選択
アーチーに解毒についての相談をしたのに、ルシンダの気持ちを考えろと怒られ、脳内をルシンダがぐるぐると回って、どうしても意識してしまう。
それでも朝の診察に、ルシンダに会いに行かねばならない。
「おはよう、ルシンダ。体調はどう?胸の痛みや苦しさは無い?」
いつものように脈をとり、心音を聴く。
リンパの腫れや足の浮腫の有無を確認する。
ここ半年毎日何度もやっていることなのに、今日は意識して無表情を装わなければ、彼女に触れるのも戸惑ってしまう。
「どうしたのマット、私に自覚症状は無いのだけれど、どこかおかしいのかしら」
ルシンダが戸惑いがちに目を見つめて問うてきたので、思わず瞬間的に目を反らしてしまって、
「いや、大丈夫だ。脈も心音も乱れは無い。じゃあ、また後程」
そう愛想の無い受け答えをしてしまった自覚はあるがうまく建て直せなくて、そのままそそくさと退席してしまった。
「どうしたのかしら、マット、様子がおかしかったわよね」
ルシンダが側に控えていたジュリアに話しかけると、
「ええ、何か隠しているような感じでしたね。どうしたんでしょう、アーチー様ご存じですか」
ジュリアも肯定して、護衛として入口に立っていたアーチーに聞いた。
アーチーは無表情な顔で、
「知らない」
そう答えたのだが、
「嘘ね、あなた、マットと喧嘩でもしたの?あなた、昔から困った時にする顔をしているわ、何か私に言えないことがあったのかしら。どうしたの?」
じとりとその顔を見つめたまま、近くまで寄ってきて至近距離で見つめて聞き返してきた。
アーチーは姉のこの追求に滅法弱くて、当然のように目をスッと反らしてしまった。
「やっぱり、喧嘩したのね。理由は私のことが絡んでいるのね。もう、」
「帰国したら、姉様はどうするつもりなんですか」
子供扱いにムッとしていたし話を反らしたいしで、ずっと知りたかったことを直球で問いかけた。
「急に話を変えて」
「ウィリアムは兄上のところのアーサーと共に帝国の大学に通ってますが、アーサーは来年には短期留学を終えて国へ戻ります。ウィリアムは正式な入学ですから後5年は帝国でしょう。姉上も帝国に行かれて一緒に暮らすのですか、それとも他に考えがあるのですか、例えば誰かと一緒に過ごしたいとか」
フルーレザン王国へ嫁いでからついと姉様とは呼んでくれなくなった、いつも口の少ない弟が、堰を切ったようにズバズバと質問を投げてくる。
「アーチー、もう何を言っているの。国に帰った後のことはお父様にもご相談しないとならないし決められないわ。誰かと一緒に暮らす予定も無いけれど、いつまでも公爵家にも居られないものねえ」
弟の普段とは違う雰囲気に戸惑い困って、眉を下げて普通の受け答えをした。
「父上や陛下の言うことを聞くつもりがあるんですか!姉様、籠から抜け出すんじゃなかったんですか」
アーチーが驚いて目を見開いて、大きな声で突き付けられた言葉に言葉を飲み込んだ。
「婚儀に向かう乗船の時、『いつか籠から抜け出して自由になるわ、心配しないで』って言ったから、姉様がそう言って笑ったから、俺は、俺は姉様が自由に幸せになって欲しいと一心に願ってきたんです」
まだ7つになったばかりの弟が、他国に嫁入りする姉を思って『嫌だ、嫌だ行かないで』と泣いてすがったあの日を思い出した。今のアーチーの鳶色の目には、あの日のような大粒の涙は無いけれど、その眼差しは心の底から私を案じてくれているのが伝わってきて、いつになっても本当にかわいい弟だと目を細めた。
「アーチー、もう籠から抜け出しているじゃない。それに私、今とっても幸せだわ」
そう言って背伸びをして、大きくなった弟のフィッツロイ家の色である祖父や父と同じ深みのある焦げ茶の頭をよしよしと撫でた。
「姉上、俺ももう24です。頭を撫でるのは止めてください」
赤くなって、嫌がる弟をもう暫くからかって撫で回したのだった。
午後の診察は、船医が代わりだと言って現れたので、やはりマットに何かあったのかと心配していると、船医は顎を撫でながら、
「大きな悩みがあるみたいでな、少しばかり時間が必要なんだそうだ。見守ってやってくれ」
そう言うのだった。
その晩も、翌朝の診察も船医が代わりに行って、マットに会えない時間が続く。
ルシンダは、その気持ちのような曇天に鉛色の海を見つめて、もう何度目かわからないため息を深く吐いたのだった。
その晩、バトラーから招待状がもたらされ、ルシンダに誘いをする者など誰だと不審に思って名を見れば、マットと書かれていて、息を飲んだ。
「マットから、どうしたのかしら」
手紙は夕食の誘いで、船のレストランの個室を指定していた。
「まあ、どうしてわざわざバトラーにお手紙をお願いしたのかしら」
「男の純情だと思われます」
バトラーは珍しく訳知り顔で恭しく告げたので、純情ねぇと繰り返し口にした後で、了承の伝言をお願いした。
普段より遅い食事の時間を指定されたので、正装して行かねばと、ジュリアとメイドに磨かれて深緑のベルベットのドレスで、クリノクリンを使わずウエストからストンとしたスカートの裾が百合の花のように広がった物を選んだ。
ロマーナで切った髪はもう、顎のラインより長くなって、サイドを編み混みに、蔦をプラチナで葉をペリドットで模した細い髪飾りで飾り、同じ輝石のイヤリングを長く垂らして付けた。
約束の時間に、マットが部屋を訪ねて来た。
そこには、顔の半分以上を覆っていた髭を綺麗に剃り落として、黒いタキシードに身を包んだ見慣れない若いハンサムな男がいた。
まあ、へえ、あらと言う、ジュリアたちの声を後ろに聞きながら、前まで歩み出て、
「今夜はお招きありがとう、楽しみですわ」
と声をかけると、
「ルシンダ、今日の君もとても美しい。エスコート出来る名誉を誇りに思うよ」
そう儀礼的な返事を返して、指先をそっと握った。
貴賓室から、レストランの個室までの道のりをゆっくりと二人で歩く。
ほんの数日会わなかっただけなのに、もう随分暫くぶりのような気がして顔を上げてマットの顔を見れば、そこにはやっぱり見慣れない顔があって、でも彼の愛おしい円らな瞳はそのままで、その目がどうしたの?と視線で問うてきたので、
「マットって、髭が無いと若いわ。童顔なのね」
思った感想が口から滑り落ちた。
「恥ずかしいな、髭を剃ったのはもう10年ぶりだ。おかしいだろうか」
本当に恥ずかしいのか、顔を赤らめて目を反らしたので、
「気分を害したらごめんなさい。いいえ、全然おかしくないわ。若く見えるし、ハンサムよ。年がアーチーと同じくらいに見えるって思ったのよ」
不躾な言い方を詫びつつ、やはり見慣れない顔をじっと見つめて答えた。
「アーチーと同じ年だなんて、10以上も若いじゃないか。それはいくらなんでも言い過ぎだよ。ただ年下に見られて侮られるのが嫌で、医者になった時から髭を伸ばし始めたんだ」
レストランの個室に案内され、食事が進んでも、まだマットの顔の話が続いた。
「マット、もうすぐ35才でしょう、絶対20代に見えるわよ。でもお医者様なら威厳があった方が患者さんも言うことを聞きやすいのかしら」
ルシンダがフフと笑いながら、小首を傾げつつマットの顔を見ていた。
「まあ、それは間違いなくある。レオナルドなんて、最初に会った時、小僧の診察なんて受けても意味ねえなんて言われた位だからな。もう俺の顔の話は終わりにしてくれ、恥ずかしいよ」
そう言って、顔を両手で覆ってしまった。
「そうね、でも最後にひとつだけ教えて。じゃあどうして髭を剃ったの?」
その質問に、一度天を仰いで、二度三度と深呼吸を繰り返したマットが徐に立ち上がると、ルシンダの前に膝をつき目の前に手を差し出した。
「ルシンダ、君と一緒に居たいんだ。君の身分も、俺が平民だということも勿論、理解している。
世間一般の夫婦になれるとは思わない。身の丈に合わない願いを口にしている自覚はある。
それでも、それでも、何度打ち消そうとも、何度諦めようと自分に言い聞かせても、君が好きで、恋しくて、愛おしくて、君以外に考えられないんだ。
君の瞳に俺が映っているのを間近で見ていたい、君と見つめ合っていたい。君が生きている時間を一緒に過ごしたい。色々な問題が君の中にあったとしても、どうか俺の手を取ってくれないか」
どうしたらいいんでしょう。
少女小説のプロポーズのように、目の前に膝をついて手を差し伸べている人がいる。
真っ赤な顔に、円らな瞳が余計に若く見えるのよ。貴方のグレーの瞳が、明るい場所だと黄緑にも見えるの、その綺麗な瞳に私を映していて欲しい、それは私の、私の心の中だけの願いだったのに。
私の方こそ、貴方が好きで、恋しくて、ずっと愛おしかったわ。
一生懸命それに気づかないふりをしてきたのに。
貴方と一緒にいる未来、この手を取って過ごせるのなら取ってしまいたい。
この手を取って、一緒にいられるのなら、ああ、
「もう無理だ、ルシンダごめん」
どのくらいの時間をマットの手を見つめて逡巡していたのだろう。
マットが急に謝ったかと思うと、立ち上がって手を引いて立ち上がらせ、その大きな胸に抱き締めた。
「君の答えを待ってられない、器の小さな男だと呆れてくれ。君を拐ってしまいたい」
いつものマットの柑橘の香りが広がって、その胸に頬を寄せてしまう。
「私、貴方のことが好きよ。小説のヒロインのドキドキして胸が苦しいって気持ちが初めてわかったの。
貴方と一緒に見た景色はそれだけで何倍にも美しくて、一緒に居られることが嬉しくて涙が溢れて、本当に嬉しくても涙が出るのね、なんて思ったもの。でも、どうしたらずっと一緒に居られるかわからないの。
手を取りたくなかったんじゃないわ、取りたくて取りたくて仕方なかったのに、戸惑う、ごめんなさい」
ルシンダの言葉に抱き締める力を緩めてその瞳を見つめ、当然の戸惑いだよと言いながら、
「もし今の言葉が君の本心なら、俺は、この旅の終わりに国王に願い出るつもりだ」
マットの言葉の真意がわからずに、顔を上げると、
「旅の最初に、君は言ったじゃないか。この旅が無事に終わり、君が母国へと帰れたなら何でも望みを叶えてくれるって。俺は君を望むよ、ルシンダ」
真剣な顔をしたマットのグレーの瞳に、への字に眉を下げた情けない顔の女が映っていた。
顔を上気させて、うっとりと男の顔を見つめて、情けない自分の知らない女の顔。
「私を拐って」
感極まってそう答えて、もう一度胸に顔を埋めれば、喜びが体を満たすのだった。




