◆第二部 四章1『頬白のなくなったあと』
※カイル視点――
この街を出なければならない──
その決意は、灯台の夜に出会ったバラッドの言葉によって、確かな形を取った。
『テオブルグの軍が、動き出した』
あの一言が、耳に棲みついて離れない。
だが、心のどこかでは、とうに俺達二人、気づいていたのかもしれない。
この仮初めの生活が、いつまでも続くはずがないことに。
港へ向かう道すがら、馴染みの石畳を踏みしめながら、潮風と荷役の声を耳に受けた。
それらは今日も変わらずにそこにあるのに、俺の中には別れの匂いが満ちていた。
――今日が、最後だ。
顔を上げる。
うつむいたまま、この街と別れたくはなかった。
「おう、カイン。今日は休みじゃなかったか?」
作業員たちが声をかけてくる。偽名で呼ばれても、胸の奥がわずかに揺れる。
親方は、無言でこちらを見るだけだった。それで十分だ。
「……親方、急な話で申し訳ない。急遽二人、街を出ることになった」
深く頭を下げると、親方はただ口の端をわずかに上げて言った。
「そうか。お前さんがいてくれたら、俺は楽ができたんだがな」
「……もし、この急な話がなければ、正式に働かせてもらっていたと思う」
親方の目が一瞬鋭くなる。
だが俺の言葉を噛みしめるように、親方は静かに目を閉じた。
「お前が何者でも構わん。ただ、無茶だけはするな」
俺は無言のまま、頷く事しか出来なかった。
去り際、親方は木箱の隙間から干し肉の包みを一つ取り出し、俺に投げる。
「荷が軽いと、風に流されるぞ。
持っていけ、餞別だ」
その背中はもう、作業に戻っていた。
◇ ◇ ◇
街の裏通りを抜け、小さな古井戸で水を口に含む。
潮と縄の匂い、油と魚の残り香。昨日まで気にも留めなかった生活の匂いが、今日はやけに懐かしかった。
本物ではない生活だったはずなのに、夕方の港、荷を運ぶ感触、人と交わした言葉。それらすべてが、指先に残っている。
角を曲がると、リアナがいた。
言葉は交わさない。ただ、互いの存在を確かめ、静かに家路を共にする。
部屋に戻ると、ほぼ荷造りは終わっている。
リアナは壁際に立ち、俺の荷袋の隣には、彼女の布包みが寄り添う様に置かれている。
「……この街を、出るってことでいいんだな」
「うん」
たった一言が、背中を押す。
「行こう」
俺たちは無言で扉へと向かう。最後に一度だけ、室内を振り返った。
火は落ち、器も布も片づいているのに『誰かが暮らしていた』空気がそこにあった。
ふと見上げると、二羽のホオジロがこの家の庇から、飛び立っていく。
潮風はさっきよりも強くなっていた。
◇ ◇ ◇
岩場を抜けた抜け道の先、灯台の麓で、こちらに背を向けたまま、一人佇んだバラッド。
「やはり来るものだと思っていた」
俺とリアナは並んで立つだけだった。
言葉は、それで足りていた。
灯台の麓、扉を閉める音と重なるように、バラッドの声が届いた。
「村人への挨拶は済んだのか?」
「……ああ、問題ない」
「そうか。私も済ませた。
最後に火を封じようと思う。付き合ってくれないか」
階段を登る彼の後を追って、灯台の最上部へと向かう。
石の階段を踏みしめるたび、古びた灯台が微かに軋む。
火の周囲には、煤にまみれた風除け。その中でバラッドは火を封じていく。
「……不思議なものだな。マーガの星の民、三人がこうして並んでいるとは」
その言葉に、俺は静かに応える。
「バラッド。先に言っておくが、俺たちはお前を完全には信用していない」
リアナも、黙ってそれに同意した。
「だが、お前の方が俺たちより帝国の動きに詳しいのも事実だ。
情報次第では……お前と行動を共にしない選択もある」
バラッドは静かに肩をすくめた。
「昨日今日出会った、本来なら『殺し合う』はずの面々だ。
その言葉も仕方がない事だ。だが……少し話をしないか?」
その目には、別れと生に慣れた者の色があった。
◇ ◇ ◇
階下に戻ったバラッドは、外に出ると、海ではなく内陸の方角を見ていた。
「我が国は、少し他とは毛色が違う。言ってみれば、部族社会だ」
そう言って、遠くの山並みを指差す。
「中央の命令が絶対という国ではない。それぞれの部族が一定の自治を持ち、それらの集まりが国と呼ばれている」
バラッドは続ける。
「まあ、それ故に私もこうして比較的自由に行動できている。
……だが、緩い組織というのは、同時に脆い」
少し苦い笑みを浮かべた。
「今回のマーガの戦いにおいて、テオブルグ帝国がこの国のどこかの港を狙うのは必然だ。特にあの国にとって、不凍港は魅力的だろう」
彼の視線が鋭くなる。
「今の帝国の動きを見れば、それはもはや明らかだ。
小競り合いではない。明確な影響力の拡大、拠点の掌握を狙っている」
俺は反射的にリアナの肩を見た。
彼女も気づいている。空気が変わったことを。
「それに……我が国は、情報管理も甘い。
おそらく私の存在も、恐らく帝国には筒抜けだろう」
その言葉に、身体がわずかに強張るのを感じた。
「そして君たちも同じだ。帝国から逃れるなら、こういった緩い国に潜むのは理にかなっている。だが、同時に──」
バラッドは淡く笑いながら言う。
「帝国の目もまた、簡単に入り込んでくる」
その笑みに油断はなかった。
彼自身がそれを最もよく知っているというような目だった。
◇ ◇ ◇
「だからこそ──共に動いてほしい。
私には、探している者がいる」
バラッドは外套を払う。
「その者の名はアカジャ・ウブロングロ。
――私の家族、そして妹を殺した者。ドージ・マーガの星の民だ」
その名が、静かに灯台の石壁に染み込んでいく。
「私はマーガの戦いに最後まで一人、生き残れるとは思っていない。
だが、この自分の星が刈られる前に……あの女だけは私の手で裁たねばならん。
しかし、こういう身ではな。人探しもままならぬ」
彼の声には怒りと悲しみが宿っていた。
「そのために、『ヴィエル・マーガの星』を探している。
あの星の持ち主に祈りを捧げ、因果を繋げば──星は、あの女を俺の前に導くだろう」
鈴の音がひとつ、風の中に揺れた。
まだ答えを出していなかったが、胸の中では既に、何かが静かに動き出していた。




