第二部一章5『火の影、引かれ合う者たち』
※カイル視点――港、早朝。
朝の港は、昨日と変わらず冷たい潮風が吹いていた。
石畳の上を、今日もまた重たい足取りで歩きながら、俺はふと天を仰ぎ見る。
空にはまだ雲が残っていたが、東の端からはうっすらと光が覗いている。
働くための空。
何も語らず、ただ広がるその景色が、今は少しだけ心を落ち着かせてくれる。
日雇い仕事の朝は、思考を削るにはちょうどいい。
肩に食い込む麻袋の重み。潮風に混じる魚と油の匂い。
誰かの怒鳴り声と、遠くで軋む荷車の音。
それらが一つに混ざると、俺の頭の中の雑音が洗い流されていく気がする。
俺はここでは、動くことに徹する。
余計なことは考えない。周囲に合わせて、ただ必要なものを運ぶ。
それだけの作業でも身体を動かせば、少しだけ心が落ち着く。
「カイン! ちょっとこっち頼む!」
鋭く名を呼ばれ、俺は振り返る。
呼ばれた名は偽名。
この街では俺はカイン、リアナはリアンと名乗っている。
偽りの名前にも慣れてはきたが――
やっぱり、リアナはリアナがいちばん可愛い。
「おい、聞いているか!? カイン!」
「ああすまない、親方。何用だ?
リアンの可愛さについてか?」
「その件について喋らせると、お前は面倒だから二度と喋るな」
そう言いながら、親方は木箱の上に図面を広げた。
仕事の段取りについて説明しているらしいが、俺にとってはもはや聞き流しの技術も日雇いのうちだ。
「お前、真面目にやるときはやるからいいが……リアンの話になると急に語彙が増えるんだよ、気味が悪いわ」
「可愛いものは語る価値がある、それに普段は控えているほうだ」
「……よし判った、その話はここで終わりだ」
親方は頭を抱えつつも、俺の肩に荷札集をひとつ押し付けた。
「はいはい次は西倉庫。積荷三段、人数二人でやるぞ。
口より腕使え、恋愛詩人」
「了解だ。ちなみに親方、西は左だな?」
「おーそうだな。流石カインは凄ぇなぁ。
……まさか海の上を歩く提案をされるとは恐れ入った」
「いや、流石にそれは無理だ。
だが、今日の俺は方角に強いぞ」
「そうかい。じゃあ頼むから是非とも今は、海と反対方向のあの倉庫へ歩いてくれ」
「肝に銘じる」
親方は肩をすくめながら図面を丸め、木箱の上から立ち上がった。
ため息交じりのやり取りのなかにも、どこか安心できる空気。
こうして言葉を交わすのも、ほんの少しだけ“地に足がついた暮らし”という感じがして悪くない。そんな事を一人、想いながら俺は静かに海の方へ歩――
「だから何で一歩目からお前は間違えるんだ! カイン!」
◇ ◇ ◇
※カイル視点――港、夕刻。
夕暮れどき、今日の仕事も無事に終わり、日払い賃金を懐に帰り支度をしていると、親方がふと俺を呼び止めた。
「なあカイン。
お前日雇いじゃなく、正式にこの港で働かねぇか?」
一瞬、言葉が喉の奥で詰まる。
悪くない提案だと思う。
生活も少し安定するだろうし、何よりこの場所で地続きの明日があるというのは、ありがたいことだ。
だが。
「……少しだけ、待ってくれ」
「そうか、まぁ無理にとは言わん」
親方は軽く頷くと、それ以上は何も聞かずに背を向けた。
ありがたい人だと思う。けれど、俺とリアナがこの場所に根を張っていいかということになると――話は別だ。
俺の中には、まだ『これ』がいる。
リアナの中にも、同じ様に。
マーガの星。その恩恵と呪い。
『星同士は引かれ合う』
何度も言われたこの言葉。
だが、それが救いになるのか、それとも破滅になるのか誰にもわからない。
そしてもう一つ。
より根深く、重たく、背後に貼りついて離れない言葉がある。
『マーガの星同士は、出会えば殺し合う運命にある』
その教えはまるで運命の警鐘のように、俺たちの未来を静かに脅かし続けている。
今のリアナと俺には、殺意なんてこれっぽっちもない。
けれどいつか星が、俺たちの意思を裏切ることがあるのなら――
その時、自分がどうなるのか、どうすべきなのか……まだ答えは出ていない。
◇ ◇ ◇
※カイル視点――自宅前、夕刻。
考えごとをしていたせいか、気がつけば家の前に立っていた。
玄関のノブに手をかけようとした瞬間、背後に微かな気配。
咄嗟に振り返り、そのまま相手の視線を捕らえようとする――
――が、そこに立っていたのは全身を覆う黒衣に加え、顔を覆うように、フードを深く被っていて顔は見えず、視線の届かない黒づくめの男。
男はすっと無言で右手を上げる。
その右手には、小さなガラス製の小瓶。
「……お前が生きていると、リアナと接触が難しい」
見知らぬ黒ずくめの男は、そう言うや否や、その瓶を俺の足元へ投げつけた。
パリン――
破裂音と同時に、今度はその掲げた手から指を鳴らす音が響く。
その指先は一瞬、光を放ち、その光の根元から何か……まるで火打ちの火花の様な、紅の線を走らせる。
その瞬間、足元から炎が舞い上がった。
「うおっ!」
思わずその火を避ける様に、俺は視線をあの深いフードへ向けながら横へ飛び避ける。
俺の叫び声が響いた直後、自宅の扉が開かれた。
「カイル!?」
リアナの声だ。
「リアナ! 駄目だ家の中に居るんだ!」
そんな俺の声を他所に、リアナが自宅から出て来たその瞬間、黒づくめの男はひらりと身を翻し、背を向ける。
その動きはまるで、リアナを、そして俺を見ないように。
あえて、見ないように振る舞うかのように。
そんな振る舞いに、どこか歪な慎重さを感じる。
「チッ、火傷には至らなかったか。
リアナ……君の姿を、この瞳に焼き付けるのは、少し時を改めよう。
俺しか君を幸せには出来ないのだからな、リアナ」
その言葉を最後に、男の姿は町の夕闇に溶けていった。
煙の匂いだけが、静かに残った。




