第九章3『誰そ彼の空に』
※レン・バーラッド視点――グレイジア諸侯領、森林。
森の奥は深く沈んでいた。
鳥の声も、風のざわめきも、まるでどこかへ逃げ去ったように消えている。
太陽は森の向こうへ傾き、地面に伸びた影がじわじわと形を崩していく。
斜陽が枝葉を縫い、空気は薄く赤く染まっていた。
「……もう斥候って範囲じゃないよな」
呟きながら、僕は土の感触を確かめる。
枝ひとつ折らぬよう進むのは、意識ではなく身体に染みついた動き。
いよいよ本格的な任務が、グレイジアから下った。
『前線最奥の確認と報告』――文面にすれば短い。だがこういう任務ほど何かが起こる。
同行していた斥候たちは「ここまで」と引き返した。
本当なら僕もそのはずだった。けれど意志と足が、何故か止まらない。
風が――違っていた。
空気がざらついている。
獣道の落ち葉が、重く踏み荒らされたように乱れていた。
まるでこの森の様々な獣達が足跡なんて気にもせず、ただ必死に逃げ惑いながら立ち去った、その後の風景を思わせる状況。
「……おかしい」
そして命の気配がない。
兎も、狐も、獣の遠吠えどころか虫の羽音すらない。
命のざわめきが、丸ごと抜け落ちていた。
それでいて不思議なほどに、殺気もない。
更に自分の胸の奥に宿る星も、ただ静かに沈黙している。
恩恵が動く気配も無い。
つまり、まだ『その時』ではない。
やがて苔に覆われた石壁が目に入る。
古びた拠点の名残だろう。
崩れかけた輪郭は、静かに呼吸しているようだった。
そして――その向こうに『それ』はいた。
黒衣を纏った一人の……少年?
腰に剣を携えたまま、こちらに背を向けたまま動かない。
それなのに空気だけが、確かに動いている。
不思議な存在だった。
背格好は僕とそんなに、大きく変わらない。
なのに、何かが決定的に異なる。
空間の重さを拒むような軽やかさ……いや、無用な物を全て削ぎ取り、そして最後には命、魂すらも、地べたに投げ捨てたかのような……空虚さ。
景色に在って、景色に属さない異物感。
短く揃えられた青い髪が、わずかに風に揺れている。
だが、彼の身体は微塵も動いていなかった。
まるであの少年の身体を、風がそのまま通り抜けているかのように。
それでも、居るという気配が、僕の皮膚の内側まで染み込んでくる。
灰色の瞳――
湖底のように濁り、光も感情も宿していないその目が、何時の間にか気が付くと、まっすぐこちらを捉えていた。
呼吸の音すら聞こえない。
それでも、確かに見られているとわかる。
ぞくり、と僕の背筋が冷えた。
殺気ではない。
敵意ですらない。
だがこの背中に走る、何かの衝動。
それは、名もないもの――
理解できないものへの、本能的な畏れだった。
喉が渇く。掌がじっとりと汗ばむ。
武器を構えられたわけでもないのに。
これは、狩りではない。狩れない。
まず僕の星が何の反応もしない。それがすべてを物語っている。
――こいつ、何者なんだ。
名もない。星の気配もない。
ただ、そこに居る。
その存在が空気の質すら変えていた。
互いの視線は確かに合っている。
けれど絡まない。
まるで鏡越しに映る誰かを見ているようなずれた感覚。
ゆっくりと、僕は弓に手をかけ、矢を番える。
けれど引けない。まだ僕の星は黙ったままだ。
つまりこれは、まだ『戦い』ではないという事か?
だが――この静寂が永遠に続く保証はどこにもない。
空は、じわじわと色を変えていく。
夕映えが森を朱に染め、影が長く歪んで伸びる。
誰そ彼時――
すべてが曖昧で、名を問わねば誰かもわからぬ仄暗い時刻。
そして――一歩。踏み出したのは彼だった。
剣は抜かれていない。
なのに、空気が刃のように張りつめていく。
周囲の音が聞こえない。
ただ心臓の音だけがやけに大きく響いた。
僕は矢を構えたまま息も止めて、その影と向き合う。
星の名も、顔も、言葉も知らない。
けれど確かに感じる。
この誰そ彼の空の下で――
何かが、いま、目を覚まそうとしている。




