第八章3『鉄の仮面と夜明けの部屋』
※ルーシェ視点――レスタリア聖域帝国。
思わず私と少女の声が重なったあの瞬間、地下室の空気がぴんと張り詰める。
猫は仮面の上でバンダナをくわえたまま、しれっとくつろいでいる。
そんな状況の中、私は目の前の少女と、ただじっと見つめ合う事しか出来なかった。
静けさを裂く足音。
何の前触れもなく、背後からひんやりとした金属が、私の首筋に押し当てられる。
「ここにどうやって入った?
どこの国の間者ですか?」
不意に私の背後から抑えた声。
その声の主は黒髪をきっちり三つ編みにし、眼鏡越しにこちらを冷たく見つめてくるメイド。
手にした短刀が静かに揺れ、視線も鋭い。
私は慌てて口を開く。
「間者なんかじゃありません。本当にただ……」
視線を下げれば、猫がバンダナをくわえたまま、涼しい顔。
迷ったけれどもう隠しても仕方ないわね。
「親戚の結婚式で、この町に一週間前に来ました。
猫が私のバンダナを奪って、それを追いかけて……。
気づいたら修道院の中、地下にまで来てしまったんです。悪気はなくて」
どうせ調べればすぐ分かることだ。下手な嘘より正直に話す方がいい。
そんな感じで心の中で腹を括る。
黒髪メイドは、じっと私を見据える。そのまま短刀をほんのわずか動かす。
冷たい刃先が首元へ近づくにつれ、私の全身が硬直し息が止まりそうになった。
その瞬間。
「やめなさい」
静かな声。仮面を被っていた少女の澄んだ声。
護衛の手がぴたりと止まる。
「ですがお嬢様、この者をそのまま帰すわけにはいきません。
もしも万が一、外にこの事が漏れでもしたら――」
黒髪メイドの声は氷のように冷たい。
私は成り行きを見守るしかなかった。
お嬢様は静かに首を振り、悲しそうに微笑みながら言う。
「……それでも、あなたが手を汚すことは望まないわ」
その呟きは拒絶の意志と、どこか痛みを含んでいる。
沈黙が落ちる。
護衛メイドはしぶしぶ短刀を少し下げたが、私への警戒を解かないまま冷たく言い放つ。
「……それでも、貴女をはいそうですか、と帰す訳にはいきませんわ」
全身が再びこわばる。
沈黙の中、私は傷口をそっと押さえ、二人の間に漂う重たい空気に息を詰めるしかなかった。
やがてメイドが「ついてきて」とだけ言い、私の腕を取る。
そのまま部屋を出て、広い地下の廊下を歩かされる。
石造りの壁、天井近くの小窓から微かな光。ひんやりと静まり返った空気。
案内されたのは、小さな自室。ベッドと机、小さな天窓がひとつ。
質素だけれど、思ったより広い部屋だった。
◇ ◇ ◇
私はそこで、丈の合わないメイド服を手渡された。
どうやらお世話係としてここで過ごせ、ということなのかしら。
けれど、実際にできることは掃除と食事の準備だけ。
仮面の少女――いやお嬢様と呼ぶべきか。
彼女の世話も話しかけることも許されないし、会う事すら出来ない。
用事があっても必ず黒髪のメイドが間に入り、私が近づくだけで牽制される。
毎日決まった時間、黒髪のメイドがラベンダーの花を持ってお嬢様の部屋の小窓へ向かう。
窓越しに花を揺らし、香りが満ちると、なぜか扉の鍵が音もなく外れる。
その儀式は、私には触れさせてくれないのよね。
「これは私の役目です」とぴしゃりと言われてしまった。
この屋敷でラベンダーの香りが特別な意味を持っているのは間違いない。
扉を開く鍵であり、私には絶対に許されない。
仮面も気になる。視界も聴覚も遮るような造り。
まず、なぜ彼女はそんな仮面をつけているのか。
外を見せないため?
それとも何かを『見たり聞いたり』してはいけない理由があるのか――。
分からないことばかり。
けれど、ただ従っているだけでは何も分からない。
私はお嬢様の部屋に一番近い廊下の壁に目をつけた。
両親のこともやっぱり気になる。
この町を離れられないまま、あの日の朝からずっと音信不通。
早く無事を知らせたいのに、出口はどこにも見当たらない。
最初は壁に耳を当ててみたが、分厚い石壁は何も通してくれない。
だから食事の時に出されたスプーンを袖に隠し、誰にも見られない隙を狙って、壁を少しずつ削ることにした。
カリ、カリと乾いた音。
進むのはほんのわずか、それでもやめる気になれなかった。
――もし見つかったら、ごまかせないわよね。
でもこの地下で何が起きているのか……私は知りたい。
お嬢様は一体何者なのか、どうしてこの奇妙な世界が作られているのか。
◇ ◇ ◇
一週間が経った。
地下の日々にも、不思議と慣れてきてしまった。
毎朝決まった時間に掃除と食事の支度。でも会話は一度もない。
ラベンダーの儀式は相変わらず黒髪のメイドの仕事で、私は遠巻きに見ているだけ。
お嬢様の表情も理由も、分厚い壁と決まりごとで全部塞がれている。
穴を開ける作業も遅々として進まない。一日に削れるのはほんのわずか。
でも手は止められない。何もせず従うだけの自分には戻りたくなかった。
それよりも心配なのは自国で待っている人達の顔。
早く知らせたい。出口を探さなくては。
黒髪のメイドの監視は厳しいけれど、時折彼女が外に出る僅かな時間が唯一のチャンス。
やがて壁の表面の堅い部分を削り終えると、指先の感触が石から土の柔らかさに変わった。
思わず息を詰める。今までの苦労が 嘘のようにスプーンが土を掻き出し、作業は一気に進んだ。
しかし、ここからが本番だった。
油断すれば穴が大きくなり過ぎる。見つかったらすべて終わり。
台所から少しずつ油と水、小麦を集めて即席の漆喰を作り、土の部分に塗って補強する。
外から見ても目立たないように、何度も塗り直す。
夜は灯りを消し、月明かりだけを頼りに小さな穴を広げた。
土の層は意外と深い。
掘り進めていくうちに、また固い感触。
スプーンの先が、反対側の石壁に跳ね返る。
これ以上無闇に掘り進めても意味がない。
小さく息を整えながら、その小さな穴に耳を当てる。
向こうから何か聞こえないか、全神経を集中させた。
しばらくは何も聞こえなかった。でもかすかに誰かの足音。
たぶん、お嬢様だ。軽い靴音と、小さな声。
困ったような、泣きそうな響き――また猫にいじめられているのかもしれない。
情景が浮かんで、少しだけ頬がゆるむ。
だがすぐに気を引き締める。
今度は黒髪のメイドが部屋に入るタイミングを狙う。
大事な話をしているかもしれない。
その時も、この穴で必ず聞き耳を立ててみせる。
漆喰で穴を塞ぎ、新しい決意を胸に、私は静かな地下室で息をひそめていた。




