第九章4『狩る者の呼吸』
※レン・バーラッド視点――グレイジア諸侯領、森林。
葉擦れひとつが命を左右する。
森が静まり返ると、空気そのものが僕に語りかけてくる。
『それでも踏み込むのか』と。
けれどそんな問いに、僕は耳を傾ける余裕などない。
風の通り道を読み、光と影の交差を避け、呼吸のリズムを細かく調整しながら、森と同調していく。
足裏で葉の質感を読み取り、指先に伝わる湿り気から相手の気配と意思を探る。
できるなら殺したくはない。
けれど、理想だけでは生き残れない。
ただ今日の森は――何かが違っている。
鳥のさえずりも獣の気配も、影をひそめている。
風さえ、どこか怯えているような揺れ方をしている。
まるで『何か』の存在に、森全体が沈黙を強いられているようだった。
朽ちた巨木の影に、ひとつの黒い輪郭。
小柄、黒衣、腰には剣。
まるで時の流れから切り離された存在のように、ぴたりと静止している。
まだ僕の星は応えない。そして殺気も敵意もない。
だがそれゆえに――異様さが際立っている。
この人は『ただの人』ではない。
殺す気配は感じないのに、こちらが狩られる未来だけが何故か浮かぶ。
向こうが一歩踏み出すだけで命が終わる。そんな予感が。
手のひらがじっとりと湿る。
喉が乾き、背筋に冷たいものが這い上がってくる。
それでも、視線を逸らさなかった。
僕は狩人だ。
そしてスポ・マーガの星の民でもある。
ここで退けば、自分の中で何かが壊れてしまう。
そんな考えが、僕に『逃げる』という選択肢を失わせていた。
そのとき、森の奥から、誰かの声が響き渡る。
「危なくなったら声を上げろ、小僧!」
テオブルグ帝国兵の声か?
けれど、次の言葉に思考が止まる。
「……いざとなったら、妹か弟を殺して能力を高めろ、いいな?」
聞こえるその言葉の意味がわからなかった。
けれどその言葉が、僕の耳に届いた瞬間、急に世界が軋みを上げる。
風が変わり、空気の密度が一気に変わる。
この辺一帯に『殺意』が流れ込んできた。
気温が数度下がったかのような錯覚。
木々をかすめる風までもが鋭利に感じられる。
僕の狩人としての本能が、弓へと手を導く。
指が矢筒に触れた瞬間、胸の奥で僕のマーガの星が脈を打った。
スポ・マーガの星の恩恵――発動。
いつもなら、そこから世界がゆるやかに動き出す。
思考が冴え、敵の一挙一動がスロー化し、それを見つつ思考できる筈。
――だが今回は違う。
そのスローになった世界の中で、何故か僕の身体が悲鳴を上げだした。
腕が重い。
弓を引こうとするだけで筋肉がきしみ、まるで血管の中を鉛が流れているように、異常な負荷を感じる。
そして脚は重力のまま、土に沈むかのように重くなっていく。
更に、僕の肺が、喉が細く、小さくなったかのように、呼吸さえうまくできない。
視界の中で、黒衣の剣士だけが異様な鮮明さを保っていた。
表情は見えない。けれどその体全体が発する意志が、剣よりも鋭く胸を突き刺してくる。
人や獣と戦えば、そこには必ず意思のやり取りがある。
生きるために闘い、守るために攻撃する。
だがこの少年からは――それが感じられない。
『生きるために殺す』のではなく『殺すことそのもの』が、存在の核になっているかのように。
言うなれば、純度を極限にまで高めた、真水の殺意。
そうか、この僕の身体のこわばり、身体的な負担の理由。
それは、この僕の感じている『恐怖』だ。
その濁りなき、少年から溢れる殺意に触れた瞬間、僕の身体はまるで、己の恐怖に押し潰されるかのように重くなっていった。
自然と僕の口から、こんな言葉が漏れる。
こわい、誰か助けて。
僕の呟いた声は、風に紛れて森の地面へ、溶けた鉛のように溶けていく。
その刹那、少年の身体がわずかに傾いた。
剣が抜かれた――音はない。
ただ、空気そのものが裂けたように感じる。
何かが世界から零れ落ちていく。
そんな感覚だけが、耳ではなく皮膚の奥に届いていた。
気が付いた時には、既に刃が振るわれていた。
この僕の、スポ・マーガの星の恩恵により、スロー化された世界の中にあってなお、剣が僕の胴へとたどり着く速度は……一瞬。
僕の胴に触れた刃が、ゆっくりと体内へ潜り込んでいく。
だがそこから、僕のスポ・マーガの星は更に煌めきを増し、更に世界の時間を無作為に、ただ伸ばしていく。
そして――シリアスモード発動。
腹部に触れた冷たい鉄。
それがじわりと皮膚を割き、筋肉を押しのけ、深部へじわじわと侵入を始める。
初めはただの異物感。
だが次第にそれが、確かな痛みとなり神経を這いずりながら焼き尽くす。
僕の血が球体となって、周囲の宙に浮かんでいるのが見える。
その球体が、重力に導かれてゆく軌道が、異様に鮮明だった。
骨に当たる鈍い衝撃が、肉の奥から全身へ響いていく。
神経が順を追って断ち切られ、その断絶がまるで波のように脳へ押し寄せてくる。
喉が更に細くなり、そのまま震えた。
声にならない声が胸の中でくすぶる。
意識は、まだその刃の中に留められていた。
既に剣は通過したはずなのに、痛みだけがいつまでも終わらず、体内を這い回っていた。
思考が停止する。感情は凍りつき、時間という概念が剥がれていく。
それでも、鮮やかに焼き付いたのは――あの瞬間だった。
刃が骨を砕く手応え。
皮膚が裂け、肉が震える感触。
そして、血が衣の隙間から滲み出し、大地へと吸い込まれていく赤の軌跡。
痛みが終わらない。
むしろそこからが始まりのように。
身体が沈む。肺が呼吸することを忘れていく。
心音は遠のき、視界の輪郭が崩れていく。
◇ ◇ ◇
どのくらいの時間が経ったのか。
最早それも判らないまま、更に今の状態はスポ・マーガの星の影響下なのか、それとも既に普通の時の中なのかその判断すら出来ないまま。
だけど終わる。
そんな確信がようやく胸に満ちてきた。
「……ようやく、終わった」
それは僕が口にしたのか、それとも心の中で響いたのか。
どちらとも言えなかった。
胸の奥――スポ・マーガの星が微かに脈打つ。
その光もすぐに沈んでいった。
意識は霧に沈み、思考も感覚も、泡のように浮かんでは消えていく。
やがて、世界そのものが音を失った。
僕の身体は、静かにふたつに分かれている。
血の温もりが土に染みてゆく。
それが森に還る儀式のようにも思えた。
スポ・マーガの星が、胸の奥で最後にひときらり微かに光る。
それきり何の動きも、音もないままに、森は沈黙を取り戻す。
けれどその静けさには、もう温もりは残っていなかった。




