第二部一章3『見るがいい、この可愛いスープ』
※リアナ視点――港町、自宅。
静寂に包まれた朝の台所、窓から差し込む薄明かり。
まだ夜の名残を帯びている空を静かに、白を滲ませる。
私はスープ鍋の中を、木の匙で私はそっとかき混ぜる。
湯気がふわりと立ち上り、鼻先にほのかな塩気が届いた。
カイルはまだ眠っている。
彼は朝が苦手だから、私はいつも先に起きて、そっと台所に立つ。
まあ、私たちは別々の部屋で寝ているから、私一人が早起きした所で滅多な事じゃ、彼の眠りを妨げる事は殆ど無い。
そしてそれは……私が望んだこと。
理由はひとつ。私が持つ星――『セーネ・マーガの星』
私の体液は、すべてが毒。血も、汗も、唾液も、涙さえも。
それが他人の皮膚、特に粘膜に触れれば激しい痛みを与え、時には死に至らせる。
だから、私は触れられない。触れるのが……怖い。
……特に、カイルには。
だから私は毎日寝具や衣類を消毒し、誰にも触れさせないようにしている。
それでも、どこかで何かしら、接触してしまうかもしれないという不安は、常に心の奥に潜んでいる。
(……こんなんじゃ、一緒に暮らしてるって言えないよね)
そんな思いが胸を過ぎった瞬間――
「……っ!」
まな板の上で、野菜を切る包丁の刃先が滑り、人差し指の側面を少し切る。
人差し指の先を浅く傷つけてしまい、赤いしずくがぽたりとまな板に落ちた。
「……あ」
その一滴が、すべてを変える。
かつて祖国リヴェローナで、星局の担当に言われた言葉が、脳裏によみがえる。
『君の体液の中でも、もっとも強力なのは血液だ』
もしも……この血が、何かの拍子にスープに混じっていたら……?
それをカイルが口にしたら――
(だめ……絶対に、だめ)
私はすぐに薪を両側に広げ、火を静かに和らげ鍋の蓋を閉じる。
このスープはもう、処分するしかない。
せめて肉体労働に勤しむカイルには、安全な朝食を食べさせてあげないと。
そう考えると、私は怪我をした指に、そっと包帯を巻き、家を出る。
◇ ◇ ◇
※リアナ視点――朝の商店街。
この街は港町故に、朝が基本的に早い。
街はまだ、夜明け前の匂いをまとっている筈なのに、既にパン屋の店先には焼きたてのクロワッサンが並び、惣菜屋では煮豆や焼き魚が湯気を立てていた。
私は必要なものを、買い揃えて紙袋に詰め、ひと息つく。
(……これで大丈夫。きっと、カイルも喜んでくれる)
そう思った瞬間、背中にぴたりと冷たい気配が触れた。
――視線。
振り返らず、無視する。
けれど、体が反応してしまうほどに、何か不思議な嫌悪感が背中を走る。
私は足を速める。今はとにかく、少しでも早く帰ることだけを考えて。
◇ ◇ ◇
※路地裏――
「……おい見たか? あの女。間違いねぇ昨日の女だ」
「何か変な感じで海に落ちた所を無視されて、服はびしょ濡れ、周りには笑われて……あのままってわけにはいかねぇだろ」
路地裏に立つのは、昨日カイルとリアナにちょっかいをかけた、あの二人組。
怒りと悔しさに目を血走らせながら、どこか憐れな執念をにじませている。
「へっ、何ならさらうか? あの女」
そんな言葉を交わした瞬間、その二人組の背後から、何者かの低い声が放たれる。
「――あの女をさらう、とお前らは言ったのか?」
その声は凍るように低く、まだ朝日の届かない暗い路地裏の闇から響き渡る。
振り返ると、黒いフードを深く被った男が、闇の中に一人佇んで居る。
顔は見えない。だが、ただそこに立つだけで空気が変わる。
「……なんだ、てめぇは……?」
黒服の男は答えず、胸から小瓶を取り出し、無言で二人の足元に投げつける。
パリン。
瓶が砕けた瞬間、その黒いフードの男は、右手の指を一つ鳴らし、そのまま右の掌を地面に叩きつける。
その掌を叩きつけるパンという音と共に、地面が赤い光を放ち、それと同時に今度は二人の足元にぶわりと火が立ち上がる。
「うおっ、熱っつ……!」
「ちっ、なんだよこれ……うわ、裾が焦げたじゃねぇか!」
火はすぐに風に紛れ、消えた。
やけども、足の甲に赤みを帯びる程度の、火傷。
「ふざけんなよ、脅しのつもりか? チッ、もう逃げてやがる」
「どこかの曲芸師かもな、ったく。少し足の脛の所火傷しちまった」
そのまま二人は周囲を見渡し、先程の黒づくめの男を探す。
だが既に姿はなく、そのまま探す事を諦め、黒づくめの男が居た方向から視線を外し、再度あの女を追おうと身体を振り向きかけた時、二人組の男は同時に、脂汗が吹きだし、苦悶の表情を浮かべる。
「っぐあああっ!? あ、足、足が……何だ、ががああああいてえっ!!」
「な、なんで!? 徐々に……いた、痛いッ痛いッ痛い痛いぃぃぃ!」
火はもうない。火傷も大した事はない。
けれど先程負った、ほんの少しの火傷から、這い上がり全身を嘗め尽くすような異常な痛みが、まるで神経を焼きつくかのように広がっていく。
「ぎゃあああっっ!! うわああああああっっっ!!」
「くそっ、痛ぇっ……なにこれ……!?」
その叫び声に周囲の通行人が集まり始める。悲鳴が飛び交い騒然となる路地。
だが、その中心にいたはずの黒服の姿は、もうどこにもなかった。
まるで最初から存在していなかったかのように。
◇ ◇ ◇
※リアナ視点――自宅。
「ただいま……」
紙袋を抱えたまま、私は扉を開けた。
キッチンからは、スープの香りが漂ってくる。
(……あれ?)
家を出る前、鍋は火から下ろし、蓋をしておいたはず――
「……え、まさか」
私は恐る恐る、急ぎ台所を覗き込んだ。
カイルが、スプーンをくわえたまま鍋を覗き込んでいた。
「――あっ!? それ食べたの!?」
「うむ。とても優しい味だ。君の料理には、何か……慈しみが宿っている気がする」
「やだっ、やめて! お願い、今すぐ吐いて!!」
「何故だ、君の手作りを吐くなど、そんな事は出来ない。
見るがいい、このスープの可愛さ、これを吐くなど俺には出来ない」
「料理中に指切っちゃったの! もしかしたら私の毒が入ってい――」
「何だと! いかん直ぐに消毒を――待て、その前に唾液で消毒を」
カイルは私の指を取り、口に咥えようとした。
「だっだだだダメだってば!」
私は叫びながら慌てて手を引いた。
「……カイル、本当に身体は大丈夫? お願いだから、何か少しでもあったら教えて。私のせいで、死んでほしくないの」
「リアナ、しかしせっかく君の作った料理が……ではこうしよう。
見ろ、この野菜の切り口。このスープの均整と色彩まるで、君のように可愛い」
「……もう! ちゃんと聞いてよぅ!」
怒鳴りたいのに、頬が熱くなる。
怒ってるのか、照れてるのか、自分でもよくわからない。
それでも、彼が無事で笑っていることが――私には何より救いだった。
……ただ、スープが可愛いって言葉の意味だけは未だに解らない。




