豪華客船『ステラ・マリス号』その3
アーチーとの握力勝負の最中に、ルシンダが入って行った方から、キャ、キャーと言う甲高い悲鳴が響き渡った。
その声を耳にした瞬間、アーチーはマットを横に投げ倒し、即座に駆け出した。
当然マットも、すぐに体制を立て直して後ろから追いかける。
マット達が居たリビングスペースの奥は、夫のベッドルーム、その奥の壁際に扉があり隣の部屋へと続いている。
次の部屋は言うなれば夫婦のベッドルームだろうか、更に奥の壁にある扉を開けるとそこは妻のベッドルーム、ルシンダが入って行った部屋だった。
そこにアーチーと並んで入れば、大き化粧台が備え付けてあり、鏡の前にルシンダが座っていて、その横には彼女の被っていたスカーフを手にしたジュリアがわなわなと震えながらどうしましょう、どうしましょうと奇声を上げているところであった。
「どうした、何があった」
「どうしたんだ」
アーチーとマットの声が重なって問いかけた。
ジュリアは、その声にハッとしてマットをギッと睨み付けて、
「髪が!ルシンダ様の、ルシンダ様の髪がこんな短くなって!どう言うことです」
とマットの前までやってきて怒り出した。
椅子に座ったルシンダは困ったように眉を下げながら、
「マットは関係ないわ。私が切りたかったのよ、アリス王女みたいにしたいって髪を染めた時にもいったじゃない」
ジュリアの背中に向かって話しかけた。
「でも、王族が短い髪など有り得ない、切ってはなりませぬと、わたくしは、ハッキリと、申し上げたはずです」
ブンっと振り返ってそう言い返した。
「貴方も、少し考えれば女性がこんな短く髪を切るなど有り得ないとお分かりでしょうに。なぜ止めなかったのです」
ジュリアは噛みつきそうな勢いでマットに言い募った。
その様子に、ルシンダの体調の問題では無いと安心して、マットは入口からゆっくりとルシンダの座っている化粧台まで歩いて行き、彼女の剥き出しになっている細い首筋を指でなぞった。
「キャッ」
突然のことに驚いて小さな悲鳴を上げて見上げるルシンダに、
「ああ、驚かせてごめん」
と何も悪いと思ってなさそうな謝罪をした。
「何を、」
「なにしてるんですか!」
アーチーの非難の声に被せて、悲鳴のような大声でジュリアが非難した。
そんな姿を目にしてもマットは別段気にした様子も無く、
「彼女の項はこんなに美しい。短い髪もとても似合っているじゃないか、素敵だよ」
鏡越しにルシンダにそう告げて微笑んだ。
「似合うとか似合わないとか、そんなことを言っているんじゃないんですよ」
まだ非難の言葉を言い放っているジュリアに
「他のことなど知らん。大体俺はフルーレゾンの鳥籠から手負いの鳥を逃がす手伝いをするよう一方的に指示されただけだ。鎖に繋がれていた鳥が、それを切って逃げたいと言うのに止める理由があるのか」
冷たい視線を向けて答えた。
「だいたい、そっちが俺にこの役を割り振ったのだろう。意に沿わないのならば、そっち側の選択ミスだ。
愛と権謀のフルーレゾン生まれ、愛と情熱のフィオレンツァ育ちの男に何を期待してるんだ。
俺の常識じゃ、の望みは全て叶える。美しい妻を笑顔にすることこそが夫の最大の責務だ。
王族の常識?そんなの知ったこっちゃねえな」
ニヤリと片側だけ口を上げた歪んだ笑顔をジュリアと、無表情な顔に厳しい視線を向けるアーチーへ見せた。
「まあ、旦那様ったら、妻への深い思いやり心より感謝致しますわ。
ジュリア、私は始めからこの髪型にすると言っていたはずよ、マットに当たっちゃいけないわ。それは八つ当たりです。キチンと謝罪なさい。アーチーも殺気を引っ込めて、マットに失礼よ」
ルシンダが肩に置かれたマットの手に手を添えて顔を見上げて微笑みながら立ち上がると、話をまとめた。
「マット様、申し訳ありませんでした」
ジュリアが胸に手を当て謝罪し、アーチーも小さく頭を下げた。
「さあ、やっとこれから入浴にしますわ。お騒がせ致しました、マットもお休み下さい」
その声を合図に、その部屋を出て、リビングを挟んだ反対側の客室へと荷物と共に下がった。
ベッドの他にライティングデスクと応接室のある部屋に入ると、鞄から検査道具と数冊の医学書をデスクへと並べた。
「どこへ行く?」
部屋を出てリビングへと向かうと出入口に立っているアーチーが強い視線を向けながら声をかけてきた。
「船内のライブラリーと、あと船医とも挨拶しておこうと思って。質問なんだが、この船に、この貴賓室の周囲に配置しているのは味方だと思って良いのか」
マットが惚けた表情を浮かべながら首を傾げた。
「ほう、愛と情熱の男は勘も良いみたいだな。
この貴賓室の外側をぐるりと囲むようにクルーの通路が巡らされている。
そこに居るのはこの船のクルーであり護衛である。邪な態度を取るならば、命はないぞ。
フルーレゾンの王子宮より余程強固な防衛ラインを敷いているからな」
どうやら先程ルシンダの肌に触れたのが、アルビオン側の琴線に触れたらしい。
アーチーだけではない殺気をあちらこちらから感じる。
「はは、覚えておくよ」
両手を挙げたポーズを取るも、警告されたことを了承はしないと暗に示した。
すると、良いタイミングでノックの音がして、姿勢の良い細身の老人が現れた。
「ようこそ、『ステラ・マリス号』へ。
わたくしは貴賓室付きのバトラーをしておりますジェームズ・ブラウンです、どうぞ何なりとお申し付け下さい。
蛇足ながら、マット様、先程のアーチー様のお話、努々お忘れ無きようお願い致します」
口許は弧を描いているのに目は全く笑って無い表情で、きっちりとした挨拶をしてきた。
「バトラー。ドクターは船医に挨拶をしたいそうだ、案内を頼む。その後はライブラリーを使用したいそうなんだが、一般用だけでなく貴賓専用の方も利用させてやってくれ」
アーチーの言葉を受けて、バトラーは恭しく礼をしてマットと連れだって船内を案内してくれたのだった。
乗船する時も思ったが、ルシンダの逃避行だけと言う訳じゃないみたいだな。
デッキから青い海を見ながら、とんでもなく厄介なことに巻き込まれてしまったとため息をついたのだった。




