帰路 その3
ハポネ皇国を出港した『ステラ・マリス号』は、北航路と言われる寒冷地帯をアルビオン王国へ向けて進んでいた。
晩秋だった季節は極寒の冬の様子をみせて、乗客は熱い毛皮を纏うようになっていた。
青空に燦々と輝く灼熱の太陽を見続けていたのが嘘のように、毎日どんよりとした重苦しい雲が空を覆っていた。
この時期を逃したらもうこの航路は半年間は流氷に閉ざされて使えないのだと、忙しく働いている船員が言っていた。
明け方、冷たい風が吹き荒れている甲板は閑散としていて、夜中に問題はなかったかと見回りしている船員が通りすぎた後は、大きな船内を何周も走り終えて、腹筋や腕立て伏せなどの筋トレをしている、アーチーだけだった。
「まだ続けるのか、長いトレーニングだな」
「筋力はすぐに落ちてしまう、さすがにこの寒さではもう水泳をする訳にはいかない、体が鈍ってしまうからな」
後ろ側から声をかけたマットを振り返りもせず、声も震わせず淡々と腕立てをしながら答える彼に、
「トレーニングと着替えの後、ルシンダが起きるまでの少しの時間で良いんだ、相談に乗って欲しい」
と、頼むと、
「フン、呼び捨てるな、ルシンダ様だ。プロポーズの相談には乗れんぞ、俺は未婚だし婚約者も居ない」
腕立てのスピードを上げて、忌々しそうな声で返答をした。
「な、何言ってるんだ。平民の俺がそんな身の丈に合わないこと言う訳ないだろう。医者と患者は公私を分けないとならない決まりだしな。と言うか、アーチー、未婚はまあさておき、公爵子息なのに婚約者がその年で居ないとは珍しいな」
「ハ、ドクターどの口が言ってるんだ、それ本心か?初めから患者と医者の距離じゃ無かっただろう、あんだけ人前でイチャイチャべたべたしていて、抱き合っておいて公私を分けてるとか、頭沸いてんのか。
俺は複雑な家庭環境のせいで、立ち位置が定まってなかったからな。反対に姉と兄は政略でさっさと結婚させられた。将来が不安定な男に嫁ぎたい貴族令嬢なんて普通はこの世には居ないんだぞ、そこんとこ、あんたわかってるのか。
まあいいや、すぐに着替えてから部屋へ行く」
突然、立ち上がり半眼でマットを胡散臭そうに見てから、軽く手を振って横を歩き去っていった。
「つまり、ルシンダ様の毒は完全に消去できていない、と。それを除去する為には猛毒を使わねばならないが、その量次第では即死してしまう。そんな物与えられる訳無いだろう!」
たった四半刻で、着替えを済ましてマットの部屋へとやって来たアーチーに、ドクターイオリからされた1%残った毒の危険について話していたら、始めの冷静さはあっという間に消え去り、バンっと大きな音を立ててテーブルを叩くくらいには激昂した。
「そうなんだ。但し、このまま過ごすにしてもその毒の残渣がいつ、どんな悪さをするかは現状わからない。
明日、突然悶え苦しんで倒れることもあれば、50年後に老衰と見分けがつかないほど穏やかに亡くなるかもしれない。
先の見えないこのリスクをどうするか、本人にもまだ説明出来ていないんだ」
マットが固く握った手で自分の太股を何度も叩いていて、その苛立ちと苦悩を感じた。
人の怒りの姿を見ると、冷静になるものか、アーチーが
「解毒剤の試作はしているんだろう?それの具合はどうなんだ。また人体実験している訳じゃないだろうな」
顎をしゃくってそう言った。
「ルシンダの体重から割り出した、標準的な毒薬の中に占める致死量は算出した。
それを打ち消す薬は紙の上には既に存在している。そこまではなんとかなったんだ。
理論上は出来ている薬が果たして本当に効くのか。
サンラザールの毒を完全に除去するために解毒薬、仮にハポネ薬としよう、それに異なる量のトリカブトを入れてステラ試薬は何種類も作った。理論上の遊びの部分、余白というか、秤の傾かないほど小さな誤差が存在してしまうんだ。本当に微量も微量な、小さな違いが無数に存在しうるんだ、現実は。
その中でどれが本当に効くのか、それを確かめる術が無い。量が少なくては毒は残り解毒薬として使えず、少しでも多ければ即死してしまう。
ある意味無限な選択肢があり、どれを選ぶかは神のみぞ知る、ルーレットにあたる位の確率だ。
ルシンダの命をそんな軽々しく扱えない。では俺がと変わることも出来ない。
もし俺が試して外れを引いた時に、次が居ないからだ。
以前はハポネ皇国に行きさえすればドクターイオリが居るから、最悪、彼に後を頼めば良いと治験が出来たんだが、ここではもうその手は使えない。完全に行き詰まってしまった」
焦燥にかられた顔を見つめながら、髭面な熊みたいな顔をしているくせに円らな瞳だな、と話しに不似合いなことが頭に過った。
「俺は、フィッツロイ公爵家の第三子と言うことになっているが、実際にトーマス・フィッツロイの血を引いているのは俺だけだ」
アーチーは突然、生い立ちを話し始めた。
フィッツロイ公爵家は、元々、アルビオンの北の海岸線付近を領地としていたモーティ伯爵家が起源で、三羽のカラスを家紋としていたので、うちの家紋もカラスをモチーフにしている。
三代目モーティ伯爵家当主エドモンドは、無能王と言う不名誉な二つ名を歴史に残したエドワード1世の王妃イザベルと秘密裏に関係を持って子を為した。
無能王の王妃には先代王の妹が降下した従姉妹の公爵令嬢が就いて居て、当然彼女にも王族の血が流れて居たので、彼女から産んだ子は異父兄弟であった。
それが、ロジョア・モーティ伯爵で、そのロジョアの子であるエドモンド2世は、無能王エドワードの子である国王エドワード2世によって正式に王族の血を引いていると認められて、公爵位を賜った。
初代フィッツロイ公爵の誕生だ、家紋は苺の葉の波打った蔦は庶子の印、それに右を向いたカラスはモーティ伯家の分家である、従順な臣下を表していて、エドモンド・フィッツロイ公爵となったのだ。
それ以降、フィッツロイ公爵家は何度も同じように王家の血を受けた者をその内へと取り込んできた。
愚王の血を引く子が次の愚王になるのを防ぐ為の保管庫として。
その結果、王領をどんどん相続していって、元のモーティ伯爵領と併せて、アルビオン王国の北側1/3はフィッツロイ公爵家の領地となった。
アニエス王妃がフルーレザン王国から嫁いで来る前に、当時のリチャード王太子の子を孕んだヘレン様をフィッツロイ公爵家の次期公爵夫人として受け入れるのは、我が家では何の不思議も無い、当然のこと、その為の家なのだから。
ヘレン様が亡くなって、その生家シャバン伯爵家から従姉妹である母ジェーンがまた嫁いできた、その身に兄のジョージを孕んで。父は今度も当然のように受け入れた、それがこの国に必要であるから。
姉ルシンダと兄ジョージは、ペンデルトン王家が公然と認める王の庶子であり、当然兄はアニエス王妃が生んだエドワード王子が諸事情で王位を継げない時のスペアであることを求められる。
逆に、王家には王子一人きりで王女は当然居ないから、必然的にルシンダは公然の秘密として王女としての期待を背負わされ、一部にその存在を酷く疎まれてきた。姉兄たちは敵国フルーレザンを牽制する為に生まれてきたのだから。
俺と姉は8つ、兄とは6つ離れていて、初めて二人に会ったのは俺が3つの時の公爵領の邸でだった。
姉兄は、公爵領の中で、祖父母の公爵夫妻の庇護の下大切に育てられていて、姉は王妃、兄は国王となる未来があるため、領地へと王宮から遣わされた教育係が幼い時より厳しく帝王学を施していた。
俺は、兄が王となれば公爵となるので、王都で公爵家当主としての教育を受けていた。
ただ、順当に行けば次代の王は唯一の王子エドワード殿下で、兄はフィッツロイ公爵家を継ぐ。
兄の身分が決まらなければ俺も決まらない、そんな不安定な中で俺たちは、姉もふくめた俺たち兄弟は成長することになったんだ。
初めて会った時、姉は11になる前の、まだ少女であるはずなのに、既に完成された美貌でそこに居た。
白金の髪に薄青の瞳、白い小さな顔が華奢な体についていて、完璧に整った恐ろしいほどの美しさだと目を離せなかった。
しかも性格は穏やかで朗らか、その上気さくで、邸の使用人たち、侍女侍従だけでなく、メイドも庭師も、荷運びでやって来た商人にも会えば声をかけて話し込んだりしていた。
王都の公爵邸では見たことの無いそんな状況を、幼い俺はひどく驚いた。
年の離れた突然現れた弟の俺にも、毎日忙しい教育の時間をぬって会いに来ては庭で追いかけっこやかくれんぼをして遊んでくれたり、寝かしつけに自ら本の読み聞かせを毎晩してくれたりと、世話をしてくれた。
兄は姉と同じ色の髪と目をして、とてもよく似た顔をしているのに、両親と同じ貴族らしい冷たさと鷹揚さを兼ね揃えていて、一定の距離感を保って俺を物珍しそうに見ていたのとは対照的だった。
翌年、二人は王都へとやって来て一緒に暮らし始めたが、今度は王宮に通い教育を受けに行っていたので、とても忙しそうだった。
それでも姉は、週に何度かは夜の読み聞かせは続けてくれて、その晩は嬉しくて眠らないように気を張って抵抗していたんだが、姉の声で本を読み紡がれるとあっという間に寝てしまって、翌朝悔しい思いをして起きたものだ。
「アーチー、君、前から思っていたけど重度のシスコンだね。それは度を越すと病気となるから酷いようなら精神科への受診を薦めるよ、必要なら紹介状を書くが」
アーチーの話の腰を折り、なんとも言えない困ったような顔でマットが声をかけた。
「病気扱いするな、普通に姉を慕う弟の気持ちだ。実際には再従兄弟だしな、それを病気扱いとは失敬だぞドクターマット。まあ、兎に角結論を言えば、姉は幼い時から天使か女神かと言う程の人物で、幽閉されていた王宮内でさえ、辛い姿も悲しい顔も見せず朗らかに過ごしていたんだ。
その姉が、声を荒げて俺やジュリアを叱りつけて退出を命じ、メイドにキツく命令した姿なんて初めて、あの日初めて見た光景だ。ドクターが帰らなかった翌日に見た姉の姿が未だに信じられない」
アーチーが口をへの字に歪めて、忌々しげな目を向けて言った。
「つまり、あんた、本当に愛と情熱の国の男かってことだよ!姉が、あんな感情的に泣いて怒って人前で抱きつくなんて!俺には信じられないことの連続だったよ。姉の気持ちがわかっているのなら、あんたのすることは自己犠牲じゃないし、話し合う相手は俺じゃない。話の中身は解毒だけじゃなくて、もっと他にもあるだろうってことだ」
そう言い捨てて、席を立ち振り返らずに部屋から立ち去ったのだった。
「簡単に言ってくれるなよ、思いの外、夢見がちか。身分差を越えた真実の愛なんて小説でも有るまいに。小説でさえ、『ロマーナの両片想い』じゃお互い無理と諦めていたじゃないか」
マットは頭を抱えて踞るのだった。




