第八章7『主よ、この命、ただ貴女のために』
※シルバー視点――レスタリア聖域帝国 修道院。
森を抜ける一本道を、ひたすら駆け抜ける。
指先から伸ばした銀糸が、木々の間を迷いなく滑っていく。
遠くに村の屋根がかすかに見える。
けれど、まだ……届かない。
道には音がなかった。
樹々の揺れから放たれる、濃密な緑の匂いだけが、肌をまとわりつくように纏ってくる。
マーガの星同士は、自然と引き合うもの。ずっとそう聞いていた。
ディオンもミルカも、出会う前から確かに気配を感じ、知り、認知していた。
ミルカに至っては、名も素性も、ある程度はこちらに届いていたはずだ。
だが今回は違う。
すべてが霧の中。見えず、聞こえず、分からない。
「知っている」なんて浅い言葉では、到底追いつかない。
それでも――
運命の力だけは、容赦なくこの身を急かしながら引きずる様に貫いてくる。
胸の奥がざわつく。不安も焦燥も、苛立ちすらも渦巻いている。
けれど、それらが進む理由を止めるには、あまりにも軽い。
ルーシェ――。
どこにいる。どうか生きていてくれ。
星の力も直感もいまだけは信じる。
だからどうか……生きている証を、この俺に見せてくれ。
ようやく、道の先に村の輪郭が見えてきた。
銀糸を握りしめたまま、全神経を研ぎ澄まし、俺は走り続ける。
――村の入り口。
護衛の兵たちがこちらに気づき、警戒して剣に手をかけた。
最早、立ち止まる理由などない。
言い訳も、おちゃらけもすべて今は不要。
両手を振るい、走りの勢いを保ったまま銀糸を放つ。
空気が裂け、兵たちの体を一息に拘束し、地へ沈めた。
振り返ることはしない。
そのまま村へと踏み込み、迷いなく路地を選び角を曲がっていく。
時折、屋根にそのまま上がり、周囲を見渡しつつ銀糸を更に張り巡らせる。
何かが――確かに呼んでいる。
ただそれだけを頼りに、俺は前へ進んだ。
そのときだった。足元を横切る影。
一匹の猫。グレーと白の長毛。
俺を一瞥し、そのまま何の迷いもなく駆けていく。
しかしその首に――どこかで見た、黄色いバンダナ。
そこに刺繍された、小さな文字。
『シルバー・ヴィンセント』
間違いない。これはルーシェの痕跡だ。
猫は振り返らず、さらに奥の路地へと消えていく。
俺はためらいも疑念もなく、その背中を追いかけた。
やがて村の外れ。
そこには、風に揺れるラベンダー畑が広がっていた。
薄紫の波が、斜面を覆い尽くしている。
陽の光を受けた花弁は、ほのかに光を帯びながら風にそよぎ、まるで何かを囁くように、さざ波のように、静かに風景に溶ける音を立てていた。
空気は花の香りで満ちている。
甘く、けれどどこか儚げな匂い。
その中を猫は一輪も踏まず、滑るように進んでいく。
目の前に広がるこの景色が、あまりに美しく静寂。
それだけに――この静けさの奥に隠された異質が、かすかな緊張、不安となって胸を締めつける。
だが、それでも今は立ち止まる時ではない。
この猫は――ルーシェの意思を運んでいる。
ラベンダーの花影を切るように、さらに脚に力を込めた。
そして、俺と猫は、風を切る様に丘を駆け上がる。
そこに建っていたのは、古びた修道院。
青空の下で白い壁だけがやけに静かだった。
まるで、時間の流れから切り離されたような――そんな場所。
だが廃墟と呼ぶには……あまりに整っている。
静謐な空気が、建物そのものを神聖さという空気で包んでいた。
そして入口の前に立つ、一人の女性。
黒髪を編み込んだメイド服姿。
細身の眼鏡が光を反射し、どこか冷たい知性を感じさせる。
彼女は俺に気づくと、ゆっくりと視線と体を向け一礼を捧げる。
その動きは、まるで儀式のように無駄がなく整っていた。
「……ラディセ家に仕える者。名はマリーと申します。お見知りおきを」
もう一度、深く礼をする。
所作の一つひとつに、揺るがぬ忠義の気配。
「……ルーシェは!? どこにいる!? 答えろ!」
俺の口から、思わず荒ぶる声が吐き出される。
メガネの奥に揺れた瞳――ほんの一瞬の揺らぎ。
「……マーガの星の導くままに、お相手を」
そのまま一歩も動かず、彼女は細身の剣を掲げた。
「……許し等は請いませぬ――この身が闇に染まろうと、それは主が歩んだ苦しみの色。
私はその全てを、ただひとりのために、この命を捧げるために」
静かに掲げられた剣が風を、空気を裂き斬る。
切っ先は俺の喉元、そして胸、つまり命の芯へと、真っすぐ向けてくる。
触れれば終わる――そんな明確な死の輪郭が鋭く、刃を瞬かせた。
けれど彼女の目に迷いはない。
それは誓いでも、義務でもない。
「私めの忠義は――」
一拍、置かれた声に風が止まる。
「ラディセ家の……ただ一輪の花のため!」
ただ『願い』だ。
主と呼ぶその者のために、自らを滅することすら選び取った、揺るがぬ意志。
その言葉が、空を震わせるように高く、鋭く響き渡った。
今、この場所は三色の色に囲まれている。
神聖な白、ラベンダーの薄紫、そして唯一の『赤』
それは、マリーと名乗るメイドのその身に纏うメイド服も、白い腕も、頬も――
そしてその細身の剣までもが……すでに鮮烈な血の赤を纏っていた。




