第八章2『白の廊と鉄の階』
※ルーシェ視点――レスタリア聖域帝国。
昨晩のざわめきが夢のなかに溶けていったように、町は静けさに包まれていた。
親戚の結婚式は終わり、広場の飾りは影もかたちもない。
私は指先でそっと首元のバンダナをなぞり、ひとり宿を出た。
親戚たちと過ごした昨日の名残が、足どりの軽さに滲んでいる。
主役たる新婦は疲れた様子で、今日は部屋にこもると言っていた。
「ちょっと散歩してくる」とだけ言い、私は朝の光に吸い込まれていく。
この町は、レスタリア聖域帝国の港近くにある、風の通り道のような片田舎。
白壁の家々、ぶどう棚が落とす影、石畳に響く足音と、遠くから届く修道院の鐘の音。
坂をのぼると、眼下に広がるのは一面のラベンダー畑。
風が通り抜けるたび、薄紫の花がさざ波のように揺れ、朝の空気をやわらかく染めていた。
私は立ち止まり、深く息を吸い込む。
ふわりと胸を満たす香りが、そっと心の奥をなでてゆく。
そのとき視界の片隅に、ふいにあらわれた小さな影。
灰と白のまだら模様、銀をまとった猫が、花の合間をすり抜けて歩いていた。
ひとつ笑みがこぼれる。
「……なんか、シルバーに似てるかも」
気ままな歩き方、自分だけの物語を生きるような眼差し。
誰の都合にも縛られず、大切なものさえいつの間にか持っていってしまう。
猫はこちらをちらりと振り返ると、ためらいもなく歩み寄ってきた。
その自然な親しさに、私はつい声を漏らす。
「……なによ、その顔」
しゃがんで手を差し出すと、猫は一歩引いてから、ぬるりと膝に前足をかけながら私の首元をじっと見上げてくる。
そして次の瞬間、私の首元のバンダナが音もなく引き抜かれた。
「えっ、ちょ……!」
猫は黄色いバンダナをくわえ、くるりと身を翻すと、風のようにラベンダーの中を駆けていった。
「待ちなさい、それ返しなさい!」
私は咄嗟に立ち上がり、花の香りをまといながらその後を追う。
草を踏みしめるたび、甘やかな香りが肌に染み込むようだった。
猫の残した風をたどりながら、私は何度も深く息を吸い込む。
やがて猫は畑を抜け、石段を軽やかに駆け下りて、修道院の裏へと姿を消した。
私はそっと、あの猫が潜り込んだであろう、修道院の扉に手をかけた。
「すみませーん、猫が……失礼します……」
修道院の中は、時が止まったように静かだった。
高い天井から差す光が白壁を照らし、空気には香草の名残が漂っている。
進んだ先で、猫の尾がちらりと階段に消える。
そのあとを追いながら、私は階下へと足を運んだ。
地下の空気は澄みきっていて、蝋燭の明かりが白石の床に影を揺らしている。
その奥、ひとつの閉ざされた扉。
扉の脇に、のぞき窓と小さな……犬とか猫用らしき出入り口。
そこから細く揺れる、誰かの声が聞こえてくる。
「……いたい、ふかふかさん。
痛い……頭に乗っちゃ、だめ……」
私はそっと、そののぞき窓に顔を寄せる。
室内には、地べたに伏せる一人の少女。
紫がかった長い髪をローブに包み、顔には鉄の仮面――まるで祭儀の装束のよう。
その頭の上で、あの銀猫がのびをしている。
仮面の冷たさを楽しむように身を横たえ、私の黄色いバンダナをかみながら。
「……あのーもしもーし。
聞こえてますか?」
少女は何の反応も示さず、前を向いたままだった。
気づいているのかいないのか、その瞳は仮面の奥に隠れていた。
仮面は目も耳も厚い金属で覆い、音も光も届かぬように、世界に彼女を閉ざしていた。
それでも少女は、わずかに鼻をすんすんと動かしている。
あ、ラベンダー畑走り抜けたから……匂いが身体に付いちゃったかしら?
しかし冷静にこの状況を眺め見渡す。
やはり……これは異常という言葉がふさわしい。
「もしかして……閉じ込められてる?」
そんな事を考える、私の視線の先で、鉄仮面の彼女が静かに動く。
壁を手探りに伝いながら、やがて扉の前に立つ。
すると、向こう側から鍵の開く音が静けさに響いた。
……そっちから開けられるの?
苦笑いを飲み込みながら、私は扉を押しそっと中へと足を踏み入れた。
少女は椅子に腰かけたまま、仮面の留め具にそっと指をかける。
ひとつずつ、慎重に、けれど慣れた手つきで外していく。
金属と革がこすれる音が地下室に細く響き、蝋燭の灯りと天窓からこぼれる光が、彼女の横顔を優しくなぞる。
やがて仮面が外れ、ふわりと肩に髪が落ちた。
淡い光が、その素顔をそっと照らす。
その顔は――想像していたものとは、まるで違っていた。
女性というより、まだあどけなさの残る少女。
けれどその表情には幼さだけではない、どこか凛とした静けさと気高さが宿っていた。
肌は蝋燭の灯に透けるほど滑らかで、薄桃色の頬に光がやさしく触れている。
まつげは繊細な影を落とし、閉じたまぶたの奥に微かな揺らぎを秘めていた。
仮面の重みに隠されていた時間が、その顔に沈黙の美しさとして刻まれているようだった。
その美しさは、誰かに見せるために飾られたものではなく、
人知れず磨かれた宝石のように、ひっそりと輝きを放っていた。
私がそのまなざしに目を奪われていると、
彼女の瞳が、まっすぐにこちらをとらえた。
澄んだ水面のようなその瞳は、一点の曇りもなく、
静かに私の心の奥に差し込んでくる。
だが、一つだけ大きな問題がそこにあった。
「……誰?」
「……誰?」
思わず、私と少女の声が、呼吸のように重なった。
そう、互いに初対面である。




