第九章5 『見届ける者、剣の影にて』
※リヒト・フリード視点――グレイジア諸侯領、森林。
夜の森は、異様なほどに静まり返っていた。
虫の羽音も、鳥の囁きもまるで意図的に消されたかのように。
風だけが、遠慮がちに枝葉をなでて通り過ぎていく。
その音も、どこか遠く儚い夢のように。
さっきまで、ここには命があった。
脈動する熱がここにあったはずなのに、今はもうその痕跡さえ冷たい夜気に飲み込まれ、黒い静寂の中へ溶けていた。
僕はその中心に立っている。
足元には、斬られた、いや僕が斬った男の亡骸。
――スポ・マーガの星の民。
名前は思い出せない。
きっとどこかで聞いたはずだが、もう記憶の表層にすら浮かんでこない。
上半身と下半身が、わずかに角度をずらし『これ』は地面に横たわっている。
流れ出した血は既に温度を失い、土の奥へと染みていく。
その表情は恐怖のまま。
戦いの最後に刻まれた、その最後の顔。
月の光が雲間から差し込み、かすかに彼の頬を照らしていた。
まるで死を見届ける審判のように。
夜空から降りてきた光が、その最期にひとときの安らぎを与えている気がした。
ゆっくりと僕は剣を納める。
それが一人の命を奪った凶器であるという実感は、不思議と湧いてこない。
僕はただ、静かに見下ろしていた。
向こうのほうで、一人の帝国兵が周囲の部下に静かに低い声を放つ。
「……情報を漏らすな。周辺の関係者も始末しろ。
これに関わるマーガの星の民がいた痕跡を、出来るだけ消去しろ」
冷たい命令が響く。
言葉のトーンに感情はなく、それがこの戦の『正しさ』を象徴しているようにも思えた。
即座に、そして素早く帝国兵たちが動き出す。
グレイジアの兵たちは、理解の及ばぬまま本能的に逃げ出そうとするが――早かった。
剣が閃き、矢が飛び、命が、音を立てて絶たれていく。
深く沈むような叫びが、夜空に消えていく。
樹々が燃え、葉がはぜる。焦げた肉と血の匂いが、鼻を刺す。
その匂いに吐き気すら覚えぬほど、僕の感覚はもう既に麻痺していた。
それでも僕は、目を逸らさずに見ていた。
声を上げる者もいた。だがすぐにその声は断ち切られる。
剣を抜かず、ただ立ちながら眼前で終わっていく連鎖を――見届ける。
「……まだ、心が、揺れている」
誰に告げるでもない独り言が、僕の胸の奥から漏れ出る。
それは、怒りでも悲しみでもない。けれど確かにそこにある説明のつかない何かが。
そんな何かが自分の中の異物のように、冷たく沈殿していた。
「早く、殺さないと……心を」
僕のそんな小さな声。
誰にも届かないように、舌の裏で転がすだけの言葉。
焼け焦げた森の中、帝国兵の一人が振り返り、声をかけてきた。
「撤収するぞ」
僕は頷かなかった。
ただ一度、足元の男――名も知らぬ彼の表情を見つめた。
どれだけ時間が過ぎたか分からない。
ただその恐怖に歪んだ顔を見続けているうちに、胸の奥でざわめいていた揺れは、少しずつ、少しずつ収まっていった。
そう――馴染んでいく。
この手が奪った命の重みが心の奥で沈み、形を失っていく。
やがて、ただの記録として留まるだけになるだろう。
そして、そこに痛みや意味を探そうとすることも、なくなっていく。
彼の顔は、死の間際のまま止まっていた。
僕は一歩、踵を返す。誰とも視線を交わさないまま、夜の闇の中を歩き出す。
月明かりが背中に降り注いでいた。
その光に照らされ、足元の影――剣の影が、まるで命を引きずるように、長く伸びていた。
◇ ◇ ◇
僕の旅はただ続いている。
何も考えず、ひたすらに馬車の振動に身を任せて。
あれ以来、僕はまともに眠った覚えがない。
いや、いつから眠っていないのかすら、もう曖昧だった。
車輪の音が、単調な鼓動のように響いている。
それが時に心地よくもあり、また時に不快なざわめきのようで、それは時折、遠い過去の夢を見ているような錯覚に陥る。
同じ馬車内の、名も知らないテオブルグ帝国兵のひとりが、隣の男に話しかけている。
「なあ、次の国聞いたか? エルストラン王国らしい。
けど、どうも変な噂があるらしいぞ」
「噂って何だ?」
「そのエルストラン国のマーガの星の男と、リヴェローナ神楽郷のマーガの星の女が……一緒に逃げたってよ」
「一緒に逃げた? もしかして星同士で知り合いか?」
「かもな。ま、そんな偶然あるのかって話だけどな」
「はははは! まさかそれが恋人同士だったら、とんでもない奇跡だな!」
笑い声が小さくこだまする。
けれど、僕にはその言葉の意味が、うまく頭に入ってこない。
逃げるとは、何だったか。
誰が誰から、何を求めて?
ぼんやりとした思考が、鈍い霧に包まれていた。
馬車の窓から差し込む月明かりが、どこか眩しい。
その光はあまりにも静かで柔らかく、どこか現実から遠ざけてくれるような気がした。
馬車内の窓辺に額を預けると、うっすらと曇ったガラス越しに夜空の広がりだけが、頼りなく見える。
けれど、空を見上げても――なぜか、僕には星が見えなかった。
◆【デオブルグ帝国】
●リヒト・フリード(ショーネ・マーガの星の民)
所属国:デオブルグ帝国
年齢:16歳前後
身長:162cm
髪の色:青(短髪)
瞳の色:灰色(死んだような光)
星:ショーネ・マーガ
備考:家族を人質にされ、帝国の戦力強化実験の被験者として扱われている。
※ショーネ・マーガ詳細
恩恵内容:“大切な人を目の前で失う”度に、能力・肉体が強化される。
発動条件:“喪失”という極端な感情トリガー




