアーチー・スミスご夫妻がお待ちです。こちらへ」
無事乗船を果たし、ベルボーイに荷物を運んで貰いながら客室まで案内された。
通されたのは、最上階のデッキテラス付き貴賓室で、そこに向かう廊下には厳重な扉が閉じられており、またその前には屈強な警備騎士が配置されていた。
ベルボーイが名を告げると、二人の騎士が、重い扉を開けて恭しく頭を下げた。
船に乗る前まで繋いでいた手は、今は正式なエスコートとなっていた。
ルシンダは本人が意識しなくとも、自然と高貴な身分の振るまいに変わっていて、着ているのが平民のワンピースなのに、イブニングドレスを纏った淑女と寸部も違わない気品を放っていた。
足音のしないふかふかの絨毯の敷かれた廊下を抜け、奥の扉をベルボーイがノックした。
「はい」
「お連れ様をご案内致しました」
応対の後、数秒後、扉が開かれて、そこには黒い上等なタキシードを着たがたいの良い男と白金の髪を高く結った淑女が立っていた。
荷物が置かれ、ベルボーイが立ち去って数十秒、微動だにせず、そのまま四人が止まっていた。
ピクリとタキシードの男が反応したのを合図に、
「ジュリア、アーチー大役をご苦労様。無事に逢えて、嬉しいわ」
この中でもっとも高貴で、この逃避行の首謀者から、忠実な配下への慰労の言葉であった。
「ルシンダ様、本当にご無事で何よりですぅ」
両手で顔を覆って泣きながら、主の無事を確認して、感無量な様子を見せた。
「ジュリアったら、もう泣き虫ね。
全く問題なかったわ、寧ろここまでの旅路も多いに楽しんだわ。『ロマーナの両片想い』の世界を堪能出来たのよ」
ルシンダがニコニコとした笑顔を向けて話し出した。
「とりあえず、お支度を整えましょうか。まずは湯浴みをなさいませ」
話が長くなりそうだと感じた侍女が、ルシンダを夫人の間の浴室へと誘った。
「マットお疲れさま、貴方もゆっくり休んで。アーチー、貴方もよ。楽にしていて、これから世界を巡るのだから」
そう声をかけ、気遣いをみせるので、
「ルシンダ、兎に角君こそここまで無理を重ねたのだから身体を休めるんだ、侍女殿よろしく頼むよ」
そう声をかけて、奥へと連れていってもらった。
「良く乗船出来たな」
護衛が無表情な顔を向けて声をかけてきた。
「ああ、外で待つより、乗船しちまった方が外敵から守られるからな。貴人がお忍び旅行なんて良くあることだ。ルシンダの所作で身分はわかる人にはわかる。豪華客船の船員なら当然さ。どうせ、じいさんを使って俺を呼び寄せたんだから名はそこを使うだろう。偽名は彼女だけで良いんだから」
眼下に広がっている海に面した大きなガラス窓の前に置かれたソファにどっしりと腰かけ、護衛につらつらと予想していたことを話した。
黙って話を聞いていた護衛は、
「ふん、合格だ。これからが本番だ、頼むぜドクター。それからルシンダ様だ、夫婦役なのはあくまでも外向けだからな。弁えろよ」
そう言って手を差し出してきた。
マットは眉間に皺を寄せながら、その手をググッと握り、アーチーにギュウウウっと握り返されて、奥歯を噛み締めて悲鳴を我慢したのだった。




