第二部 三章4『音だけが君を斬る』
※エリシア・フィールズ視点――ケンドリア王国構外
火壁が吹き飛び、熱風が消えた直後、カレン姉さんと私、その二人の中央に、帝国の剣士――小柄な少年が静かに立っていた。
目の前の光景を受け止めきれず、私は無意識に息を呑んでいた。
熱く荒い呼吸が、油と火薬のにおいを肺に運ぶ。
制服の裾が泥にまみれ、爪先は冷たく湿っている。
指の先までびりびりと震えているのに、不思議と頭だけは妙に澄んでいる。
ほんの五歩分といったところか。
剣士と私たち、三人の間に生まれる間合い。
その距離が、これまでの人生で一番広く、そして近いもののようにも感じられる。
カレン姉さんの横顔を盗み見た。
その表情は凛として、瞳の奥にはわずかな恐れと、それ以上の強い決意があった。
私は自分の鼓動がうるさいほど大きく響くのを感じていた。
それは恐怖だけじゃない。全身の血が、火を孕むように熱く巡っていく。
これが、教官が言っていた『シリアスモード』なのかもしれない。
マーガの星の民同士の戦いで、極限まで追い詰められたとき――
自分でも抑えきれないほどの覚醒と高揚。
それが『シリアスモード』だ、と訓練で何度も聞かされてきた、その状態。
私は、ゆっくりと腰の火薬袋に手を伸ばす。
特製の小瓶。訓練でしか使わなかった、特殊な炎の火種。
後退しながら、小瓶を宙に放る。
闇色の空を切り裂いて、小瓶が蒼い軌跡を描く。
火打石を強く擦り、指先に力を込める。
火花が弾け、小瓶の油が鮮やかな蒼い炎を生んだ。
この色は、私が本気になった合図。
カレン姉さんの動きが、その瞬間に変わる。迷いのない走り。
敵――帝国の剣士を中心に、円を描くように素早く回り始めた。
泥に濡れた制服の裾が風をはらむ。
カレン姉さんの背中が、私に合図を送り続けている。
『シリアスモードの時は、エリシアとカレン共に完全な同調は難しい。
分業に切り替えて動け』
教官の声が頭の奥で響く。
私は、カレン姉さんが火薬や油を仕込んでいく場所を一つ一つ記憶していく。
彼女の動線が、戦場に目に見えない印を残していく。
剣士は、まったく動かない。短い青髪、灰色の目。
人間なのかどうかも分からないほど、無表情にこちらと自分の掌を交互にを見つめていた。
時折、泥に弾ける火の粉が影を揺らす。
火種を仕込む数が増えるにつれ、火を放つ準備が着々と進むにつれ、敵の存在感が、空気を鋭く緊張させていた。
火種の仕込みが終わる合図――
カレン姉さんと私の目が合う。視線だけで十分だった。
私は深く息を吸い込み、両手袋の火打石を弾き、一気に火花を走らせる。
「今だ」
小さく、心の中で呟く。
手を一気に打ち下ろし、火を放つ。
青い炎が、螺旋を描きながら地面を這い、仕込まれた火薬と油が一つずつ点火し、その流れがまるで、二匹の蒼い龍の様に、少年を取り囲み、襲い掛かる。
その上昇気流に身を任せる様に、私は宙に舞い、更に広く火を放つ。
放たれた火は、その渦を更に速度を後押しする様に、この周囲一帯に蒼い光を放つ。戦場に広がる蒼の渦。
私はその美しさに一瞬だけ見惚れてしまったが、でもすぐに現実へと引き戻される。炎の輪の中心、剣士は動かない。ただ静かに、その場に立ち尽くしている。
その火は徐々にその少年へ近づくように、襲い掛かる間を計る様に距離を詰めて行く。
「襲い掛かれ! 私の炎!」
その蒼い炎は一気に上空へ上り、そのまま落下するように、少年を飲み込む様に覆いかぶさった。
少年は自分の身体を守る様に、伏せる様に、その火の隙間を転げる様に走り抜ける。
しかし、私は見逃さなかった。
目出しマスクの隙間から覗く灰色の瞳、その目元の皮膚に、確かに赤い火傷。
やった、と小さな喜びが胸に灯る。
「……撤退しなきゃ」
自分の中に、はっきりと撤退の声が浮かぶ。
今の私なら、カレン姉さんを守りながらしんがりを務められる。
シリアスモードのこの感覚なら、きっと二人で逃げ切れるはずだ。
心の中で決意し、カレン姉さんに目配せを送る。
幼い頃から何度もやった、小さな合図。カレン姉さんは、すぐに理解してくれる。
先に行って。
唇を動かす間もない。
全てが、視線と気配だけで通じ合う。
カチン――
――その視線の交差の一瞬後。
一つの金属音が響き渡る。
「あ……」
カレン姉さんの胸元に、赤い線が浮かび、その線が幅を広げていく。
制服の青が、みるみるうちに血で染まっていくのを、何とか抑えようと震える手を当てるカレン姉さん。
だが、その抑える手の指の隙間をすり抜ける……大量の血。
明らかに敵の剣の間合いの外、だった筈。
何で、何時の間に、カレン姉さんに、剣を、何で?
気が付くとあの帝国の少年は、さっきまで居た位置ではなく……別の所に剣を収めたまま、私達二人に背を向けたまま、目元を抑えている。
あの金属音と同時に、一瞬で間合いを詰め、斬り、そして剣を収めた、とでも?
「いや、何で……何で」
「カレン! 何で、何でぇぇぇぇぇ!」
空気が一瞬で凍りつく。
私は何が起こったのか分からず、ただ、その場に立ち尽くし叫ぶ事しか出来ない。
息が漏れる。カレン姉さんが、苦しげな表情で私を振り返り、優し気な声を零す。
「だいじょうぶ……エリシア……」
掠れた声。
その顔は、痛みと驚きと、それでも私を安心させようとする微笑みで歪んでいる。
私は体が硬直し、ただ頭の中が真っ白になっていた。
「カレン!」
火の粉と鉄の匂い、泥の冷たさ。全てが渦巻き、世界が崩れていく。
カレン姉さんが膝をつき、私に手を伸ばす。
その指先が、空をつかむ。私は、全身の力を振り絞って駆け寄ろうとする。
けれど、遠い。届かない。
「やだ……姉さん、やだよ……っ!」
涙が止まらない。
泥に膝をつき、血で濡れた手を何度も伸ばす。
周囲の炎と煙が、二人を隔てる。敵の剣士は動かない。
無表情のまま、ただ静かにその場に立ち尽くしている。
「カレン!!」
絶叫だけが、焼けた空気に溶けていった。
火の粉、泥、血、絶望。すべてが私たちの上に降り積もる。
世界は音も色も失い、私の叫びだけが残った。




