第七章4『窓は静かに閉じられた』
※ヨルグ視点――星局政務室。
僕は手元の帳簿を閉じる。
そしてそのまま羽根ペンを、そっと紙の上に寝かせる。
報告書は整っている、言葉に綻びはない。
――だが、それでも。
僕は窓辺に目をやる。
ただそれだけなのに、
『何か』が、耳の奥に届いた。
風の中、祈りのような――。
静かな衝動が心を揺らす。
もし、これを記録に残せば――
あの子は、きっと困ったように眉をひそめるだろう。
「……これは、報告できませんね。
あの子が……きっと嫌がる」
独りごちて、僕はペンに触れかけた手を引っ込める。
これは彼らのもの。
彼と、彼女たちだけの、ひと夜の在り方。
言葉にすれば壊れてしまう。
記録という名の枠に閉じ込めてはいけないものが、世の中には確かにある。
感情というものは、ときに――
記録の外側に、そっと灯るものなのだろう。
だから僕は、筆を置いた。
そっと立ち上がり、窓に手をかける。
そのゆらぎが、入りすぎないように。
まるで、ひとつの物語に……そっと蓋をするように。
僕は――窓を、静かに閉じた。
◇ ◇ ◇
※マクレーン視点――訓練所控室。
教官室の隅。
俺は煙草をくわえ、火をつけようとした。
……けど、火はつかない。
何度か擦るうち、俺の指先がかすかに揺れているのに気づく。
「……チッ」
小さな舌打ちが無意識のまま漏れる。
タバコを机に投げる音が、室内に妙に響く。
窓の方を見やる。
その窓から届く『あいつ』の気配。
そんな気配に、俺の脳裏に彼奴との思い出が走り出す。
焦げた鍋に顔をしかめていた夜。
風呂場で転んで、ごまかすように笑ってた顔。
厳しい鍛錬の日々でも、彼奴は平気な顔で笑っていた。
幾度も幾度も地面に組み伏せられ、血を流し、骨を折り、皮膚を裂きながら。
「……今まで、この夜の何倍もの、血を流してきたお前だ。
今日くらいは……」
そう呟き、俺は窓へ手を伸ばす。
窓枠に触れる指先はわずかに躊躇している。
けれど、出来るだけ音を立てぬ様に、静かにその隙間を閉じる。
風を断ち切るわけでもなく、
ただその空気を、そっと包み込むように。
そのとき、俺の頬をなにかが伝う。
その伝いを、俺は手の甲でぬぐいながら、何もなかったふりをしつつ、ゆっくりと天井を仰ぐ。
「……ああ、くそ、ひでぇ雨漏れだ」
誰にも見られていないことを確かめるように。
それだけで今は十分だった。
煙草をくわえ直し、火はつけずに、俺はそのまましばらく黙ったまま天井を見上げていた。
◇ ◇ ◇
※ナディア視点――自室。
資料を整えていた私の手が、ふと止まる。
風が、窓の隙間から、かすかに何かが入り込んできた。
その風の中に――わずかに、唄のような『何か』を纏いながら。
そうね……旋律とでも呼ぼうかしら。
もしかしたら、どこかの酒場で流れたものかもしれない。
あるいは、何処かの誰かの心から、こぼれ落ちたものだったのかもしれない。
はっきりとした音ではなかった。
ただ、確かに誰かの感情だった。
私は立ち上がり、窓辺へ歩を進める。
指先が鍵に触れたとき、外の夜気が肌にかすかに触れた。
――男の子というものは、こういう瞬間を誰かに悟られるのをとても嫌う。
あの銀髪の少年は、特にそうね。
傷も、痛みも、弱さも。誰よりも見せたがらない子だった。
だから私は、きっと問いかけないまま。
感じても、それを言葉にしない。
『大人』というのは、時に距離を取ることでしか、優しさを示せない。
そう思うことにしている。
たとえ何かが伝わってきても――それをすくい上げることが、優しさとは限らないから。
私は音を立てぬように、ゆっくりと窓を閉じた。
その手の動きが、祈りのようにさえ思えた。
書棚で埃を被る、紙の英雄より、酒場で唄われる、道化師の君。
そんな君の方が、私はずっと好きだと思った。
◇ ◇ ◇
※マクガイア王視点――執務室。
窓辺のカーテンが、夜風に揺れている。
……しかし儂は顔を上げなかった。
ただ、目の前の書類の山と向き合うふりをしている。
「……閉めてやれ」
抑えた声で、家臣へとそう命じる。
家臣が無言で窓へと向かい、音もなく窓を閉じる。
その静けさに、儂の拳がわずかに揺れた。
やがて家臣も席を静かに外し、扉が閉じられる。
執務室には再び、独りの時間が戻ってくる。
執務室の空気は、少し冷たいまま。
儂は机に拳を置いたまま、微動だにせず座っていた。
「ようやく……ようやく、泣けたのだな、シルバー」
その呟きは、誰にも届かぬまま、空気に溶けていく。
儂の拳に、ぽつりと水滴が落ちる。
震える拳。それでも、言葉も音も、涙さえも――見せぬように堪えていた。
あの少年と過ごした儂の四年。
それは、王としてだけはなく、ひとりの男として在れた、数少ない時間でもあった。
不器用で、生意気で、礼をわきまえぬ。
だが、誰よりも他人の痛みに敏く、脆く、そして優しい子だった。
あの子は何度も、仮面の奥に手を伸ばしてきた。
王ではなく、その奥にいる男を見ようとしてくれた。
煩わしいと感じたことは――一度としてない。
儂はただ……祈るだけだった。
声に出すこともできぬ、無様な祈り。
――せめて一日でも長く。
ほんの一日でよい。
少しでも穏やかに。
少しでも、あたたかく。
どうか――
このどうしようもない世界の中で。
生き延びてくれ。
たとえ、それが王の祈りとしては――幼稚な願いであったとしても。
◇ ◇ ◇
その夜。
王城の各地で誰ともなく、窓が閉じられていく。
高塔の星局で、灯りを消す記録官。
夜警の控え室で、手を止めた兵士。
厨房の影で、ぼんやりと空を仰いだ少女。
誰の指示でもなく。
誰の命令でもなく。
ただ――そうしたくなっただけだった。
この夜にだけ許された、名もなき祈りのように。
誰も言葉にしなかったが、
誰もが、確かにそれを感じていた。
あの夜にだけ生まれた、とある道化師の唄。
音というより衝動、旋律というより叫び。
それでも、それは確かに、誰かの心そのものだった。
世界のどこかで、一つの星が泣いていた。
誰にも踏み込まれないままに、けれど確かに誰もが、それを感じていた。
その夜、銀の星が流した涙は――
シルバー。
ルーシェ。
ラスティーナ。
三人だけのもの。
窓が、音もなく、静かに閉じていく。
それは、涙を隠すためでも、風を防ぐためでもない。
『あの涙は、あの声は――いや、あの唄は、彼らだけのもの』
誰も触れずにそっと目を伏せた、その静けさこそが、たったひとつの祈りだった。




