◆第二部 二章1『供物に微笑みを』
※エディオル・グレイフ視点
『この世界で、美しいものを一つだけ挙げろ』と問われたなら。
僕は――迷いなくこう答えるだろう。
それはあの日、差し出されたあの小さなハンカチ。
名前を聞けなかった少女の声なきままの所作。それがすべてだった。
僕の人生で、初めて触れた慈しみ。
それが僕の中で唯一、汚されずに残ったものだった。
けれどそんな話をしたって、誰も信じない。
僕は、そういう役回りではなかったから。
昔の僕は小さくて無口で、何も持たない子ども。
このトルネア国に於いてリヴェローナに隣接した辺境とはいえ、一応貴族の名を与えられて生まれてきたはずなのに剣は持てず、文字の才も並程度。
教練場の隅で黙り込む僕を皆は都合よく見下した。
そうして僕は、殴られ、笑われ、蹴られた。
その日の昼、食堂で顔面にかけられたのは熱い煮込み。
制服に染み込んだ脂の匂いが、ずっと取れなくて吐き気がした。
でも誰も止めず、遠巻きに僕を眺めるだけ。
皆、口を閉ざしてただ目をそらすだけ。
僕は声も涙も出さず、ただ静かに濡れたまま帰宅の途についたとある日。
……そうして出会ったのだ。
路地裏の角で彼女に。
色とりどりの布を身にまとい、異国の風をはらんだあの少女。
彼女は僕に何も言わず、一枚のハンカチを差し出してくれた。
その手は綺麗だった。
指先は少しだけ震えていたのに。
けれど僕の袖を汚れたままにしないために――ただそれだけのため。
僕はなにも言えなかった。
受け取った瞬間には、もう彼女は背を向けて走り去った。
会話も名前の交換もないままに。
けれどそれだけで僕の世界に色が走りだしたんだ。
この世界には汚れていないものが、まだ在る。
僕の中で、それはただ奇跡と呼べるものだった。
◇ ◇ ◇
僕がマーガの星を得たのは、その少し後。
十二歳。洗礼の儀で選ばれた僕に与えられたのは――『ナロー・マーガの星』
視認した他者の恩恵をコピーできる、異端の星。
ただし一生に二度、二つまで。それ以上は望めない。
星局の者たちはその星の名を聞くと騒然とし、僕の肩を抱き、喜びの声を天に向かって叫ぶ。
「どの星を見せるか」
「いつ模倣させるか」
国家の命運を賭けた議論の中で、僕は椅子に座ったまま黙って耳を澄ませていた。
自分が話題になる。誰かが僕の星を巡って言い争う。
それだけで――ようやく僕も『選ばれた者』の側に立てた気がした。
やっとだ。そう思った。
僕の人生もようやく始まったのだ、と。
◇ ◇ ◇
マーガの星の模倣先は、なかなか決まらない。
それは当然だ。僕の星は貴重すぎて下手な運用は許されない。
星局の者たちは慎重すぎるほど慎重に、他の国の星の名の情報を集める。
だけど何の星も、この身に落とさぬまま十五歳になったある日――。
周辺国の外交資料の中に、見覚えのある名を目にする。
姿絵の中の少女。名は『リアナ・フィーネス』
保有する星は『セーネ・マーガの星』
その星は己の体液が強力な毒となるだけの、いわば忌避される弱星。
けれど僕にはその星が、その毒こそが価値に思えた。
姿絵の彼女は……確かにあのときの少女。
僕はそれを見た瞬間、震えながら立ち上がり、こう宣言する。
この星を、僕は視なければならない。触れなければならない。
その毒を、この少女を――この目に焼きつけて取り込まなければならない。
毒を内包すれば、きっと僕は彼女と並び立てる。
誰も触れられない彼女に世界で唯一、僕だけが寄り添える。
僕だけが、彼女のただ一人の番になれる。
その想いは恋慕ではなかった。
崇拝でもなかった。それは――
世界の中で唯一、汚されずに残された僕とこのリアナとの約束なんだ。
◇ ◇ ◇
僕のこの言葉に、星局は無言だった。
彼女の星は決して『勝てる星』ではない。
生存の道を選ぶには不確定すぎる。
だが、資料に記された一文が僕の胸を貫いた。
『この少女は、外交上の贈答品として、我がトルネア王国への献上が検討されている』
――彼女が僕に贈られる。
世界が、正しく編まれた証。
僕に与えられるべき供物が、ようやく僕の元へ来るのだと。そう思った。
僕が、選ばれた者である証明として。
あの時、煮込みをかぶって歩いた僕に救いを差し出したあの手。
今、僕の前にきちんと差し出される。
世界が、歪まずに回るなら――それが、正しい。
それが愛の形なのだと、僕は信じていた。
◇ ◇ ◇
リアナはまだ来ない。けれど僕の中の星がずっとざわめいている。
きっともうすぐだ。
マーガの星同士は、引かれ合う。
きっと僕の星が、ここへ彼女を導いてくれる。
この執着の形を、星という神が選んだのなら。
僕はこの世界にとって、正しい存在であると証明してみせる。
――僕だけが、彼女の毒を愛しいと思えるのだから。




