★閑話2−4話『終わりが迫る音の中で』
※デオブルグ帝国 星記録局 書記官視点
「私は、あの人の名前を知らなかった。
だから――祈らずにいられた」
56年前の帝国の記録によると、ヴァルテリア・アミューゼのもとには戦争終盤まで定期的に『その時、祈るべき二人の本名』が届けられていたとされる。
戦場の喧騒が一段落し、各国の星の民が次々と姿を消していくなかでも、彼女の任務だけは変わらなかった。
以前に提示された者の名、新たな候補者の名、あるいはどちらも既に知った名。
また、どちらも見覚えのない名前。
それが、何度も何度も繰り返される。
ヴィエル・マーガの星の民――。
本名を知った者同士が互いを知り、名を唱え、そして祈る。
ただそれだけで、星はふたりを引き合わせる。
朝に目覚め、用意された茶を口に含み、机の前で名を唱え、祈りを終える。
それが一日の始まりで、それが一日の終わり。
それが日常。習慣。まるで呼吸のように戦争を祈る。
「願うだけで誰かが戦う。
それはもう、言葉に出来ない……ただの毒のようなものだった」
彼女は己の星のことを、そう書き記している。
その中に一枚だけ――彼女が決して願わなかった、空白。
彼。
他国より、献上されたマーガの星の民。
名前を、本名を決して口にしない、ただ隣にいた人。
◇ ◇ ◇
「彼は、今日もくだらない話をしてくれた」
季節の変わり目に乗る風の匂い。
幼いころに作った風車の話。
焼いた栗の皮がうまく剥けなかった日のこと。
「私はそれを、自分の記憶ではない幸福として受け取っていた」
「私の人生では、ああいう会話はなかった。
だからこそ、どこまでも美しかった」
帝国は、拘束された彼との接触を黙認していた。
だが実際には、情が通えば本名を引き出せるかもしれない――
そんな期待があった。
「たぶん、軍部はそう考えていた。
でも彼は決して、自分の名を明かさなかった」
だからこそ、彼女は祈らずにいられた。
星を動かす条件が、そこにはなかったから。
「何も知らず、何も知られずに生きることが、こんなに楽だったなんて」
これが彼女にとって恋だったのか、私にはわからない。
だが、そこに情は間違いなくあったことだけは感じ取れる。
「彼は、誰でもなく、誰かに似ていて――そして確かにそこにいてくれた」
この時の筆致に、少しの震えを感じる。
私はただ静かに、ただ無言で見つめた。
◇ ◇ ◇
記録局の記述によれば、この時点で、世界にマーガの星の民はこの限り。
残り三名。
どこかの星、ヴァルテリア、そして――名もなき彼。
終戦は目前だった。
テオブルグ以外の各国の中には、勝利の配分を睨みつつ、恩恵の享受を願いながら、あらゆる情報をデオブルグ帝国へと移し、どこかの星は徐々に追い詰められていく。
「気づけば私は戦うべき相手を、ほとんど失っていた」
ヴァルテリア。
彼。
あと一人。
それだけが、世界に残された『戦争を終わらせるピース』だった。
「何も起きない時間はいつか終わる。
私はそれが、怖かった」
穏やかな時間は決して永遠ではない。
そのことを、ヴァルテリアは知っていたのだろう。
◇ ◇ ◇
とある日、彼はぽつりとつぶやいた。
「……スノウリーフって知ってる? 僕の村の名前だよ。
雪が降る、小さな国なんだ」
ヴァルテリアは微笑みながら、何気なく返す。
「……いつか行ってみたい。二人で」
それは日常の、ただの一場面だった。
何の変哲もない夢の話。
だがその、静かで幸せな束の間の時間。
世界は、星は、神は――静かに終わらせようとしていた。
そして数週間後、とある日の記録の末尾、そこにひとつの短い報告が追加される。
――第三の星の民、自害。
それは終焉の合図。
マーガの星の殺し合いは、いよいよ最終局面を迎える。
ヴァルテリアと、名もなき彼。
その二人の記録が最後にこう記されている。
『ヴァルテリア・アミューゼ』:ヴィエル・マーガの星。
『 』:ギグ・マーガの星。
その時すでに、戦争という名の祈りは、狂気の終点に手をかけていた。




